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つれづれに:金とダイヤモンド

 19世紀後半のダイヤモンドと金の発見は、南アフリカ国内と国外の両方に大きな影響を与えた。初めにオランダ人が来て、次にイギリス人が来てアフリカ人から土地を奪って好き勝手をしたが、入植者の勢力争いは19世紀の半ばに何とか折り合いをつけていた。肥沃な海岸線のケープ州とナタール州はイギリスが領有し、恵まれない内陸部のトランスヴァール州とオレンジ自由州はオランダ人による領有をイギリスが認めた形で落ち着ちつくことになった。そこに、ダイヤモンドと金の発見だった。しかも、金とダイヤモンドが発見されたのはオランダの領有地内だった。当然、イギリスが放っておくはずがない。両者は殺し合いを始めた。アングロ・ボーア戦争である。殺し合いはいつの世も過酷だ。イギリスの武力が優勢だったのは間違いないが、アフリカーナーも武器で応戦している。どの戦争も相手を殲滅(せんめつ)するまで戦うことはない。それに、入植者は全人口の僅か13%ほどで、殺し合いをしながら周りを見たらアフリカ人だらけだった、というわけである。両者は殺し合いをしていた手で、握手をすることにした。1910年の南アフリカ連邦はその産物だ。共倒れになるよりは、アフリカ人を搾取するという一点に妥協点を見つけたわけである。イギリス軍は戦争で女性や子供にも手を出したので、後々までアフリカーナーの遺恨はとりわけ深かったという人もいるが、遺恨を遺さない戦争は存在しない。

オレンジ自由州キンバリーのダイヤモンド鉱山

 国外での影響も大きかった。それまでインド・中国への航路の中継地の役割が強く、南アフリカ自体はさほど重要な扱いではなかったが、金とダイヤモンドが発見されて、一躍注目され始めたのである。安価な労働力を使って掘り出される金やダイヤモンドを欧米や日本が黙って見ているわけないわけがない。格好の貿易相手となった。そのうえ、欧米や日本の製品が捌(さ)ける一大市場にもなる。金やダイヤモンドで暴利を貪れるかどうかは、如何にアフリカ人労働者の賃金を抑えられるかにかかっていた。必然的に、豊かな鉱物資源に恵まれた南部一帯に、安価なアフリカ人労働者から最大限に貪れる一大搾取機構が確立してゆく。次は、その搾取機構についてである。

南アフリカ最大の都市となったヨハネスブルグ近くの金鉱山

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つれづれに:イギリス

 オランダ人のあとにやって来たのはイギリス人である。1795年、イギリスはケープに大軍を送った。インド・中国の航路の要衝地をフランスに取られる前に手を打ったのである。1652年にオランダ人が来た時と違って、ヨーロッパ社会は大きく変貌していた。奴隷貿易の蓄積資本で産業革命が可能になり、産業化が進んで大量消費の資本主義社会に向けて突き進み始めていたのである。映像の世界の話だが、アメリカのテレビドラマ『ルーツ』のクンタ・キンテを乗せた帆船ロード・リゴニア号がアナポリス港に入港したのもこの頃である。奴隷貿易の最盛期でもあり、更なる生産のための原材料と製造した商品を売り捌(さば)くための市場を求めてアフリカでも植民地争奪戦が激しくなっていた時期でもある。一番後から参戦したイギリスは、アフリカで高度な文明が発達していたエジプト、ガーナ、ナイジェリア、ケニアなど主だったところは押さえていた。大きなコンゴも英仏に渡らないならとの互いの思惑で小国ベルギーのレオポルド2世の個人の植民地に落ち着いていた。

ロード・リゴニア号

 産業社会に向かって進み出した世界は、基本構造が大きく変わっていった。何より経済規模が急激に拡大したのである。手で作っていたのを機械で造り出したわけだから当然だ。資本主義は拡大しないと廃(すた)る運命にある制度だから、これ以降規模の拡大は継続し、今も大きくなり続けている。当然社会の総体量も増えるので、それを守るための武器も同じスピードで進んで行く。信長が指揮した当時世界で最大の銃撃戦だった長篠の戦いでは、火縄銃だった。1795年のイギリス軍はマシーンガンを使っていた。しかし、その後に行き着いた核に比べればかわいいものである。核の後処理の問題を解決しないまま、アメリカは経済的に急成長した日本を叩くために広島と長崎に原爆を投下した。

ナタール駐屯地でイギリス軍がズールー軍に急襲を受けて1個中隊が全滅したイサンドルワナの戦い(↓)を扱った『ズールー』という映画は、銃と槍の戦いでイギリス軍の1個中隊が全滅した点で印象に残っている。1879年のことである。明石に住んでいるときに、地元のサンテレビで録画した映像で、吹き替えなので日本語でしか聞けないが、南アフリカの話をする時は、英語や一般教育の時間に学生に観てもらった。闘うまえにズールーの兵士とイギリスの兵士がそれぞれの国の歌を歌ってエールの交換をしてから戦い始めたのが印象的である。まだ、そんな時代だったということだろう。しかし、映画は文明の高いイギリス兵が野蛮なアフリカ人を成敗するという構図のエンターテインメントだったので、観ていて気分が悪くなった。後に改訂版が出ていたのは、市民団体か何かの突き上げがきつかったからか?

 アメリカが日本に開国を迫って尊王攘夷派を押し切ったのは、ドーンと大砲(↓)を打ち込まれたからである。産業化によって、ヨーロッパ諸国は長篠の戦いの時とはまるで違う局面に突入していた。開国を認め、欧米に追いつけ追い越せの産業化社会に突入するしか術はなかったのである。

 アメリカでも産業化の流れは加速し、奴隷制でぼろ儲けした南部の寡頭勢力の独壇場だった構図が大きく変わろうとしていた。奴隷制度を持たない北部に育った産業資本家が徐々に力をつけていき、1860年の総選挙には新しく作った共和党から産業資本家の代弁者として大統領候補を出した。リンカーン(↓)である。南部の金持ち層の代弁者民主党の一党独裁を脅かすまでになったということである。必然的に、国の利害が二分されて市民戦争が起きた。南北戦争である。

 イギリスが大軍を送ったケープでも大きな変化があった。オランダが独占していたところに、イギリスが大軍を送ったのだから当たり前だろう。オランダ人も黙っていたわけではないが、アフリカのおいしい植民地をすべて武器でものにしていたイギリス軍に勝てるわけがない。しかし、オランダも武器は持っていたわけだから、どちらかが殲滅(せんめつ)するまで戦うことは双方にとっても得策ではない。東インド会社関連でオランダ人社会でいい思いをしていた富裕層はケープには居られなくなり、家財道具一式を牛車に乗せて(↓)内陸部に逃げた。内陸部のアフリカ人には大災難だった。グレート・トレックと言う。オランダ人の大移動という意味である。

 1866年のキンバリーでのダイヤモンド発見と1886年のラント金鉱の発見で、南アフリカとオランダ、イギリスの構図が大きく変わって行く。どちらもイギリスが領有を認めていたオランダの領有地で発見されたので、事態はややこしくなった。次回は、金とダイヤモンドである。

ダイヤモンドの採掘現場、当初は地表を探していた(アフリカシリーズ)

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つれづれに:オランダ人

オランダ出島跡地:長崎公式観光サイトから

 前回の→「つれづれに:大西洋」で「1980年代に長崎に来た南アフリカの詩人マジシ・クネーネが日本人が出島にオランダ人を閉じ込めていたのは賢明だったと言ったのは侵略された側の本音だろう」と紹介したクネーネ(Mazisi Kunene、1930-)はナタール大学とロンドン大学でズールー詩を研究している。ANCのメンバーとして反アパルトヘイト運動に加わって、アメリカに亡命した。スタンフォード大学などを経て、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の教授になっている。1970年と83年に来日し、『ズールー詩集』(1970)、『偉大なる帝王シャカ』(1979)や『アフリカ創世の神話』(1981)などが日本語訳されている。私が1988年のラ・グーマの記念大会に行った時には招待されていなかった。招待者は北米に亡命中の南アフリカ人だったので、カナダに亡命中だった主催者の友人(↓)とはそりが合わないようだ。日本語の訳者も、私にはできれば避けたい人たちである。1993年に帰国し、ナタール大学の教員になっている。友人は西ケープ大学の学長に、マンデラの公募面接を受けて就任したようである。就任を報じる記事を同封して送ってくれた。2期学長を務めたあちと、アメリカの大学に移った時に手紙をもらったきりである。今はどうしているだろう?私より3歳年上で、マルコムXと同じ年の生まれである。

 オランダ人が南アフリカに来たのは1652年である。当時日本は鎖国をしていたが、オランダとは出島を通して貿易をしていた。ポルトガルと違ってキリスト教の布教活動は行わず、厳格な規則に従ったので江戸幕府はオランダと貿易に応じたというのが学校で教えられる内容だが、日本が当時は有数の武器保有国だったことや、オランダがまだ産業革命前で産業社会ではなく農業中心の社会で武力による侵略の危険性が低かったことなどの視点から語られることはない。

金持ちの意向をで東インド会社がアジアに進出していた。インドや中国までは遠く、途中で水や食料を補給する基地がたくさん必要だった。ケープタウンもその一つである。今のアンゴラの首都ルアンダにポルトガルが基地を作っていたので、そこを避けて少し南アフリカのケープタウン付近に基地を作ったわけである。ケープタウン付近に基地を作ったのは、インド洋に入る前には、喜望峰沖の難所があるという地理上の理由もあったらしい。オランダはアジアではインドネシアとマレーシアを植民地にしている。教養の南アフリカ概論の大きなクラスで、インドネシアとマレーシアの学生がかつてオランダの植民地だったという発表をしてくれたことがある。インドネシアの学生はオランダと日本を植民地時代として並べていた。今、月に一度、ズームでアフリカ系アメリカを題材に英語でのミーティングをやっているが、参加者の一人はジャカルタからの参加である。最近までオランダ人優位の意識がヨーロッパ人にもインドネシア人にもあったような話をしてくれた。作家のアレックス・ラ・グーマについてたくさん書いたが、ラ・グーマの祖母がマレーシア出身だったらしい。身近なところで、過去の痕跡を感じている。

 入植したオランダ人たちの社会は、農業が基幹だった。遠い、未知の世界に進んで渡る人は、何か訳ありな人がほとんどである。借金に追われていたか、犯罪を犯して前科があって社会に馴染めなかったか。メイフラワー号でアメリカに渡った人たちも同じである。生まれたところが居心地よければ、そこを捨ててまでどうなるか未来の予測が難しい遠くの場所には行かない。新天地を題材に書いたナサニェル・ホーソンの『緋文字』(↓)を読んだことがあるが、暗くて滅入りそうだった。アメリカの居留地で最初に作ったのが刑務所だったという記述が印象に残っている。ニュージーランドやオーストラリアでも同じだったような話を聞いた。

 東インド会社の人たちは金持ち層の使いだから一般の人より富裕層が多かった、大多数は社会からあぶれた貧しい農民だった、ケープのオランダ人社会はそんな二つの集団からなっていたわけである。キリスト教のオランダ改革派は、アフリカの土地は神からの授かりもの、アフリカ人は神から授けられた僕(しもべ)、そんな風に考えるようだから、アフリカ人は、謂われなく、その人たちの犠牲になった。18世紀の終わりに、ケープにイギリスが大軍を送ってくるまで、オランダ人は好き勝手をしていたのである。当初自分たちのことをアフリカに根ざした人という意味のAfricanderと呼んだようだが、のちにAfrikanerと呼ばれるようになった。その人たちの使う言葉はAfrikaans(アフリカーンス語)。アパルトヘイト政権を作った人たちはこの人たちの末裔で、アフリカーナーである。

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つれづれに:南アフリカ関連(2024年7月22日~)

2024年7月

5:→「つれづれに:金とダイヤモンド」(2024年7月25日)

4:→「つれづれに:金とダイヤモンド」(2024年7月25日)

3:→「つれづれに:イギリス人」(2024年7月24日)

2:→「つれづれに:オランダ人」(2024年7月23日)

1:→「つれづれに:大西洋」(2024年7月22日)