つれづれに:学年の方針(2022年5月23日)

つれづれに

 

学年の方針

移転先の新校舎

 主任、担任10名、学年補佐の12人で、学年の方針を決めた。学年補佐は担任が休暇などでいない時にホームルームに行ったり、会議で議事録を取ったりする役目で、私もよくお世話になった。国語科の女性で、新任か2、3年目だった気がする。当たり前にあることだと思うが、最初に学年の方針を決めるとは考えたこともなかった。学年主任以外は20代か30代の前半で、かなり若い人たちの集団である。若い分、圧倒されるほどの熱気があった。自分からは聞くことはないので本人からか、聞こえて来た範囲内でしかわからないが、ほとんど地元では一番の進学校を出て、それなりの大学に進学しているようだった。さすがに東大、京大はいなかったが、阪大の院が二人、広島が二人、そこまでは本人から聞いた。どうして阪大の院を出て高校の教師なんやろと思ったが、担当の教授と折り合いが悪くて、と言っていたような気がする。他の学年には名大もいた。組合に入って精力的な人で、生徒にも評判がよく、丁寧な言葉遣いだった。管理職には煙たがられて、工業高校に飛ばされたと聞く。工業高校は組合に熱心な人、出来ない人、逆らう人の吹き溜まりです、と同じように飛ばされて「同僚」だった人からのたよりに書いてあった。高校に長くいたら、管理職に従わない私は真っ先に飛ばされていたのは確実である。短い間ながら飛ばされずに済んだのは、校長「てっちゃん」のおかげである。後に共産党から神戸市長選に出ているのをウェブで見かけた。当選しなかったが、公用車やコロナ騒動で不評を買った知事に比べたら、月とすっぽん、県民のためになったと思うが、雁字搦めの地盤を崩すのは難しいらしい。一人国語の人が山梨だと言っていた。ほっそりとしてひょろひょろで、風貌が太宰に似ていて、斜に構えていた。一番わかり合えそうな気がしたが、なぜか深く話したことはない。学年の方針を決めるときも、多数派の優等生の流れに沿って動いていたように思う。受験勉強もしなかった、大学で英語もせずに卒業した、母親の借金が採用試験の直接の動機、そんな私とは大違いである。
高校は地元で3番目に出来た進学校、すでに卒業生の進学先、就職先の結果も出ている。詳しくは知らなかったが、会議ではこの学校は地方の国立大学に一人、関学に一人くらいのレベルだから、と誰かが言っていた。それが出発点、ほとんどが地元の進学校出身、会議の行き着いた先は「関学に10人、どう?」だった。私には私学は範疇外だったが、まわりがたくさん行っていたので、配点くらいは聞いていた。文系で英語200、国語150、社会一教科100だったらしい。「英語で決まりそうやから、英語に力を入れたらどうやろ」、そんな流れになった。「普通にやったら、関学に一人しか入れないんやから、英語の出来るのを集めてがんがんやれば、10人くらいは関学に行けるんちゃうやろか。学校にも生徒にも悪い話やないんやない?」そんな発言が続く。若いだけのことはある、体力も熱意もあって、会議は延々と続いた。疲れ知らずである。学年主任に疲れの色が滲んでいたが、水を差せる立場でもない。最後に、私の方に矛先が回ってきた。「入学試験の英語の点数でクラス分けをして、成績のいいクラスをたまさんが持ってがんがんやる、それでどうやろ?」どうやろと言われても、大体、受験勉強してへんしなあ。関学は私学やろ、大体考えたこともあらへんし。しかし、そのかすかな声は、進学校の優等生の集団には届かなかったようである。多勢に無勢、押し切られてしまった。「関学に10人」、という希望の星になってしまったのである。どないすんねん。
小満の時期を象徴する言葉として、蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)、てんとう虫や辣韮(らっきょう)、桜坊(さくらんぼう)潮干狩り(しおひがり)などがあるらしいが、野菜を作るようになって、てんとう虫の見方が変わってしまった。茄子の天敵だった。かわいらしいてんとう虫がつくと、数日で茄子の葉っぱが筋だけになって、枯れたような茶色に変わり果ててしまう。希釈した酢を撒いても、いなくなってくれない。茄子かてんとう虫かの選択を迫られるとは思ってもみなかった。

すでにてんとう虫は食われた形跡がある茄子

 次は、ホームルーム、か。