つれづれに

▲ 「つれづれに」:「アフリカ」10月6日更新、本文はお知らせの続き

「HIV人工説」(10月4日)、→「エイズ関連」連載中↓)、→「10月1日」(10月3日)、→「秋立ちぬ」(9月24日)、→「大統領選」(9月23日)、→「ZoomAA第7回目報告」(9月22日)、「製薬会社」(9月21日)、→「多剤療法」(9月15日)、→「彼岸花」(9月14日)、→「医師の苦悩」(9月13日)、→「台風一過」(9月1日)、→「エイズ」、→「コンゴと南アフリカ」、→「腸腰筋」、→「原言語」、→「分かれ目」、→「修学旅行」、「『つれづれに』一覧」→(2023年~2018年)(2024/10/6更新)、→(2018年~2007年)、→(2006年度)、→(2005年度)

▲ 連載中「エイズ関連」(2024年8月30日~)、→「ZoomAA一覧」(2023年12月15日~)、連載済「エボラ・コンゴ関連」「南アフリカ関連」

▲ 2024年カレンダー→「私の散歩道2024~犬・猫・ときどき馬~」 

<ウユニ塩湖>(ボリビア)4号

10月:<ロバ(パオンちゃん)と犬(ウィペット)の親子>(3号)

「私の散歩道2023」、→「私の散歩道2022」、→「私の散歩道2021」

▲ これまでのカレンダーを更新しました(2024/1/7)→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2024年)」Calendar List(2004~2007は私製です

▲ 書いたもの→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」続モンド通信40、2022年3月20日)

「『ナイスピープル』と『最後の疫病』 」(2月20日)、→「アフリカとエイズ」(1月20日)、→「ケニアの歴史4:モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」(12月20日)、→「ケニアの歴史3:イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」(11月20日)

▲ →「アングロ・サクソン侵略の系譜一覧」(2018年12月~)

▲ 続モンド通信38(1月20日)→「続モンド通信一覧」(2018年12月~)、「モンド通信一覧」(2008年12月~2016年9月)

● 小島けいのblogから:

*→「<お知らせ> 2021年 小島けい個展案内」

*new!私の絵画館:→「ラッキー(ミックス犬)とブルーポピー」4月20日)英訳付き(Lucky (Mutt) & Blue Poppies in English

「観覧車」(1月20日)、→「康太郎くん(ダックスフンド)」(12月20日)、「雪之丞くん(ペキニーズ)とおもちゃ」→(11月20日)、「子馬(ジャスミン)とコスモス」→(10月20日)、→「私の絵画館一覧」(2018~)

*エセイ:「⑯:アリスの小さな“きせき”」2021年12月20日

「⑮:月は友だち?」11月20日)、→「⑭:秋にはコスモス・・・・」(10月20日)、→「⑬:中秋の名月に」(9月20日)、→「小島けいのエセイ一覧」

▲ 「書いたもの一覧」を更新しました。(2021/4/26)

▲ ホームページです。→「ノアと三太」

▲ 小島けいの絵のブログ Forget Me Not

つれづれに

つれづれに:アフリカ

 最後の山☆社会問題として:アフリカ、の第1回である。最初は、虐げられ続けている側の代表としてのアフリカについて書いておきたい。

生きるつもりもなかったので、まさか歴史を辿(たど)ってこの5世紀余りのアングロ・サクソン系の侵略の系譜について書くことになるとは、夢にも思わなかった。生きていると、何が起きるかわからないものである。その大規模な侵略行為が正当化されるわけでもないが、自分たちの身を守るためにと地域社会の諍(いさか)いで優位な立場にいるためにも侵略者側と手を結んだ一握りのアフリカ人たちもいる。実際は、持てるもの(the haves)が多くの人たちから搾り取るための、持てるもの同士の熾烈(しれつ)な闘争だったのである。その人たちは奴隷貿易でも、人種差別でも、多国籍企業による資本投資・貿易でも、利益率さえよければ何にでも見境なく手を出した。手懸けたものの効率が悪くなると、次なる手段を探しだす。人種差別もじっくり考えれば、支配者の都合で自分たちの利益を上げるために利用しただけにすぎないと気づく。本当は、人種の問題ではなく、奪う側(the robber)と奪われる側(the robbed)の間の階級問題なのである。

 しかし、被支配者階級、持たざる者(the haves-not)の大半は、自分の置かれた位置と全体の構図に気づかないでいる。持てるものたちは、狡(ずる)くて、相手を騙(だま)すことに長けている。自分たちの行為を正当化するために、ありとあらゆる知恵を絞る。そのなかで、持たざるものは自分たちが持てるものに都合よく利用されて搾り取られ続けているという構図に気づかない。法律を作るのも、作った法律に従って行う行政も、そして国民の教育も、すべて持つものの都合がいいように操作される。自分たちの都合のいい歴史を書き、それを教育制度の下で浸透させて行く。行政を守る国家官僚を創り出すのに金を惜しまず、見事に優秀なイエスマンを集める。

1987年にアメリカで、翌年に日本で上映された(試写会パンフレット)

 南アフリカでもヨーロッパ人入植者は自分たちの侵略を正当化するために白人優位、黒人蔑視の意識を捏(で)っち上げて浸透させた。自己意識の大切さを説いたステイ-ヴン・ビコは、アメリカ映画『遠い夜明け』(↑)の中で、白人の友人をアフリカ人たちだけで経営するクリニック(↓)に案内したときに、やや自重気味にその友人に呟(つぶや)く。

「あんたたち白人が黒人にさせようとしている仕事の資格を取ろうとしていた学生の頃に、白人じゃなければいい仕事じゃないんだと突然思い知ってね。学校で読んで来たただ一つの歴史は白人に作られ、白人に書かれたものだった。テレビも車も薬も、すべて白人によって発明されたものだ。フットボールさえも、ね。こんな白人中心の世界で、黒人に生まれたことで劣等の意識を抱くなんて信じるのは難しいだろうね。ここでは、患者と職員の大抵の食べものは自分たちで作ってる」

 アメリカではビコよりも前に、公民権運動の只中にいたマルコム・リトゥルは言葉を押しつけた人たちのまやかしを指摘し、自己意識の大切さを説いた。ニグロが、人類をコーカソイド、モンゴロイド、ニグロイドと分類した文化人類学用語に由来しており、侵略を正当化し、白人優位を浸透させる西洋列強の手先だった文化人類学者の捏っち上げであると断言した。

小島けい挿画

 「なかでも、特に質の悪いごまかしは、白人が私たちにニグロという名前をつけて、ニグロと呼ぶことです。そして、私たちが自分のことをニグロと呼べば、結局はそのごまかしに自分が引っ掛かっていることになってしまうのです。……私たちは、科学的にみれば、白人によって産み出されました。誰かが自分のことをニグロと言っているのを聞く時はいつでも、その人は、西洋の文明の、いや西洋文明だけではなく、西洋の犯罪の産物なのです。西洋では、人からニグロと呼ばれたり、自らがニグロと呼んだりしていますが、ニグロ自体が反西洋文明を証明するのに使える有力な証拠なのです。ニグロと呼ばれる主な理由は、そう呼べば私たちの本当の正体が何なのかが分からなくなるからです。正体が何か分からない、どこから来たのか分からない、何があなたのものなのかが分からないからです。自分のことをニグロと呼ぶかぎり、あなた自身のものは何もない。言葉もあなたのものではありません。どんな言葉に対しても、もちろん英語に対しても何の権利も主張できないのです。(『マルコムX、アメリカ黒人の歴史を語る』、Malcolm X on Afro-American History, 1967)→「自己意識と侵略の歴史」(「ゴンドワナ」19号、1991年)

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 エイズ関連の連載を始めたのは、自分の辿った軌跡からヒントを得て、小説の形で再構築するためである。再構築したものをフィクションにどう組み替えるか、それがこの先の作業となる。連載は先に→「エイズ」、→「ウィルス」、→「血液」、→「免疫の仕組み」を書き、☆→「HIV増幅のメカニズム」、☆→「エイズ発見の歴史」のあと、☆社会問題として:アメリカ(→「CDC」、→「国際エイズ会議」、→「医師の苦悩」、→「多剤療法」、→「製薬会社」、→「大統領選」、→「HIV人工説」)を書き終えた。今回からは、最後の山☆社会問題として:アフリカ、で、1回目はアフリカについて書いた。次回はアフリカ人に聞け、である。

つれづれに

つれづれに:HIV人工説

 今回は、HIVの人工説である。HIVはアメリカが生物兵器を造る過程で、故意または偶発的に漏れたウィルスである可能性が高いという話である。エイズ関連の最後の3つ目の山の前半、☆社会問題として:アメリカ、の締め括(くく)りとなる。大きな問題だが、不確定な要素が多く、現実的に見て今となっては立証する術はない。しかし、抗HIV製剤(↑)が人類史上最も利益を生む薬となり、その周辺に蠢(うごめ)く人たちのやってきたことを考えると、心に留めておきたい問題の一つである。そうでないと、歴気から何も学ばないで終わってしまう。爛熟(らんじゅく)して滅亡期に入っている資本主義制度のど真ん中にいて、大量生産と大量消費を止められないのだから、せめて少しでも滅亡の時期を遅らせるように、歴史から学んで少しは流れに抗(あらが)ってみるのは悪くない。何もしないよりは、ましだろう。

 HIVの人工説を言い出したのは、エイズ患者が出る前に、癌の治験に協力していたアメリカの医師(↑)たちである。つまり、政府やCDC(米国疾病予防センター、↓)などの遣り方を批判する内部告発だったわけである。既得権益にしがみつく集団は、その人たちを異端派として排除し続け、その内部告発をもみ消してしまった。

 私がHIV人工説が荒唐無稽(こうとうむけい)ではないと思えたのは、アメリカのレイモンド・ダウニング医師の「アフリカ人のことはアフリカ人に聞け」という提言に従ってアフリカ人に耳を傾けた時である。ナイジェリア人が編集長(↓)になってからNew Africanでは、アメリカ人医師の内部告発を継続的に取り上げていた。治験に協力してエイズ患者と向き合った医師のデータに基づいた主張に、私は信憑(ぴょう)性を感じた。

 アフリカ滞在が長いダウニング医師は、著書(↓)で臨床面や社会学的な面からだけではなく、実際にエイズ患者を取り上げた小説19冊を紹介している。ちょうど文学と医学の狭間からエイズを覗(のぞ)くというテーマで科学研究費を交付されていたので、何より貴重な資料となった。一番心を動かされたのは、病気を病因や症状だけからみるのではなく、社会や環境や歴史などから、より包括的に病気をみるべきだと力説しているところだった。

 南アフリカの大統領タボ・ムベキ(↓)がエイズはHIVだけが原因とは言えないと主張したのと同じ路線である。欧米のメディアはムベキを非科学的な野蛮人と痛烈に批判し続けた。激増する感染者を前に世界保健機関(WTO)の例外条項を使ってコピー薬を製造し始めたとき、製薬会社はアメリカの副大統領を使って圧力をかけて、→「大統領選」まで左右した。2000年のダーバンの→「国際エイズ会議」でも、ムベキを槍玉にあげて相変わらず非科学的で頑固な野蛮人と批判し続けた。

 次回から最後の山☆社会問題として:アフリカ、の連載に入る。たまたま修士論文に選んだ作家(↓)がアフリカ系アメリカ人で、必然的に奴隷貿易で連れて来られたアフリカに目を向けて、歴史を辿(たど)ることになったが、その成り行きがエイズを理解するのに役に立つことになるとは思ってもみなかった。この500年余りのアングロ・サクソン系の侵略の系譜の中で、侵略者側は自らを正当化するために白人優位・黒人蔑視を浸透させてきたが、意識の中でも現実の生活の中でも、その系譜を今一度問い直す機会の一つになれば嬉しい。

小島けい画

つれづれに

つれづれに:2024年10月1日

<ロバ(パオンちゃん)と犬(ウィペット)の親子>(3号)

 今年も10月1日が過ぎて行った。私の誕生日である。医大で出会った既卒組の一人からユッスー・ンドール(↓)を紹介してもらった。文字を持たない口承の世界のグリオ(griot)の末裔だそうである。グリオはかっこよく吟遊(ぎんゆー)詩人と翻訳されることもあるが、その村の歴史を記憶して語り継ぐ人たちである。『ルーツ』の作者アレックス・ヘイリーは7世代を遡り、ガンビア川を遡って祖先クンタ・キンテの生まれ育った小さなジュフレ村を訪ねた。その村のグリオの口から、ある日森に樹を切りに出かけた時に奴隷狩りに捕まり、奴隷船でアメリカに売られて行ったと、直接祖先の名前を聞いている。

 80年、90年代に欧米に紹介されて世界的な歌い手になった。来日もしている。学生がコピーしてくれたJokoというCDは、90年前後に宮崎の本屋にもおかれていた。その学生は一つ目の大学を卒業したあと働いている時に、有休を取ってコンサートに出かけていたそうである。1990年の昭和女子大でのコンサート(↓)の模様はNHKBSで放送された。コンサートでは「ネルソン・マンデラ」などを歌った。その後の英語の授業で紹介したら、東京の私大を卒業した学生が「このコンサートに行きましたよ。ほら、一番前で手を振ってますよ」と映像を観ながら、教えてくれた。

 そのユッスー・ンドールと誕生日が一緒だと紹介したら、次の年にお誕生日おめでとうございますとメールが届いた。その後も、何回かそんなことがあった。誕生日前に後期高齢者用の保険証が送られてきているが、ユッスー・ンドールは私より10歳若い。世界的に売れたアフリカ人の歌手はロンドンかパリかニューヨークなどを拠点にする人も多いらしいが、首都のダカールにスタジオを持って活動しているらしい。日本ではホンダのステップワゴンのCMで、結構有名になった。1994年にニューヨーク州ソーガティーズで開催されたウッドストックロックフェスティヴァルにも招待されて、Copy Meを歌っている。その頃、非常勤なのに旧宮崎大(↓)英語科の学生の卒業論文の手伝いをしていた。最初アフリカ系アメリカの作家で書きたいということで研究室に来たが、いつの間にかブラック・ミュージックにタイトルが変更されていた。なぜか最後まで付き合うはめになったが、その学生がバイトしていたビデオショップでそのフェスティヴァルを録画してくれた。頼んだわけではなかったが、ボランティアへのお礼だったかも知れない。父親が働かない人で学費をバイトで賄って卒業した後、東京で就職した。今ごろ、どうしているんだろう?最初で最後の卒論指導である。医学科はゼミがないので卒論指導をしたことはないが、統合後手伝った日本語教育の修士課程と新設された医学科の修士課程で、一人ずつ修士論文の相手をすることになった。

まさか75歳の日が来るとは思いもしなかったが、先がそう長くないのを、少し意識し始めている。一度諦めたとき、後で悔いることだけは避けたいと思って生きてきたので、あまり悔いはないが、そんなにきれいに割り切れるものでもないらしい。気持ちが切れないうちに、5冊目を書いておくとしよう。

つれづれに

つれづれに:秋立ちぬ

妻の通う馬場の馬サンダンスを描いて「秋立ちぬ」の題に

 10日ほど前に→「彼岸花」を摘んで来たが、30℃以上の暑さが続く中では、とても秋になったとは言えなかった。しかし、昨日から急に秋になった。秋立ちぬである。

小島けい画

 旧暦では季節が始まるのを「始まる」ではなくて「立つ」と言う。旧暦の呼び名には農業を中心に生きて来た人たちの息遣(づか)いが漂う。秋が始まったではなく、秋立ちぬである。今年の旧暦の4季の始まりは 立春(2月4日)、立夏(5月5日)、立秋(8月7日)、立冬(11月7日)である。普段、土を触っている感覚ではこの辺りの旧暦と新暦の差は2週間か3週間、しかし最近は6週間ほどに感じられる。感覚の世界だが、恐らく温暖化のせいだろう。

 この前の台風(→「台風10号」、8月28日、→「台風10号続報」、29日)で瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ、↑)はだいぶ雨風(あめかぜ)に叩(たた)かれたが、何とか勢いを取り戻した。しかし、一度やられると時期がずれて、最初の勢いには戻らない。折角かなり好調に推移して最初の何個かは大きくなってお裾分けして喜ばれただけに、少し残念である。このまま盛り返してくれればいいが、また台風に遣(や)られる確率も高い。自然には、克てない。

 茎を一本一本丁寧に麻の紐(ひも)で結んだピーマン(↑)は生き残っている。腰を痛めて苗を植える時に肥料をやれなかったので、今ひとつ大きくならないが、何とか追肥をしているので、予想以上に生き残るかもしれない。去年は霜がなかったせいか、2本ほど夏前まで生きていた。

丸莢(さや)オクラ(↑)も生き残った。倒れかけの分もあったが、まっすぐにして開いていた葉を結んでいた紐(ひも)を解くと、葉が勢いを取り戻した。去年は終わりが早かったが、勢いがある。普通のオクラより実が大きいので、3本もあれば一日分は充分にある。粘り気のあるオクラは使い勝手があるので、有難い。胃壁を守るだろうと、毎日納豆と山芋をすって食べているが、オクラを加えると、粘り気が増す。どちらも、朝方に花が咲く。瓢箪南瓜は濃い黄土色、オクラは薄めの黄色である。実が大きくなるだけあって、花も大きい。夕方に写真を撮ったので、花は開いてなかったが、何年か前に撮った写真(↓)がある。見事な花である。

 毎年この頃にオクラの苗を買いに行く。種からも苗を作るが、芽が出て大きくなるまでに時間がかかるので、大きくなった苗を先に10本ほど買う。12月には食べられる。まだまだ虫が活発に動く時期なので、何もしなければ見事に葉はやられる。希釈した酢と焼酎(しょうちゅう)をこまめに撒(ま)く必要がある。

三日前にいつもの店にブロッコリーの苗を買いに行ったら、閉店していた。苗や花と野菜を少々取り扱っていた店だが、薄利多売に傷みやすい生もの、あの安い値段でよう続いてるなあと思っていたら、やっぱり閉店してしまった。他にも系列の店舗が宮崎駅の近くにあったけど、あそこももうないやろなあ。

 それで仕方なく、少し高めでもと思いながら清武の量販店に行ってみたら、12個セットの小さな苗があった。初めてみかけたが、他よりは安い。2セット24本の苗を買って来た。3日ほどかかったが、ブロッコリーの苗(↑)は何とか植え替えた。こまめに希釈した酢と焼酎をかければ、年末には無事食べられそうである。

 玄関先の西条柿(↑)も少し色がつき始めた。1か月もすれば、干し柿に出来そうである。色づいてくると、熟すのは早い。短い期間に作業をしないと、熟した柿は干しても落ちてしまう。手間も暇もかかる。しかし、陽に干すだけで、何とも言えない色と艶が出る。太陽の力は、凄い。

秋立ちぬ 西条柿も 色づき出した      我鬼子

7年目になった1個(小島けい画)