つれづれに:戦後?①
西風が出て、急に寒くなった。干した6個の渋柿に色艶が出て来たので、そろそろ
文學しか頭になかった私がアフリカ系アメリカの歴史を辿るようになって、それまで持っていたアメリカのイメージが大きく変化した。人生を諦めほぼ思考が停止して社会に無反応だったのに、意識下では学校や世間の常識などに大きく影響されていたのだと思うようになった。その変化を知るには、生まれた頃や小中高時代の自分のまわりや日本や世界の情勢と、何よりその中での自分自身の分析が必要そうなので、今回は戦後?である。
ラングストン・ヒューズ(1902-1967)
私は第二次世界大戦直後の1949年に生まれた。昭和22年から24年に生まれた団塊の世代の一人である。大学紛争で東大生が全員留年した学年だが、大学紛争があったことも知らなかった。姉は22年生まれで、すでにこの世にいない。亡くなったと弟から電話があった日、生憎台風で飛行機が飛ばなかった。通夜にも葬儀にも行けず、結局、最後のお別れを言えずじまいである。
父親は戦争でマレーシアに行っていたらしい。「静かにせんかい。ぶち殺すど。」とおぞましい播州弁で喚き散らすすててこ姿の父親の姿が音声付きで記憶に残っている。ものごころがついてから、話をした記憶はない。こうして書くことになるなら、戦争体験を詳しく聞いておけばよかったが、とにかく怖かった。喚き散らしている時に、自分がマレーシアの密林の中で戦車に乗って殺し合いをしていたというような声が聞こえてきたような気もする。死ぬかも知れない恐怖の中で敵と殺し合いをしていたのなら、戦場から戻ってもすぐにまともな生活が出来るわけもなかったのか。意識は一部まだ密林の中だったのかも知れない。復員して2年目に女の子が、その2年後に男の子、それからまた2年後に男の子が生まれている。「その2年後」の男の子が昭和24年生まれの私である。「それからまた2年後に」生まれた男の子は亡くなったらしく、全く覚えていない。「新聞を読みながら父親が傍にいたのに気づかず、戻したお乳を鼻に詰まらせて死なせてしまった」と一度だけ母親から聞いたことがある。父親は7人兄弟の末っ子で、そのうちの4人の家族が穢くて狭い、じめじめした密集地帯に住んでいた。一番上の人の家は小さな中庭のある二階建てだったが、他は6畳と4畳半の二間に、庭もない粗末な家だった。家の屋根は油紙を敷いただけだったので、消防署から改善命令が出て、トタン屋根になったそうである。裏に小さな川が流れていたが、生活排水が流れ込み、容赦なく物が投げ込まれるので、常に悪臭が漂っていた。幼稚園の頃だったと思うが、赤痢が流行って保健所が来て至る所にDDTという白い粉を撒いて行った。道の白さが印象に残っている。私は疫痢にしか罹らなかったようが、姉は二度赤痢に罹って死にかけたらしい。
母親は兄(私には叔父)と二人兄妹だった。母親の母親つまり私の祖母は二人が幼い頃に死んだ。祖父は再婚して、結婚した相手に二人を預け、出稼ぎに出てほとんど家には帰らなかったようだ。二人は継母に育てられたわけが、その継母とは折り合いが悪く、二人とも相当辛い思いをしたらしい。叔父の方は逃げるように満州に渡ったと聞くが、私の母親は結婚するまで継母に虐められ続けたようである。祖父は大理石の職人で、「名古屋駅の大理石を作った」と言っていたと母親が自慢げに話しているのを聞いたことがある。出稼ぎ先は岐阜県の大垣市で、そこで内縁の妻と男の子と3人で暮らしていたと言う。私は祖父には一度しか会った記憶がない。ある年の年末に戻って来て、当時住んでいた二間の元市営住宅で、火鉢を抱えたまま倒れて死んだ。死因は脳溢血、56歳だった。ちょび髭を生やした遺影写真を見て、わりといい顔してるやん、と思った記憶が幽かに残っている。
その二人が結婚した。「親同士が決めたので、結婚するまで会ったことがなかった」そうである。(戦後?②に続く)