つれづれに

つれづれに:2022顛末記

 今回は喉をやられて「日常」が乱れたが、1)干し柿の作業(↑)、2)ボイラーの故障、3)原稿の推敲、4)ブログの更新、5)畑仕事、6)妻の個展(↓)の準備が重なって、寝不足と運動不足になったからである。今後のこともあるので、確認のために1)について「かき顛末記」「かき顛末記②過去の『つれづれに』」「かき顛末記③西条柿」を書いた。今回は「ボイラー顛末記」である。

そのつもりで書き始めたが、もう今年も終わり、引き摺らず、来年は新たに書き出せるように2)~6)もまとめて「2022顛末記」にすることにした

2)ボイラーの故障

災いは突然やって来る。普段通りスイッチを入れて湯を出そうとしたが、出て来ない。それまでも同じことがあったので、一度電源を落として再度やってみた。パソコンなどもそうだが、電源を入れ直して戻ることも多い。しかし、だめだった。中古で買った家なので、前の人と合わせると30年も使っている。いまだに使えているのが不思議なくらいだ。使いながら、日本の技術はすごいなあと実感している。

故障した給湯器のボイラー

 さて問題は二つである。どの業者に頼むか、新しいボイラーが来るまで風呂はどうするかだった。水道やトイレや電気関連などいくつかの業者に頼んでいたが、対応や結果は満足できないことの方が多かった。しかし、最近トイレをやってもらった業者には対応も結果も満足していたので、さっそく電話をかけた。ガス関連は免許も要るので最終的にはガス会社に頼むことになるそうで「直接問い合わせる方が早いですよ」と言われて、紹介されたガス会社に電話した。対応には満足した。来てくれた技術者は外のボイラー(↑)を見て「ファンがあれば交換すればいいんですが‥‥」と言ってくれたが、30年も前の部品がある筈もない。最新式の細かい泡の出る機種を薦めてくれた。「私も欲しいです」と言っていた。元は床暖房、太陽ソーラー器(↓)と連結、追い炊き、給湯の四つの機能があったが、前の三つは既に壊れていて、給湯の機能だけが使えていた。実際には不自由はしなかったので、その機能だけにしてもらった。顛末についてはすでに書いている。(→「ボイラー」

 新しいボイラー(↓)が来るのは1週間後らしかった。風呂をどうするか?近くに銭湯はないし、温泉も青島まで行く必要がある。温泉はコロナですっかりご無沙汰である。選択肢は一つ、ガスコンロで沸かして運ぶしかない。運ぶ作業の一つ一つはそうでもなかったが、最初は4時間、慣れて2時間、1それが週間も続くと、やっぱりきつかった。風呂は続けて入れば、何とか普段通りに冷めずに入れたが、疲労蓄積の一因になったのは否定できない。

 3)原稿の推敲

 9月末が締め切りの新人賞に出すつもりで書いていたが、直前に確認すると、思っていた応募先の締め切りが来年の3月になっていた。書くのを軸に生活しているので間違いはないと思うのだが、締め切りが変わったのか、勘違いだったのか。「そんなあー‥‥」と思いながら、すぐに切り替えて、推敲に時間をかけることにした。9月末の時点ではA4用紙に40×30を134枚、400字詰原稿用に換算すれば402枚になっていた。作業を始めると、自分のくせが見えてくる。読み手にとってどうか、それを基準に何回も見直した。何回もやっていると「これは要らんやろ」、「この部分は押し付けがましいやろ」、「ここは昇華してないで」とか、結構大きなところにも気が付いた。「この表現はちょっと違うやろ」とか漢字の思い違いや言葉遣いがあやふやなところもたくさんあった。何回みても、修正箇所が出てくる。今は96枚で、400字詰で288枚になっている。絞れたようだ。200枚以上500枚までの応募要項は満たしている。もう何回かやってみるつもりだ。40x30A4で3枚の概要もある。作業はずっと続いているので、今回の一因のようである。

 4)ブログの更新

HP「ノアと三太」は最初の画面が10秒後にblog「ノアと三太」のトップページに自動的に切り替わるように設定してもらったので、HPの「つれづれに」は更新しなくて済むようになった。更新が楽にはなったが、小説の修作のつもりで「つれづれに」を毎日書いていたので、それも一因になったようだ。書くのは苦痛ではないが、内容によっては調べるのに時間がかかる場合もある。たとえば、→「米1860」(10月21日)を書いた後、「日1860」↓、「南アフリカ1860」「ジンバブエ1860」「ガーナ1860」「コンゴ1860」「ケニア1860」と一気に書いたが、それぞれ歴史を確認するのに時間がかかった。小説を理解するために歴史を辿った程度だったので、曖昧なところも再考する必要があった。歴史全体をある程度把握していないとわからない場合も多い。「歴史に関心がなかったのに、よく7ケ国について書けたものだ」である。いや「どう絞り出しても7ケ国だった」の方が正確かも知れない。相当無理して書いた気がする。

5)畑仕事

借家についていた60坪ほどの畑で作業を始めた30代の終わり頃のように、気持ちはあっても一気に作業をすることは出来なくなっている。ある時から鍬で耕すと腰が痛くなって、風呂で使う椅子に座って大小のスコップを使って耕すようになっている。不耕起をする覚悟はないので、そのような形を取らざるを得なかった。今年は夏が暑過ぎて畑には出られなかったので、オクラや茄子やピーマンの手入れが出来なかった。台風では、南瓜の竹の柵が大きく傾いてしまった。↓

 一気に片づけて冬野菜の作業をしたかったが、一日に多くて1時間か2時間かを絞り出すのが精一杯だった。しかしそのうちに、10月初めに蒔いたレタスと葱の種から芽が出て大きくなってきたので、植え替える必要が出て来た。それで無理をすることになってしまった。それも一因だったようである。体調も戻って作業が出来るようになり、ペースは一ヶ月か一か月半遅れながら、畑も冬野菜模様になっている。↓

 6)妻の個展の準備

コロナで今年も妻は行けなかったが、東京での個展も十年目になった。去年は販売も注文もだめだったが、今年は一枚買ってもらい、注文も一人あった。描く人には何よりの励みだ。私が個展の案内(↓)やカレンダーの画像の処理などもやっているので、妻の絵のブログ「Forget Me Not」の作業も遠因一つになったようである。最近は海外の訪問者が中心のようで、毎日20人以上の訪問者と200以上の訪問数がある。それで、英語の訳もつけるようになった。時間がかかる。絵をスキャナや写真に撮って画像処理するのにはだいぶ慣れたが、それも時間がかかる。「私の絵画館」などの文章も早く英語訳をつけたいと思っているが、数も多いし、道のりは果てしない。

 喉をやられただけだとそれほど問題ではなかったが、今回は普段通っているクリニック(↓)でしてもらった血液検査が原因で大事になった。検査結果が出た日の夕方に、院長さんから電話があった。そういうのは初めてだったので嫌な予感がしたが、案の定「前立腺の腫瘍マーカーの数値が高いので、医大か県立病院かで詳しく検査して下さい。紹介状を書きますから明日の午前中に来て下さい」と言われた。最初は「知り合いも多いし嫌やな……」と思ったが、実際に病院に行くことを考えると「近い方がいいし‥‥コロナでタクシーも長い距離は怖いし‥‥もし入院するとなったら‥‥」などあれこれ考えて、心を決めて医大に行くことにした。

 翌日院長を訪ねて紹介状を書いてもらったとき「腫瘍マーカーの数値は高いですが、必ずしもがんとは限りませんから。玉田さんの年齢の人には前立腺の異常は多いですし‥‥」と言われた。「医大(↓)に行くことにしました」と言うと「泌尿器科と調整して、日にちが決まったら連絡しますね」と言われた。

 そのあと「どっちみち診察を受けに行けば会わないわけには行かないし、取り敢えず賀本さんにメールをしとくか」と考えて、すぐに元同僚にメールを書いた。反応は早く「私のいる火曜日に来て下さい」と返信があった。結局世話になり診察を受けたあと「前立腺肥大症はありますが、直腸診、超音波では明らかな『がん』の所見はありませんでした」というメールが届いた。

癌か癌でないかは大きな問題で、長いこと仙人みたいな生活をして節制を続け「それでもがんになったらしゃーないな」と思って生きているので、診察結果は何よりだった。まだ来月のMRI検査があるので、最終結果ではないが、一応今のところは今までの生活を続けてもいいようである。

日常を奪われると、何気ない日常が大切に思える。病気になって元同僚に世話になるのも気が引けるが、実際には有難い。大学病院ではMRI検査も何ヶ月も予定が詰まっているそうだが、都合をつけてもらったようだ。実際に診察の時に会った泌尿器科の医者3人は、元同僚と英語の授業で会った元学生の二人だった。

今日はコロナにやられたマッサージの人の差し入れに、久しぶりに白浜まで自転車で行って来た。長い距離をこぐと血流が悪くなるかも知れないと言われたので、立ってこいだ。片道50分程、充分に運動になったと思う。冬の海は濃くてきれいだった。

曽山寺浜の橋の上から見える青島、海の色が濃かった

 「青島神社の参道は人影がまばらだった」と書くつもりだったが、予想に反してそれなりの人出があった。見たことがないので実感は湧かないが、これからの初詣には、たくさんの人が訪れるのか?

つれづれに

つれづれに:かき顛末記③西条柿

小島けい画

 ハイビスカス(↑)がこんなに長く咲く花だとは気づかなかった。ずいぶんと寒くなって、気温も常時下が一桁台になり、朝晩は零度近くになって来ているのに、まだ花が咲いている。もちろん真夏の勢いはないが、あちこちで咲いている。今年の夏は暑い時期が長く、お盆前後はことのほか暑かった。日中には畑に出る気が起きないほど暑かった。その時期に赤い花が咲いていた。普段はそれほど気にも留めなかったが、少し目を凝らして見ると、いたるところにハイビスカスが植えられていた。「明石」ではお目にかかれなかった南国の花である。最近は黄色い花(↓)もところどころで見かける。

 今年最初に目にしたハイビスカスは少しピンク(↓)がかっていた。お盆を挟んだ暑い時期に咲いてすぐに終わると思い込んでいたが‥‥。「こんなに長く咲いていたんだ」と改めて思った次第である。

 体調を崩して当たり前の「日常」が送れなくなった遠因を考えて「のど顛末記」「かき顛末記」を書いた。その続きで「かき顛末記②過去の『つれづれに』」を書いて、今回は「③西条柿」である。

2022年

 結婚してから妻が住んでいた明石に住むようになったが、それまでは明石から西に電車で半時間ほどの所に住んでいた。明石は大学のあった神戸と自宅の中間あたりにあった。母親の借金(→「採用試験」、→「揺れ」、→「余震」)で急遽方向転換し、定収入のためだけに高校の教員(→「新採用一年目」、→「修学旅行」↓)になった。そのころまでそこに住んでいたが、柿の記憶は余りない。あれば食べるが、好んで食べたわけでなかったからかも知れない。見たのは丸い型の甘柿で、渋柿の記憶はない。

 娘と3人で転がり込んだ家で妻の父親が丸い渋柿を毎年一つずつひもで結んで干していたのを見て、店先の縦長の大きな渋柿が目に入るようになった。ナイロンの袋に入って売られていた。明石駅の行き帰りに寄っていた「魚の棚」商店街(↓)の生鮮食料品の店先か途中の八百屋だったような気がする。袋に西条柿と書いてあった。

 それで今の家に越して来て西条柿の苗を探した。宮崎神宮の春の植木市に出かけて、買って来たのである。当時は神宮の近くの宮崎公立大学(↓、→「市立大学」)に非常勤で行くのに宮崎駅に自転車を置いていたので、駅から自転車で神宮に行った。たぶん千円くらいだった。

 「桃栗3年柿8年と言われるけど、ほんまに生るんやろか?」と思ったが、7年目に1個だけ生った。それを妻に描いてもらった。

 それが隔年で100個以上実をつけるようになり、今年は500個近かったわけである。

 木花の授業で会った中原さんは今頃卒業論文の追い込みで忙しそうである。一年生の前期だけ授業があって、その頃から研究室に時々遊びに来るようになり、科研費の手伝いをしてもらったり、シンポジウムの司会をやってもらったりした。卒業後は広島に帰る予定である。ある時、出来たての干し柿を「初物の干し柿のお裾(すそ)分け、西条柿やそうやで」と言って手渡したら「西条はうちの隣街です」と言っていた。ウェブで調べてみたら、「東広島郷土史研究会専門グループ」のサイトがあった。西条柿は現在の東広島市西条が原産と言われ、その地名が名前となっているようだ。サイトには、東広島市にある「長福寺の縁起に、1238年僧良信が本尊薬師如来の霊夢により、弟子信常を鎌倉の永福寺へ遺して求めた霊種を寺内に植えたのが西条柿の原種とある」とあった。「果実は縦長で側面に四条の溝があります」とも書かれていたが、庭に生っている実には溝がないので、値札に間違いがなければ、かけ合わせて作られた品種の西条柿かも知れない。今年剥(む)いている時に溝のある柿もあった。今まで気づかなかったが‥‥。

長福寺跡(上記サイトより)

 大ぶりで糖度も高い。剥(む)いて陽に干すだけで、何とも言えない色艶(つや)と甘みが出るのだから、陽の力は偉大である。干すと言うよりはじっくり時間をかけて陽で焼くという感じである。英語ではsun-driedではなく、sun-bakedを使うようである。韓国や中国では王に干し柿を献上したという話を聞くが、他の国に柿はあるのか?気になって世界の柿の生産量を調べた。

2019年の生産量は中国320万7,516トン(75.12 % )、韓国 31万6,042トン(7.4 %)、日本20万8,200トン(4.88 % )、アゼルバイジャン17万7,130トン(4.15 %)、ブラジル16万8,658トン(3.95 %)、ウズベキスタン9万4,065トン(2.2 %)、台湾3万9,552トン( 0.93 %)、イスラエル2万7,000トン(0.63 %)、 イラン2万5,272トン(0.59 %)、ネパール3,085トン 0.07 %

中国が圧倒的に多かった。英語を母国語にしている国はないようだが、英語では一応persimmonというらしい。山頭火の句を英訳するときに調べたような気がする。ブラジル、イラン、イスラエルはちょっと意外だった。ブラジルは移民も関係しているのか?台湾は日本の占領とも関係があるのか?

2022年、実を採ったあと

つれづれに

つれづれに:かき顛末記②過去の「つれづれに」

2022年

 今回は体調を崩して、しばらくのあいだ、それまで当たり前にやっていた「日常」が送れなくなった。喉をやられたのが直接の原因だが、遠因はたくさんある。これからのためにも、確認したくて「のど顛末記」を書いた。そして、遠因の一つでもある今回の干し柿の作業について書きとめた「つれづれに」を元に、「かき顛末記」も書いた。干し柿についてはあと2回、②干し柿について書いた過去の「つれづれに」と、③西条柿、を書こうと思う。今回は過去の「つれづれに」である。

2022年

 干し柿について「つれづれに」に初めて書いたのは2003年12月11日である。(→「柿干して 今年も暮れる」)それを書くしばらく前の2003年の秋頃にホームページを作ってもらっていた。それが最初の「つれづれに」だったようである。「授業やメイルでホームペイジの住所を紹介して、また自分の首を絞める羽目に陥りました。観念して、やることに致しましょう。」と書き、4日後の15日にホームページの名前の由来について書いている。(→「ノアと三太」

 その年の10月に旧宮崎大学(↑))との統合が決まっていたが、実際に動き出すのは春の新学期から‥‥そんな時期である。その前に看護学科が出来、その設立にも関わっていたし、統合の目玉となった「一般教育」の渦中にいたから、医学部(↓)の代表の一人として会議に参加していた。週に一度、延々と続く本会議があり、一年半も続いた。入試委員会と国際連携委員会でも擦り合わせの会議があって、そっちの方もなかなかきつかった。かなりハードな日々だった。

講義棟

 統合前に執行部から教授選に出るように言われて思いがけず教授になっていたので、看護学科(↓)の創設と、大学統合のど真ん中にいることになってしまい、本当に大変だった。大変過ぎて体が悲鳴を上げていた。統合も落ち着いた頃に、這う這うの体で大学病院に行って内視鏡の検査を受けた。今回久しぶりに病院に行くことになって、前回行ったのが平成20年(2008年)だと知った。そんな時期にホームページを始めたわけである。

看護棟(総合研究棟)

 その後も断続的に干し柿の経過を書いている。(「干した柿に、ひよも飛んできて」、2004年11月27日)には、干し柿を作り始めたの経緯を書いた。妻と娘と3人で妻の父親の「中朝霧丘」の家に転がりこんでからだから、40年以上になる。家の北側に渋柿の樹があって、妻の父親が毎年一つずつひもで結んで干していた。柿は丸柿で、そう大きくなかった。それを真似て、私も店先で大き目の柿を見つけて干し始めた。そうたくさんではなかったと思う。

近くの明舞団地

 宮崎では最初の借家では渋柿を干していないので、10年ほど記述はない。今の学園木花台に越して来てから、また干し始めた。借家にいる時に娘と息子がどちらも東京に行ったので、干し柿の話題は出なかった。今年はたくさん拵えたので、息子に「要るか?」と聞いた。「干し柿、大好きやで」ということだったので、30個ほど送った。借家の期間は干し柿と無縁だったわけである。息子が好きだとは気づかなかった。最初は自転車で行き帰りしている途中で、山になっている実を見つけて干した。しかし、見つけた山柿は小粒過ぎて干したら種ばかりだった。その頃にはわりと大きな西条柿が出回るようになっていたので、箱ごと買って来て干すようになった。家でも実がなればと考えて、宮崎神宮(↓)の春の植木市で苗を買って来て植えた。引っ越してから2年目に「いつか実をつけてくれるでしょうか?」と書いている。

借家のぐ近くにあった宮崎神宮

 そのあと「寒空に、祭りの後の花火が儚げに」(2005年11月20日)と「渋柿を吊せなかった、今年が暮れる」(2008年12月31日)を書いている。

2010年に初めて西条柿が1個生って、枝をつけて採って来て、妻に描いてもらった。(↓)その年には最初の1個については書けなくて、次の年に「去年初めて家で植えた木に一つ実がなりました。今年は三つなりました。五つ実をつけていたと思うのですが、最終的には三つだけしか残りませんでした。」と書いている。桃栗3年柿8年と言われるようだが、最初に生ったのは7年目だった。(→「過ぎ行く秋の陽に、柿を干す」「句も出ず、霧島降ろしに柿を干す」、2011年11月23日)

 その後も「今年も過ぎて行くようです。」(2014年12月29日)、「昨日やっと柿を干しました」(2017年10月30日)を書いた。しばらく記述がなくて、今回の「つれづれに」である。今の家に来てからは、忙しい時期も何とか柿を干して来て「つれづれに」に書きとめていたようである。今年は500個近くなった生り年だったが、来年はどれくらい生るんだろう?

2022年、実を採ったあと

つれづれに

つれづれに:かき顛末記

 「のど顛末記」の続き、「かき顛末記」である。今回「日常」が乱れたのは喉をやられたのが直接の原因だが、1)干し柿の作業、2)ボイラーの故障、3)原稿の推敲、4)ブログの更新、5)畑仕事、6)妻の個展の準備が一定期間重なって、寝不足と運動不足になったことが遠因である。今後のこともあるので、確認しておきたい。今回は1)干し柿の作業についての「かき顛末記」である。

①今年の「つれづれに」と、②干し柿を始めてからの過去の「つれづれに」と、③西条柿、の3回に分けて書くことにした。

①今年の「つれづれに」

今年は生り年でたくさんの実がなった。500個近く生ったのではないか?去年が7個で、干し柿になったのは6個だった。生り年は隔年のようだ。一昨年は、採り入れて、へたを取り、洗って、剥いて、消毒して陽に干す作業がずいぶんと億劫になっていたが、去年ほとんど実が生らなかったせいか、多くても干し柿を拵えようという思いに傾いていた。小説の修作のつもりで「つれづれに」を書いているので、10月も毎日書いていた。その中に、柿の作業状況を書いた。写真も撮って載せた。「つれづれに」によると、10月18日に作業を始めている。11月2日の「日常」に書いたのが最後で、体調を崩して少し持ち直したときに、採って残っていた最後の柿を剥いて干した。それが11月10日だから、ずいぶんと引き摺っていたわけである。樹から採り入れたあと体調を崩して作業が出来ない間に、熟し過ぎて干せなくなった実を70個前後は畑に戻した。最終的に剥いて干したのは306個だった。以下が「つれづれに」に書いた内容である。

10/19→「畑も始めたが」

2022/10/18現在合計30個、作業継続中

 柿もそろそろ色付き始めた。今年は生り年で500個近くなったが、すでに風で落ちたり、変に熟して落ちてしまったりしたのが50個ほどはある。それでも結構な数の実が残っている。熟したのを剥いて干してはみたが、重さに耐えかねて枝の根元が千切れてぼとりと何個かが落ちてしまった。それでも何とか15個(↑)がもうすぐ食べられそうである。今朝新たに17個をとりこんで、剥いて干した。2個がじゅくじゅくで干せなかったが、15個(↓)は無事にぶら下がっている。これで30個である。

今からが干し柿の本番である。最終的に干しあがるのが何個になるか、数でも数えておかないと‥‥、作業が嫌で煩わしいというわけではないが、どうやらそんな流れになっている。幸い晴れの過ごし易い寒露特有の天気が続く。

前の写真、今は少し色付きかけている

 10/22→日1860」

 柿(↑、↓熟す前)が一気に色付いてきた。短い期間に作業をしないと実が崩れる可能性はあるが、先ずは5つずつである。先は長い。ずいぶんと気温も下がってきたし、雨が降らないでいてくれそうなので、何とか干し柿が出来そうである。生り年につき、お裾分けも充分、連絡があればいつでも送付可である。今年は暑さのせいか、熟し方がおかしいので、剥く時にぐちゃぐちゃになったり、吊(つ)るすための枝の支えの部分が重さで耐えられなくて落ちてしまう柿が50個ほどあった。それに比べて、今から取り込むのは例年通りの熟し方で、剥く作業も例年通りで、助かる。タスカルの原理である。

10/23→「南アフリカ1860」

 色付いてきた柿を昨日は夕方までの第1弾で35個、夜に第2弾で21個、合計56個剥いた。既に出来ていた15個と出来かけの15個を足すと86個まで行ったわけである。最初の15個は取り入れ、きれいに洗って熱湯消毒して拭いた。一部は大根とのなますになっている。「サラダ感覚で食べてね」「細かく千切ってヨーグルトに入れて食べたよ」と妻は言っていた。糖分を一定分しか摂れないのでたくさんは食べられないが、大事に食べようとしてくれている。「手間がかかってるからね‥‥」と言っていた。作業はまだ続く。

10/27→「ボイラー」

柿が色付いているのに、なかなか思うように剥いて陽に干せないでいる。一昨日15個を剥いてやっと116個(↓)になった。まだ200ほどありそうなので、熟しすぎて落ちてしまうまでに終われるかどうかは怪しい。

2022/10/25現在合計116個、作業継続中

 10/30→「『つれづれに』」

「つれづれに」を小説の修作に使うことになって毎日書いてはいるが、時たま書けない日がある(中略)もう一つの理由は干し柿である。生り年で300個~400個もなったようで、風で落ちたり、早熟で干しても落ちてしまったりして100個近くは干し柿にはならないが、それでも300個ほどはある。枝から採って、へたの部分を切って洗い、剥いて、消毒して吊るす、それだけの作業だが、なかなかの手間である。妻は「手作りやから、大事にしないとね」と言ってくれるが「足では作られへんもんな」と、毎回同じことを繰り返す。一生変わりそうにない。口が反射的に動く。「手作り」という言葉自体に違和感を感じるからなのか?「なんでもかんでも手作りをつけんでもええやろ」とでも言いたいのか?

昨日30個剥いて、やっと146個になった。最初の10個ほどはすでに大根なますになって、2回目の分がほぼなくなりかけである。こちらは吉祥寺の娘に甘酒と一緒に、第一号を送ることができた。50個ほどは完成まじかである。今日も今から昨日の晩に取りこんで、へたの部分まで作業が済んでいる30個を剥こうとしているところである。今日中に200個まで行ければと思ってはいるが‥‥。

2022/10/29現在合計146個、作業継続中

 10/31→「コンゴ1860」

苗を植えた7年後に生った唯一の柿(小島けい画)

 土日で65個を剥いて累計がやっと201個になった。すでに食べてなくなった分や出来上がったもの以外半分ほどを外に干している。今日は生憎曇り空で、太陽の恩恵は余りない。あしたは雨になっても夜には上がりそうだから、夜から作業の再開である。昨日の夕方に取り込んだのが50個足らずあって、まだ100個ほどが樹に生ったままである。何個か鳥が啄ばんでいるので、採るのも気が引ける。実を採ったあと落ちた葉を集め回らなくていいように、樹から葉を落としておくか?

2022/10/31現在合計201個、作業継続中

 11/2→「日常」

昨日は雨で柿も小休止だった。また再開である。陽が照っていないが、向こう1週間は雨マークがないので、無事に干し柿は出来そうである。数が多いので、干してある分を2階のベランダまで運んだ。途中で2個が落ちてしまい、へたの部分が千切れてしまった。生乾きの柿は充分に重い。運ぶのも一仕事である。下の場所は確保したので、またせっせと剥いて、消毒して、干すだけである。長男が「おれ干し柿大好きやでえ」と妻に電話で言ったらしい。「送ったろ」と、妻は決めたようだ。干し柿づくりを再開したので、今の家に来てからだから、宮崎に来てからいっしょに借家に住んでいた時は干し柿を作っていなかった。だから、長男が好きだと知らなかったわけである。

2階に移動した柿

 放っておくと「息をするのも面倒くさい」とため息をつくのに、「食べ物が薬だ」と思って努めて野菜を食べ、わざわざ拵えて甘酒を飲み、発酵食品を欠かさない。妻の個展の案内の返事の中に、病気の知らせが多い。身近な人がなくなった知らせもある。大変そうな人が多い。特に配偶者や親が癌になっている人は、ほんとうに大変そうである。もちろん私より上の世代の人では、連れ合いが自分を忘れてしまっている人もいる。「妻が老人ホームに入り丸一年が経ちました。半分は認知、半分は?面会に行ってもすぐ判ってもらえないのが寂しいです。他人ごとではない己こそ‥‥迷惑をかけないよう気をつけます」という90を越えた人の便りは、重い。日常が過ぎていく。

2022/11/1現在合計201個、作業継続中

 追伸:降らないと思っていた雨が降り出した。慌てて2階の分を部屋の中に入れたが、一本がどさっと落ちてしまった。3個が駄目になって、3個が支えの枝が折れている。雨に濡れたままだと、黒ずんでしまう可能性があるから、ドライヤーで乾かす作業が増えた。「向こう1週間は雨マークがないので、無事に干し柿は出来そうである」と書いた矢先だ。なんでもありである。

今の家に来てから暫くした頃、北側の花壇に柿の苗を植えた。桃栗三年柿八年と言われるが、その柿は七年目に一つだけ実をつけた。大ぶりの渋柿だった。二年目に三つ、三年目に十七個、それから百個近くと数が増えて行き、最近は実を数えなくなっている。たくさん生った次の年は実の数が格段に少ない。一年おきに生り年が来るようである。一昨年は二百個近くも実をつけた生り年だったが、去年は七個しか生らなかった。今年は300個くらいが実をつけていて、既に大きくなり始めている。このまま台風にやられなければ、干し柿作りの作業に追われそうである。

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すでにお裾分けもして、50個ほどが残っているだけである。一つ一つラップをして冷凍しておけば、長期保存が可能らしいので、今年から黴をはやさなくて済みそうである。これだけの作業だったので、体調を崩した遠因の一つになったのも無理はない。

来年何個生るのかはわからないが、当たり前のように柿を剥ける「日常」も有難いことの一つである。体調を崩して日常が乱れると、尚のことその思いは強くなるようだ。