いつも書いている「つれづれ」はこのカテゴリー。

つれづれに

つれづれに:『アメリカの悲劇』

 アメリカ関連で、→「アメリカ文学」の続きである。南北戦争からトランプまでの政治と経済の両面から→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」、→「ソウル」、→「トランプ2」、→「トランプ3」を書いているとき、そうだった、その時代に書かれたアメリカ文学の作品を読んでいたんだとふと思った。その時は、大学入試でも英米学科でも英語をしなかったので、→「採用試験」で高校生の英語の授業を担当出来る程度、→「大学院入試」のあと修士課程で研究の真似事を出来る程度の英語が出来ればいいと考えていただけだった。2人の研究室に出かけ、英作文の授業を受けた人から、読むように本のリストをもらった。図書館で借りて来た本は、どれも分厚かった。特にAn American Tragedyは辞書並みで、1026ページもあった。一番分厚いAn American Tragedyから読み始めた。研究社の英和大辞典も引いた。知らない言葉が多過ぎて、寝る時間も忘れて読んだのに3ケ月もかかった。辞書がぼろぼろになっていた。しかし、こんな調子なら、一生に何冊読める?その思いが強くなっただけだった。辞書を引かなくなった転機である。辞書を引けば、自分で想像して読む作業が中断されて、読めるようにならない。読むためには、読むしかない、それが結論で、それ以降の出発点になった。

Theodore Dreiser, An American Tragedy

 ただ、読んだのは25歳のときで50年も経過している。1世紀の半分に及ぶ。本自体は僕には相性がよくなかったようで、読まないといけないという思いだけで最後まで読んだという感じだった。ウェブの解説を見て、そうだった主人公が男性でグリフィスだった、名前は忘れたが女性が出来て妊娠したような、くらいの記憶しか残っていない。そのあとの読んだ『シスター・キャリー』も、舞台が→「シカゴ」だったような、主人公は若い女性だったというくらいである。

大学院入試の準備でアメリカ文学史を少し齧ったはずだが、ドライサーも名前を見たくらいである。その後名前を聞いたのは、1985年に→「ミシシッピ」での→「ライトシンポジウム」で発表者にアメリカの学会で発表するように勧められたときに、その人からドライサーもやってましたと言われた時だけである。

今回、ウェブであれこれ調べてみた。『アメリカの悲劇』の出版は1925年で、著者はセオドア・ドライサー(↓)、『シスター・キャリー』は1900年の出版である。

『アメリカの悲劇』の舞台はカンザスシティと→「ニューヨーク」だ。先に書いた→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」と時代が重なる。

主人公の男性グリフィスは貧しい伝道師の子としてカンザスシティで生まれた。大きくなり、地元でホテルのベルボーイになった。あるとき、同僚とドライブ出かけた帰りに、自動車事故を起こしてしまう。逃亡して、ニューヨークにいる金持ちの伯父を頼り、その人の経営する工場に就職する。その職場で出会った女子工員と恋仲になるが、金持ちの女性とも関係を持ち、上流社会に憧れを持つ。工員の妊娠がわかり、殺害を計画。思いがけず、女性は湖で溺れて死んで殺害はしなかったが、裁判にかけられた。生き方が不道徳だと陪審員の顰蹙を買い、死刑を言い渡されてしまう。それが物語の概要である。

 ドライサーが生まれたのは1871年である。南北戦争後の占領政策が終わり、再建期が始まって反動期に入った頃だ。中西部にあるインディアナ州の田舎町のカトリック系ドイツ人移民の貧しい家庭に生まれているので、北部のプアホワイト層の環境で育ったことになる。ジャーナリストになってから、1900年に『シスター・キャリー』を発表しているが、売れなかった。しかし、1925年の『アメリカの悲劇』で認められ、アメリカ文学で読むべき本のリストにも入っていたわけである。アメリカ文学史では、自然主義文学の代表の一人らしい。1900年の『シスター・キャリー』は、中西部の田舎からシカゴに出た貧しい女性が妻子ある男性と駆け落ちして、ニューヨークで女優として成功する話だが、売れなかったのは主人公の非道徳性と、清教徒の倫理観が色濃かった世紀の変わり目の時期にあったからかも知れない。『アメリカの悲劇』は、産業社会が進み清教徒の倫理観が薄れたことと、格差社会やアメリカン・ドリームと無縁ではないだろう。ドライサーの作品が産業社会の人々の姿を赤裸々に描いていると評する人もいる。

次は『緋文字』である。最初に『アメリカの悲劇』を読んだのは一番分厚かったからだが、次になぜ『緋文字』にしたかは、覚えていない。

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つれづれに:アメリカ文学

 アメリカ関連の続きである。南北戦争からトランプまでの政治と経済の両面から→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」、→「ソウル」、→「トランプ2」、→「トランプ3」を書いた。実は偶然にもその時代に書かれたアメリカ文学の作品をいくつか読んでいたことを思い出した。その作品は、ある意味その時代を映し出している。小説はフィクションの形を取るが、大抵は事実に基づいて脚色されているので、その時代を色濃く投影している。最近は小説を書く時間が多くなっているので、その思いは強くなっている。

 アメリカ文学に興味があったわけではない。それどころか、早くに世の中をすっかり諦め(→「諦観」)、斜交いにものを眺めながら「生きるには余生は長すぎる」とぼんやりと考えていた。ただ、大学には行きたかったが、どうも入試勉強が性に合わなかったみたいである。大学で勉強や学問をしたいと思ったわけではなく、小説でも読みながら大学の空間があればいいと思っていただけだった。今から思えば、周りの人のように恋愛もして希望に燃えて入試勉強も出来ればよかったのだが。姉は早くからよく誘われてデートをしていたようだが、僕には別世界の人間だった。たぶん家族にも地域社会にも学校にもいつも腹を立ててばかりで、自ら心を閉ざしていたのだと思う。

しかし、もっても30くらいまでだろうと余生を過ごしていられなくなった。母親から→「百万円」借りて来て、と言われて状況は一変した。5人から借りて、母親をせっついて何とか返したのだが、人に金を借りてまで生きてはいけないと思ってしまった。それまで考えたこともなかったが、借金をしなくても済むように定収入を確保しようと思い、高校の→「教員採用試験」を受けてみることにした。ただ、そう思いついたのが試験も近い時期で、一度受けて対策を考えるかと、実際に試験を受けたのである。卒業するかどうかは決めかねていたが、英会話を残して4年の最終学年にはなっていたので受験がかのうだった。1年浪人をして入学し2年間留年していたから、25歳の時である。(→「採用試験」、→「面接」

大学は→「夜間課程」の英米学科だったが、英語はしなかった。受験でも英語はしていなかったので、予想通り取り敢えず受けてみただけの結果だった。学割のためだけに→「大学院入試」も受けていたので、購読と英作文をしとけば大丈夫だろうという感触だけは得ていた。すぐに準備を始めた。購読と英作文について具体的な方策を聞くために、2人の研究室に出かけた。英作文と購読の授業を受けた2人である。→「英作文」の人はアメリカ文学が専攻で、坪田譲治の童話の文庫本がテキストだった。購読の人は英語学が専攻で、淡々としていた。後に教職大学院(→「大学院入試2」、→「分かれ目」)の推薦書を、淡々と書いてくれた。

事務局・(2人の研究室があった)研究棟(同窓会HPより)

 英作文の人が「本でも読んでみますか?」と言って、紙切れに著者名とタイトルを書いてくれた。先ずは読んで力をつけることですね、という意味だと理解した。それがアメリカ文学の代表作だった。(→「購読」

Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter

Theodore Dreiser, Sister Carrie, An American Tragedy

William Faulkner, SanctuaryLight in August

Richard Wright, Native Son

John Steinbeck, Grapes of Wrath

その時読んだ分厚い本が、今書いているアメリカを映し出している作品だとは、まさか思わなかった。

先ずは『アメリカの悲劇』からで、著者はセオドア・ドライサーである。。

Theodore Dreiser, An American Tragedy

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つれづれに:トランプ3

 2月に入ってからは、アメリカ関連を突如中止して、日常のこまごましたことを書いた。今回は現アメリカ大統領のトランプ(↓)の話である。→「トランプ2」とその前の4回(→「ソウル」、→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」)のアメリカ関連の続編でもある。

トランプがなぜ大統領に選ばれたのかが長いあいだ釈然としなかったのに、政党の戦略と金持ち層の動きを考えて、最近なんだかわかるような気がしてきたと前回書いた。視界が開け始めたのは、選挙後半の党の獲得した州を示す青と赤のアメリカ地図の南部一帯が、突如、共和党の赤一色になった時だった。

「南部は共和党やなかったけ?」と一瞬思ったが、そう気に留めなかった。南北戦争を理解するときに、たしか民主党を代弁者にしようと南部寡頭勢力がワシントンに送り込んだ大統領候補が、代々大統領になっていたはずだが‥‥。そんな程度の認識だった。赤狩りのあと、民主党が巻き返して若きケネディが大統領になり、暗殺されたあとも副大統領が一部の共和党議員と協力してまで公民権法成立に尽力したことについては前回書いたが、基本的に公民権以降のアメリカの歴史の流れは考えなかった。

出版社の人にアフリカ関連の記事や本などを次々に言われて、それどころではなかったからである。気が付いたら、退職していた。本1冊訳すだけでも、少なくとも丸々2年もかかる。ケニアの作家の評論を訳すように言われたときは、ケニアの政治事情に加えて、韓国の詩人の書いた反体制の詩に、アフリカ系アメリカの文学までが範囲だった。ケニアと韓国の歴史は初めからしないといけないし、アフリカ系アメリカの文学にしても特定の僅かな作家しか知らなかった。公民権運動のその後までまわらなかったのが正直なところである。

グギ・ワ・ジオンゴ『作家、その政治とのかかわり』

 英語を使える機会にとリモートを使って4人で集まっているが、そのテーマがアフリカ系アメリカである。それもあって、最近になって公民権運動後についても考えるようになった。それで、政党の戦略についても考え始めたわけである。政治家にとって選挙で選ばれなければただの人だから、どの層を取り込めば自分が当選し、党が政権を担えるかを考えるのは当然である。奴隷制で潤った寡頭勢力の代弁者だった民主党が、元奴隷のアフリカ系アメリカ人のために公民権法を通したのも、選挙に勝つための政治戦略だった。

クリントン夫妻とオバマの大票田は都市部人たち、大卒の医者や弁護士や経営者などが中心の比較的富裕な層だから、トランプはもっと貧しい層、プアホワイトやアフリカ系の票を民主党より多く獲得したということだろう。

その層は肥満率と喫煙率の数値が高い。そんなことを考えている時に、ある新聞記事が目に留まった。その記事を読んで、そうだったんだと腑に落ちた。記事はトランプ支持者の心性に目を向けたもので、トランプ政権の副大統領が16年に出した回顧録『ヒルビリー・エレジー』の邦訳の副題『アメリカの繁栄から取り残された白人たち』がトランプの熱烈な支持者だと指摘していた。入植した白人たちの歴史と米国に住む友人からもらった写真を手掛かりに、ヒルビリー(田舎者)たちの心性を理解しようとする分析は、なかなか説得力があった。

入植者は移動しながら生きていた先住民から広大な土地を奪い、追放と虐殺を繰り返し、19世紀末には先住民をほぼ全滅させた。セトラーコロニアリズムというらしい。道路を造り『文明』を押し付けた白人たちには、自然は脅威だった。そこでは自動車なしには生活できない。石油がなければ生き倒れるしかない。西海岸で富を蓄えた者もいるが、大半は外界の脅威の中で生活を続けた。貧富の格差は拡大し続けているが、富を奪ったのは移民ではない。トランプたち大金持ちだ。再分配政策の目くらましに、敵を作って対立を煽るやり方に乗せられたヒルビリーたちは『米国を再び偉大に』と絶叫するトランプに票を投じた。ヒルビリーの夢と現実、欲望と自尊心が、今の米国を理解する手がかりになる。そんな入植者たちの歴史である。

さらに友人から送られた写真からヒントを得たとも書いていた、サンフランシスコからコロラドまで3日間車で移動したときに撮ったものらしい。

「その間がもう、日本ではあり得ない景色ばかりなのだ。真っ平らな土地に一直線の道路。凹凸があるとすれば岩山。枯れ果てた土地を横断するので、車が故障すれば死がよぎる。そしてカラカラに乾いた何もないところに、突如町が現れる。町と言っても、ガソリンスタンドがあり、ダイナー(食堂)があり、申し訳程度の買い物ができるぐらいの場所だ。米国は国土の半分が誰も住まない地域とされ、人口密度は日本の10分の1だ。この地理的な特徴が人々の心性に何らかの影響を与えていても不思議ではない。

24年の選挙結果を見ると、トランプ支持者が最も多いのは白人の非大卒男性である。このヒルビリーを想像するきっかけが、こうした風景に隠れているかもしれない」

民主党のビル・クリントンと黒人初のオバマに続いて、ヒラリー・クリントンが出馬した時、初の女性大統領誕生になりそうな勢いだった。日本でも、その報道一色だった。しかし、プアホワイトの心をより掴んだ共和党のトランプが勝った。得票数ではトランプよりヒラリーの方が多かったのだから、ある意味、民主党の戦略次第では結果も変わっていた可能性もある。バイデンで政権を奪回したあとの大統領選では、終盤に高齢のバイデンに変わり若き女性候補ハリスが対抗馬として登場したが、トランプが勝った。熱狂的な支持者プアホワイトが、より追い詰められたということだろう。

つれづれに

つれづれに:2月も5日目に

2月:→「ひなちゃんと山茶花」(SM号)

「私の絵画館13」(→「私の絵画館一覧」(2009/11~2017/1, 81編)、→「私の絵画館一覧」、2018/12/29~連載中)

 デスクトップがやられてだいぶ日にちが過ぎた。今はノートパソコンに液晶画面を繋げて使っている。壊れかけのデスクトップと作業用のデスクトップで何とかかんとか画像処理だけは使えていたが、2台とも動かなくなってそれも出来なくなった。大きな画像をブログ用に小さくする作業が出来なくなったのである。カメラの画像はブログに載せるにはかなり大きいので、画像処理する必要がある。また世話になっている人に、リモートでインストールを頼むまで作業が出来そうにない。前の画像を使うしか、方法がなさそうである。ブログ編集用のメディアライブラリーに保存されている分である。

毎年→「水仙」を採って来て、玄関やトイレに飾る。家の庭にも花が咲くが、大抵は外から採ってくる。何か所か採れる場所がある。自転車で大学に通っていた時に見つけた場所や、今の家に越して来てから散歩の途中に見つけた場所などである。今年は、採りにいけないまま季節が終わる。宮崎は花の時機が終わるのが早い。温かいからだろう。

私の絵画館2→「水仙」(No. 18:2010年1月)

 明石に住んでいた時、妻が2人目の産休に入ったとたんに、水仙郷に行こうと言い出した。2月の終わりか、3月の初めだったように思う。こちらとはかなり時差があるわけだ。電車の広告か何かで見つけて、いつか行こうと話していた。水仙は好きな花の一つでもあったし。明石大橋が出来て、もうないと思うが、淡路島の北端岩屋と明石を繋ぐフェリーで出かけた。その時の観光パンフレットの解説である。

「灘黒岩水仙郷(なだくろいわすいせんきょう)は、兵庫県南あわじ市(旧南淡町)灘黒岩に位置するスイセンの群生地である。日本三大群生地の一つ。諭鶴羽山(ゆづるはさん)から紀伊水道に続く斜面約7ヘクタールに、約500万本のニホンズイセンが自生する。」

 産むのは妻が住んでいた→「中朝霧丘」の家から近くの明舞中央病院に通うことにして、その病院で産んだ。一人目の娘がよく熱を出したので、妻をなくして一人で暮らしていた妻の父親の家に3人で転がり込んでいた。水仙郷にはその家から行ったわけである。娘の産休の間に、住んでいた職員住宅の襖に大きな水仙郷の絵を描いた。荒っぽい絵だったが、勢いがあった。引っ越しのときに持って出なかったことが今でも悔やまれる。(→「水仙郷襖絵」

家の近くを走っていた山陽電車