つれづれに:比較編年史1950③アメリカ
比較編年史1950年の3回目である。→「1950①私」では、1歳の記憶はないので、その頃の生まれた地域と家の周りについて書いた。→「1950②日本」では、まだ日本に駐留していた総司令部GHQ(↑)のマッカーサー(↓)を含めたアメリカの対日政策が東西冷戦での「反共の砦」の方向に向かっていたことと、朝鮮戦争が勃発したことを書いた。戦争の影響で公職追放されていた旧体制側の連中が復権していくことになったことと、家の中の暮らしも電気のおかげで、大きく変わり始めていたことに触れた。そして、1950年のアメリカである。
1950年のアメリカは、国外では東西冷戦、国内では公民権運動が動きだした時期である。
アメリカはソ連を中心にした東側諸国に対処するために、戦争で荒廃したヨーロッパをまとめて1949年にNATO(北大西洋条約)を締結し、資本主義経済の再建に乗り出した。ソ連はポーランド、ルーマニア、東ドイツおよびブルガリアに親モスクワ政権を押し立てることに決め、西側との境界線で資本主義を封じ込め押し返すことで対抗した。イギリスのチャーチルが非難した「鉄のカーテン」である。
ドイツではソビエトの占領する地域奥深くにあるベルリンを封鎖する対応を取り、1949年には初の核爆発実験を行った。1950年には中国と同盟条約を結び、後にワルシャワ条約機構を結成して北大西洋条約機構に応酬した。その流れの中で起こったのが朝鮮戦争である。
1950年6月、スターリンは北朝鮮が南朝鮮を侵略する作戦を承認した。南朝鮮を支援するアメリカは即座にアメリカ軍を朝鮮に出兵させて北朝鮮を押し返した。トルーマンは議会の承認は得ていなかったが、朝鮮を再統一させることについて国際連合の承認は得ていた。戦争初期はアメリカ軍が破れ撤退を余儀なくされたが、マッカーサーが仁川上陸作戦を成功させて風向きが変わった。しかし、数十万人の中国志願兵が参戦し、アメリカ・国連・韓国連合軍を開始時点の北緯38度線まで押し返して、膠着状態となった。アメリカ兵死者は33,000名以上、負傷者は10万人にだった。トルーマンはマッカーサーを解任したが戦争は終わらず、次のアイゼンハワーが1953年に核兵器を使うと脅して、休戦状態で戦争を終わらせた。休戦は今も有効である。
こうして、国防総省の環太平洋構想はマニラ→オキナワ→ソウルまで進んだ。
アメリカ国内では、公民権運動も動き出している。公民権運動が始まるまでの段階なので、少しここまでの経緯に触れておきたい。
イギリスの移住者が元の住人から土地を奪って国まで作ってしまったのがアメリカだが、イギリスに上前をはねられるのが嫌で独立したのが1776年である。日本では鎖国が続いていた時代である。ヨーロッパとアメリカとアフリカを結ぶ奴隷ビジネスの輪の中に組み入れられて、富を蓄えて行った。特に南部の寡頭勢力は奴隷主、荘園主でもあったので莫大な利益を得た。利益を守るために政党を作り、法律まで作らせた。民主党大統領の16代までを南部北端にある首都ワシントンに送り出した勢力である。やがて、独占状態が怪しくなってきた。奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こし産業社会に突入する中で新しい金持ち層が生まれていたからである。産業資本家と呼ばれる。アメリカでは既に寡頭勢力のいる南部を避けて、北部で地盤を築いて行く。その2大勢力が拮抗し始めた時に起きたのが、南北戦争である。奴隷制を保持して利益を温存したい南部の寡頭勢力と、固定されていた奴隷を安価な労働量に使うために奴隷制を廃止したい産業資本家が真っ向から対立したのである。
戦争は北部の勝利に終わったが、金持ちが自分の富を手放す訳がない。占領政策の時期が過ぎると、南部の寡頭勢力の巻き返しがあった。再建期の後の反動期である。戦争を終結させるためにリンカーンは奴隷解放宣言を出したが、元奴隷は現物支給の安価な小作人に名前を変えただけだった。反動勢力が1896年の「プレッシー対ファーガソン事件」の最高裁判判決で、人種差別を合憲と認めるほど、反動勢力は凄まじかった。有名な「隔離すれども平等」判決である。
本格的に公民権運動が動き出す前は、訴訟とロビー活動が活動の中心だった。1950年の「スウィート対ペインター事件」と「マクローリン対オクラホマ州理事事件」の最高裁判所判決は、1955年から1965年のバスボイコット、シットイン、フリーダムライドなどの「直接行動」を促す引き金となった。そして1954年に、公立学校での人種隔離は違憲と言う最高裁の判決を引き出したのである。