つれづれに:アメリカ?(2021年11月18日)

2021年11月19日つれづれに

つれづれに:アメリカ?

エイブラハム・リンカーン

前回の最後に「文學のことしか頭になかった私が、どうして歴史や政治について考えるようになったのか?次回はアメリカ?」と書いたように、今回は「アメリカ?」である。

アメリカのイメージは自由平等、民主主義だろう。と、思っていたが、無意識に学校や世間の常識などで作り出されたもの、正確には学校や世間の常識などから無意識に自分が勝手に想い描いていたものだったように思う。そのイメージは、変化した。

行ける大学がなくて選んだ先が英米学科で、大学の職を探すために行った大学院で修士論文をアフリカ系アメリカ人作家で書いた。歴史を辿り始めたのは小説を理解したかったからである。→「リチャード・ライトの世界」続モンド通信6、2019年5月20日)、→「修士、博士課程」続モンド通信9、2019年8月20日)

神戸市東灘区にあった神戸市外国語大学旧校舎(大学ホームページより)

修士課程を終えた次の年から大学の非常勤で英語の授業を持つことになり、テキストにラングストン・ヒューズの「黒人史の栄光」("The Glory of Negro History")を使った。→「『黒人研究』」続モンド通信10、2019年9月20日)

ラングストン・ヒューズ「黒人史の栄光」(南雲堂)

その後大学院を担当して受け入れる側の仕組みと立場もわかる今なら、方法もあったと思うが、事前の相談もせずに博士課程を受けてどこも受け入れてもらえなかった。現実的に見て、修士課程を終えただけで教歴なし、業績も僅かでは非常勤も難しかったと思う。世話になっていた先輩が大阪工大の夜間の非常勤を3コマ用意してくれていた。有難かった。→「大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)

一旦教歴が出来ると、次々と依頼があった。文部省は大学に英語を必修科目と指定していたから大学でもコマ数を確保する必要があった。学生数の多いところはとても専任でまかなえるコマ数ではなく、安く上げるために非常勤に頼る場合が多かった。従って、資格さえあれば問題はなく、絶えず需要はあった。非常勤に限らず、不祥事を起こすなどの法的な問題さえなければ、授業はすべて教員任せだった。その傾向は、今もそう変わっていない。

専任の話もあった姫路賢明女子短期大、大阪経済法科大の他にも、住んでいた明石から行くのに2時間ほどかかる桃山学院大、家の近くの神戸学院大から依頼のあった分も引き受けた。さすがに京都女子大の話は断ったが、5年目には週に16コマになっていた。すべて一般教養の英語で、それが何よりだった。

元々英語の教科書を使って購読や文法や英作文をする学校の英語は嫌で堪らなかったし、受験のためにとも割り切れず出来なかった。それに英語に対して、戦争に負けてアメリカに押し付けられたという意識があったせいか、喋れればいいという英語にも馴染めなかった。

最初の授業の対象が大阪工大というのも私にはよかったと思う。昼間の学生は英語が出来れば府大(大阪府立大)か市大(いちだい、大阪市立大)に行ってたのにという学生も多く、英語が苦手という割合が高かった。僕は英語が苦手です、と言って授業を始めることが多いのだが、それを聞いてほっとする人もいるようだった。

自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引けるので、英語をするのではなく、出来るだけ英語を使って何かをする、新聞や雑誌、映画やドキュメンタリーなど実際に英語を使って作られている視覚、聴覚に訴えかけるものを使う、出来れば中高で意図的に避けて来たような題材がいい、それもあってアフリカ系アメリカの歴史を選んだ。幸い、ヒューズは詩人で語り口も優しく、様々な歌や詩などを含めアフリカ系の同胞をたくさん紹介しているだけでなく、自ら朗読し、生きている人には演奏や録音を依頼してレコード化して残している。大詩人の生の声を聞きながらの、まさに生きた題材である。まだビデオの機材が充分ではない時代だったが、ビデオテープやカセットテープを編集するのに時間をかけた。

英語の授業は、自分の好みにあった文学や時事問題などの人が作ったテキストを使い、最後に一時間ほどで採点できる筆記試験をやっている教員が多かった。私たちが学生の時とほぼ変わらない。だから、映像をたくさん使う授業は学生には珍しがられた。工学部の学生も、目を輝かせて映像を見て、音楽を聴いてくれた。筆記試験はしなかった。理解して覚えるという受験勉強しかして来なかった人は少し戸惑っていたようだが、授業に関連する課題図書を読んで、仮説を立てて論証する課題文を書いてもらった。書くことが苦手で、感想文しか書けない人もいたが。

非常勤をやったのは5年間だったが、すべての授業でヒューズの「黒人史の栄光」を使い、関連する映像を集め、歴史や音楽などの資料を集めて資料化して授業で使った。英語で歴史をしゃべるのも新しい体験でおもしろかった。その過程で、自由平等、民主主義しか思い浮かばなかったアメリカのイメージが、無意識に学校や世間の常識などで作り出されたもので、自分が勝手に想い描いていたものだったと確信した。今科学研究費のテーマにアングロ・サクソンンの侵略の系譜を選んでいるが、この延長である。

どうして無意識にその意識が作りだされたのか、それを知るには、先ずは生まれた頃や中高の頃の自己分析をしてみる必要がありそうである。次回は戦後?

植え替えた絹鞘が少し大きくなり始めた、年末には摘めそうである