つれづれに

つれづれに:アメリカ

 画像編集ソフトを使ってブログ用に画像を小さくできないので、また写真はメディアライブラリーからである。 2月は1日から5日まで「2月も〇日目に」の題で「つれづれに」を書いた。6日目を書き始めたとき、そうだトランプのことを書いていたんだと思い出して、トランプの続き→「トランプ3」を書いた。実は今の小説でその辺りを題材にしたオンラインでの集まりの話を書いているので、その修作の気持ちも多少はあった。

 アメリカについては、戦争後しばらくして生まれたせいか、反発やらがやたら強かった。よく知っていたわけでは、もちろんない。何かの影響を受けたわけでもない。そう感じていたんだろう。生まれた頃にサンフランシスコ条約が結ばれて、日米安全保障条約が結ばれていたとは夢にも思わなかった。そもそも、生きることそのものを諦めた時点で、世の中についての認識が自動的に停止していた。アメリカも何もない。受験勉強が出来なくて、辛うじて入学した大学の→「夜間課程」の初日に、安保反対断固粉砕と正面入り口の急な階段に朱色の鮮やかな文字が書かれているとは、そっちの方も思いもしなかった。今から思えば、激烈な新入生歓迎の挨拶だったのに、その時は気づきもしなかった。もちろん、前の年の東大紛争で自民党体制にこてんぱんにやられたあおりを受けて、同級生全員が留年したことを知る由もなかった。

授業のあった講義棟、木造2階建て、背景は六甲山系(大学HPから)

 その後、どこでどうなったかはしっかりと覚えているが、アメリカの歴史をやるとは思わなかった。英文でアフリカのテキスト(↓)を書いて、3章にA Short History of Black Americans(→「アフリカ系アメリカ小史一覧」)を書き、教養の授業でアメリカ黒人の歴史と音楽という授業も担当した。時間割の編成のためだと思うが南アフリカ概論ほど人は集中しなかった。それでも毎年、200人とか300人の受講の申し込みがあった。定年退職した年には300人ほどを受け持ったが、大抵は成績をつけるのに責任が持てる150人に制限させてもらった。コロナ騒動があった年の後期には、コロナで大変だった新入生のために、いつもの1コマに加えて同じ内容のクラスを他に2つ持った。どのクラスも100人以上の参加者があったので、最後の年は300人以上の学生にアメリカ黒人の歴史と音楽の授業をしたわけである。100人以上のリモートのクラスを3つも経験させてもらった。構内から締め出されて家に閉じこもることが多かった1年目だったから、ほぼ全員が授業に出ていた。普段では考えられない異常事態だろう。少し早めに始めて、一人一人の名前を呼び、顔を見ながら挨拶を交わした。普段は出席を取らないが、名前を読んで下さいと言う学生が余りにも多かったからである。入学したとたんに学内にも入れずに、それだけ、不安な中で過ごしていたということだろう。あとで聞いてみると、まともに時間割通りに対応できた教員はそう多くなかったようだ。しかし、オンラインで授業を受けるだけの毎日を過ごす1年生が、2年目、3年目だと同じような反応をしたかは、怪しい。長い間、無気力な学生の多い中で授業をした直感だった。不真面目というわけではないが、意欲を持たない人が多いので、あるとき、授業をやめて将来の希望を聞いたことがある。7割ほどのが公務員になって安定した生活が出来ればいいですと答えていた。 今はメールもあまり来ないが、その時は担当学生の数も多くて毎日何百というメールが届いていた。可能な限り、返事を出したと思うが、ずいぶんと遠い過去のような気がする。何とも不思議な歳月だった。Covid19の最盛期である。

 まさかアメリカの歴史をやるとは思わなかったが、よく持って30くらいまでかと余生を持て余していたのに、急遽教員採用試験を受けることになった。受験でも大学でも英語はしなかったので、採用試験に通るには英語をするしかなかった。2年留年して2回目の4年生の前期に受験することになった。試験まじかだったので、通るはずもなかった。しかし、取り敢えず受けてみるかと決めて受験して、卒業した。2回目の4年では出席するだけで単位が取れる英会話だけを残していたので、卒業は問題なかった。受けてみて、何が必要かを体で感じた。それで、準備を始めた。学割のことも考えて、ついでに大学院も受けていたので、両方通るには、高校か修士で困らない程度の英語が出来ればよかった。それで、大学の授業で会った2人の研究室を訪ねた。訪ねて、読めて書ければいいのかと感じた。一人が紙切れにアメリカ文学何冊かの筆者と本のタイトルを書いてくれた。その足で、図書館に寄って、本を借りた。どれも分厚かった。最初に読んだのが、1026ページの『アメリカの悲劇』だった。「日本の悲劇」でなくてよかったと、軽口を叩いている場合か? トランプのことを書いていたら、そうだ、アメリカ文学の本を読んでいたんだと、気づいた。そう言えば、ニューイングランドの本は暗かったなあ、1920年代の白人社会の話は延々と続いてつまらなかったなあ、とかを思い出した。しかし、その時代の一面を書き綴っていたのだと思い直した。→「アメリカ文学」と→「アメリカの悲劇』を書いたあと、そのままになってしまっている。続きも書きたい。

Theodore Dreiser, An American Tragedy

つれづれに

つれづれに:2月も半ばを過ぎて

今は咲きかけ(上)だが、やがて盛りが来る。いいにほひが漂う

 「2月も5日目に」を書いたと思ったら、もう2月も半ばを過ぎて、終わりになりかけている。気が付いたら3月、すぐそこである。

何日か温かい日が続いている。このまま春になりそうな勢いである。今日は曇り、これから雨になりそうである。それでも、申し訳程度に陽射しは射していた。何日か昼過ぎから曇りがちになっていたが、昨日は長い間、陽射しが強かった。

毎日使っていたデスクトップがやられ、インターネットに繋がずに作業用に使っていたデスクトップもやられた。思わず、画像編集ソフトが使えなくなってしまった。まさか全部やられるとは思ってなかったので、2台のノートパソコンに画像編集ソフトを入れてもらっていなかったからである。ブログの更新に写真を使うには、カメラで撮った画像を小さくしないと載せられない。機能不全になるとは思いもしなかった。

この状態から実が大きくなったものや、これからのものもある

 ノートパソコンは授業に2台使っていたが、デスクトップのようにはいかない。2階で妻が使っているデスクトップもやられたので、ノートパソコンの1台とインターネットに繋がないデスクトップを持って行って(セキュリティの保証がないデスクトップ)、絵を描くときに見られるように画像再生のソフトだけは入れている。絵を描くときに使う画像が膨大なので、外付けのハードディスクをつけている。どれも、間に合わせである。ウィンドウズ11に代えないとサポートを受けられなくなるので、延長手続きをしてもらったが、1年分ももうだいぶ過ぎている。この春か、夏くらいにノートパソコン2台を購入するか、パソコン自体を止めるか、そんな時に来ているのかも知れない。

今は大体この感じである。少しおけば葉が大きくなるが食べ始めている

 ま、元々機械類に関心はないし、使っていなかったのだから、なくなるだけの話ではある。ただ永年使って慣れてしまっているというか、慣らされてしまったというか、その意識を変えられるかどうかだろう。そうなれば、メールなし、動画なし、ブログなしの生活になる。いづれその日が来るのは間違いないが、その日を延ばせるか、それとも延ばさないか、まだ可能だとは思うが、思案のしどころになりそうである。

一つ一つがばらけてきて、やがて花が咲く。脇目も多くしばらく食べられる

 前立腺の次は、血糖値が高い、だそうである。食べることや運動などに気を遣ってきたから、少々へこむ。肉や魚は元々苦手なので野菜や豆や発酵食品を出来るだけと気を遣ってきたが、それでも追いつかないくらい老化の進み具合が激しいというところか?診てもらった医者は、それだけ長く生きたということでしょう、と言っていた。同じ歳である。

葱の写真は今年のもので、これと育ち方が同じものもある

 気を遣っている一つは野菜スープである。大根、人参、牛蒡、大根葉、それに椎茸を大きな鍋で15分ほど強火、そのあとは弱火で1時間煮る。野菜を引き上げ、茶漉しで濾してからペットボトルに入れる。半分は冷凍に、あとの半分は冷蔵である。大きなカップに毎日5杯は飲むようにしている。根菜類は植物が養分や水分を大地から吸い上げるのだから、人の体にはいいだろう、と勝手に思い込んでいる。鳥が飛ぶための翼だから手羽先は体にいいという人の手前勝手な屁理屈に似ている。2日か3日に一回の作業だから、材料もそれなりに要る。今は大根と大根葉と牛蒡はなんとか庭の畑で賄える、人参や牛蒡や椎茸も、生産者直売所で比較的安く手に入る。大根と大根葉は、この時期だけ、飛んだ種から大きくなりかけた実と葉を道端か無人の畑の畔などで採れる時もある。都会ではこうはいかない。

2股の大根や、芽を出したばかりや葉が大きくなっているのもある

 大根も何畝か作っているので、しばらくは持ちそうである。出来過ぎたときは、陰干ししたあと冷凍しておく。画像編集ソフトが使えないので、メディアライブラリーに保存されている写真である。

今年も最初に獲ったのがこれくらい大きかった

つれづれに

つれづれに:『アメリカの悲劇』

 アメリカ関連で、→「アメリカ文学」の続きである。南北戦争からトランプまでの政治と経済の両面から→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」、→「ソウル」、→「トランプ2」、→「トランプ3」を書いているとき、そうだった、その時代に書かれたアメリカ文学の作品を読んでいたんだとふと思った。その時は、大学入試でも英米学科でも英語をしなかったので、→「採用試験」で高校生の英語の授業を担当出来る程度、→「大学院入試」のあと修士課程で研究の真似事を出来る程度の英語が出来ればいいと考えていただけだった。2人の研究室に出かけ、英作文の授業を受けた人から、読むように本のリストをもらった。図書館で借りて来た本は、どれも分厚かった。特にAn American Tragedyは辞書並みで、1026ページもあった。一番分厚いAn American Tragedyから読み始めた。研究社の英和大辞典も引いた。知らない言葉が多過ぎて、寝る時間も忘れて読んだのに3ケ月もかかった。辞書がぼろぼろになっていた。しかし、こんな調子なら、一生に何冊読める?その思いが強くなっただけだった。辞書を引かなくなった転機である。辞書を引けば、自分で想像して読む作業が中断されて、読めるようにならない。読むためには、読むしかない、それが結論で、それ以降の出発点になった。

Theodore Dreiser, An American Tragedy

 ただ、読んだのは25歳のときで50年も経過している。1世紀の半分に及ぶ。本自体は僕には相性がよくなかったようで、読まないといけないという思いだけで最後まで読んだという感じだった。ウェブの解説を見て、そうだった主人公が男性でグリフィスだった、名前は忘れたが女性が出来て妊娠したような、くらいの記憶しか残っていない。そのあとの読んだ『シスター・キャリー』も、舞台が→「シカゴ」だったような、主人公は若い女性だったというくらいである。

大学院入試の準備でアメリカ文学史を少し齧ったはずだが、ドライサーも名前を見たくらいである。その後名前を聞いたのは、1985年に→「ミシシッピ」での→「ライトシンポジウム」で発表者にアメリカの学会で発表するように勧められたときに、その人からドライサーもやってましたと言われた時だけである。

今回、ウェブであれこれ調べてみた。『アメリカの悲劇』の出版は1925年で、著者はセオドア・ドライサー(↓)、『シスター・キャリー』は1900年の出版である。

『アメリカの悲劇』の舞台はカンザスシティと→「ニューヨーク」だ。先に書いた→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」と時代が重なる。

主人公の男性グリフィスは貧しい伝道師の子としてカンザスシティで生まれた。大きくなり、地元でホテルのベルボーイになった。あるとき、同僚とドライブ出かけた帰りに、自動車事故を起こしてしまう。逃亡して、ニューヨークにいる金持ちの伯父を頼り、その人の経営する工場に就職する。その職場で出会った女子工員と恋仲になるが、金持ちの女性とも関係を持ち、上流社会に憧れを持つ。工員の妊娠がわかり、殺害を計画。思いがけず、女性は湖で溺れて死んで殺害はしなかったが、裁判にかけられた。生き方が不道徳だと陪審員の顰蹙を買い、死刑を言い渡されてしまう。それが物語の概要である。

 ドライサーが生まれたのは1871年である。南北戦争後の占領政策が終わり、再建期が始まって反動期に入った頃だ。中西部にあるインディアナ州の田舎町のカトリック系ドイツ人移民の貧しい家庭に生まれているので、北部のプアホワイト層の環境で育ったことになる。ジャーナリストになってから、1900年に『シスター・キャリー』を発表しているが、売れなかった。しかし、1925年の『アメリカの悲劇』で認められ、アメリカ文学で読むべき本のリストにも入っていたわけである。アメリカ文学史では、自然主義文学の代表の一人らしい。1900年の『シスター・キャリー』は、中西部の田舎からシカゴに出た貧しい女性が妻子ある男性と駆け落ちして、ニューヨークで女優として成功する話だが、売れなかったのは主人公の非道徳性と、清教徒の倫理観が色濃かった世紀の変わり目の時期にあったからかも知れない。『アメリカの悲劇』は、産業社会が進み清教徒の倫理観が薄れたことと、格差社会やアメリカン・ドリームと無縁ではないだろう。ドライサーの作品が産業社会の人々の姿を赤裸々に描いていると評する人もいる。

次は『緋文字』である。最初に『アメリカの悲劇』を読んだのは一番分厚かったからだが、次になぜ『緋文字』にしたかは、覚えていない。

つれづれに

つれづれに:アメリカ文学

 アメリカ関連の続きである。南北戦争からトランプまでの政治と経済の両面から→「南北戦争のあと:政治篇」、→「経済篇1」、→「経済篇2」、→「ソウル」、→「トランプ2」、→「トランプ3」を書いた。実は偶然にもその時代に書かれたアメリカ文学の作品をいくつか読んでいたことを思い出した。その作品は、ある意味その時代を映し出している。小説はフィクションの形を取るが、大抵は事実に基づいて脚色されているので、その時代を色濃く投影している。最近は小説を書く時間が多くなっているので、その思いは強くなっている。

 アメリカ文学に興味があったわけではない。それどころか、早くに世の中をすっかり諦め(→「諦観」)、斜交いにものを眺めながら「生きるには余生は長すぎる」とぼんやりと考えていた。ただ、大学には行きたかったが、どうも入試勉強が性に合わなかったみたいである。大学で勉強や学問をしたいと思ったわけではなく、小説でも読みながら大学の空間があればいいと思っていただけだった。今から思えば、周りの人のように恋愛もして希望に燃えて入試勉強も出来ればよかったのだが。姉は早くからよく誘われてデートをしていたようだが、僕には別世界の人間だった。たぶん家族にも地域社会にも学校にもいつも腹を立ててばかりで、自ら心を閉ざしていたのだと思う。

しかし、もっても30くらいまでだろうと余生を過ごしていられなくなった。母親から→「百万円」借りて来て、と言われて状況は一変した。5人から借りて、母親をせっついて何とか返したのだが、人に金を借りてまで生きてはいけないと思ってしまった。それまで考えたこともなかったが、借金をしなくても済むように定収入を確保しようと思い、高校の→「教員採用試験」を受けてみることにした。ただ、そう思いついたのが試験も近い時期で、一度受けて対策を考えるかと、実際に試験を受けたのである。卒業するかどうかは決めかねていたが、英会話を残して4年の最終学年にはなっていたので受験がかのうだった。1年浪人をして入学し2年間留年していたから、25歳の時である。(→「採用試験」、→「面接」

大学は→「夜間課程」の英米学科だったが、英語はしなかった。受験でも英語はしていなかったので、予想通り取り敢えず受けてみただけの結果だった。学割のためだけに→「大学院入試」も受けていたので、購読と英作文をしとけば大丈夫だろうという感触だけは得ていた。すぐに準備を始めた。購読と英作文について具体的な方策を聞くために、2人の研究室に出かけた。英作文と購読の授業を受けた2人である。→「英作文」の人はアメリカ文学が専攻で、坪田譲治の童話の文庫本がテキストだった。購読の人は英語学が専攻で、淡々としていた。後に教職大学院(→「大学院入試2」、→「分かれ目」)の推薦書を、淡々と書いてくれた。

事務局・(2人の研究室があった)研究棟(同窓会HPより)

 英作文の人が「本でも読んでみますか?」と言って、紙切れに著者名とタイトルを書いてくれた。先ずは読んで力をつけることですね、という意味だと理解した。それがアメリカ文学の代表作だった。(→「購読」

Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter

Theodore Dreiser, Sister Carrie, An American Tragedy

William Faulkner, SanctuaryLight in August

Richard Wright, Native Son

John Steinbeck, Grapes of Wrath

その時読んだ分厚い本が、今書いているアメリカを映し出している作品だとは、まさか思わなかった。

先ずは『アメリカの悲劇』からで、著者はセオドア・ドライサーである。。

Theodore Dreiser, An American Tragedy