書いたもの

2022/2/6現在

分類別は→「書いたもの一覧:年代順、連載一覧、テーマ別」

2022年

「アングロ・サクソン侵略の系譜35:アフリカとエイズ 」続モンド通信38、2022年1月20日)【アフリカ/医療】【公開】

2021年

「アングロ・サクソン侵略の系譜34:ケニアの歴史(4)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」続モンド通信37、2021年12月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」続モンド通信36、2021年11月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜32:ケニアの歴史(2 )ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来」続モンド通信35、2021年10月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史1植民地化以前』」続モンド通信34、2021年9月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜30:在外研究」続モンド通信33、2021年8月20日)【ジンバブエ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜29:編註書And a Threefold Cord 」続モンド通信32、2021年7月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜28: :日本語訳『まして束ねし縄なれば』」続モンド通信31、2021年6月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜27: A Walk in the Night」続モンド通信30、2021年5月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)【アフリカ/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜24: 2021年Zoomシンポジウム」続モンド通信27、2021年2月20日)【アフリカ/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜23:ケニアの歴史(1)植民地化以前」 続モンド通信26、2021年1月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

2020年

「アングロ・サクソン侵略の系譜22:アフリカ史再考④大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人 」続モンド通信25、2020年12月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜21: アフリカ史再考③:ナイルの谷」続モンド通信24、2020年11月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜20:アフリカ史再考:②『アフリカシリーズ』」続モンド通信23、2020年10月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜19:アフリカ史再考:①アフリカ史再考のすすめ 」続モンド通信22、2020年9月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜18:アフリカ系アメリカの歴史 」続モンド通信21、2020年8月20日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜17: アフリカの歴史」続モンド通信20、2020年7月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜16: 科学研究費 1」続モンド通信19、2020年6月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜15: ゴンドワナ (12~19号)」続モンド通信18、2020年5月20日)【アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜14::宮崎医科大学 」続モンド通信17、2020年4月20日)【随想】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜 13:ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日) 【アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜12:MLA(Modern Language Association of America)」続モンド通信15、2020年2月20日) 【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜11:アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」「続モンド通信14」、2020年1月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

2019年

「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」「続モンド通信13」、2019年12月20日)【随想】【公開】

「『まして束ねし縄なれば』の文学技法―雨の象徴性と擬声語の効用を軸に―」「続モンド通信12」、2019年11月20日)【ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜9:『言語表現研究』」「続モンド通信11」、2019年10月20日)【ライト/ラ・グーマ/グギ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1」「続モンド通信10」、2019年9月20日)【アフリカ】【公開】【★出版】

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)【アフリカ系アメリカ/アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」「続モンド通信9」、2019年8月20日)【随想】【公開】

「ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3」「続モンド通信8」、2019年7月20日)【翻訳/ライト/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑤オハイオ州デイトン」「続モンド通信7」、2019年6月20日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」「続モンド通信6」、2019年5月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」「続モンド通信5」、2019年4月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」「続モンド通信4」、2019年3月13日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」「続モンド通信3」、2019年2月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開」「続モンド通信2」、2019年1月20日)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

2018年

「『続モンド通信』について」「続モンド通信」2018年12月29日)【案内】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要」「続モンド通信1」2018年12月29日)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

2018年12月より「続モンド通信」を開始。↑

編集者の不調により「モンド通信」休刊↓

2016年

「ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3」(「モンド通信」未掲載)→「続モンド通信8」、2019年7月20日)に収載。【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑦イリノイ州シカゴ2」「モンド通信 No. 97」、2016年9月11日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑥イリノイ州シカゴ」「モンド通信 No. 96」、2016年8月3日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑤オハイオ州デイトン」(「モンド通信」未掲載)→2020年「続モンド通信」に収載。【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」「モンド通信 No. 94」、2016年6月19日)【翻訳/南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」「モンド通信 No. 93」、2016年4月26日)【翻訳/南アフリカ】【公開】

「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」「モンド通信 No. 92」、2016年4月3日)【翻訳/南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」「モンド通信 No. 91」、2016年3月22日)【翻訳/随想】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」★番号を訂正「モンド通信 No. 90」、2016年2月9日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

2015年

「アフリカとその末裔たち2(3)③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在」★番号を訂正「モンド通信 No. 89」、2015年12月23日)【ジンバブエ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(3)②今日的諸問題:ザイールの苦難」★番号を訂正「モンド通信 No. 88」、2015年11月28日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(3)①今日的諸問題:エイズ流行病(AIDS epidemic)」★番号を訂正「モンド通信 No. 87」、2015年11月20日)【医療】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(2)②The Honourable MP」★番号を訂正「モンド通信 No. 86」、2015年10月19日)【ジンバブエ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(2)①And a Threefold Cord」★番号を訂正「モンド通信 No. 85」、2015年8月22日)【ラ・グーマ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑩自信と譲歩」★番号を訂正「モンド通信 No. 84」、2015年7月29日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑨開発援助と発達なき成長」★番号を訂正「モンド通信 No. 83」、2015年6月23日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑧経済的依存」★番号を訂正「モンド通信 No. 82」、 2015年5月30日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑦新しい階級の創造」★番号を訂正「モンド通信 No. 81」、2015年4月30日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑥コンゴ危機」★番号を訂正「モンド通信 No. 80」、2015年3月26日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑤コンゴ自由国」★番号・題を訂正「モンド通信 No. 79」、2015年2月22日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度④ガーナ」★題を追加(「モンド通信 No. 77」、2015年1月15日)【アフリカ】【公開】

2014年

「EMP9年、結果として、active learning」(「ESPの研究と実践」第11号57-67頁。)【EMP】【★出版】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1」(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に未掲載、新規→2019年10月20日「続モンド通信」11に収載)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度②執筆の経緯」★番号・題を訂正(「モンド通信 No. 72」、2014年11月1日)連載開始。【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2一覧」(2014年11月~2016年2月に「モンド通信」に連載。掲載分の番号、題などを修正)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度①概略」(「モンド通信」No. 71、2014年10月1日に未掲載)→2019年9月20日「続モンド通信」10に収載)【アフリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」「モンド通信 No. 71」、2014年7月10日)連載終了。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」「モンド通信 No. 70」、2014年6月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」「モンド通信 No. 69」、2014年5月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」「モンド通信 No. 68」、2014年4月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史一覧」(2014年3月~7月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」、2014年3月10日)連載開始。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「南アフリカ小史一覧」(2014年1月~2月に「モンド通信 」に連載)【南アフリカ】【公開】

「南アフリカ後半」「モンド通信 No. 66」(2014年2月10日)連載終了。【南アフリカ】【公開】

「南アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 65」(2014年1月10日)連載開始。【南アフリカ】【公開】

2013年

「アフリカとその末裔たち1一覧」(2013年12月~2014年7月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ/南アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ小史一覧」(2013年11月~12月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ】【公開】

「アフリカ小史後半」「モンド通信 No. 64」(2013年12月10日)連載終了。【アフリカ】【公開】

「アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 63」(2013年11月10日)連載開始。【アフリカ】【公開】

「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」「モンド通信」No. 59」、2013年7月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記24ふたつの壷」「モンド通信」No. 58」、2013年6月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記23チサライ」「モンド通信」No. 57」、2013年5月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記22ジャカランダの季節に」「モンド通信」No. 56」、2013年4月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在21ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」No. 55」、2013年日3月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑳演劇クラス」「モンド通信」No. 54」、2013年2月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑲ロケイション」「モンド通信」No. 53」、2013年1月10日)【ジンバブエ】【公開】

2012年

「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」「モンド通信」No. 52」、2012年12月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」「モンド通信」No. 51」、2012年11月11日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑯75セントの出会い」「モンド通信」No. 50」、2012年10月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」「モンド通信」No. 49」、2012年9月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑭ルカリロ小学校」「モンド通信」No. 48」、2012年8月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」「モンド通信」No. 47」、2012年7月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解27:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告6」「モンド通信 No. 47」、2012年7月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解26:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告5」「モンド通信 No. 46」、2012年6月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」「モンド通信」No. 45」、2012年5月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解25:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告4」「モンド通信 No. 45」、2012年5月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」「モンド通信」No. 44」、2012年4月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解24:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告3」「モンド通信 No. 44」、2012年4月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑨ゲイリーの家族」「モンド通信」No. 43」、2012年3月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解23:「シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告2」「モンド通信 No. 43」、2012年3月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑧グレートジンバブエ」「モンド通信」No. 42」、2012年2月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解22:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告1」「モンド通信 No. 42」、2012年2月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑦ホテル」「モンド通信」No. 41」、2012年1月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解21:『ニューアフリカン』:エイズの起源4 米国産の人工生物兵器としてのウィルス」「モンド通信 No. 41」、2012年1月10日)【アフリカ/医療】【公開】

2011年

「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」(「ESPの研究と実践」第10号25-34ペイジ)【アフリカ/医療】【★出版】

「ジンバブエ滞在記⑥買物」「モンド通信」No. 40」、2011年12月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解20:『ニューアフリカン』:エイズの起源3 アフリカの霊長類がウィルスの起源」「モンド通信 No. 40」、2011年12月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑤バケツ一杯の湯」「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解19:『ニューアフリカン』:エイズの起源2 アフリカ人の性のあり方」「モンド通信 No. 39」、2011年11月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記④ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解18:『ニューアフリカン』:エイズの起源1 アフリカ人にとっての起源の問題」「モンド通信 No. 38」、2011年10月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記③突然の訪問者・小学校・自転車」「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記②ハラレ第1日目」「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記一覧」(2011年7月~ 2013年7月に「モンド通信」に連載)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記①アメリカ1981~1988」「モンド通信」No. 35」、2011年7月10日)連載開始。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(30) 最終章」「モンド通信 No. 35」、2011年6月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解17:雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 34」、2011年6月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(29) 第30章 タラで過ごした一週間」「モンド通信 No. 34」、2011年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解16:メディアと雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 33」、2011年5月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(28) 第29章 カナーン証明書」「モンド通信 No. 33」、2011年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解15:エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代4 アパルトヘイト政権の崩壊とその後」「モンド通信 No. 32」、2011年4月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(27)第28章 カナーンホスピス」「モンド通信 No. 32」、2011年3月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解14:エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代3 アパルトヘイト政権との戦い」「モンド通信 No. 31」、2011年3月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(26)第27章 男の赤ん坊」「モンド通信 No. 31」、2011年2月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(25)第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気」「モンド通信 No. 30」、2011年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

2010年

「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ)【南アフリカ/医療】【★出版】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(24)第24章 1982年」「モンド通信 No. 29」、2010年12月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(23)第23章 一匹狼の医者」「モンド通信 No. 28」、2010年11月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(22) 第22章 仮論文」「モンド通信 No. 27」、2010年10月10日)【ケ翻訳/ニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(21) 第21章 一九七九年モンバサ」「モンド通信 No. 26」、2010年9月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(20) 第20章 四十年間の投獄」「モンド通信 No. 25」、2010年8月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(19) 第19章 花婿の値段」「モンド通信 No. 24」、2010年7月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(18) 第18章 ナイセリア菌」「モンド通信 No. 23」、2010年6月1日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(17) 第17章 医師用宿舎B10」「モンド通信 No. 22」、2010年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(16) 第16章 豚野郎フィル」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解13:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ2 育った時代と社会状況2 アパルトヘイト」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(15) 第15章 ユーニス」「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解:12 エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1」 「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(14) 第14章 ドクターGGの娘(後半)」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(13)第14章 ドクターGGの娘(前半)」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

2009年

“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"(「ESPの研究と実践」第10号12-20頁。)【アフリカ/医療】【★出版】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(12)第13章 行方不明者」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(11)第12章 初めてのX線機器 」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(10)第11章 リバーロード診療所」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(9)第10章 ンデル警察署」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解6:アフリカでのエイズの広がり」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(8)第9章 マインバ家」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解5:アフリカを起源に広がったエイズ」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(7)第8章 ハリマ」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解4:1981年―エイズ患者が出始めた頃2 不安の矛先が向けられた先」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(6)第7章 イアン・ブラウン」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解3:1981年―エイズ患者が出始めた頃1」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(5)第6章 メアリ・ンデュク」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(4)第5章 ベネディクト神父」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(2009年4月~2012年7月まで「モンド通信 」に連載。)【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解1:『ナイスピープル』とケニア」」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)連載開始。【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」「モンド通信 No. 8」、2009年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(2) 第2章・第3章」「モンド通信 No. 6」、2009年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

2008年

『アフリカ文化 [Ⅱ]ーアフリカとエイズと哀しき人間の性(さが)(上)』 (門土社で出版予定で送った原稿です。)【アフリカ/医療】【未出版】

「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(2008年12月~2011年6月まで「モンド通信 」に連載。)【翻訳/ケニア/医療】【公開】
「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(1) 著者の覚え書き・序章・第1章」「モンド通信 No. 5」、2008年12月10日)連載開始。【翻訳/ケニア/医療】

2007年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター4号」【日本語支援】【刊行】

『アフリカ文化論(一)ー南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)総64ページ。【アフリカ/医療】【★出版】

2006年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター3号」【日本語支援】【刊行】

「エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師」(門土社「mon-monde 」6号に収載予定で送った原稿です。)【南アフリカ/医療】【未出版】

「コンゴの悲劇 独立―新植民地支配の始まり」(門土社「mon-monde 」5号に収載予定で送った原稿です。)【アフリカ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 四 ゲイリーの家族」(門土社「mon-monde 」4号に収載予定で送った原稿です。)【ジンバブエ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 三 グレート・ジンバブエ」(門土社「mon-monde 」3号に収載予定で送った原稿です。)【ジンバブエ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 二 買い物と自転車」(門土社「mon-monde 」2号に収載予定で送った原稿)【ジンバブエ】【未出版】

「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号61-69頁。【アフリカ/医療】【★出版】

2005年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター2号」【日本語支援】【刊行】

「ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 1 初めてのアフリカ」「mon-monde」創刊号14-24頁。【ジンバブエ】【★出版】

「アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』」「mon-monde」創刊 25-31頁。【ケニア/医療】【★出版】

「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁。【南アフリカ/医療】【★出版】

「『日本語支援教育専修』と私」「日本語支援教育研究報告書」宮崎大学大学院教育文化学部修士課程学校教育専攻日本語支援教育専修【日本語支援】【刊行】

2004年

「宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報英語版」【日本語支援】【刊行】

「宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報日本語版」【日本語支援】【刊行】

「宮崎医科大学留学生ニューズレター1号」」【日本語支援】【刊行】

「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」「ESPの研究と実践」第3号5-17頁。【ケニア/医療】【★出版】

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム草稿)【アフリカ/医療】【刊行】

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム報告)【アフリカ/医療】【刊行】

「 シンポジウム『アフリカと医療』~世界で一番いのちの短い国~」宮崎大学医学部国際医療保健研究会編【アフリカ/医療】【刊行】

「コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』」(「ごんどわな」25号に収載予定で送った原稿です。)【アフリカ】【未出版】

「エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間性(さが)」(平成15年度版宮崎大学広報誌)「2003 Research研究活動紹介 宮崎大学」56頁。【アフリカ/医療】【刊行】

2003年

“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”「言語表現研究」19号12-21頁。【ケニア】【★出版】

2002年

「速達便」宮崎大学医学部すずかけ祭第27回パンフレット43頁。【随想】【刊行】

2001年

「新任教官紹介『宮崎も14年目にな【★出版】

「新任教官等紹介」宮崎医科大学「学園だより」第82号24頁。【案内】【刊行】

「ショナ人とことば」「ごんどわな」24号62-65頁。【ジンバブエ】【★出版】

「コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』」」「ごんどわな」24号2-5頁。【アフリカ】【★出版】

2000年

「ジンバブエ大学② ツォゾさん」「ごんどわな」23号(復刊2号)74-77頁。【ジンバブエ】【★出版】

「ジンバブエ大学① アレックス」「ごんどわな」22号(復刊1号)99-104頁。【ジンバブエ】【★出版】

「アフリカとエイズ」「ごんどわな」22号(復刊1号)2-14頁。【アフリカ/医療】【★出版】

1998年

Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage(英文書、Mondo Books)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

1997年

「高千穂小旅行」【随想】【未出版】

1996年

「なぜ英語が出来なかったか」すずかけ祭第20回宮崎医科大学パンフレット?頁。【随想】【刊行】

“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”「言語表現研究」12号73~79頁。【ラ・グーマ】【★出版】

1995年

“Africa and I”【随想】【未出版】

“I Like Michel ”【随想】【未出版】

Africa and Its Descendants(英文書、Mondo Books)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

1994年

「ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて」「ゴンドワナ」21号6-19頁。【南アフリカ】【★出版】

1993年

「ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて」「ゴンドワナ」20号14-20頁。【南アフリカ】【★出版】

「海外研修記「『アフリカは遠かった』」宮崎医科大学「学園だより」第号10-11頁。【ジンバブエ/随想】【刊行】

「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」宮崎医科大学「学報」第50号18-19頁。【ジンバブエ/随想】【刊行】

1992年

「アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』」(翻訳書、門土社)【翻訳/ラ・グーマ】【★出版】

1991年

「マグディ・カアリル・ソリマン『エジプト 古代歴史ゆかりの地』」「ゴンドワナ」18号2-6頁。【翻訳/アフリカ】【★出版】

「自己意識と侵略の歴史」「ゴンドワナ」19号10-22頁。【アフリカ】【★出版】

And a Threefold Cord by Alex La Gum(註釈書、Mondo Books)【ラ・グーマ】【★出版】

「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」「ゴンドワナ」18号7-12頁。【南アフリカ】【★出版】

1990年

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」17号6-19頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」「ゴンドワナ」15号9-29頁。【南アフリカ】【★出版】

「ミリアムさんを宮崎に迎えて」「ゴンドワナ」15号2-8頁。【南アフリカ】【★出版】

1989年

「A Walk in the Night by Alex La Guma」(註釈書、Mondo Books)【ラ・グーマ】【★出版】

1988年

「アパルトヘイトの歴史と現状」「ゴンドワナ」14号10-33頁。【南アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」「ゴンドワナ」13号14-25頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)「ゴンドワナ」12号6-19頁。【南アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」「黒人研究」58号36頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト」「黒人研究」第58号103-15頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」「ゴンドワナ」11号39-47頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「グギの革命的後段(メタ)言語学1 『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の中の諺」「ゴンドワナ」11号34-38頁。【ケニア】【★出版】

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」「ゴンドワナ」11号22-28頁。【南アフリカ】【★出版】

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」「中研所報」20巻3号359-375頁。【ラ・グーマ】【★出版】

1987年

「あぢさい、かげに浜木綿咲いた」「英米文学手帖」24号123-124頁。【随想】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」「ゴンドワナ」10号24-29頁。【ラ・グーマ】【★出版】

“TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams ”(August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada)【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」「ゴンドワナ」10号10-23頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」「ゴンドワナ」9号28-34頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」「ゴンドワナ」8号22-26頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アフリカ・アメリカ・日本」「ゴンドワナ」7号24-25頁。【アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」「ゴンドワナ」7号19-24頁 。【ラ・グーマ】【★出版】

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社、1987年)147-170頁。【ライト/アフリカ】【★出版】

1986年

「黒人研究の会会報編集後記あとがき」「黒人研究の会報」第24号(1986年)12頁 。【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」「黒人研究の会会報」24号9頁。【ライト/アフリカ】【★出版】

「ミシシッピ、ナチェズから」「英米文学手帖」24号72-73頁。【ライト】【★出版】

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」「ゴンドワナ」3号8-9頁。【随想】【★出版】

“Richard Wright and Black PowerMemoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48.【ライト/アフリカ】【★出版】

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」第56号50-54頁。【ライト】【★出版】

“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native SonChuken Shoho, Vol. 19, No. 3: 293-306.【ライト】【★出版】

Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」「言語表現研究」第4号29-45頁。【ライト】【★出版】

1985年

「黒人研究の会会報編集後記」「黒人研究の会報」第22号10頁。【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

「リチャード・ライトとクワメ・エンクルマ-ブラック・パワーを中心に(口頭発表報告)」「黒人研究の会会報」22号6頁。【ライト/アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

“Richard Wright Symposium”上記の英語訳。【ライト/翻訳】【★出版】

「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」「黒人研究の会会報」第22号4頁。【ライト】【★出版】

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」第55号26-32頁【ライト/アフリカ】【★出版】

1984年

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」第54号、33-38頁。【ライト】【★出版】

“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1984, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.【ライト】【★出版】

「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」「言語表現研究」第2号1-14頁。【ライト】【★出版】

1983年

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」第53号1-4頁。【ライト】【★出版】

1982年

“Richard Wright and His World”兵庫教育大学修士論文(兵庫教育大学付属図書館所蔵)【ライト】【★出版】

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」第52号1-4頁。【ライト】【★出版】

1981年

「貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風」兵庫県立東播磨高等学校第7期生文集「どんぐりの実」4頁。【随想】【刊行】

1978年

「露とくとく」 兵庫県立東播磨高校文芸部「黄昏」6号32-34頁。【随想】【刊行】

1976年

「生きゆけるかしら」 兵庫県立東播磨高校文芸部「黄昏」6号 32-34頁。【随想】【刊行】

2000~09年の執筆物

概要

This paper aims to show why I have picked up the 1995 Ebola issue in Zaire in my English classes for medical students. It is important for English teachers to know what students need in English classes, and necessary to prepare suitable materials which motivate them. The 1995 Ebola outbreak in Zaire, a good material for the classes, spread fear around the globe through media. It is mainly because there were some wrong and exaggerated reports and lack of fundamental information on Zaire. Cong, including the former Zaire – the present République Démocratique du Congo, has been exploited by European and American powers. Without precise information and perspective, we cannot find possible RX for survival. Through historical analysis of the Congo, this paper shows the backgrounds for a fair understanding of the Ebola issue and the Congo for the students.

本文

医学生と新興感染症

―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―

Medical Students and the Emerging Infection

―On the 1995 Ebola Issue in Zaire―

1. はじめに

医学生の英語を担当し始めてから19年目になりますが、医学に無縁だった人間が医学部の英語の授業で何をするか、何が出来るかを考え続けています。当初、一般教養科目として医学科1年生の授業を担当したこともあり、専門家には出来ない何かをという思いが強かったのですが、理想論だけではやってはいけません。何事にもあまり関心を示さない学生から英語の必要性を認識して実際に英語が使えるようにと願う学生まで、学生も様々で、一年間の長丁場です。学生の思いに応え、しかも自分の気持ちのバランスも取るというのは難しいもので、試行錯誤の末、医学と僕の専門分野の(アフリカ)文学の狭間から何かが提示出来ないかと考え始めました。EGP (English for General Purposes) とESP (English for Specific Purposes) の狭間で、基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たす、それが現実に対応出来るやり方ではないかと考え始めたわけです。修士論文で取り上げたアフロ・アメリカの文学からアフリカに辿り着いていましたから、守備範囲にあるアフリカと医療を結びつける形で何かが出来ないかと考え、エイズなどの新興感染症も取り上げるようになりました。エボラ出血熱もその一つです。

2.1995年エボラ出血熱騒動

1995年のエボラ出血熱騒動は、毎年取り上げている医学的な話題の一つですが、EGP 、ESPに共通する題材として、興味深いものがあります。当時の騒動を伝える新聞記事、ニュース映像、アメリカ映画「アウトブレイク」などを使用しています。

エボラ出血熱はエボラウィルスによる急性熱性疾患で、1995年以前に、スーダン(1976、1979)、ザイール(1976、1977)、コートジボアール (1994)、ガボン(1994) でも発生しています。キクウイットの場合、4月に町の総合病院を中心に患者が発生し、約40日後に米国、WHO(世界保健機構)、ベルギー等のチームが入り、6月20日に終焉しています。最終的には315名が感染し、256名(81%)が死亡しました。(注1)

1995年のエボラ出血熱は、想像以上に大きな騒動になりました。世紀末の不安もあったでしょうが、ベルリンの壁やソ連の崩壊、湾岸戦争、ネルソン・マンデラの釈放とナミビアの独立、マンデラ政権の誕生など、歴史的な出来事が立て続けに起こったからかも知れません。不安を煽った最大の原因はメディアの過剰な反応ですが、メディアに容易く惑わされたのは、永年の白人優位・黒人蔑視に起因する、正確な歴史認識の絶対的な不足だったのではないかと思います。

「エボラは突然の発熱、嘔吐、筋肉痛、頭痛や下痢などの症状が特徴的です。しばしば、内蔵での出血が見られます。器官が溶解してどろどろになり、目や鼻や他の開口部から血液が流れ出ます」といったような誤った内容を伝えた新聞記事(注2)が騒ぎを大きくしたのも事実ですが、最大の原因はハリウッド映画「アウトブレイク」でしょう。アフリカの未開の奥地で未知のウィルスを発見、CDC(米国疾病予防センター)が軍医を送り生物兵器開発のために血液を採取したのちに村を爆破、致死率100%・空気感染のウィルスがアメリカ本土を直撃、汚染された街を爆弾で気化させるという大統領命令が下る、という内容は、映画としては刺激的でしたが、タイミングが良すぎました。NHKのBS世界のドキュメンタリー「人類の健康は守れるか:第3回エイズ・鳥インフルエンザ対策」(2006年3月16日BS1) の中で、1976年にCDCから派遣された軍医が撮影した当時のビデオ画像が放映されましたが、映像から伝わる当時の混乱した状況を見てその思いを強くしました。映像が映画と重なっていたからです。永年植え付けられた西洋優位の思想に由来するザイールへの関心のなさと、基本的な認識の欠如によって騒ぎは更に大きくなりました。

騒ぎは、もう一つ大きな問題を浮き彫りにしました。当時の大統領モブツの暴虐ぶりです。1995年5月16日のロイター通信が次のように報じています。

ザイールでエボラウィルスが発生したために、1963年(原文のまま、独立は1960年)のベルギーからの独立以来次々と起こる危機に揺れ動くアフリカの中心部にある四千万人の広大な国に再び世界の注意が向けられました。

治療法もワクチンも知られていないため、そのウィルスによって少なくとも64人の死者が出ました。多くのザイール人がモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。批評家によるとモブツは、過去約30年もの間、誰の挑戦も受けずにずっと政権の座にあり、推計で数十億ドルもの個人資産を蓄財したと言われています・・・

腐敗はザイール社会と政府の隅々にまで行き渡り、五百万人の首都へのウィルスの侵入を阻止しようとして取られた隔離対策にも賄賂が効く体たらくです、と市の職員が話しています・・・(注3)

さらに、6月14日のCNNは、「モブツ大統領は、エボラ対策の費用は他の国が保証すべきで、自分がすべき問題ではありませんと語っています」というニュースと本人の画像を大きく映し出しました。

そんなモブツを生んだコンゴは一体、どんな国だったのでしょうか。

3. コンゴをめぐって

3.1 「コンゴ自由国」:植民地支配

現在の「コンゴ民主共和国」はこれまでに何度か国名を変えていますが、ここではすべてコンゴと言う呼び方を使います。(注4)

コンゴの悲劇は、植民地を持ちたいというベルギー王子の夢で始まります。奴隷貿易で暴利を貪って資本蓄積を果たした西洋社会は、更なる冨を求めて産業革命を起こして資本主義を加速させます。さばき切れない製品の市場と原材料を求めてアフリカ争奪戦を繰り広げますが、争奪戦は余りにも激しく、世界大戦の危機を回避するためにベルリン会議を開いて妥協案を模索します。英国、フランスなどが植民地分割を決めたのはよく知られていますが、その会議で、コンゴがレオポルド2世個人の植民地として認められた事実はあまり知られていません。植民地を増やす余裕はないので競争相手には取られたくないが小国ベルギーに譲るなら安全と計算する英国とフランス、増えるアフリカ人奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返す策を模索していた米国、3国の思惑が一致し、レオポルド2世の接待外交も功を奏して、レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」が認められたのです。

レオポルド2世自身は生涯アフリカの地を踏んでいませんが、私兵を送り、電気と自動車という時宜を得て、銅と天然ゴムで暴利を貪り尽くします。

「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたアフリカ系米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記しています。

この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。

しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。

どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。」(注5)

「認可」を出したのは、レオポルド2世で、王は1888年にベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げました。1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起こります。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇ります。アジアやラテン・アメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの20年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせます。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させました。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れました。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となりました。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だったのです。

 

 

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされますが、その支配は23年間に及びました。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能ですが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されています。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われます。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んでいます。

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド2世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれます。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)です。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていました。」(註6)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だったのです。

レオポルド2世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡しますが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現在のナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していましたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまいました。アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされました。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註7)という惨状でした。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現されます。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された」(註8)と言われています。名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのです。

コンゴが貪り食われたのは、豊かな大地と鉱物資源に恵まれていたからです。ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあります。植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていきました。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註9)になっていました。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となりました。行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現在のキンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域です。

コンゴは南アフリカと並んで、暴虐の限りを尽くした植民地支配の典型だったのです。

3.2 独立とコンゴ動乱:新植民地支配の始まり

2度に渡る世界大戦での殺し合いで、ヨーロッパ社会の総体的な力が低下したとき、それまで抑圧され続けていた人たちが自由を求めて闘い始めます。その先頭に立ったのは、ヨーロッパやアメリカで教育を受けた若い知識階層で、国民の圧倒的な支持を受けました。宗主国は当初、独立への動きを抑えにかかりますが、大衆の熱気を見て戦略を変更します。独立は認めるが独立過程で最大限に混乱させる、自国の復興を待って力を回復させ機が熟せば傀儡政権を立てて軍事介入をする、それがその時点での最良の戦略だったのです。

コンゴの場合、ベルギーの取ったやり方は、何ともあからさまでした。1960年、ベルギー政府は政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げ、行政の経験者もほとんどなく、36閣僚のうち大学卒業者は3人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、国民の圧倒的な支持を受けて首相になったパトリス・ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

 

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえるはずもありません。名前こそ変わったものの、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされているのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」で、高い関税をかけられるので加工して輸出することも出来ず、結局は原材料のまま売るしかないのが現状です。

こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。

3.3 モブツ:新植民地支配

政権の座に着いたモブツは、アメリカの梃子入れで30年以上も独裁政権を続けました。その暴政はよく知られています。1984年から2年間、海外協力隊員としてザイールの田舎で過ごしたアメリカ人の新聞記事から、モブツ政権下で人々の悲惨な様子が窺い知れます。

2年間、私はザイール中部のカサイ地区でボランティアをしました、この地球上の他のどの地域よりも痛ましい、土の小屋と裸足と貧困のまっただ中で・・・

20世紀の後半に、人々が銃に脅されて奴隷のように綿摘みを強要され、今は失脚したモブツ・セセ・セコの金庫を一杯にするのを、私はこの目で見ました。

ザイールでの私の仕事はたんぱく質の欠如によって病気にかかった子供たちを助けることでした。・・・村の養魚池を作って、田舎の地域に栄養補給をすることでしたが、田舎の地域は貧しくてアスピリンの一錠が家計を圧迫する惨状でした。しかし、私の仕事はまったく象徴的なものでした。貧困は余りにも根が深く、広範で深刻過ぎました。そしてアメリカの援助は余りにも小さすぎました。私はそれぞれ何軒かの家族の手助けをしました。

神(あるいは神の不在)は細部に潜んでいます。腐りかけの歯を何とかしてもらうために私の家に来た村の人々の泣きじゃくる顔のような細部にです。アフリカの基準から言っても、ザイールの医療の状況は驚くほど酷く、ほとんど医療は望めません。アメリカや他の西側諸国によって寄贈された薬は、モブツ軍によって慣例的に強奪され、法外な価格で闇市場に転売されました。目的の場所に援助物資が届いた時でも、保証はありませんでした。私は、以前不釣り合いなフランスとアメリカの軍服を着た兵士が、ユニセフが配給した粉ミルクを溶いてこしらえた飲み物を下痢で苦しむ少女の手から取り上げて、自分で飲んでしまう光景を目の当たりにしました。

私のいた小さな村で、人々が病気になった時、私は持っていたアスピリン、マラリア用の錠剤、包帯などどんな僅かなものでも与えました。また、村人たちが歯痛のため私の所へ来た時には、求められたガソリンをその人たちに与えました。私は、オートバイのキャブレターから半インチのガソリンを注ぎました、そして70歳の女性と15歳の男の子がガソリンを唇にたらし、そのガソリンを口に含んで、シュシュと音を立てるのを見ました。ザイールの容赦のない基準では、これが歯の治療だったのです。地元の人々によると、このように使う僅かなガソリンは感染を防ぎ、痛みを和らげる手助けをするということでした。私はその考えに拒絶反応を見せました。しかし、人々は私の所へ来続けました。口を腫らして、泣きながら、頼むから何とかしてくれと言って、数十キロも歩いてくる人もいました。だから私は歯医者になりました。何もないよりはいいと思ったのです。

私が住んでいたザイール中部では、政府が求める強制労働の要求を満たせるように、村人は健康でいることが特に重要でした。家族の十分な食料を得るために耕す為に既に充分苦労していたすべての成人男性は、600坪ほどの土地に綿を植え、その綿を政府に売るように要求されました。綿を植えない人、または植えられない人々には厳しい罰金や、凶暴なライフル銃の銃身で規則を守らせるために派遣された兵士から鞭打ちの刑を受ける危険がありました。それはベルギーによる植民地時代からそっくり受け継がれた体制だったのです。モブツは独占的に綿の価格を不自然なまでに低い基準に規制し、買い取る際にいつものように目盛りをわざと不正に操作し、村人を再び騙しました。村での綿販売は私の前庭で行われていましたので、ことの子細をすべて知っています。私は無数の鞭打ちを含め、すべてを戸口から見たのです。(注10)

これはすべてアメリカとヨーロッパの支援によって可能になりました。1977年、1978年と1984年には、アメリカとフランスが直接的、または間接的に、最後にモブツ政府を倒した人たちに似た改革派による暴動からモブツ政権を救う手助けをしました。1980年代、アメリカは、腐敗や夥しい人権侵害についての信頼し得る報告書を入手していたにもかかわらず、モブツ政権に軍事援助と経済援助をし続けました。モブツは冷戦を最大限に利用し、新植民地主義者から最大の援助を引き出しました。その代わり、ロシア人とキューバ人を国内に入れずに領土を安定させ続け、西洋の工場向けの鉱物を生産しました。

冷戦の終わりには、モブツの個人資産と国債が共に60億ドルに達したと言われています。

3.4 コンゴ民主共和国

外圧によって腐敗や人権侵害が取り沙汰されるようになるにつれて、国内政治への支配力は弱まりました。モブツは1990年に民主主義的な改革にむけての内外の圧力に屈服しますが、1994年のルワンダの大量虐殺で、また息を吹き返します。西洋がモブツをもう一度必要としたからです。1996年10月18日、東部地域で反乱が発生しました。ローラン・カビラ(当時56歳)に導かれたルワンダ人の支持する反乱軍、及びコンゴ・ザイール解放民主勢力連合は、余り訓練されずに士気のあがらないザイール軍を敗走させて、ゴマとブラブなど、東部の境界周辺の主要な町を占領したのです。

米国大統領ビル・クリントンはモブツに、ロナルド・レーガンが1986年にフィリピンでフェルディナンド・マルコスに明言したように、武力を行使しない形で平和裡に政権移譲を行なうべきだと伝えます。5月17日、反体制軍は首都に行進し、2日後に、カビラはコンゴ民主共和国の大統領として宣誓しました。国民への演説の中で、カビラははっきりと以前のザイールに民主主義な変化をもたらすと言いました。

ルムンバ内閣の閣僚の一人だったカビラは、モブツの支配した残酷な時代に、辛うじて死を免れ、キブ州とリフト渓谷沿いの境界線地区と湖畔地区の深い森の中に逃げ込みました。カビラを探した人もいましたが、その人たちからは何の情報も聞かれませんでした。カビラは1960年代からずっと小規模な反乱に参加しており、モブツの追放を切望していました。その反乱で初めて反体制の代表者を務め、1996年10月に、指導者として前面に推されました。それはカビラがザイールのルバ人の一員として、フツ人とツチ人の間の紛争で、恐らく中立の立場にいる人に見えたからでしょう。広大な国を平和な流れに導く舵取りとして忽然と姿を現わしたのです。カビラは大統領宣言を果たしますが、2001年に暗殺されて、息子のジョゼフ・カビラが大統領に就任しました。そして、カビラのいたコンゴ東部では、今、ITビジネスに欠かせない希少金属タンタルが新たな紛争の種になっています。

1995年のエボラ出血熱騒動には、こうした凄まじい背景が潜んでいたのです。

NHKで放送中の海外ドラマ『ER緊急救命室』の第9シリーズと第10シリーズで、カーター医師は、カビラの潜んでいたコンゴ東部にボランティアとして出向きますが、今まで述べたような背景なしにはカーターが訪れたコンゴを理解するのは難しいでしょう。

4.医師をめざす人のための英語の授業

宮崎大学医学部では2005年度から、タイのプリンス・オブ・ソンクラ大学との学生交換プログラムに向けての英語講座を始めました。1・2年次にはさほど関心を示さなかった4・5年生が、タイでの単位互換を伴なうクリニカル・クラークシップ・プログラムに参加するという差し迫った目標が出来て、生き生きと英語を学び始めました。語学を学ぶうえで、明確な目標が如何に大切かを肌で感じています。一ヶ月間のプログラムに参加した学生は例外なく、英語もさることながら、医学をもっと勉強しなければと言います。タイでは医者の数が少なく、5・6年生は実際の医者に近いことを要求されますから、日本の学生に比べて遙かに勉強もしますし、よく出来るのです。感染症病棟でエイズ患者の回診をした学生は、社会制度を学ぶ大切さを口にします。

大学に入学するために大量の知識を詰め込んできた中で得た歴史観や考え方を再点検して、自分自身について考える機会になればと願って授業をやりますが、うまく行くとは限りません。新入生の最初の授業でカーターの行ったコンゴのERを授業で見てもらったとき、ある学生は「初回の授業を受け、(それなりに覚悟はしていたつもりではありましたが、)やはり衝撃を受けました・・・“人であることを止めるか” “人に尽くそうとすることを止めるか” の選択であるような気がしました。せめて誠実でありたい―今はそう思います。」という感想を授業専用のホームペイジの掲示板に寄せています。「誠実で」あるためには、まず西洋寄りの体制の中で作り出された自分の価値観を見直し、大学生として相応しい基礎知識が何であるかに気づく必要があります。その学生はまた、「第1回目の授業はとても衝撃的でした。授業そのものも勿論ですが、授業のあとで、私同様に “油断していた所に直撃を受けて激しく動揺する人” と “「てか超だるいんだけどー」と言える人” の2通りに大別されたことが面白かったです。」と同級生の反応について記しています。

制度の問題もあります。医者を志望して医学科に入って来ていない学生の数が想像以上に多く、そういう学生は教養でも専門でも授業には関心が薄く、単位や試験には敏感です。しかし、入学試験で学科の成績を問う限りは、「したいことは見つからないし他の学部に行くよりは医学部へ行く方がまし」と考える学生を排除することなど実際には出来ません。

一対多という講義形式にも限界があります。いくら準備や工夫をしても、誰もが満足する授業が出来るとは思えません。厳しく出席を取らないと成立しない授業もあるようですし、厳しく出席を取っても、後の席で寝ていたり、携帯をしている学生もいるようです。

色々な問題を抱えながらやって行くしかないわけですが、やはり大学の自由な空間で培う素養は大切なものです。ESPとEGPとの狭間で、歴史観や考え方を再認識するきっかけを提供し、結果的にはそれが基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たすような授業をして、学生一人一人がいつかは適切な処方箋(RX)を書けるようになることを願いながら、十年一日の如く試行錯誤を続けたいと思います。

  1. IDSC(国立感染症研究所感染症情報センター)「感染症の話」

(http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k02_g2/k02_32/k02_32.html)

  1. (May 13, 1995). Deadly ebola virus sweeps through Zairean town. Los Angeles Times in THE DAILY YOMIURI.「解剖は非常に気持ち悪かったが、いったん血をすべてきれいにしてしまうと、内蔵器官は損なわれていないままだとわかりました」[Robin McKie, “Nature of the killer virus,” (Johannesburg: Mail & Guardian, May 19 to 24, 1995)] という記事からも、誤った推測記事だと判ります。
  2. (May 16, 1995) Ebola virus returns Zaire into World’s spotlight. THE DAILY YOMIURI.
  3. 1885年のベルリン会議でベルギー王レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」として認められて以来1908年「ベルギー領コンゴ」→1960年「コンゴ共和国」→1967年「コンゴ民主共和国」→1971年「ザイール民主共和国」→1997年「コンゴ民主共和国」と名前が変わって現在に至っています。
  4. Hochschild, Adam. (1998) King Lopold’s Ghost – A Story of Greed, Terror, and Heroism in Colonial Africa, 261. New York: Mariner Books. 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びました。
  5. 前掲書. 121.
  6. 前掲書. 279.
  7. 前掲書. 278.
  8. 小田英郎(1986)『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』東京:山川出版社. 118.
  9. Tidwell, Mike. (June 6, 1997) Looking back in Anger: Life in Mobutu’s Zaire. Washington Post in THE DAILY YOMIURI.

執筆年

2006年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第5号61~69ペイジ

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医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―

2000~09年の執筆物

概要

宮崎大学教育文化学部大学院修士課程学校教育専攻日本語支援教育専修の報告書に書いたものです。

本文

「日本語支援教育専修」と私               玉田吉行

なぜ日本語支援教育専修を推したのか

 「なぜ日本語支援教育専修を推したのか」には、理由が2つあります。1つは、統合・法人化という名のリストラ政策の渦中で「日本語支援教育専修」が大学の生き残り策の1つの要素になり得ると感じたからです。もう1つは、言語をもっと大きな視点で捉えようとする「日本語支援教育専修」の目指す方向性なら、「日本語支援教育専修」とのかかわりを今までやってきた延長線上に位置づけるだけで何とかやれるかも知れないと考えたからです。

国や国際社会の大きな枠組みの中で考えても、そう遠くない将来に、膨らみ過ぎた経済が破綻するのは目に見えていますから、統廃合や人員・経費の削減などによる制度の再構築は避けられないでしょうし、少子化によってその傾向は強まり、学生の確保が大きな課題ともなるでしょう。定員確保は大学院ではすでに差し迫った問題で、大学の生き残り策の1つの大きな要素になっています。医学部では実際に定員が埋まらなかった分の年度当初の配分予算を返却していますし、その傾向が続けば学生定員の削減、その結果による教員定員の削減という事態は避けられないでしょう。また、留学生を増やすことも評価の対象になっていますが、円高や地理的な条件もあり、現実には留学生の大幅な増加は見込めない状態が続いています。そういった事情を勘案しますと、国内にいる外国人か海外の外国人かに日本語学習の支援をするための「日本語支援教育専修」を開設して留学生も含めた受験生を集めるのは充分に意義があり、実際に、韓国や台湾、中国などの日本語学校や大学、JICAや国際交流基金などの国際機関、国内の地方自治体や大学など、卒業後の就職の需要も見込めるようですから、将来性はあるように思えました。

昨年度2月に本学で行なわれた第一回マルチリンガリズム研究会の創設記念集会での、文化庁の野山広さんによる基調講演「多言語教育の時代:国内外の現状と共生の街づくりへ向けての始動」も大きな刺激となりました。第1線で活躍中の人でないと語れない勢いがありましたし、多文化共生への取り組みの具体的な事例には説得力が感じられましたから。また、計画した「日本語支援教育専修」のカリキュラムが、文化庁により提示された領域、日本語教育に必要とされる5領域(言語、言語と教育、言語と心理、言語と社会、社会・文化・地域)に沿い、言語教育、言語文化、言語心理の領域で日本語支援教育を行う上での教育内容・方法、心理について学び、国際文化、文化共生の領域で国際的な視野での共生、文化理解の在り方について学ぶという教育内容であったからでもあります。

今回行なわれた入学試験では、広範囲の地域から様々な年齢層の16名が集まりました。まだ問い合わせも続いていますし、学内からの進学者や留学生の応募も見込めます。定員割れだったり、応募者がいなかった専修もありましたから、健闘したと言えるでしょう。

医学部では、17年間、1・2年生を対象に、英語を手段として、アフリカやアフロ・アメリカの歴史や社会問題、音楽やスポーツ、エイズやエボラ出血熱、BSEや土呂久砒素問題、臓器移植などの医療問題、山頭火とHAIKUなど、色々な問題を取り上げ、今まで持っていた価値観や歴史観を再認識したり、自分について考える場を提供してきました。統合後は、主題教養科目の南アフリカ概論とアフリカ文化論でも、同じような問題提起をしています。

その意味では、「グローバルな視野にたち、複数文化への理解をもとに、国際舞台で活躍できる人間を育てる」という目標を掲げる「日本語支援教育専修」を、今までの延長線上に置くのは、それほど難しいようには思えませんでした。

そのようなことを念頭に置き、今までに書き残したものも考慮に入れて、専修の審査に必要な業績調書を書きながら(結果的には、要りませんでしたが)「日本語支援教育専修」でどんな科目が実際に担当出来るかを決めたのですが、「アフリカ論特論」と「翻訳論特論」なら、「日本語支援教育専修」で学ぶ人たちに何らかの問題提起は出来るかも知れないと考えました。

アフリカ論特論

 では、「アフリカ論特論」と「翻訳論特論」を通して、どんな問題提議が出来るのか。

「アフリカ論特論」では、言語を取り巻く実情を踏まえて、「アフリカ人にとっての言語とは」と「日本人の自己意識」、とに焦点を当てたいと考えています。

今年度の主題教養科目(アフリカ文化論160、南アフリカ概論70)と英語(医学科90、農学部55、看護学科30)で約400名の1年生を担当してアンケートに答えてもらいましたが、アフリカに文学があるのを知っていたのは海外青年協力隊にいた医学部の学生1人だけでした。将来、国内にいる外国人か海外の外国人かに日本語学習の支援をする人たちが、アフリカに文学があることを知らない、では支障があるでしょう。今回の入学試験で英語の功罪についての問題を出しましたが、「国際語」のお陰で非常に多くの人の意思疎通が可能になった、あるいは経済的に優位に立つ人たちが開発し、英語で発信する技術や医薬品などについての最新情報を獲得出来るなどの「功」の部分と同時に、国の関係が経済的に対等でない場合は言語も対等ではなく、何百年と続いている「白人優位・黒人蔑視」が言語の面でもまかり通る可能性が高いという「罪」の部分も認識する必要はあるでしょう。

ケニアの作家グギは、「20世紀のアフリカ人作家」の立場を次のように書き記しています。

60年後半、私がリーズ大学の学生の頃に初めて、自分の置かれた作家としての立場の矛盾を意識して、絶望的な感覚に襲われたのを鮮明に覚えています。ちょうど、ケニアの人たちの独立闘争を扱った『一粒の麦』を出版したところでした。しかし、私が書いていたその人たちは、決してその小説を読むことはありませんでしたし、その小説が読まれはしません。私は言葉のケースに、細心の注意を払いながらその人たちの命をそっと収めていたのです。私がケニアの国の中に拠点を持とうと国外に持とうと、英語という言語を選ぶ限り、そのことで亡命作家としてのレッテルを自分に貼り付けてしまっていたのです……。アフリカの作家は、教育を受け言語を選択した時点で、既に人々から顧みられることはないのです。

20世紀アフリカの作家の立場は、より広範なアフリカ社会の立場を映し出しています。というのも、もし作家が、心身ともに亡命の立場に居るというのなら、人々自身も、自分たちの経済や政治的な関係から見ても、亡命しているような立場にいるからです。1

グギは1982年から最近まで、実質的に亡命を強いられ、ケニアに帰れませんでした。体制の脅威であったからです。ウガンダのマケレレ大学を出て、イギリス、アメリカで教育を受け、ジェイムズ・グギの名前で書いた小説『夜が明けるまで』(1964)や『一粒の麦』(1967)などで国際的な評価を受けていましたが、英語で書くことを辞め、農民や労働者のために母国語のギクユ語で書き始めたてから、体制の脅威となりました。グギたちが指導した農村での演劇活動で、母国語のギクユ語で書いた脚本を、ギクユの農民と労働者が見事に演じきってしまった、つまり、多数派である搾取される側の農民と労働者が、演劇活動を通して自らの隷属的な立場に気づき、団結して体制側に挑み始めたからです。グギは、反体制側の象徴となりました。

グギ・ワ・ジオンゴ

侵略を始めた西洋諸国が奴隷貿易で暴利を得て、その資本で産業革命を起こし、作った製品の市場獲得のためにアフリカ争奪戦を繰り広げ、結果的には2つの世界大戦を引き起こしたあと戦略を変え、「開発」や「援助」の名のもとに、国連や世界銀行などに守られながら新しい形の支配体制(新植民地体制)を築き上げています。

ケニアも南アフリカからの白人入植者がアフリカ人労働者を元に搾取機構を打ち立てた国です。激しい闘争の末にイギリスから独立は果たしたものの農民や労働者を搾取するという基本構造は変わらず、大統領となったケニヤッタもモイも、先進国と組んで体制維持をはかってきました。少数の金持ちと大多数の貧乏人という歪な世界で、日本は貿易のよき相手です。

そういった現状と、「アフリカは貧しいから助けてあげる」、「日本はODAなどでアフリカに援助している」と考えている大半の日本人の意識との間には、余りにも隔たりがあります。JICAや国際交流基金で派遣されても、現状認識が出来ていなければ、やはり支障があるでしょう。異文化理解、国際理解などは望むべくもありありません。

翻訳論特論

元ナイロビ大学の教員で農学部の大学院にいた留学生が、「グギを卒業論文に取り上げたナイロビ大学の同級生が、卒業してから刑務所に入れられた」という話をしてくれましたが、1992年に私が飜訳した南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ (Alex La Guma, 1925-1960) の『まして束ねし縄なれば』は、アパルトヘイト体制の下では発禁処分を受けていました。ケープタウン郊外のスラムの日常を描いた作品ですが、体制側が世界に実情を知られたくなかったからです。

1987年にケント州立大学英語科教授の伯谷嘉信さんからMLA (Modern Language Association of America) のイギリス文学、アメリカ文学以外の英語による文学 (English Literature Other than British and American) の部会で発表しませんかとお誘いを受けたのがラ・グーマを調べるきっかけだったのですが、その過程で、思わぬ「日本の南アフリカ事情」を垣間見ることになりました。

アジア・アフリカ作家会議の季刊誌にラ・グーマが書いた「アパルトヘイト下の南アフリカ文学」(“South African Writing under Apartheid," 1975) が「新日本文学」(1977年4月号) に飜訳されていることを知り、図書館でコピーを手に入れた時、次の一節が目に飛び込んできました。

アレックス・ラ・グーマ

 このことは、南アフリカの創造的な作家にとって、なにを意味するのか。明快なことは大多数の黒人の利用できる文化施設が白人よりもはるかに劣っていることだ─率直に言えば、様々な面でなにもないということだ。ヨハネスブルグがその大部分の労働源を引き出すソウェト族の都市には、ほぼ百万人の人口にたった1軒の映画館があるだけで、実際に観ることのできるフィルムの数は検閲で夥しく制限されている。

(What does all this mean for the creative artist in South Africa? In the most obvious sense, the cultural facilities available to the Black majority are far inferior to those of the Whites – and in some cases simply nor existent. In the giant African township of Soweto, from which Johannesburg draws most of its labour force, there is only one cinema for a population nearly one million, and the number of films which may be seen by audiences at that cinema is grossly restricted by a censorship which places all Africans on the same level as White children under 16. )

この文章を飜訳した石井碩行という人は、「ジョハネスバーグがその労働力の大半をまかなっている巨大なアフリカ人居住区ソウェト」を「ヨハネスブルグがその大部分の労働源を引き出すソウェト族の都市」と訳しているのです。Soweto は South West Township of Johannesburgの略語で、金鉱で開けたアフリカ大陸でも有数の大都市ジョハネスバーグの南西の方角にあるタウンシップ(居住地区)のことですが、それをこともあろうに、人と間違えているのです。おまけに族までがついています。族はtribeの日本語訳ですが、その言葉には西洋人がアフリカ人を蔑んだつけた否定的な意味合いが含まれますから、使うのを嫌う人も大勢います。発行されたのが1977年ですから、その前年のソウェトの蜂起を知らない人がこの文章を訳したということになります。「新日本文学」は共産党の機関誌で、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの特集を組んだりして精力的に新しいものを紹介していますが、この程度の飜訳を掲載していた訳で、内容に全く無知な人が飜訳をした典型と言えるでしょう。

ラ・グーマの第1作品『夜の彷徨』の日本語訳の場合も同様です。主人公の青年が老人を殺害したあと、街をうろついている場面が次のように描かれています。

やつにしても、ほかのやつらにしても面白くねえ。きっとおれはやつらに話しにいったらいいんだ。ベドナード。おまえは警官がどうするかわかっているな。やつらはおれたち茶色い人間ことなど、これっぱしも聞いてくれやしない。

(To hell with him and the lot of them. Maybe I ought to go and tell them. Bednerd. You know what the law will do to you. You don’t have any shit from us brown people.)

当時明治大学の教授、と解説にあります。この人は多分英語の辞書では見つからないBednerd がわからないので、ベドナードと書いたのでしょう。このすぐあとにも1カ所同じ日本語訳が出てきます。もちろん、その当時アパルトヘイトが厳しくて南アフリカの人に聞けたかどうかはわかりませんが、この人は、アパルトヘイト政権を担った人たちの言葉がアフリカーンス語であったことすら知らなかったのではないでしょうか。知っていたとしたら、少なくともアフリカーンス語の辞書を見ていたでしょうから。たとえ辞書になくても、領事館か外務省に電話を一本かければ済むことです。それに、この本が出た1970年なら他のラ・グーマの本、たとえばAnd a Threefold Cord (1964) を図書館で探し当てるのは、それほど難しくなかったはずです。探してさえいれば、その本の付録につけてあるGLOSSARYのなかにbednerd=crazy, mixedの解説を見つけていたでしょう。第一、わからなくても文脈からその意味を推測できなくて、飜訳など出来るのでしょうか。学藝書林から出版され、大きな図書館の本棚に『全集現代世界文学の発見』シリーズの『9 第三世界からの証言』として並べられてあるのですから、驚きです。

南アフリカ問題の古典とも言える『差別と叛逆の原点』を書いた野間寛二郎さんは、ガーナの初代首相クワメ・エンクルマの自伝を飜訳する際に、わからないことが多かったので若いガーナの書記官のいる大使館に日参したと書いています。それが普通でしょう。brown peopleを茶色い人間と訳していますが、brown peopleがcolouredだと知らないで飜訳を引き受ける無謀さに、言葉もありません。先人が残したこんな業績に出くわすと、かなしくなるばかりです。

アフリカ系アメリカ人詩人のダンバー(Paul Laurence Dunbar)にLittle Brown Babyという詩があります。長く、きつく、汚い労働から帰ってきたあと、我が子と戯れる父親を詠んだ短かい詩です。

Paul Laurence Dunbar

Little brown baby wif spa’klin’ eyes,

Come to you’ pappy an’ set on his knee.

What you been doin’, suh – makin’ san’ pies?

Look at dat bib – you’s ez du’ty ez me.

Look at dat mouth – dat’s merlasses, I bet;

Come hyeah, Maria, an’ wipe off his han’s.

Bees gwine to ketch you an’ eat you up yit,

Bein’ so sticky an’ sweet goodness lan’s!

 

Little brown baby wif spa’klin eyes,

Who’s pappy’s darlin’ an’ who’s pappy’s chile?

Who is it all de day nevah once tries

Fu’ to be cross, er once loses dat smile?

Whah did you git dem teef? My, you’s a scamp!

Whah did dat dimple come f’om in yo’ chin?

Pappy do’ know yo – I b’lieves you’s a tramp;

Mammy, dis hyeah’s some ol’ straggler got in!

 

Let’s th’ow him outen de do’ in de san’,

We do’ want stragglers a-layin’ 'roun’ hyeah;

Let’s gin him 'way to de big buggah-man;

I know he’s hidin’ erroun’ hyeah right neah.

Buggah-man, buggah-man, come in de do’,

Hyeah’s a bad boy you kin have fu’ to eat.

Mammy an’ pappy do’ want him no mo’,

Swaller him down f’om his haid to his feet!

 

Dah, now, I t’ought dat you’d hub me up close.

Go back, ol’ buggah, you sha’n’t have dis boy.

He ain’t no tramp, ner no straggler, of co’se;

He’s pappy’s pa’dner an’ playmate an’ joy.

Come to you’ pallet now – go to yo’ res’;

Wisht you could allus know ease an’ cleah skies;

Wisht you could stay jes’ a chile on my breas’

Little brown baby wif spa’klin’ eyes!

 

ある人はLittle brown baby wif spa’klin’ eyesに「きんきら目玉の褐色の赤ちゃん」という訳をつけました。何冊も著書や飜訳書もあるアメリカ文学を専門にしている人で、特にアフリカ系アメリカ人女性作家に詳しいらしいのですが、少なくとも、詩に「きんきら」や「目玉」や「赤ちゃん」などの言葉をつかう人が、飜訳などすべきではありません。詩に魂をこめたダンバーに失礼でしょう。

南北戦争の後のあの悲惨な状況下での話です。考えてもみて下さい。大学に行って学問をしたい、医者になりたい、弁護士になって困っている人たちの手助けをしたいと考えたかも知れない人たちが、来る日も来る日も炎天下の農園で綿摘みを、あるいは地底で石炭掘りをしなければならないとしたら。反動勢力の敷いたカラー・ラインは、奴隷としてアフリカからつれてこられた子孫たちにとって厳しいもので、ミシシッピ生まれの作家リチャード・ライトは図書館で黒人は本も貸しもらえなくて、白人の名前で本を借りなければならなかった経験を自伝のなかに記しています。白人と対等に、などと張り合えば、忽ちリンチされてしまいます。

「おばけだぞう」と脅したらぎゅっとしがみついてくる我が子を見ながら、その成長を願わない親などいるでしょうか。大きくならないで、このままこの胸元で子供のままでいられたらと願う親がどこにいるでしょう。仮定法の過去は現在の事実の反対を仮定していう表現形式ですが、現実が厳しすぎるからこそ、その表現が真に迫ってくるのでしょう。

Little brown baby wif spa’klin’ eyesに「輝く瞳(め)をした愛しい吾が子よ」という日本語訳がつけられる翻訳論特論でありたいと思っています。

「日本語支援教育専修」と私

統合・法人化という名のリストラ政策の渦中で「日本語支援教育専修」が大学の生き残り策の1つの要素になり得るにしても、言語をもっと大きな視点で捉えようとする目指す方向性のなかで自分の位置を何とか見つけ出せるにしても、また、入学する人たちが意欲のある優れた人たちであるにしても、現実はなかなか厳しいものがあります。どさくさの統合や法人化の中で、新しい組織も充分に機能しているとは思えませんし、やった分の評価がなされているとは到底思えないからです。学生にとって、あるいは学校にとっていいと思える意見を出せば、その分だけすることが増えている現実があり、それがきっちりと評価されていないと思えるからです。医学部との兼任という立場でかかわっているのですが、今でも多い授業に2コマが増えた、というのが実状です。今回行なった入学試験にしても休みの日に長時間木花キャンパスに居なければなりませんでした。その上、規定では夜間開講もしなければならないとのことです。きちんとした評価もなされず、評価や手当も配慮されないようでは、長期的に見て、決していい成果が望めるとは思いません。

それに、「アフリカに文学があることを知らない」、「アフリカは貧しいから助けてあげる」、「日本はODAなどでアフリカに援助している」、そんな程度の人たちが入って来るとすれば、実際の授業は生易しいものではないでしょう。

近い将来に「日本語支援教育専修」の修了生が、JICAや国際交流基金から派遣されるとするなら、2年間は、学ぶ人たちにとっても、講義を担当する私たちにとっても、極めて短かい年月と言わざるを得ません。現状の中で何が出来るのかを考えながら、意識改革や日本語支援に必要な専門的な理論武装をして行かなければならないと思います。

そう考えて、夏休みの初め頃から、英文資料のスキャナでの取り込みを始めています。

1 Ngugi, “From the Corridors of Silence,” originally published in The Weekend Guardian (October 21-22, 1989), p. 3., and later included in Moving the Centre (Heinemann, 1993), pp. 102-108.

執筆年

2005年

収録・公開

日本語支援教育研究報告書

ダウンロード

「日本語支援教育専修」と私 (69KB)

2000~09年の執筆物

概要

2005年4月開設予定の専修の準備状況についての速報で、ゲストさんに手伝ってもらって、横山さんと作ったものの英語版です。

本文

From the Editor: We hope that our project
will be a catalyst for facing the severe
consitions of restructuring, budget-cuts, the
decreasing number of students, and so on.
TAMADA / YOKOYAMA

執筆年

2004年

収録・公開

4ペイジ 大学HP公開

ダウンロード

宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報英語版(119KB)