つれづれに:米1860(2022年10月21日)

2022年10月22日つれづれに

つれづれに:米1860

 今日も白浜の鍼灸整骨院で、揉んで手入れをしてもらった。1週間に一度通えるのはありがたい。空気が澄んだ秋晴れの過ごしやすい日が多くなる寒露の時期だけのことはある。今日も途中の海岸線は見応えがあった。曽山寺浜にかかる橋からの景色(↑)はお気に入りである。いつも北から南の方向に撮るのだが、今日は南側からも撮った。(↓)

 長いことラングストン・ヒューズの「黒人史の栄光」(↓、“The Glory of Negro History,” 1964)でアフリカ系アメリカ人の歴史を辿っている。実は非常勤の5年間と医大の1年目の6年間、英語の授業はすべてヒューズのテキストと音声を使ったので、繰り返し繰り返し文章を読んだし、ヒューズ自身の朗読を聴いた。挿入されていた歌や演奏にもずいぶんと耳が馴染んだ。歴史を最初、善悪などの二元論で考える傾向があったが、それだけでは歴史を捉え切れないと感じるようになったし、軸というか基準というか、そういう大きな構図の中で考えるようになっていた。

 南北戦争は国の意見が真っ二つに割れて戦った(国)内戦、市民戦争である。それまで深く考えたことはないが、奴隷制は人権を無視した悪いもの、それを巡ってアメリカ国内が二分して市民戦争をした、白人の歴史や学校で習う歴史では、そうなっているような気がしていた。善悪の二元論が軸である。しかし、アフリカ系アメリカ人の歴史を辿っている時に、その軸自体が実際とは違うことに気がついた。

 南北戦争は奴隷制を廃止するか存続するかを巡って戦われたから、奴隷制が軸のようだが、実際はその制度を利用して富を独占し、甘い汁を吸い続けて来た主体が問題であり、軸なのである。それは社会全体の極く僅かな金持ち層、英語で言えば the haves(持つ者)や the robber(搾り取って奪う側)と呼ばれる人たちである。その人にとって、その時は利用できる対象がたまたま奴隷制度であったが、実は搾り取って暴利を貪れるなら何でもよかったわけである。基本は、自分は働かないで人が働いて得た富の上前を撥ねることができればいいのである。

そう考えると日本の律令制度も幕藩体制も同じ構図だし、その頃から本格的にするようになった南アフリカでは、金持ち層は人種を利用して最も効率のいい賃金体系を見つけて搾り取り続けている。搾り取られるアフリカ人は生きて行けるかどうか辺りの定収入で満足に食べれない生活を強いられる。日本でも農民は稗や粟を食べていたし、産業化が進む時代には中卒で集団就職して女工哀史を残した。今は短期契約で将来設計の立たない低賃金で働く若者やシングルマザーも多い。人間は愚かしいもので、その歴史がずーーーっと続いて来たし、これからも続くのである。

南部の金持ち層は奴隷を売買し、子供を産ませて奴隷を増やし、自分たちの農園で奴隷たちを働かせてその上前を撥ねた大農園主である。ここで忘れがちなのが、奴隷より少しましな生活をしてはいたが貧しい生活をしていた白人がたくさんいたことである。借金のかたに年季奉公の奴隷になったものも多かったし、安い給料で雇用されて農場の奴隷監督や逃亡奴隷の捕獲人や、言うことを聞かない奴隷を従わせる役目の奴隷調教人なども数多くいた。貧乏白人を使って、逃げる奴隷を捕まえて見せしめに鞭を打たせ、抵抗する奴隷を調教させて、寡頭勢力は躍起になって体制維持を図っていたのである。貧乏白人の給料を上げずに済ませるには、社会の底辺の奴隷は好都合だった。人種を利用して分断支配に成功していたのである

リチャード・ライト『1200万の黒人の声』から

 長く続いた大農園主の独占状態が崩れ始めた。奴隷貿易の蓄積資本で産業化した西洋社会と提携した金持ち産業資本家が北部で力をつけ始めたからである。代々奴隷王国が続いた南部の民主党に対抗して北部は共和党を作り、1860年の総選挙ではエイブラハム・リンカーン(↓、Abraham Lincoln, 1809-1865)を大統領候補に選んだ。産業資本家には南部で保持されている奴隷の労働力は魅力で、その労働力を手に入れるためには奴隷制を廃止するしかなかった。当然、奴隷制廃止論者を応援したし、南部からの逃亡奴隷も支援した。出版社で本を出すのも、メディアで報道するのも支援した。それが可能だったのは、南部北部双方の力関係が拮抗して来ていたということだろう。その総選挙で、リンカーンが勝った。1860年はそういう意味では、大きな流れの潮目だったかも知れない。