つれづれに

つれづれに:桜まつり

「桜とノア」

「桜」桜が満開である。妻が出版社から装画を頼まれたころ、桜の枝を拝借して来て、絵にしてもらった・装画の他にも、カレンダーにもよく使った。

遠藤康『さくら殺人事件』(小島けい装画、1994/8/4)

 木花神社では3月30日(土)に桜まつりをやったらしい。たぶん、今年初めての催しである。神社にはそれほど桜の樹はないので、何個所かをである。前の日に、若い人が何人か竹を切り、提灯を階段や境内に吊す作業をしていた。

 高台の公園での夏祭りも同じように力を合わせて準備しているんだろう。コロナで3年ほど中止になっていたが、去年は8月に復活させたようだ。開催の掲示板は見たが、実際には見ていない。花火の音も聞かなかった。

金曜日に白浜に行ったときも、折生迫の県水産試験場の桜も満開だった。

帰りに加江田の果樹園に寄ったときも、加江田川の橋の手前の沿道の桜並木もきれいに花を咲かせていた。果樹園では秋の初めに小蜜柑(みかん)と(はっさく)が出たあとしばらくお休みで、そのあと日向夏(ひゅうがなつ)が出る。見た目のよくないのもあるが、味は深みがあっておいしい。丹精込めて作っているのが伝わって来る。金曜日も、東京の息子夫婦に送る日向夏を買いに行った。柑橘類が好きらしく、楽しみにしてくれているようだ。

明石に住んでいたときに、妻と二人で吉野の奥千本(↓)に行ったことがある。昼から出かけたので、西行庵の近くの芭蕉の碑「露とくとく 誠に浮世 すすがばや」を見た時には薄暗くなっていた。(→「無題」 、1978)

明石からでも、奈良は遠い。国鉄で大阪に行き、どこかで近鉄に乗り換えて吉野に行ったと思う。相当な時間がかかった。昼から出かけたので、すぐに夕暮れになった。うす暗くなっている中で遠目に見る中千本(↓)も、幽玄で見応えがあった。結婚したすぐあと辺りだったと思う。結婚を決めてすぐにいっしょに暮らし始めたのはよかったが、次の年には娘が生まれたので、二人の時間が短かった。その頃、授業やホームルームやクラブにと、時間に追われる毎日だった。今ならもう少し時間の使い方も違ったと思うが、その時はそれが精一杯だった気もする。

白浜の鍼灸(しんきゅう)整骨院で揉(も)んでもらいながら「観音池に電話をかけて開花状況を聞いたら、まだ3分咲きということでしたね。桜並木もものすごいきれいですよ。ロープウィもあって、山肌一面の桜も見事です。観覧車もありますね」と言うのを聞いた。 観音池をウェブで調べたとき、堀切峠も桜(↓)の名所に上がっていた。堀切にはよくでかけるが、桜の名所という認識はなかった。来年くらいは、桜を見にでかけるのもいいか。

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つれづれに:4月になった

<犬(もえちゃん)とアザミ> (SM号)

 今日から4月である。カレンダーにある→「薊」(あざみ)はまだ盛りではないが、高台の公園に登る坂の土手で前に見かけた。また薊の季節かと思ってからしばらく経つ。一昨日、来年用の種に必要な分の花だけを残して、大根の花(↓)をかたづけた。畑の通路が白い花で覆(おお)われて、歩くのが難しくなったからである。

 それに、そろそろ瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ、↓)の柵の準備もしないといけない。だいぶ前から、竹取の翁(おきな)になって、今年は3メールの太い竹を切り出して持って帰っている。2年続きで台風で傾いたので、今年は太い竹とその支えの木の杭を添えてみるかと思いついたのである。3層くらいの棚を作り、その上に南瓜を這(は)わせてみようと思っているが、うまく行くかどうか。南側と西側半分ほどの金木犀の樹の上を這うように、橋渡しの竹もつけてみるか。去年は南西の端に拵(こしら)えたとまと用の温室の上に這って、最終的にはそこにも数個の実がなっていた。樹の間にぶら下がって大きくなる実もそこから落ちる実も、結構な数になる。去年瓢箪南瓜の原産が南アフリカだと知って、少し親しみも増した。近所のお裾分けや、個展に来てくれる人に送るのにも重宝している。都会では、結構高い値段がついている。出来れば柵の下に西瓜(すいか)を作ってみたいが。去年は西瓜も瓜(うり)も芽が出ずに、うまく行かなかった。諦めて今年は苗を植えてみるか。去年は1本300円にしり込みしてしまったが。

 金曜日は晴れていたので、折生迫(おりゅうざこ)の水産試験場で桜の写真を撮ったあと、海の写真も撮った。青島港の船置き場を過ぎた辺りから試験場を過ぎると、突然眼の前に海がわーっと広がる。その視界の変化も、海岸線の雰囲気や道路の曲がり具合なども気に入っている要因なんだろう。

 平日だったが、青島の参道は人がたくさんだった。大きな観光バスが停まっていたし、それ以外にもたくさんの車があった。すっかりコロナ騒動以前に、客足はもどったようである。

 海岸にはサーファーが多かった。揉んでもらいながら、いい波だったので、午前中に木崎浜に入ったと教えてもらった。青島ビーチは沖に波を消すコンクリートの塊を沈めてあるので、あまりいい波は来ないらしく、初心者向けだとも教えてもらった。波に乗るまでの練習といったところか。たまに波に乗っている人を見かけるが、極めて短い時間で波に消えている。サーフィン教室用にはうってつけの波のようである。

手前は青島ビーチ、ドームの辺りが木崎浜

 自転車で白浜に通えるのは有難いことである。調子が悪くなると、その有難みは増す。おまけに、きれいに晴れていたし、風は少々出てはいたが気持ちよかった。そして、いつものようにみらいはし(↓)で一枚写真を撮って帰ってきた。

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ZoomAA5第5回目報告

 5回目は、西アフリカの教育・音楽とアフリカとアフリカ系アメリカのゴスペルに絞った。男子は15歳で大人と見なされ、自分の小屋をもらう。「ルーツ」の映像をみてもらった。15歳の少年たちに指導する人が語りかける。儀式のあとは村総出で出迎える。ドラムと歌声に乗って、女性たちが踊る。大人たち全員が子どもたち全員を大切に育てているのがわかる。ドラムは森で木を切り、獣皮を張って拵(こしら)える。ゴスペルはソウェト・ゴスペル・クワイア(↑)とディオンヌ・ワォーウィック(↓)の曲を聴いてもらった。(YT)

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つれづれに:共著

 最初の本は共著だった。もちろん本は初めてだったし、大学の職探しの最中でもあったので嬉しかったが、後に思わぬ選択を迫られるとは想像もしなかった。

1980年の初めにアフリカとアフリカ系アメリカに関する小さな研究会(→「黒人研究の会」)に入った。「修士論文」をアフリカ系アメリカ人で書くことにしたので、いろいろ知りたかったからである。それに、大学の職には口頭発表や印刷物の業績も要る。例会で発表して、会誌に書く機会もあると聞いた。

 1960年代のアフリカの独立や60年代、70年代のアメリカの公民権運動の時は盛会だったらしいが、私が入った時は、一年に一回の会誌発行と月例会の開催がやっとの地味な研究会だった。会員数も少なくなっていたようで、私よりも20近く年上の人たちが中心だった。会長や会誌の編集担当や会計は、毎年ほぼ同じ人がやっていて、月例会に出る若い会員はそう多くなかった。別に押し付けられたわけではなかったが、しばらくすると会誌の編集と例会案内の作業をするようになっていた。今と違ってパソコンはなかったので、当時流行(はや)りのプリントゴッコで印刷して万年筆で住所と宛名を書いた。送る葉書が100枚ほどだったとは言え、手間と時間はかかった。当時は明石市の→「中朝霧丘」に住んでいて、毎回近くの郵便ポストに歩いて投函しに行っていた。会誌(↓)に最初に原稿が出たのは1982年で、それからしばらく毎年書かせてもらった。

 研究会では6月に神戸で全国大会を開催し、毎年違う企画を組んでいた。ゲストにアフリカ人作家を呼んだこともある。一つ目のシンポジウムが終わったあたりから、既に終えていたアフリカ系アメリカのシンポジウムと、次回に予定しているアフリカのシンポジウムをまとめて本にしようという話が持ち上がった。会誌の編集を担当していた先輩が「わしが出版社に話してみる」と言い出した。

私はシンポジウムに直接参加はしていなかったが、読んでいた作家の作品が独立前のガーナへの訪問記(→「リチャード・ライトとアフリカ」)を例会と会誌で発表していたので、アフリカとアフリカ系アメリカを繋(つな)ぐ形で参加することになった。非常勤の私以外は助教授か教授で、全国規模の研究会で役員をしている人も多かった。大抵は著書もあり、大学用の教科書もあった。

本が出たあと、出版社の人と接することが多くなり、出版事情を聞いた。出版社の人は本は自分で書い取るか、教科書は自分で学生に買ってもらうかが当然だと考えていたが、研究会の人は売るのは出版社で、費用も出版社、印税は入らないのか?という人たちの集団である。出版社の人と出会う前は、私も研究会の人と同じだったかも知れないが、自分が関わってみると、そうも言っておれなくなった。会員は自分では積極的に売らないし、出版社は出したものの売れなので在庫を抱えるし、という両者の間の溝は深かった。大学の職探しで一番世話になった先輩か出版社か、どちらかを選ぶしかない、そんな気持ちになった。もちろん、誰にも何も言えなかった。しばらく後に、黙って研究会をやめた。

共著は医学科と非常勤2箇所の英語の授業で課題図書に入れ、学生に買ってもらう工夫をした。強制されたわけではないが、他の人が作り、売れないで在庫でたまっていた英文教科書や翻訳本も課題図書に入れた。時間はかかったが、出版社の在庫はなくなった。学生に強制はしなかったが、一冊でも多く本を読んでもらう機会も作りたかった。学生の時は、漠然とテキスト作りや翻訳はやりたくないと思っていたが、出版事情を聞きているうちに、気がつけばその渦中にいた、というのが実際である。

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)