つれづれに

つれづれに:比較編年史1949③アメリカ

躑躅の季節である

 比較編年史3回目である。1回目→「①1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを書き、2回目→「②1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況について書いた。今回はその年のアメリカについてである。

アメリカの1949年はNATO(北大西洋条約)締結である。戦争のあと荒廃したヨーロッパをまとめて、ソ連を中心にした東側諸国に対処するためである。同じ年に中国は毛沢東が実権を掌握し、共産党の1党独裁の共産主義路線を歩み始めた。東西冷戦の火花が飛び交うことになった。

アメリカは1898年の米西戦争で国防総省の描く環太平洋構想を始めている。日本との衝突したのも、その環太平洋構想の延長上にあった。アメリカの黒船で開国を余儀なくされた日本の進む道は欧米に追いつけ追い越せだった。その行き着く先が、欧米との経済的、軍事的な衝突であることは誰にでも容易に想像できる。マニラのあとオキナワを狙っていたアメリカが日本と戦争するのは規定路線で、遅かれ早かれ衝突は避けられなかったということだろう。原爆を落として、無条件降伏までついてきた。敵に攻撃されたら仕返しはしてやる代わりに、駐留するアメリカの軍事費の半分は持てというのが日米安全保障条約だった。マニラ→オキナワのあとの標的はソウルだった。

1898年の米西戦争はアメリカとスペイン帝国の戦争で、アメリカはカリブ海及び太平洋の旧スペイン植民地に対する管理権を獲得した。このときスペインを駆逐して手に入れたフィリピンのマニラは、国防総省の環太平洋構想の手始めだった。

 ペンタゴンは合衆国バージニア州にあるアメリカ国防総省の本庁舎のことである。五角形の建物(↑)の形状に由来し、国防総省を指して使われるらしい。

私が米国防総省ペンタゴン(The Pentagon)の環太平洋構想について初めて知ったのは『広島からバンドンへ』(1956)と岩波新書を読んだときである。インドのナタラジャンという人が書いている。神戸の高架下やセンター街や元町商店街の古本屋のどこかで、たまたまその新書を見つけた。入学当初は経済的に厳しかったが、家庭教師を頼まれるようになってから少し余裕が出て、古本屋を回る回数も本の数も増えていった。そのときに買った本の1冊である。

よく行った古本屋のあった元町の高架下

環太平洋構想では、マニラの次はオキナワだった。太平洋戦争は構想通りに進んだというわけである。

アメリカは南米でも好き勝手していたようだが、環太平洋では1890年代の米西戦争でフィリピンを、第2次大戦でオキナワを、そのあと朝鮮戦争でソウルを軍事的に制圧したというようなことを書いていた。その当時はよくわからなかったが、後に全体像が見えだすにつれて、ベトナム→ソマリア→アフガ二スタン→イラン→イラクと続いている構図が見えてきた。その都度、新しい兵器を開発して軍需産業は国の基幹産業になってしまっているので、常にどこかで戦争をし続けないと経済が持たない状態にまできている。日本に売りつけている戦闘機も1機何兆円もするらしい。なんとも凄まじい展開である。奴隷貿易の資本蓄積で速度が増した資本主義が、ここまで来てしまったということなんだろう。

 ヨーロッパ諸国もアジア諸国もかなりの打撃を受けた。ほぼ戦場にならずに済んだアメリカの一人勝ちだった。アメリカには環太平洋構想の他に、アフリカやアジアに進出するための戦略があった。多国籍企業による資本投資と貿易を軸にした新しい形態の搾取体制の再構築だった。アフリカやアジアに進出するためには宗主国の独占支配体制を崩す必要があったからである。北大西洋条約はそのためにもアメリカには必要だった。開発と援助の名目をつけて新体制は発足した。復興を果た日本と西ドイツも後に加わるわけである。

その意味では1949年の北大西洋条約は、アメリカ主導の戦後体制の出発でもあったわけである。同じ年に中国を掌握した中国共産党とソ連が西側諸国と対立していくことになる。

アメリカ国内では、戦争景気で潤った中産階級が戦後も中心になって豊かな暮らしを維持していくようになる。それがリベラルを中心にした中産階級主体の民主党の実態である。高学歴、高収入の層は人種の壁も越えて、黒人の大統領まで出している。しかし、その層を主体に政策を進めてきたので、その恩恵に与からない貧しい人たちはその体制を崩す側に投票した。接戦区だけでなく、ほぼ南部の全州を抑えた共和党トランプ政権の誕生である。ビジネスマンで傲慢で偏った人のようで弊害を強調されているが、2次政権で、支持層の人気も依然に高い。生産した富が平等に分配されない資本主義が生んだ体制であるとも言える。膨れ上がった消費、軍需産業などを考えると、もう戻りようがない。更に貧富の差は拡大しそうだから、やっぱり大崩壊するしかなさそうである。人類は今までも生き延びて来たのだから、生き残る可能性は高いとは思うが、何とも言えないくらい、後味の悪い話である。

公民権運動も動き出している。1954年の公立学校での人種隔離は違憲と言う最高裁の判決が出て、公民権運動が活発化して行く。アジア・アフリカの独立運動に向けて、世界は大きなうねりを起こし始めていたのである。

最高裁判決で揺れたアーカンソー州セントラル高校で(『アラバマ物語』より)

つれづれに

つれづれに:比較編年史1949②日本

<猫(ノラちゃん)と(ノアちゃん)>(2号)

小島けい「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬」5月

 5月になっている。樹々の緑が陽にまぶしい。何年か前に宮崎神宮の植木市で買った日向夏の苗を植えたが、今年初めて花をつけている。実が生ってくれると嬉しいが。同じように買って来た柿も瑞々しい。去年は生り年でたくさん実をつけたものの、雨が続いて陽に干せなかった。初めての経験である。日照時間が少なかったせいで、柑橘類の出来が悪く、実の出回りがかなり悪い。今年は陽が照って、水分をたくさん含んだおいしい柑橘類が出回ることを祈っている。

去年はたくさん実をつけてくれたんだが

 比較編年史2回目である。前回の→「①1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と、1949年に私が生まれたということを書いた。今回は私の生まれた1949年の日本についてである。

戦争が終わってから4年である。無条件降伏を受け入れたのが8月15日だから、私の生まれた10月の頃は、終戦から丸4年が過ぎていたということである。東京のように爆撃の激しかったところは焼け野原だったし、広島と長崎は原爆で地獄図絵だったので、復興が最急務だったはずである。ただ、東京は首都でもあるので、多大な予算が投入され復興が最優先されて、かなりのスピードで経済などが回り始めていただろう。

 戦地から復員した人たちがそれぞれの生活を始め、子供も生まれ始めた。私のところも2年前、1947年に女の子が生まれている。私の姉である。父親が戦地から戻って結婚をし、普段の生活が始まっていたということだろう。私の最初の記憶はたぶん幼稚園に入る前であることは前回書いているので、記憶の欠片について書く前に、両親や住んでいた場所や町の様子などを分けて書いておきたい。

日本の当時の様子だが、かなりの範囲に及ぶので、今回は全般的な経済や政治の状況に絞って書いておきたい。私や周りの家族の生活と深い関係があったからである。

戦勝国は敗戦国に赴いて占領政策を実施する。日本にも、連合国軍機関が派遣された。第2次大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するためである。連合国軍最高司令官総司令部(↓、旧字体は聯合國軍最高司令官總司令部、General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers=GHQ)が置かれた。極東委員会の下に位置し、最高責任者が指名され、連合国軍最高司令官(Supreme Commander of the Allied Powers、SCAP、スキャップ)と呼ばれた。日本では、総司令部( General Headquartersの頭字語であるGHQ=ジーエイチキュー)や進駐軍という通称が用いられた。45年から52年まで駐留していたので、私の生まれた1949年にはまだGHQが政策を実施していたことになる。

GHQは先ずは国内経済の立て直しを図った。改革を進めるために公職追放を行い、「軍国主義、好戦的国家主義」に分類した政治家や軍人、警察官、官僚など約6000人から職を奪った。教育分野でも、1945年10月末には約7000名の軍事主義的な教職員が追放された。公職追放によって社会的制裁を受けたのは、最終的に一般市民も含めて約21万人と言われている。1946年から1948年にかけて東京裁判(極東国際軍事裁判)が行なわれ、日本を戦争に駆り立てた多くの政治家や官僚、警察幹部、軍人らが起訴され、最終的に陸軍大将東條英機ら7名が死刑を宣告された。

 1945年から1948年の約3年間のGHQによる軍国主義者の徹底的排除により、経済復興の機運が高まり、1949年3月にGHQは「経済安定9原則」の声明を発表した。① 予算の均衡、② 徴税強化、③ 資金貸出制限、④ 賃金安定、⑤ 物価統制、⑥ 貿易改善、⑦ 物資割当改善、⑧ 増産、⑨ 食糧集荷改善である。

当時、物価が高騰してハイパーインフレが起こっていた。ジンバブエやコンゴのハーパーインフレも、人ごとではなかったのである。日本の場合、原因は戦争終結による生産力の低下で、軍需産業がなくなり、国内の工場や各種機械、船舶などの多くが焼失して、街は失業者で溢れかえっていた。食料品や日用品が慢性的に不足し、国内需要が供給を大きく上回って急激に物価が上昇していたわけである。高齢者の中には、この当時の急激な価格変動の記憶が残っている人もいるはずである。

ハーパーインフレに戦後の財政悪化が輪をかけている。戦争での被害は約650億円(現在の貨幣価値で約800兆円)とも言われており、戦後復興の資金は国債で調達された。日本銀行が大量に通貨を発行したことで日本円の価値が急激に下がり、モノの値段が相対的に上がったわけである。このインフレを終息させるためにGHQは「経済安定9原則」を元に経済政策を実施した。

その効果もあり、1949年度の国の財政は黒字化され、高騰した物価もこの年の初頭をピークに下落し、安定するようになった。日本政府は海外貿易を円滑に行なうためにこの年の4月に1ドル=360円という単一為替レートを設定した。アメリカの試算では1ドル=330円程度が実態に即していたようだが、日本の輸出力を高めて経済復興できるように、より円安となる1ドル=360円となった。この日本経済に有利な為替レートは1968年まで続き、高度経済成長に大きく貢献した。

1949年の内閣総理大臣は民主自由党の吉田茂(↓)で、内閣官房長官は佐藤栄作だった。 通商産業省(現経済産業省)が発足し、運輸省に代わり公共企業体日本国有鉄道が発足している。

 新制大学が発足し、湯川秀樹が日本人で初めてノーベル賞を受賞してたのもこの年である。私の生まれた場所の南の市内にあった鐘紡の非繊維事業が分社化され、鐘淵化学工業が発足している。

 そんな状況が取り巻く中、私は兵庫県播州地方の小さな町に1949年の10月に生まれたわけである。県や市や、生まれた家があった周りについては次回以降に、少しずつ書くつもりである。

<猫(ノラちゃん)と(ノアちゃん)>原画(小島けい画)

つれづれに

つれづれに:比較編年史1949①私

薊の盛りである

 比較編年史の1回目である。私の生まれた年から1年毎に、同じ年に様々なところで同時代的に起こっていたことを比較してあれこれ書いてみようと思っている。もちろん、私の最初の記憶はたぶん幼稚園に入る前だからずいぶんと前のことで本当にそうだったのかも怪しい。おまけに、戦争帰りの父親はまだマレーシアのジャングルにでもいたのか、怒鳴るばかりで怖いだけの存在だった。まったく話したことがない。だから、母親や住んでいた時に接した人たちから判断したものだから、ある意味、フィクションに近い。その後も、若くにすべてを諦めたつもりで自分から世の中を見ようとしなかったので、当時接した人たちから補足するのも難しい。

薊(小島けい画)

 小説を書くと決めたのは10代の時だが、書きたい気持ちは今もずっとかわらずにある。小説を書く空間を求めて大学に場所を見つけたが、赴任する何年か前に出遭った出版社の人に会っていて書き出せなかった。赴任したとたんに、テキストの編集や雑誌の記事や本や翻訳を次々に言われて、気がつくと定年退職の頃になっていた。退職後再任されたあともしばらく余韻があって、小説を書き出したのは、その人が亡くなったあと数年してからである。

生まれた所の近くの川に架かる橋

 その過程で、自伝的スケッチを書いているとき、同じ頃周りの日本の社会はどうだったんだろうとか、アメリカでは、アフリカではと考えるようになった。大学では研究業績も求められるので研究者のふりをして、外部資金ももらったりしていた。その方が大学でも居心地がよかったからだし、ある程度お金が使えたからである。東京や神戸に行ったりする旅費も、周りの学生に出す謝金も、使うパソコンなどの機器や消耗品にも使えて便利だった。

生まれた家のすぐ南の国道2号線

 ただ、最初の出発点がアフリカ系アメリカの作家だったので、祖先が奴隷として連れて来られたアフリカ、その中でも一番やられた南アフリカやコンゴなどの歴史も追うようになって、外部資金の最後のテーマがアングロ・サクソンの侵略の系譜だった。一応大学の校務もあったし、特に教授になってからはすることも増えた。幸い、最初から研究室に学生もたくさん来てくれていたし、文字通りすることばっかりだった。

南アフリカ地図

 しかし、やれることにも限りがある。歴史と言っても、日本の歴史も少し齧っただけだったし、アメリカやコンゴや南アフリカにしても高々知れている。その範囲の中での、編年史ということになる。

南北戦争直前のアメリカ地図

 今回は、編年史を書こうとした経緯と、1949年に私が生まれたということを書いた。私の記憶の欠片が増える小学校くらいから自伝的スケッチの風景も増えると思うが、それまでは家族や家の周りや住んでいた街について書くことになりそうである。私以外については、ウェブでインプットして昇華させながら、書こうと思う。私のフィクションである。

薊:「私の散歩道2009~犬・猫・ときどき馬」5月

→小島けい「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2024年)」

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つれづれに:マッサージ

白浜の定位置、晴れた春の日

 比較編年史のシリーズ連載の前に、前回は庭の→「畑4月下旬」の様子を書いた。今回は今の家に引っ越しして来てから見つけた白浜のマッサージについてである。

白浜海岸から北の方向

 去年の今頃に腰を痛めて、余計にマッサージの有難みを実感した。生きても30くらいまでかとすっかり諦めて余生が長いなあと生きていたのに、急に母親の借金で、定収入のために高校に教員になった。英語はまったくしてなかったので、1年間は無理をして、体が悲鳴をあげていた。そのとき世話になたのが、マッサージである。痛かったが、普通に生活できるようにしてもらった。宮崎に来てからも、手入れのために定期的に兵庫まで通っていたが、マッサージをしてくれる人が先に逝ってしまった。こちらでも指まで入れて揉んでくれる人を散々探したが、見つからなかった。

北から見た晴れた日の青島

 見つかる時は、ひょんなことからのようだ。ある日、温泉に行った帰りに、鍼灸整骨院の看板を見て、指まで入れて揉んでくれませんかと言ったら、指まで入れて揉んでもらえた。それから白浜にマッサージをしてもらいに通っているというわけである。予約制で宣伝はしないで口コミだけなので、飛び込みは初めてですよと、後から教えてもらった。白浜にあるホテルサンクマールの日帰り温泉に行っていた頃で、湯の温度が下がってそろそろ行くのを辞めようかな思っていたところだったので、その前に看板が目に入ってよかったとしみじみ思っている。

ホテルサンクマール

 コロナ騒動のときも、週に1度のペースで通えたのはよかった。人ともしゃべる機会が減っていたので、マッサージをしてもらいながら、いろいろ話してもらえたのも幸いである。サーフィンのことや、最近はまっているゴルフのことは、元々関心はなかったが、少し柔軟にみられるようになっている。教えてもらったおかげだろう。

青島を南側から見た光景

 普通のペースで行けば、自転車で45分くらいかかる。急げば35分、ゆっくりなら小1時間である。体にはちょうどいいようだ。腰を痛めてからは、車で送り迎えしてもらう期間もあったが、自分の力で行けるのは何よりである。1時間程度の散歩はまだ十分できていないので、すこし急ぎ気味に自転車をこぐのが今の適度な運動になっているようだ。左の太腿の筋肉も戻ってきている。この前、北に1時間20分ほどの距離を行ったが、後に少し疲れが残った。

白浜海岸から北の方向

 自宅のある高台から出発して、海岸線を走るコースは恵まれている環境だろう。もちろん、沖縄や南太平洋などの海のきれいさとは違うが、見慣れた瀬戸内海に比べれば、きれいな海だ。途中、今は田植えが終わった田圃のあるところを通る。自転車で自力で通える日々が続いてくれることを願うばかりである。

 加江田の山が背景の田圃風景

次回からは、比較編年史を書き出せそうである。

青島海岸、サーフィン初心者用向けの波だそうである