南アフリカ小史前半

2020年2月25日2010年~の執筆物南アフリカ

概要

『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」(The Struggle for South Africa)の前半です。

『アフリカとその末裔たち』

1章のアフリカ小史を受けて、典型的な植民地支配を最近まで受けて来た南アフリカ小史の前半、ヨーロッパ人入植者が南アフリカを植民地化して安価な労働力を大量に生み出す搾取機構を打ち立てたという歴史背景です。(ハラレでは実際にゲイリーたちがこの制度の元で大変な暮らしを強いられていました。)

次回は南アフリカ小史の後半、アフリカ人がそのヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、白人政権に協力した日本と南アフリカの関係についてです。

本文

南アフリカ小史前半

南アフリカの歴史背景としては大きくわけて4つの大枠を掴んでおく必要があります。

①つ目はヨーロッパからの入植者(European Immigrants)がアフリカ人から土地を奪って南部アフリカに作り上げた季節労働者制度(Migrant labour system)。
②つ目は、オランダ系の入植者の国民党(Nationalist Party)が単独政権を取って推しすすめた人種差別政策アパルトヘイト制度(Apartheid system)。
③つ目は、アパルトヘイトと闘ったアフリカ人の解放闘争(Liberation struggle)。
④つ目は、日本とアパルトヘイト政権のかかわり、です。

今回は最初の二つ①と②についてです。

① 入植者による南アフリカ連邦の成立

最初に南アフリカに来たヨーロッパ人はオランダ人で、1652年のことです。

今のケープタウン辺り、ケープ地方にやって来ました。オランダ人入植者(Dutch immigrants、大半が農民だったのBoers【オランダ語で農民の意味】と呼ばれていましたが、のちに蔑称として使われましたので自らをアフリカーナー(Afrikaners)と呼ぶようになりました。)はのちにアパルトヘイト政権を打ち立てました。

当時ケープ地方(南西部)にはコイコイ人やサン人など、原始的な生活をしている人たちが住んでいましたので、入植者はその人たちを比較的容易に奴隷にして、自分たちの農場で働かせました。社会基盤は農業でした。

ケープタウンテーブルマウンティン

次にイギリス人が来てアフリカーナーとケープの覇権を争いました。イギリスはアジアの戦略拠点を競争相手のフランスに押さえられないように大軍を送り込みました。

奴隷貿易で蓄積した資本で産業革命を起こして産業化社会になりかけていたイギリスの狙いは、更なる生産のための安価な原材料と大量の安価な労働力でした。経済的に優位に立っていたイギリス人入植者(British immigrants)がアフリカーナーとの権力闘争に勝利して1795年にケープ植民地政府を樹立し、1833年には一方的に奴隷を解放しました。

敗れたアフリカーナーのうち、富裕は内陸部に大移動しますが、残りはケープ地方に留まりました。アフリカーナーは内陸部の行く先々で高度な文明を持つアフリカ人と衝突しました。

1854年頃までには一応富裕な海岸線の2州ケープ州とナタール州をイギリス人入植者が領有し内陸部の痩せた2州オレンジ自由州とトランスバール州をアフリカーナーが占有(厳密にはイギリス系がオランダ系の自治を承認)することで落ちついたものの、
オレンジ自由州でダイヤモンドが、トランスバール州で金が発見されて状況が一変しました。それまで南アフリカはインドへの航路としての役割はありましたが、さほど重要視されてはいませんでした。ダイヤモンドと金の採掘権を巡ってイギリス人入植者とアフリカーナーがアングロ・ボーア戦争(Anglo-Boer wars)を始めます。結果的には決着をつけずに、アフリカ人を搾取する一点に妥協点を見出して1910年に南アフリカ連邦(The Union of South Africa)を成立させました。どちらも過半数の議席に及ばずに妥協の産物として出来たイギリス人入植者とアフリカーナーの連合政権でした。

(南アフリカの地図)

アフリカ人から土地を奪い、アフリカ人に課税をして化貨幣経済に巻き込み、無尽蔵の安価な労働力を作り出して、自分たちの大農園や鉱山や工場や、白人家庭でこき使う大規模な搾取機構です。(ジンバブエは第二のヨハネスブルグ=金鉱を求めてやってきたこの時代のケープ植民地のイギリス系入植者がゲイリーたちの祖父の代の人たちから土地と家畜を奪って作った国で、植民相だったセシル・ローズは国に自分の名前をつけてローデシアと名付けました。ゲイリーたちにとっては何とも忌まわしい話です。)

ローズたちの駐留地はスクエア・ガーデン、アレックスと従姉妹と長女とで記念撮影

② アパルトヘイト政権

イギリス人入植者とアフリカーナーの連合政権は、1948年にアフリカーナーによる単独政権に変わりました総人口の13%に過ぎない白人の6割を占めるアフリカーナーが単独政権を取ったのは、第2次世界大戦が大きな引き金でした。

ヨーロッパが第二次世界大戦の殺し合いで疲弊したため、それまで虐げられ続けた人たちが権利を求めて闘う素地が出来上がっていました。アジア・アフリカ・ラテンアメリカでは独立運動、アメリカ国内では公民権運動と世界的な広がりを見せていきました。その余波を受けて南アフリカ国内でも、アフリカ人は積極的にデモやストライキをして政府に対抗しました。当時のイギリス系の与党統一党(The United Party)は意識に目覚めたアフリカ人労働者層が積極的に参加する闘争に対抗し切れませんでした。

少数の白人と多数のアフリカ人との緊迫したこの時期に、白人だけが投票権を持つ総選挙が行われました。アフリカーナーの国民党は白人人口の60%の大半を占める貧乏な農民(poor whiteに投票してくれれば、人種隔離政策(アパルトヘイト)で優遇する、つまり賃金の高い仕事は白人のために確保し、アフリカ人には低賃金のにしか就かせないというスローガンを掲げて選挙戦を展開、結果的には過半数を取ることになり、1948年にアパルトヘイト政権が成立しました。

政策の根幹は、アフリカ人から土地を奪って課税して作り上げた安価な無尽蔵のアフリカ人労働者から搾り取れる一大搾取構造でした。たくさんの法律を作り、人種によって賃金に格差をつけ、アフリカ人には単純労働しかさせず、居住区なども人種によって差別するという、徹底した差別政策でした。

③ アフリカ人の解放闘争と④日本とアパルトヘイト政権のかかわりについては、次回の「南アフリカ小史後半」で取り上げます。(宮崎大学医学部教員)

日本語訳は長く、ブログの制限枠目安をはるかに超えているそうです。インターネット上にファイルをおきますのでご利用下さい。右のアドレスをクリックすればワードファイルをダウンロード出来ます。→https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/Zim6.docx(画面上に出てくるZim6.docxです。)

執筆年

  2014年1月10日

収録・公開

  →「南アフリカ小史前半」(No. 65  2014年1月10日)

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