つれづれに:辞書を引け(2022年6月8日)

つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:辞書を引け

移転先の新校舎

 「辞書を引け」といつも言っていた。「学年の方針」(5月23日)に押し切られて受験用の授業をしていたとき(→「受験英語」、6月5日)は、である。大学では「辞書なんか引いてたら、読めるようならへんで」とまるで正反対のことを言った。
「英語は元々知らない言葉やから、うーんと考えて何かを思いつくもんでもないし、わからん時は辞書を引くしかないやろ」ずいぶんとえらそうな物言いである。習うより慣れろ、を意識したことはないが、全員に基本構文の参考書をを持ってもらい構文を理解して例文を覚える、それを繰り返すのが一番効果的だと思ったからだった。受験英語は言葉とはまるで別物である。

使ったのはたぶん、この「旧」版

 言葉は使うものだから、知らない言葉があれば文脈や相手の様子を窺いながら、ああではないか、こうではないかと想像したり推測したり、間違っては直し、間違っては直しを繰り返しながら、気がつけば、大体わかるようになって使えるようになっているものである。間違わずに覚えられることは、先ずあり得ない。しかし受験英語は言葉や構文を先ず理解し、それを繰り返し覚える、わからない言葉があれば辞書を見て、或いは人に聞いて意味を理解する。基本はあくまで正確に、間違わない、である。言葉を覚えるのに使う自分の中の創造力や推察力をほとんど使うことはない。
辞書を見た時点で、その意味がなんだろうという想像力は停止するので、まるで逆の作業をしているわけである。だから、受験英語だけをやって入学して来る大学生の大半は、英語が実際には使えない。英語を話そうとするときに一番に障害になるのが、間違ってはいないか、間違うと恥ずかしいと思ってしまうことだが、それ以上に、6年間も英語をしながらしゃべれないという、ある種の劣等の意識の方が影響は大きいかも知れない。しゃべってないからしゃべれなくても当然、だから間違いを気にせずに先ずはしゃべってみよう、という風にはならない。しかし、しゃべるようになるには、しゃべってみるしかない、実に当たり前のことである。
読む場合も同じだ、わからない言葉が出て来た時に辞書を引いた時点で、想像して読む、前後を考えて推測しながら読むという作業は停止してしまう。だから、大学では「辞書なんか引いてたら、読めるようならへんで」と言っていたわけである。
「採用試験」(5月8日)の準備をし始めて最初に読んだのが1026ページもあるAn American Tragedyだが、読み終えるのに3ケ月もかかった。読んだあと、このやり方で辞書を引き続けても決して読めるようにはならないとしみじみと感じた。(→「購読」、5月5日)

その経験が身に染みていたのに、授業では「辞書を引け」と大声で言ったのである。

その後、教員の教職大学院に行き、資料探しにアメリカに行っているうちに、使う必要性も生まれ、英語を使うようになった。それはそれで大変だったが、受験英語の過程でついた劣等に意識は、英語を使えるようになった時、気にならなくなる。その意識を払拭するためにだけ英語を使うのもありかも知れない。受験英語は本来の言葉とは別物である。
次は、雪合戦、か。
昨日は遠出をして「つれづれに」を更新出来なかった。清武加納の歯医者さんに定期検診に行き、市内でお茶を、平和台で餃子を、最後にハンズマンで小葱の種と樋(とい)を買った。小葱は時季外れだが、強い陽射しを避けて夏の時期にも作ってみようかと考えた。暑くなると、虫にもやられるし葱自身も消えてしまうが、日陰と水で温度を下げればひょっとしたら出来るかも知れないと思ったからだ。樋は畑の溜枡に雨水を誘導するためのものだが、自転車なので長いのは持って帰れない。短いのを試しに買ってみたが、うまく行くかどうか。どうやら週末から梅雨に入る気配だし、南瓜も伸びてきたし、柵も作ってしまわないと。いろいろすることがある割には、一日に出来る作業量もそう多くないので、なかなか季節に追っつかない。一日の限界が20キロという自転車の距離といい、思い通りに行かないものである。

餃子屋さん