つれづれに

つれづれに:エボラ出血熱

赴任した当時の宮崎医科大学(大学HPから)

 1988年に宮崎医大に赴任して以来、それまで書いていた雑誌の記事の他に、テキストの編纂(→「テキスト編纂1」、→「テキスト編纂2」)に→「日本語訳」と、次々に出版社の人から言われて、小説を書き出せなかった。することがあり過ぎて、月日が過ぎていったというのが実際だったかも知れない。

授業は1年生の100人を4クラスにわけて最初は通年で週に4コマだけだったし、教授会は教授だけだったので、会議らしい会議もなく、ほぼ全部の時間をわりと自由に使えた。小説を書く空間が欲しくて探して辿(たど)り着いた格好の場所だったわけである。おまけに、→「研究費」までついていた。1年目に出した書類で、2年目には100万円も交付された、のに書き出せなかったのである。

授業に関する時間の締める割合は多かった。映像や音声や、英語も使っていろいろ工夫もしたし、準備にも時間をかけていたからである。元々一般教育英語学科目というのが授業担当の名目だったので、臨床医や基礎の担当者にはできないものをという意識が強かったが、どうも一般教育を大事だと思ってない人が多い風だった。医学をしに来たのに関係のない一般教育ばかりという傾向である。それで、医学と一般教育を繋(つな)ぐ形でやってみるかと思い始めた。のちに、教授になったあとすぐに、海外での臨床実習用の講座を担当して本格的に医学に特化した英語をする前に、自然と医学についても避けては通れないだろうと考えていたわけである。

「日本語訳」の作業を終え、家族で在外研究にジンバブエに行ったあとしばらく出版社からの要請の声も静かだったので、→「衛星放送」と英字新聞の力を借りて、医学と一般教育を繋ぐ具体策を考えは始めた。出版社からはジンバブエの話を本にまとめるようにいわれて半年ほどで一気に書き上げてはいたが、ちょうど1995年に西アフリカで流行したエボラ出血熱をやってみる気になった。舞台は赤道が国内を左右に通る大きな国コンゴだった。

 歴史を理解するために、資料を集め始めた。デヴィドスンの「アフリカシリーズ」では1800年代後半からの植民地時代と1960年前後の独立・コンゴ動乱が取り上げられていたし、『アフリカの闘い』にはそのほかに、戦後の新植民地時代の典型としてのコンゴの詳細な記述があった。そこに当時はまだあったロンドンのアフリカブックセンターで見つけた植民地時代とレオポルゴ2世について詳しく書かれた『レオポルド王の亡霊』という分厚い本が加わった。

 植民地時代→独立・コンゴ動乱と、30年続いていたモブツの独裁政権が時代的に繋がり、広がりを見せて行ったのである。そして、1995年の春先に、衛星放送でエボラ出血熱の流行を伝えるCNNニュースを録画した。

つれづれに

つれづれに:四月も下旬に

 四月も半ばに、と書こうとしたが、すでに下旬、時が過ぎてゆく。昨日も白浜に自転車で行けたのは有難いことである。畑に出る時間が増えたからだろう。腰が張っている。前屈(かが)みの姿勢が多いからである。机に向かう姿勢も、どうも前屈みである。寝不足もあって、揉(も)んでもらいながら、最後辺りはぐっすりと寝ていたようだ。記憶がない。気持ちよかったのだろう。まだ張りが取れないが、これから下り坂で畑には出られないのをよしとしよう。2、3日は体を休めろという身体からのSOSである。大根とブロッコリーの花を少し残して、だいたいは畝(うね)と畝の間の通路に埋めて、畑の視界が良くなった。瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく)の東側に竹と杭を打ち込んだが、次の作業が滞ったままである。柵に登らせる瓢箪南瓜の種を蒔(ま)いてやっと芽が出かけている。柵が出来たら、大きいものから植え替えよう。

 先日田植えが始まったと思ったら、もう少し大きくなった感じがする。植えた当初は根付いてないので、水の表面に浮いたようになっているが、すでにしゃんと立って大きくなる構えだ。それで大きくなっている印象(↑)を受けるんだろう。台風が来る前に刈り入れするまで、時折、周りの草刈をしながら、大きくなるのを待つばかりである。

4月3日の→「きんぽうげ」載せた田植えの光景

 みかんの花(↓)が満開である。甘酸っぱい匂(にほ)いがあたり一面に漂っている。このみかんは木花神社のある高台の少し東側の南の斜面の一画に植えられた樹である。陽当たりはよく、小さな水路に遮(さえぎ)られて小さな果樹園に行くには、水路に架けられた幅の狭いコンクリート管の上をそろりと歩くしかない。写真を近くで撮りたかったので渡って少し傾斜を登った。散歩道の途中にあるので、毎年実が生っているそばを通る。小蜜柑の樹である。あまり熱心に手入れはされていないようだ。

 晴れてはいたが、快晴とはいかなかったので海の色はそう鮮やかではなかった。それでもこの前よりは少し明るめである。写真を撮ったころから明るくなり始め、青島辺りではすっかり晴れて、尾鈴山系を背景にシーガイヤの建物が北の方に見えた。

前回の白浜

 子ども国で月例のイベントが行われていたようで、行きの駐車場にはたくさん車が停まり、こどもの国の園内から、いつになく楽しそうな人声が聞えていた。帰りの海岸道路からスタッフらしき人たちが跡片付けをしている姿を左に見ながら、いつものみらいはし(↓)で自転車を停めて写真を撮った。

つれづれに

つれづれに:日本語訳

 日本語訳をして、出版された。奥付けには発行日●平成4年10月16日とある。西暦では1992年の話で、発行日には、家族4人でジンバブエの首都ハラレにいた。編集者の人から電話があったとき、それまでの流れの続きで作業を始めた。大学生の頃は、テキストと翻訳はしたくないとぼんやりと考えていたが、出版社の人から繰り返し出版事情を聞いているうちに、テキストを2冊出して学生に本を買ってもらうようになっていた。アメリカの学会で発表し、テキストの編註書(↓)を出した作品である。

表紙絵はまた妻に頼んだ。衛星放送の場面を見て、今度は水彩でさっと描いて色をつけてくれた。その時はまだアフリカに行ったことはなかったが、日本語訳が出版された年に家族で住んだときにみたのとよく似た南部アフリカ特有の光景だった。ニュースかドキュメンタリーを見て、その雰囲気を感じ取ったのか?私には絵が描けないので、その感性は不可思議である。こともなげに雰囲気を嗅(か)ぎ取って、さっと描いてしまう。その絵が、編集者の手にかかって、また見事な表紙絵(↑)に変身したのである。

 歴史的に見れば、南アフリカのアパルトヘイト政権にアフリカ人が武力闘争を開始した頃の話で、著者も指導者の一人として闘っている最中に作品は生まれている。逮捕直前に夫人に郵便局に1年間留め置くように頼んだ草稿を出版社の白人が持ち出しナイジェリアで出版された奇跡の作品が第1作(「A Walk in the Night」)なら、1作目の評判を聞いて今度は東ベルリンから来て獄中にいる作者に最も南アフリカ的な作品をと依頼して出版された奇跡の物語(→「テキスト編纂2」)である。

ナイジェリアで出版された1作目(神戸外大黒人文庫)

東ベルリンで出版された2作目(神戸外大黒人文庫)

 作者は主人公と、娘と暮らすシングルマザーとの恋物語にしたかったと友人の伝記家には話していたそうだが、ケープタウンのスラムの日常を描くことを優先して、最も南アフリカ的な物語に仕上げた。世界に南アフリカのことを知ってもらいたい、アパルトヘイトがなくなったあとの世代のために書き残しておきたいという作者の気持ちが優先された。英文を丹念に日本語にしているとき、行間に溢(あふ)れる作者の温かさを常に感じていた。

表紙絵:ケープタウンのスラム(イギリス版)

 翻訳の90パーセント以上はだめです、と出版社の人が常々言っていたが、出ている翻訳本を調べてみてその惨状を思い知った。この本に関しては、東京の有名私立大学の教授という人が日本語訳をつけて、大手の出版社の全集の中に入っていた。読んでみたが、知らない言葉をカタカナ表記しているのを見て、この人、ひょっとしたらその言葉がアフリカーンス語だと知らないだけではなく、アフリカーンス語自体を知らないのではないかと感じた。1作目の日本語訳は更にひどかった。清廉潔白な革新系の党の機関誌で、新しい文学の特集号だった。南アフリカのことをやっている人なら誰でも知っている1976年のソウェト蜂起のソウェトをソウェト族と訳者は日本語訳をつけていた。地名を民族集団と信じて疑わなかったのだろう。

翻訳がほとんどだめなら、ロシア文学だけでなくドイツ文学は?フランス文学はどうする?と聞かれそうである。翻訳とはそんなものと諦めて、その範囲で期待しないで読むしかないか。

アメリカの学会(→「 MLA」)に誘ってくれた人(↓)が、友人と出した『方丈記』(→「英語版方丈記」、↓)の英語訳を送ってくれた。アストンの英語臭さも漱石の日本語臭さもなく、文章が自然に流れていた。著者紹介を見て、合点がいった。永年英語圏で暮らしている日本人と、永年日本で暮らしていたアメリカ人との共訳だった。

 永年英語圏で暮らしている日本人と永年日本で暮らしていたアメリカ人の共訳がすべていいとは思えないので、最後は翻訳に携わる人の感性によるもののかも知れない。

 本の献辞は妻のブランシさんになっている。ラ・グーマは1985年にキューバで亡くなっているので会えなかったが、3年後にカナダで夫人に会い、その4年後にまた亡命先のロンドンで家族といっしょに会った。その後しばらくしてケープタウンに戻ったあとも、何度か手紙の遣り取りをした。テキストを編集するときはすでにブランシさんと会っていたが、日本語訳をしている時はまだ会っていなかった。完成原稿を出版社に送ったあと、細かい字で読者代表で訂正をお願いしますと付箋(せん)紙がたくさん、綴じたコピーの冊子に貼ってあった。夫婦で時間をかけて点検したと言っていた。全体の1割ほどは、出版社の人と夫人の力を借りたわけである。

ロンドンの住まいを訪ねたときに分けてもらったロシアで撮った写真

 日本語訳をしながら、改めて日本語と英語の違いについて気付くことが多かった。たとえば、日本語はほとんど主語を言わないが、英語は必ず主語をつける。そのまま言葉を置き換えれば、まさにクラスルームイングリッシュである。本は課題図書に入れて学生に買ってもらったが、強制はしていないので、定年退職の時に50冊の束が何個か残っていた。在庫がなくなったのは、再任されてまた教養の大きなクラスを持ってからである。新しい研究室に運んで、生協に置いてもらった。1割五分の手数料を取られた。出版事情を直に感じながら、何とか最後の束もなくなった。手元に、何冊かが残っているだけである。

つれづれに

つれづれに:読む

薊(あざみ)がだいぶ咲き始めた

 英語の話の続きである。たくさん喋(しゃべ)って、聞いているとき、今まで読んで馴染(なじ)んだことが意外と役立った。喋ったり聞いたりすることに慣れてくると、これまで読んだ蓄積みたいなものが互いに繋(つな)がって、感覚的になるほどなあと感心する場面が増えてくる。書き言葉と話し言葉の語彙(い)は違うが、両者が有機的に繋がってくると喋られている含意や、書かれたものの背後に潜む意味みたいなものがじわーっと感じられるようになる気がする。

イリスが枯れだした

 敗戦直後に生まれたこともあったし、何よりあまり恵まれた環境ではなかったので、生きること自体がきつかったせいもあるが、戦争相手のアメリカ人が使う英語に反発を感じたし、住んでいた地域社会にもいつも疎外感を感じていた。だから、受験に馴染めなかったとはいえ、→「夜間課程」を選ぶしかなかったとき、英米学科に入るとは考えても見なかった。しかし、英米学科には語学・文学コースと法経商コースがあって、ま、文学もやれるか、という都合のいい解釈をして願書を出した。日本文学の夜間は大阪市大しかなく、地理的に家から通える範囲を越えていた。

だからという訳ではないが、大学では単位を取れる範囲を越えて英語はしなかった。当然だが、学割を使えるんならと受けた大学院(→「大学院入試」)で26人中飛び抜けて一番だったそうである。採点した人も呆(あき)れたと思う。それでも英語をしようと思わなかったが、母親の借金で定職に就くために教員採用試験を受けて、英語をすることになったのである。

キャンパス全景(同窓会HPから)

 しかし、今から思うと、敗戦でアメリカ化を強要されたために英語関連の就職口は多かった。一つの言葉なのに、中高でも英語の時間数は多くて必修だったから、それだけ教員も必要だったわけだ。他の教科なら、1年では間に合わなかったかも知れない。→「運動クラブ」の先輩で神戸の一番手の高校からスペイン学科を出た人が、卒業後に他の大学で補足単位を取って採用試験を受けたが受からなかった。社会の枠が少なかったのが大きかったようである。その点、英語の募集人員は多かった。

一年目に受けるだけ受けてみて、→「購読」と→「英作文」(→「英作文2」)で行けると感じ、準備を始めた。要は読んで書ければよかったわけである。そのために読んだ。購読は好きなアメリカ文学の人の研究室で本の名前を聞き、図書館で借りて読んだ。英作文も言語学の専門家の研究室で本をあげてもらい、→「古本屋」で手に入れて読んで、書いた。

紹介してもらった英作文の本の1冊

 最初に読んだ本は1026ページあり、辞書を使って3ケ月ほどかかった。これでは間に合わないと意識を変え、辞書を引かずに一気に読んだ。分厚い本も、余りわからないまま取り敢えず読み通した。1ほどしかなかったが、わかる言葉を手掛かりに時間をかけずに想像して読むようになっていた。いわゆる文脈を読むというやつである。聞くことも話すこともそうだが完璧にはいかない。何割かの知った言葉や雰囲気や文脈をてがかりに、理解するのである。

結果的に、1026ページを辞書を使って3ケ月で読んだ時より、短時間で理解の深さも増すように思えた。たくさん読めば語彙も増えるが、それよりも短い時間にいかに内容を把握して理解するかを身体(からだ)で覚えるのだろう。同じ1時間が前とは違うわけである。このときのやり方が、雑誌の記事や学術論文を書く時に役に立った。あるまとまりを仕上げるには、書くためのばねのようなものが要る。何冊か関連の本を並べて、短期間に一気に読めばそのばねのようなものが湧いてくる。あとは、必要な部分は、時いんは辞書やウェブを使って丁寧に調べて補足する、そんな風に書くようになった。

セオドア・ドライサー(『アメリカの悲劇』、1925)