つれづれに

つれづれに:陽の光

柿を干すとき、陽が充分に照ると艶も増す

 晴れた日が続き、少しづつ普段の生活が出来るようになって、日常と陽の光の有難さが身にしみる。一昨日の白浜行きも日常の一つで、庭を潰した畑での作業もその一つである。

中古で今の家を買ったとき、南側の庭はこじんまりとして手入れが行き届いていた。真ん中に小高い円形の花壇があり、名前はわからないが垂れ下がった何本もの枝に小さな可憐な薄紫の花が無数に咲いていた。きれいな整った庭には申し訳ないと思ったが、10年ほど住んだ借家についていた畑の黒土を運び込んで南東の端に積みあげた。小さな畑を作ったのである。円形花壇の樹は、東側の小さな花壇に植えかえた。陽当たりはよくない場所だが健在で、毎年薄紫の花が咲く。

元々中古の家は息子の友だちになってくれればと家に来てもらった子犬のラブラドールが気兼ねなしに住める、が第1条件だった。兵庫から宮崎に来てからずっと学校とは合わずに大変な思いをしていたが、何とか入った高校は更にきつかったようで、学校から戻ったときの目つきが日に日に悪くなっていくのがわかった。少しでも慰めになればと、ラブに登場してもらうことにしたのである。

 息子も家では自由に過ごせるので、ラブともすぐ仲良しになって毎日楽しそうに遊んでいた。そして、何とか卒業までもった。受験勉強はしないけど、友だちとクラブで行ってもええかと言って入った高校を、出席日数ぎりぎりで無事卒業した。大学は東京を選んだので、新しい家には住んでいない。ラブといっしょにいられたのも僅(わず)かな期間だったが、息子には有難い存在だった。

 入居する前に、庭でラブが走り回れる場所(ドッグラン)を当然優先して確保した。つまり、畑の部分を除く20坪ほどの4分の3を、ドッグランにしたのである。家の中でのトイレを嫌がったので、ドッグランで走り回ったあと、用を済ませていた。トイレ用に、白浜の行き帰りに砂浜から砂を持ち帰って、かなり入れた。犬が早死にしてしまったあと、庭はそのままにしていたが、しばらくしてから近くの雑木林などから土を運んで、ドッグランの部分も畑にした。

 妻の願いを入れて南側は全面に、東側と西側は一部に金木犀(もくせい)を植えた。量販店で30本注文したら、結構しっかりとした樹が届いた。植える作業もなかなかだったが、周りから見えるのが嫌な妻の望みは叶(かな)ったわけである。金木犀はぐんぐんと大きくなり、3~4メートル近くになった。そうすると、南側の地面は金木犀の陰になって、畑をしても野菜は育ち難い。それで、チェーソーを買って来て、背の高さくらいに切った。大仕事だった。すべて、成り行きである。勢いでやったとは言え、今の年齢では、とても望めない作業量である。

 

今回、雨の日が続いて干し柿がうまく行かず、陽の有難さを思い知ったが、胡瓜(きゅうり)の苗でも同じ思いをしている。夏野菜の胡瓜は春先に植えると一番勢いを感じるが、今年は秋口に勢いのある苗を生産者市で見かけたので、10本買って3ケ所に植えた。1番陽当たりのいい南向きの部屋のすぐ脇(↓)に4本(2本は写真の手前にあり、写っていない)

 瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく)の東側(↓)と北側(↓)に3本ずつである。雨続きがなかったら、よく育って今頃は食べきれないほどの実がなっていただろう。しかし、実際には何個か小さな実がなっている程度、柵の北側の2本は枯れてしまっている。柵に伝っていた南瓜の茎と葉が、晴れの少なかった僅かな陽を遮(さえぎ)ったわけである。干し柿に続き、胡瓜でも陽の光の重みに気づかされた。それでも、これからはしばらく晴れの日が続きそうなので、実をつけている何個かも大きくなり、霜が降りる前まで生産者市で胡瓜は買わずに済みそうである。

下の写真が柵の北側、右の2本が枯れてしまった

 オクラもそろそろ終わりかけ、それでも毎日2、3個はなってくれているので、毎日食べられている。残してある大きな2つの実は、来年の種のために枯れるまで置いておくつもりである。1つの実に何十と種が詰まっているので、2つで十分に事足りる。茎が伸びて、ずいぶんと高くなった。今までで一番高いかも知れない。手間暇を惜しまなかったら、ここまで持つわけである。たぶん、毎年同じ場所は嫌うので、来年は東側に植えることになるだろう。

つれづれに

つれづれに:白浜行き

 晴れた日が続き、少しづつ普段の生活が出来るようになって、日常と陽の光の有難さが身にしみる。今日はもう11月20日、旧暦の立冬(りっとうー11月7日、木枯らしが吹き、冬の気配を感じる頃)を過ぎ、明後日22日はもう小雪(しょうせつ、木々の葉が落ち、遠くの山々には初雪が降り始める頃)、12月7日には大雪(たいせつ、寒さもだんだん厳しくなり、雪が多くなる頃)が、21日には冬至(とうじ、一年で夜の長さがもっとも長くなる頃)が始まる。カレンダーを送った大阪唯一の村千早赤坂村に移り住んでいる友人は返信の文尾に「よいお年を」と書いていた。腰を痛めたのが6月だから、半年は経ったわけである。マッサージでは、ずっと車で送り迎えをしてもらったおかげで、何とか少しずつ日常が取り戻せている。久しぶりの白浜は、生憎(あいにく)、曇り空だったが日常の海(↑)があった。(→「腸腰筋」、6月17日)、→「オーバーワーク」、6月18日)

 自転車で小一時間かかる白浜まで週に一度マッサージを受けに通うのも大切な日常である。距離が長いので、周りの景色を確かめながら、自転車を走らせる。最初は高台の公園の前を横切って坂を南に下りながら、今日も加江田の山(↑)がきれいなあと思う。この日は曇り空でくっきりとはしていなかったが、風の強い日はくっきりと鮮やかである。雨が上がりかけたころの霞(かすみ)がかかった山と田圃(たんぼ)の組み合わせも、幽玄な感じがする。退職後に再任されたあとに使っていた研究室の3階からも、加江田の山が見えた。下のキャンパスから聞こえる学生の声と山の組み合わせも、なかなかだった。7階にあがると、より見晴らしがきく。

 加江田の山の次は、田圃の中の道を通る。今は稲刈りもとっくに終わって、田起こしの作業まで動きはない。大きなドームの見える辺りから、大きな道を南に下る。途中、総合運動公園近くにラーメン屋さんがあり、今日は人が入ってるやろか?と心配する。客入りがよくないのに、よくもまあ営業を続けられるものだ。もう、何軒も店をやめている。それから、小さな坂を下って青島への旧道に入る。この辺りも、芒(すすき、↑)だらけである。普通はプロ野球の巨人2軍や青学大や実業団の駅伝チームなどが停まるホテルのある所から、海岸線に出る。歩道・自転車道を曽山寺浜から青島の浜に進んで行く。昨日は、そのまま旧道を進んだ。子どもの国から青島を通り過ぎた。青島には人出(↓)が戻っているようで、大きな駐車場には6台の大型バスが停まっていた。1時半くらいである。そのあとスーパーに寄ってパンを買い、白浜に着いた。

 帰りは青島港を過ぎた辺りから海岸線の小道に入り、青島を通った。3時半くらいだったが、参道への人出は、この時間にしては多い方だろう。コロナの時の人出の無さを見ながら通り過ぎていたので、余計にそう思う。植物園から参道沿いの店屋の辺りにも、それなりに観光客(↓)が歩いていた。気温も下がり、風も少し強かったが、サーファーも何組かいた。海岸線は風が強いので、サーファーを見ながら旧道に入り、家の方に向かって自転車を漕いだ。有難い一日だった。

白浜に行く 辺りの芒も枯れかけている    我鬼子

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つれづれに:グレートジンバブエ

ジャカランダの咲くジンバブエの首都ハラレの街

 バズル・デヴィドスン(Basil Davidson, 1914–2010)が「アフリカシリーズ」の冒頭で石造りの遺跡の中を巡りながら威圧感を感じるとグレート・ジンバブエを紹介しているのをみたとき、まさかのちに実際に家族といっしょにその遺跡を訪ねるとは思ってはいなかった。ビデオ録画を初めて観たのが放映された1983年、私たちがジンバブエの遺跡に行ったのは1992年の9月である。首都のハラレで借家を借りて家族で暮らすのはなかなか大変で毎日が一杯一杯だったが、折角来たのだからどこかに出かけようと子供たちが言い出して、腰を上げたのである。日本を発つ前も大変で、予防接種を宮崎では受けられなかったので鹿児島まで一泊で出かけたり、小学校に挨拶に行ったり、予想外の出来事もあって気持ちも重たかった。候補地は2つ、ビクトリアの滝かグレート・ジンバブエか。ビクトリアの滝は滝の前でアフリカ人としゃべりながらデヴィドスンがヨーロッパ人が初めて滝を見た時の模様を語っていたので、一度は行ってみたい気持ちもあった。国の一番北側にあって滝の北側はザンビアである。1981年に初めてアメリカに行った時は3大瀑布の一つナイアガラの滝にも行っているので、比べてみたい気持ちもあった。ただ、湿地帯でマラリア蚊にやられる危険性が高い。ワクチンを打ちに病院に行くのは勇気が要る。グレート・ジンバブエは「アフリカ・シリーズ」で観たときから行ってみたかった。こちらの方は、幸い30年ぶりの大旱魃でマラリヤの心配はなさそうである。結局、遺跡に興味があった息子の意見を尊重することにした。

 「アフリカシリーズ」の冒頭で、デヴィドスンは自分たちの侵略を正当化するために捏(ねつ)造した白人優位・黒人蔑視の意識の具体例として、ジンバブエの遺跡をあげている。

「100年余り昔、金鉱を探して渡り歩いていたカール・マウスと言うドイツ人がいました。彼はこのアフリカ南部の奥地にまで足を踏み入れ、不思議なものを見つけました。あれです。あれが白人の目に触れたのはこの時が2度目でした。彼は知るべくもありませんでしたが、このジンバブエの遺跡こそ、ナイル川より南では最大の石造建築でした。一体誰が、何のためにアフリカの奥地にこんな大きなものを建てたのでしょうか?

 アフリカの本格的な研究が始まったのはつい最近、第2次大戦後のことです。そして、今では思いもよらない事実、つまりここに強大な黒人王国があったことがわかっています。この暑い壁の奥深くには、かつて歴代の国王が住んでいました。隠れたその存在は神秘性を増したでしょう。王は単なる支配者ではなく、宗教的力も兼ね備え、民衆の守り手として崇(あが)められていました。アフリカの真ん中の石造りの都市、発見当初アフリカにも独自の文明が存在したと考えるヨーロッパ人はいませんでした。文明などあるはずがないという偏見がまかり通っていたのです。初期の研究者はこれをアフリカ人以外の人間が造ったものだと主張しました。果ては、ソロモン王とシバの女王の儀式の場だという説まで飛び出したものです」

 グレート・ジンバブエのあるマシンゴはハラレの南の方角(↓)にあり、ハラレ空港からプロペラ機で小一時間かかる。外国人向けの観光ツアーがあったので予約した。朝早い便だったので、タクシーを呼んで空港まで出かけた。運転手の時間があまり当てにならないので、友だちになった借家に雇われてたショナ人のゲイリーにタクシーの予約を頼んだ。

赤い丸印が首都のハラレで、そこからまっすぐに伸びた先がマシンゴ

 遺跡は観光の目玉の一つである。プロペラ機から見下ろす大地は乾ききっていた。こんな乾いた大地に人が住めるんやろかというのが素朴な疑問だった。ジンバブエ大学で仲良しになったアレックスに聞いたら、昔からこんな中で生き延びてきましたから、術は知ってますよ、ということだった。水不足は明らかだったが、大学やホテルの周りでは芝生のスプリンクラーがくるりくるりと回っていた。ハラレに滞在した3ケ月足らず、一滴の雨も降らなかった。新聞では水不足だが、観光業を維持するためには外国人のサーヴィスも欠かせないというジレンマに陥っているという記事を載せていた。空港にはホテルの迎えの車が待っていた。昼食はホテルで取ってということだった。遺跡ではショナ人の英語のガイドがついて解説をしてくれた。家族は3人とも英語を聞いてもわからないので、ツアーのグループから少し離れて別行動だった。

 デヴィドスンは遺跡を観て圧倒され、威圧感を感じたと言っていたが、私は威圧感を感じなかった。日本の奈良の東大寺のような大きな伽藍のある木造建築と比較したせいかも知れない。技術的は、石を積んだだけである。1980年に独立したとき、国名をローデシアからジンバブエに変えた。ケープからの入植者セシル・ローズの名前が入った名前も変えたかったのだろう。新しいジンバブエの国名はジ(大きな)インバ(家)ブエ(石)、大きな石の家ですよと空港に迎えに来てくれた人が、独立のアーチをくぐるときに教えてくれた。

次回は「アフリカシリーズ」関連の続き、探検家である。

つれづれに

つれづれに:ルーツ

 →『ルーツ』は強烈だった。理屈抜きである。初めて観たのは、非常勤1年目に世話になった大阪工大(→「大阪工大非常勤」)のLL準備室(「LL教室」)のモニター画面で、1983年のことである。アフリカ系アメリカ人の作家アレックス・ヘイリー(↓、Alex Hayley , 1921-92)のRoots(1976)が原作で、1977年にアメリカで、翌年に日本でも放映された。

 私は高校の教員をしていた。10代で、生きても30くらいかとすっかり諦めてから、テレビも見なかったので、まったく知らなかった。大学でもバスケットボールの関西リーグの試合で大阪府立体育館などで大阪に何度も通ったが、万国博覧会が開かれているのも知らなかった。ただ、古本屋は回っていたので、翻訳本(↓)は毎回みかけた。

 英語の授業で毎年使ってきたので、最初程の強烈さはなくなっていったが、それでも強く印象に残っている場面がいくつかある。主人公クンタ・キンテが生まれたとき、クンタが受けた教育、奴隷狩り、奴隷船(↓)の船倉(hold)、甲板(deck)、船長室での交渉、奴隷市(auction)、バイオリン弾きのフィドラー(fiddler)との出遭い、クンタの最初の逃亡、鞭打ち、クンタの2回目の逃亡、鍛冶屋のトム、ジュフレ村訪問などである。

★ クンタは西アフリカガンビア川沿いの小さなジュフレ村に生まれた。父親はオモロ、母親はビンタ。当時は立った姿勢で子供を産んでいたようだ。陣痛がくると、上から垂らした紐を握りしめていきんでいた。韓国ドラマか中国ドラマでも同じようなシーンを見た記憶がある。病院で寝た姿勢で産むのに慣れているせいか、新鮮な感じがした。子どもは村全体で育てる、それが当たり前に行われる環境で、クンタは両親と祖母に大事に育てられる。

★ 15歳になったとき、自分一人の小屋が与えられる。そして割礼(簡単な包茎手術)の儀式のあと、外からの敵から村を守る戦士(warrior)として村の教育係(wrestler)から集団で教育を受ける。一人で狩りをしたり、レスリングなどの訓練が行われる。クンタは勇敢で、教育係に気に入られる。後に、同じ時期にその教育係と奴隷狩りに遭って奴隷船に積み込まれてしまう。

★ ある日、クンタは奴隷狩りに遭った。祖母(配役:マヤ・アンジェロ、2枚上の写真の向かって右)に言われて母親に贈るドラムの材料を探しに、森に入っていた時である。一度、銃で鳥を打つ白人を見て、奴隷狩りを見たと村人に報告したことがある。その白人の指揮の下に動く4人のアフリカ人に捕まえられた。白人が奴隷を捕まえるという漠然とした通念が見事に打ち砕かれた。実際にアフリカ人がアフリカ人を捕まえていたのである。映画には出て来ないが、白人奴隷狩りに協力して利益を得たアフリカ人がいたわけである。

 修士論文で取り上げたリチャード・ライト(↓、1908-1960)が西アフリカのゴールド・コーストを訪れたとき、独立運動の指導者クワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah, 1909-1972)はチーフと呼ばれる反動的知識人とも戦わなければならなかったと指摘している。同胞を白人奴隷商に売り飛ばして私腹を肥やした連中である。(「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』、1985年」“Richard Wright and Black Power,”1985)

小島けい挿画

 公民権運動でマルコム・リトゥル(↓)が演説で指摘した白人に媚びを売る黒人指導者層(Negro leaders)と同類である。街頭で説くマルコムは口から生まれたのか思うほど、演説がうまい。激しいことこの上ないが、ただしい。顔を見ながら聞く人たちの心を打つ。知識人に応援する人が増えたのも納得が行く。私のケニアの友人も、命日に友人たちと集まって、マルコムを偲んでいた。まだ、集まっているんやろか?ケニアで、それとも日本のどこかで?

小島けい挿画

 国名もガーナになり、エンクルマ(↓)はアフリカ人で最初の首相になった。1957年のことである。クンタたちは砂浜に枝で組み立てられた囲いの中に放り込まれた。淡い恋心を抱くファンタと、気に入られていた教育係も奴隷狩りに遭っていた。

小島けい挿画

★ クンタの放り込まれた奴隷船の船倉(hold)は地獄図絵だった。手首と足首を鎖(shackles, fetters)に繋(つな)がれたまま、何日も大西洋の上を進む。垂れ流しの船底は悪臭が漂い、硫黄華でいぶしても臭いが取れない。荷(cargo)を積み込む前に、ガンビアの海岸で奴隷狩りと船長が値段の交渉をしている場面がある。今回が最初の奴隷船なので、奴隷狩りが主導の遣り取りである。ラム酒を片手にしゃべる奴隷狩りと交渉する。

奴隷狩り:何人の黒人を船に積み込むつもりですか?

船長:170人ですよ、ガードナーさん。

奴隷狩り:170人?あんたらは簡単なことのようにお思いで。そうじゃ、ありません。海岸にはあちこちこんな船だらけ、こんな競争、見たことありませんよ。ちゃんと奴隷は捕まえるか、チーフから買うかしますよ。あいつら、まるで海賊で。

船長:値上げ交渉の時間も気持ちもありません。金額は後ほどに。問題はあんたが170人の健康な黒人を捕まえるか、買うかして、このロードニア号の船倉を一杯にできるかどうかですよ。

奴隷狩り:捕まえるか、買うかして、船倉を一杯にして見せますよ。

 船倉では絶望するクンタを必死にレスラーが励ます。違う言葉をしゃべるもの同士、片言の言葉を教え合う。そして、運動不足を解消するために甲板に出たときに、気を窺って、首にかけている鍵を奪うことを確認し合う。

★ 全員が甲板(deck)連れ出されて運動のために無理やりダンスをさせられた時、一人の少女がマストに登って海に飛びこんだ。辱めを受けるよりは大海原に身を投げて、死を選んだわけである。一等航海士は船員を殴って責め続けた。その隙に、鍵を奪って、奴隷と船員の争いが始まった。

 クンタとレスラーは、戦士の訓練を実践に移して対抗する。クンタは一等航海士をナイフで仕留めるが、船員の放った大砲で、レスラーはじめ多くのアフリカ人が死んだ。クンタは生き残る。

★ アナポリスに停泊した船長室で奴隷商との交渉が始まる。クリスチャンの船長は最初の航海を終えても苦い思いしかないが、交渉相手は快活である。

奴隷商:船長、船旅はうまく行きましたかね?
船長:一等航海士と船員が10人、それにボーイが1人‥‥私の乗組員のうち3分の1以上が。
奴隷商:それはお気の毒に、その人たちの魂に神の御加護がありますように。しかし、貿易の大元は何と言っても商品ですからね、商品ですよ。ところで船長、海の上では積み荷の加減はどうでしたかね?
船長:船旅では3000本の象牙が何とか事なきを得ましたよ。
奴隷商:船長、冗談がとてもお上手ですな、3000本の象牙とは。
船長:ガンビア川の河口で、170人の奴隷をロード・リゴニア号に乗船させました。
奴隷商:それは、ゆったりとした積み方で。それで?
船長:そのうち、港に着いたときの生き残りは98人でした。
奴隷商:98人。そうですか、それでは、死んだのは3分の1以下ですな。入港した時に、生き残りが半分以下でも、まだかなりの利益があった奴隷商を私は何人も知っておりますよ。おめでとうございます、船長。
船長:一刻も早く積荷を下ろしたいのですがね。
奴隷商:直ちに船を曳いて行って、岸壁にお着けしましょう。
船長:船倉で燃やす硫黄の粉をぜひご用意いただきたい。もう一度、きれいになった船が見たいのです。
奴隷商:それは、もう、船長。それから、船長はまた、ロンドンへ煙草を運んで行かれることになりますね。
船長:そして、ロンドンで‥‥。
奴隷商:ギニア海岸向けの貿易の品を、それから、またガンビア川に向けて。
船長:そして、もっとたくさんの奴隷を‥‥。
奴隷商:その通りですよ、船長。かくして天は我らにほほ笑みかけ、黄金の三角で点と点を結ぶ。煙草、貿易の品、奴隷、煙草、貿易の品など、永遠に限りなく。誰もが得をして、損するもの誰もなし、ですよ。

★ 奴隷市(auction)クンタは首輪をかけられて、牢から出され競りにかけられる。奴隷主が荘園で使う奴隷を買いに、競りに詰めかけている。着飾った家族も物見遊山である。クンタはレノルヅ農園に買われて行くことになった。荘園主は老人奴隷フィドラーをクンタの躾係に指名した矢先、クンタが老人の手を振り切った。一悶着あったものの、観念したクンタは捕まえられて農園に連れられて行く。フィドラーとの最初の出遭いである。先に競りにかけられたファンタが隣のカルバート農園に売り飛ばされたのをクンタは聞いていた。

★ 農園では何かにつけてバイオリン弾きのフィドラー(fiddler)にかわいがってもらう。言葉っも教わった。しかしある夜、農作業中に見つけた農具の鉄片で足枷を切ってファンタに会いに行く。フィドラーに見つかるが、仕置きを覚悟でクンタを送り出す。フィドラー役は有名なルイス・ゴセットJr.である。渋い演技が光る。

★ 隣の農園にファンタに会いに行っただけだが、荘園主の雇った奴隷狩りがクンタを追いかける。夜が明けたとき、奴隷狩りに捕まって以来の自由を感じるが、奴隷狩りが連れる猟犬の声に驚く。結局は捕まえられて、鎖に繋がれ雪解け道を引っ立てられていく、最初に逃亡である。

★ クンタには、見せしめの鞭打ちが待っていた。フィドラーは荘園主に鞭打ちしないでくれと必死に頼み込むが、奴隷監督は容赦なく鞭を奮う。鞭の革が背中に食い込む。元逃亡奴隷が鞭打ちの跡は奴隷だった証しだと奴隷体験記の中で書いていた。言うことを聞かない奴隷を調教する役目の白人を奴隷調教師と呼んでいたようだが、この農園では奴隷監督が兼ねていたようだ。クンタではなくトビーだと、鞭打つたびにクンタに迫る。結局、クンタはトビーになった。吊るされていた紐を解かれたクンタをフィドラーが慰める。強烈な場面である。

★ 鞭打たれて散々な目にあったクンタは、再びファンタに会いに行く。すでに、成人になっていた。逞しい。ファンタとは久しぶりだった。一夜を共にしたあと、いっしょに北に逃げようと誘うが意外な答えが返って来た。生きて、温かい所にいたいのよ、とファンタが声を荒げたとき、外の奴隷狩りに気づかれてしまう。走って逃げたものの、今度は馬に乗る二人がかりで網をかけられて捕まり、足先を切断されてしまう。苦しい思いに耐えて、何とか生きのびる。ずっと看病してくれた女性と結婚して、女の子キジーが生まれた。2世代目である。その女の子は成人して男の子を産んだ。ジョージと名付けられ、闘鶏師になった。3世代目である。

★ ジョージの子トム(↓)が4世代目である。鍛冶屋になり、一家でテネシー州のヘニングに移り住む。地元の有力者と渡りあった。南北戦争の前後で、再建期に得た投票権も反動期に剥奪されたり、時代の波に翻弄される。娘が5代目で結婚相手が木材会社で成功する。その息子が6代目で、大学の教授になった。その息子が「ルーツ」の作者アレックス・ヘイリーである。

★ ヘイリーは作家になった。マルコムに取材した際のスポンサーリーダーズダイジェストからアフリカ行きの資金を得、西アフリカの楽器に詳しい大学教授から情報を得て、ジュフレ村訪問に成功する。村の歴史の語り部グリオ(griot)から、7世代前のクンタ・キンテの名前を聞く。奇跡が起きたのである。そのヘイリーの執念が「ルーツ」になった。そして、テレビドラマになった。

 大学の英語の授業では「アフリカシリーズ」と「ルーツ」の映像や音声が基軸になった。言葉は元々使うためのものだから、実際に使えるようにするためにはもちろん、聞く、話す、読む、書くが必要である。それと、恐らく間違いを繰り返しながら覚えていくということも不可欠である。その意味では、間違わないようにというのが基本のクラスルームイングリッシュとは相反するものだ。アメリカに行ったときに何度も実感した。間違わないようにとか、間違ったら恥ずかしいという意識が、返って邪魔になる。書いたり、読んだりして楽しむのも一つのあり方かも知れないが、使うために修得しない言語は重荷になる場合が多い。配点の比重の高い受験英語はその傾向が強い。英語そのものを嫌いになってしまう。大学の授業で何度も出くわした光景である。個人的には大学の購読のような授業は嫌いではないが、言葉は使うために習う方が自然だと思う。

奇しくも初めてSFに行った頃に最初のエイズ患者が出た

 教員の側からすれば、他の人の書いたテキストを学生に買わせて、読んで訳すだけの授業は手抜きにしか見えない。宮崎に来た年の後期から近くの大学に非常勤を頼まれて行くようになった。クラスサイズは50人以上と大きかった。前の年に落とした再履修の学生も加わるからである。あるとき、教室に入ったら、前の席にいた女子学生がびくっとするのが見えた。気になって聞いてみたら、また髭のたくさん生えた人が来て、びっくりしてしまったんですと言う。文学のテキストを読んだらしいが、重箱の隅をつつくように質問攻めにあい、かなりひどいことをよく言われたらしい。耐え切れずに行けなくなって落としたということだった。その教員とは廊下で会う程度だったが、うちの学生、英語できないでしょう、と何回か言われた。半分以上が教授だったのでその人もそうだったが、学生のこと馬鹿にする前に手抜きせんとちゃんとせいよな、と言いたかった。なるほど、あいつに虐められたというわけか?大丈夫やで、髭面でも全然ちゃうから。映像や音声も多いし、楽しんでや。単位、まかせといてや、と言ったら、にっこりと笑ってくれた。教育学部の学生で、今頃教師をしている確率は高い。少しでも役に立ったとすれば、嬉しい。

 「ルーツ」は、しかし、奴隷貿易の資本蓄積が制度の進展を早めてしまった資本主義社会においては、皮肉なことに、超金持ち層の投資の対象でしかない。資本のある金持ちしか映画で儲(もう)けられないシステムになっている。「ルーツ」が売れれば売れるほど、投資したものの儲けは増える。哀しいと言うか、痛し痒(かゆ)しである。ずいぶんと長くなった。次回はいよいよ「アフリカシリーズ」である。ジンバブエの遺跡から始めることにしたい。