つれづれに

つれづれに:比較編年史1950①私

近くの空き家で見つけたカンゾウ

 今回からは、比較編年史の1950年である。→「1949①私 」では、私が1949年に生まれたということだけを書いた。1950年は1歳だったが記憶はないので、生まれた地域と家の周りについて書こうと思う。

生まれた家も地域も嫌だったので長いこと町の名前も言いたくなかったが、当時の状況を日本国内や世界のいくつかの地域と比較しながら自分の生きた時代について書こうとしているので、比較する元の私の生まれた町についても書くことにした。

前に少し書いたが、神戸から電車で1時間ほど西の小さな町で生まれている。国鉄の複線の駅のある加古川である。北に向かう単線の加古川線の起点でもある。町に関心を持ったことがなかったので、詳しくは知らないが宿場町で栄えたらしい。銘菓にかこの餅というのがあった気がする。市の南側は瀬戸内海に面し、肥料工場や化学工場がある。西端に加古川が流れていて、川の両側に日本毛織の工場がある。複線の駅があるので、それなりに人口も養えるくらいには経済も回っているということだろう。神戸・大阪の通勤圏で、大学の頃にはすでに単線の駅沿いにも神戸や大阪に通う人用の住宅地が出来ていた。地価がそう高くなかったからだろう。

 吉川英治の『宮本武蔵』で親しんだ武蔵は作州浪人と思い込んでいたが、石の宝殿や加古川市泊町の出身だと言う人もいるらしい。泊神社(↓)の写真も出ていた。石の宝殿は私の母が継母に虐められ暮らした土地のすぐ近くだし、泊神社の近くを自転車で通った記憶もかすかにある。作州は岡山で気候などもよく似ている。たけぞうと言われていた少年時代は、村人に馴染めなくて疎外感を味わっていたようだ。関ヶ原の戦いに志願して死にかけたのも、村での居心地の悪さも一因だろう。最初の辺りで宮本村からいっしょに志願した幼馴染と会話をしている場面があるが、小早川陣営の足軽だったようだから、戦いに敗けて逃げ帰ったというところだろう。私の生まれた村からも関ヶ原の戦いに志願して死んだ武士の末裔も少なからずいそうである。

 播州と呼ばれる土地柄としては東の方に関心が強く、岡山と大阪までの距離はそう変わらないのに、岡山の方には関心が向かない傾向がある。宮崎に来てから岡山に住む人に会いに出かけた時、姫路までは電車も多かったが、それより西は単線並みの不便さだと改めて思ったことがある。従って、大学を選ぶ時も、西の方は視野にないようである。旧帝大系の九大を選ばず、東北大や北大を選ぶ人の方が多かった。名古屋大もかなりレベルの高い大学だが、行く人は多くなかった。

石の宝殿

 宮崎に来て、加古川線(↓)の一つ目の駅の新興住宅地に住んでいた人と知り合いになった。研究室が近かったので、よく部屋を行き来した。その人と最近ズームで話す機会があって初めて知ったのだが、その地域から見れば私の住んでいた地域は町だったそうだ。駅前の商店街はわりと人出があったし、少し南からは商店街が川の手前まで続いていた。スーパーやモールが出来る前のなので、商店街にはいつも人が行き来して店にも活気があった。高校の通学路に指定されていたので、高校の時も大学の6年間もその商店街を通った。高校で教員として世話になった校長とばったり出会ったのも、駅前通りだった。

1950~60年代

 生まれた家は商店街が切れる辺りの、ごみごみした密集地帯にあった。周りは長屋が多かった。家の南側には国道2号線が通り、家の裏手には小さな溝があった。その溝で魚を取っていた記憶がある。鰻を捕まえたこともあるので、水も澄んでいたような気がする。しかし、生活排水を垂れ流すようになってから、急に溝が濁り、悪臭がするようになった。私の家はその長屋の途切れた辺りにあり、6畳と4畳半の2間で、トタン屋根の粗末なものだった。辛うじて南側に小さな縁がついていて、南隣との間に少し空き地があった。辺り一帯の長屋も家も大体似たりよったりで、陽当たりも悪くじめじめしていて、淀んだ臭いが漂っていた。私の記憶の中では、スラムだった。

1950~60年代の日本毛織印南工場

つれづれに

つれづれに:比較編年史1949⑦ケニア

宮崎市民の森花菖蒲園

 妻が宮崎に来た時に、最初に描いた花が花菖蒲である。宮明神宮の北辺りにに借家があったので、市民の森公園(↑)が近くで自転車で行ける距離だった。引っ越ししてしばらくはばたばたしていたが、落ち着いた頃に家族4人が自転車で行ったのが市民の森公園で、花菖蒲が盛りだった。そのまま妻は毎日通い出した。その頃、私が雑誌に書かせてもらったいた出版社の人から装画を描いてみませんかと誘われた。そして、花菖蒲が表紙絵になった。

上田進『琴線にふれる教育を求めて』(1993/3/20)

 比較編年史6回目、ケニアの1949年である。1回目→「1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを、2回目→「1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況についてを、3回目→「1949アメリカ」はアメリカについてを、4回目→「1949④アフリカ」はアメリカについてを、5回目→「1949⑤南アフリカ」は南アフリカについてを、6回目→「つれづれに:比較編年史1949⑥コンゴ」はコンゴについて書いた。今回は1949年の最終回である。

コンゴと同様にケニアについては、アフリカ系アメリカや南アフリカほど時間を取れなかったので、植民地時代と独立の頃辺りしか詳しくは書けない。少し調べる時間を取り肉付けしながら書き進めたい。今回は大雑把なケニアの歴史について書いておきたい。

 ケニアの独立は1963年だが、ヨーロッパ人と戦った歴史は長い。1921年にギクユ青年協会が設立され、政治運動が始まっている。その後も政治運動が続き、50年代にケニア土地自由軍が植民地政府に対してイギリスへの抵抗運動を始めたが敗北して、ケニヤッタも投獄されている。しかし、その運動を契機に独立の機運が高まり、1963年に英連邦王国として独立、翌1964年に共和制へ移行してケニア共和国が成立した。従って、ケニアの1948年はケニア土地自由軍が抵抗運動を始める前の年だったわけである。

 ヨーロッパ人の侵略が始まる前のケニアの歴史である。

アフリカ東海岸には豊かな港町がいくつもあった。古くからギリシャやローマやアラビアとも行き来があり、高度な航海術などの影響も受けていた。

西アフリカの黄金を通貨にアフリカ大陸には黄金の交易網張り巡らされていた。交易網はアフリカ内陸部をカバーして、大西洋から中国沿岸部にまで及んでいた。その一大交易網の中心がエジプトの旧カイロである。8世紀半ばにイスラム教徒に征服されたエジプトは、君主の下でイスラム世界の中心になっていった。10世紀にファーティマ朝がカイロを都にしてからは、目覚ましい繁栄ぶりを見せた。繁栄の元は交易で、世界の半分を取り仕切り、国際都市となっていった。北アフリカの歴史家イブン・ハルドゥンは14世紀末のカイロを『カイロは全宇宙の都、世界の園、イスラムの入り口、王者の玉座だ。学識という月の光に照らされた城と王宮の都市、それがカイロだ』と讃えている。

 商取引を支え、繁栄を支えたのは、極めて質の高い硬貨で、アフリカの黄金で出来ていた。北西アフリカで造られたベルベル人の高価ディナールは600年もの間、最も信用度の高だった。そのうち、ヨーロッパも暗黒時代を抜け出し、アフリカから黄金を輸入できるようになり、貨幣価値は安定した。それとともに、ヨーロッパは通称時代の基礎を固めて行く。

当時のカイロには世界中の交易品が集まった。アフリカ東海岸や南部の奥地とカイロを繋いだのは、ペルシャ人とアフリカ人の混血のスワヒリ商人である。元々東海岸には紀元前から、古代ギリシャ人やローマ人、アラブ人が切り拓いた海上ルートがあり、インドや中国にまで延びていた。アラブ人はアフリカ人の中に溶け込み、独自のスワヒリ人とスワヒリ都市が生まれた。

 スワヒリ都市でもモンバサやラム島、ソファラやキルワ島などは特に活気があった。モンバサは今も有名なケニアの港町で、ソファラはキルワ島の対岸にある港町である。ソファラは南部アフリカの入り口で、ジンバブエなどの内陸部から黄金が集まっていた。キルワ島には遠くから商人が集まって、大層賑わっていた。1980年代の初めに島に渡り、今は廃墟になっている宮殿への階段を上りながら、デヴィドソンが当時の様子を語っている。

 「キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。彼らも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その10世紀末から16世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登っていったんです。そして、一番てっぺんに達したとき、眼の前に広がったのは活気と華やかさに溢れた、それはもう夢のような美しい街でした」

10世紀に歴史家アル・マスーディーがきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。マスーディーはインド洋の様子を次のように書き残している。
「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです」

高い航海術は、高度な航海術を持ったギリシャやローマから学んだものを、アフリカ東海岸の人たちが更に改良したものだろう。

 しかし、その豊かな街はポルトガルによって破壊されて行く。

つれづれに

つれづれに:比較編年史1949⑥コンゴ

花菖蒲の季節となった(小島けい画)

 比較編年史6回目である。1回目→「1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを、2回目→「1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況についてを、3回目→「1949アメリカ」はアメリカについてを、4回目→「1949④アフリカ」はアメリカについてを、5回目→「1949⑤南アフリカ」は南アフリカについてを書いた。今回はコンゴについてである。

コンゴについて、アフリカ系アメリカや南アフリカほど時間を取れなかったので、植民地時代と独立の頃辺りしか詳しくは書けない。少し調べる時間を取り肉付けしながら書き進めたい。今回は植民地争奪戦に巻き込まれる前の状況について書いておきたい。

 アフリカで最初に独立したガーナに比べて、コンゴの独立への動きは遅かった。動き始めたのは1950年代後半である。その頃に、2つのグループが活動を始めている。1つはベルギーが来る前まで権力を持っていた指導者層のグループで、もう1つは民衆を中心にしたグループである。最初コンゴはベルギーのレオポルド2世個人の植民地だった。嘘のような話だが、アフリカ争奪戦で世界大戦を避けるために開かれたベルリン会議で米仏にアメリカまで加わって決議した。その後、ベルギーの植民地になった。私が生まれた1949年はベルギー領だったわけである。ただ、独立へ動き出したのが1950年代後半なので、それまでは比較して書くほどの大きな出来事はあまりない。従ってその期間は、その後のコンゴの状況を理解し易いように、植民地時代と独立への動きなどを分けて書こうと思う。

 レオポルゴ2世は生涯アフリカの地を踏んでいない。実際にアフリカで動いたのは王の傭兵である。王は1888年にベルギー人とアフリカ人傭兵で軍隊を組織した。王室から多くの予算を拠出したので、傭兵は中央アフリカでは最強の軍隊となった

「アフリカシリーズ」から

 奴隷貿易の資本蓄積で産業革命を起こしたヨーロッパ社会の産業化は急速に進んだ。原材料と市場の需要が高まって、各国は一番近いアフリカで植民地争奪戦を始めた。争奪戦は熾烈を極め、世界大戦の懸念が高まった。それで、植民地の取り分を決めるために主催したのは、1884年11月から翌年の2月までドイツ帝国の首都べルリンで会議を開いた。参加したのは欧米諸国とオスマン帝国を含む14ケ国である。すでに植民地化は進んでいたわけだから、取り分の再確認の色彩が強かった。地図上で国境線を引いたので、後の紛争の元にもなったが、手付かずのコンゴをどうするかを決める必要があった。

 ここでしゃしゃり出て来たのがアメリカである。イギリスはこれ以上植民地を増やす余裕はないが、競争相手のフランスには取られたくない。ベルギーは歴史の浅い経済力のない小国、イギリスもフランスもベルギーに譲るならお互いに安全と計算した。アメリカは増え続けるアフリカ人奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返せという声が強くなっていて、その解決策としてコンゴに目をつけた。下院議長がコンゴに牧師2名を送り込んで、本格的に候補地探しをする法案を通して、ベルリン会議でベルギー支持の条件として提出した。イギリスとフランスと米の思惑が一致し、レオポルド2世の接待外交も功を奏して、レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」が承認された、というわけである。

アメリカはアフリカ人を送り返す候補地として、プレスビテリアン教会から黒人と白人の牧師を2名、コンゴに派遣した。派遣されたアフリカ系アメリカ人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記している。まだ王の傭兵が本格的に活動をし始める前の様子である。

「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから4つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……」

アメリカ人の書いた『レオポルド王の亡霊』

つれづれに

つれづれに:比較編年史1949⑤南アフリカ

薊(小島けい)

 比較編年史5回目である。1回目→「1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを、2回目→「1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況についてを、3回目→「1949アメリカ」はアメリカについてを、4回目→「1949④アフリカ」はアメリカについてを書いた。今回は南アフリカについてである。

南アフリカについては書くことがたくさんある。予期せず時間をかけてしまったということもあるが、人種差別をスローガンにしたアパルトヘイト政権が1948年に出来てしまったからでもある。1949年はその次の年だから、どこまで書くかだろう。

デヴィドスン(↓)は「アフリカシリーズ」の中で「アフリカはどこより酷い目に遭ってきた」と言っていたが、その中でも南アフリカとコンゴは酷い目にあってきた。鉱物資源が豊富だったからだ。最初に来たオランダ人と次に来たイギリス人だけでなく、第2次大戦後はアメリカと、そのアメリカの腰巾着としてくっついて来た日本などのせいで、アパルトヘイト政権は延命した。表向きはアフリカ人政権だが、搾取の基本構図はほぼ温存されている。東西両側から武器を供与されて闘う戦争を避けて、アフリカ人に政権を移譲するのが被害を最小限にする選択だと、アメリカとイギリスが主導して既得権益に群がる国々が賛成したからだ。

 1度目の大きな出来事は、オランダ人の到来と入植、2度目はイギリス軍の大量派遣と入植、3度目はオランダ人とイギリス人の連合政権総説とオランダ人のアパルトヘイト政権誕生、4度目は戦後のアメリカ主導の資本投資と貿易による多国籍企業の参入だろう。

私の生まれた1949年から同時代的に比較して書いているので、それ以前はそう書けないが、これからのことを理解するために、掻い摘んで経緯を書いておこうと思う。

オランダ人が初めて南アフリカ南部のケープに来たのは1652年、日本が鎖国を始めて半世紀ほど経った頃である。すでに南米で好き放題をして荒らし回ってきたポルトガルやスペインのあとにオランダが、そしてイギリスやフランスがアフリカに行き始めていた頃である。すぐ北のアンゴラのルアンダにポルトガルが拠点を作っていたので、オランダはそこを避けて南に下ったわけである。南端の喜望峰の先は海の難所らしいので、その前にどこかで物資を補給する必要があったんだろう。

ケープタウン:アパルトヘイト時代に東京の南アフリカ観光局のパンフレット

オランダは東インド会社が貧乏人を連れてやって来て、後にアフリカ人から土地を奪い、ケープ地方に定着して、主に大農園を経営してそこでアフリカ人を働かせて搾り取った。小さなグループでたくさんの人が住んでいた南アフリカの最初の不幸だった。

イギリス人が来たのはずっと後の1795年、日本では江戸時代も後半のことである。南アフリカ自体はまだそれほど重要な地域ではなかったが、植民地争奪戦のライバルフランスにインドへ航路への要衝を取られたくなかったからである。ケープに大軍を送った。当然すでに入植して根を下ろしていたオランダ系アフリカーナーと衝突をするが、イギリス帝国の大軍に勝てるわけはなく、敗れたアフリカーナーの富裕層は内陸部に移動した。またアフリカ人と衝突した。今回はケープのように簡単には行かなかった。イサンドルワナの闘いではイギリス軍の1個中隊がズールー軍夜襲を受けて全滅している。槍と盾という武器ながら統制の取れたズールー軍に大敗したわけである。アフリカーナーもアフリカ人の抵抗に遭ったが、19世紀半ばには肥沃な海岸部2州をイギリスが領有し、内陸部の2州をアフリカーナーが領有することをイギリスが認めて落ち着いた。

しかし、内陸部の2州で金とダイヤモンドが発見されて、南アフリカの重要性は一変した。採掘権を巡ってイギリス人とアフカーナーは2度戦った。武器の多かったイギリスが勝ったものの、多数のアフリカ人に囲まれているのを自覚して戦いの途中で妥協点を見い出し、国を創ってしまった。1910年の南アフリカ連邦でる。互いに過半数を取れない連合政権だった。

1867年に発見されたキンバリーのダイヤモンド鉱山の採掘現場

 アフリカ人も黙っていたわけではないが、集団としては動きは鈍かった。白人が国を創り連合政権を始めて、すでに出来上がったものを成文化する動きを察知して1912年にやっと今の与党アフリカ民族会議ANCを作った。白人入植者がアフリカ人から奪って自分たちのものにしていた土地が白人のもので売買してはならないと成文化しただけである。翌1913年の原住民土地法だった。

土地を奪うだけでなく、白人はこの時すでにアフリカ人から末永く搾り取る大規模な搾取体制をほぼ作り上げていた。土地を奪い課税することで大量の安価な労働者を生み続ける体制である。税金を課せられた田舎のアフリカ人は仕事のある都会に出稼ぎに行く。税金が厳しければ厳しいほど、労働者は無尽蔵に使い放題である。契約労働と言えば聞こえはいいが、賃金を抑えるためのパートタイマーの量産である。その安価な労働者を、鉱山や大農園で扱き使っただけでなく、白人家庭の家内労働をさせた。洗濯や育児や台所仕事をメイドに力仕事や庭の手入れや使い走りなどをボーイにやらせた。家内労働者と呼ばれる実質的な召使である。豊かな鉱物資源を低賃金で掘らせて価格を抑え、先進工業国に売って莫大な利潤を得たのである。先進国にとって南アフリカは安価な鉱物資源を確保して、車や家電製品を売りつける格好の市場でもあった。日本がトヨタやニッサンや家電の市場を拡大し、安価な鉱物資源、最近はIT産業に不可欠なレアメタルを手に入れて、白人政権と暴利を分かち合ったという構図である。

 ANCは初期の年寄りたちの生ぬるい戦い方と決別して、1943年に創設された青年同盟を軸に、ゼネストなどの積極的な行動に出たので、白人政府はその勢いに恐れを感じ始めていた。そんな状況で、1948年の総選挙が行われた。総選挙と言っても人口の4分の3のアフリカ人には投票権はなかった人口の13%の白人の6割を占めるアフリカーナーの貧乏白人の大半が人種差別をスローガンに掲げた国民党に投票した。本来はアフリカ人と貧乏白人が協力すべき事態だったが、分断支配を目論んだ国民党は人種隔離政策で貧乏なアフリカーナーにアフリカ人より優遇すると約束したわけである。そして、1948年にアパルトヘイト政権が誕生した。

その政権が異人種間の結婚を禁止する法律を成立させたのが1949年だった。私が生まれた年である。日本から遠く離れた南アフリカでは人種差別を標榜する政権が誕生し、その法律に次いで人種隔離政策を推進するための法律を次々と成立させ、反対する勢力は警察力と軍事力を強化して押さえ込みにかかった。

ANC青年同盟を率いた当時のマンデラ