つれづれに

つれづれに:比較編年史1950②日本

1950年、私が1歳の頃の日本である。一番は朝鮮戦争だろう。日本と韓国とアメリカと深い関りがある。アメリカ国防総省ペンタゴンの環太平洋構想の3番目ソウルである。朝鮮半島(↑)は九州からも近い。入試の準備をしなかったのに、たくさん受験だけはしてあがき続けた。北九州大は1期と2期以外の日程で受験出来た中間校で、英国社の3科目だった。その帰りに、小倉から大阪行きの今はもうない各駅停車に乗った。5000円だった。関釜フェリー(↓、1970年に就航開始)も5000円で同料金、下関から釜山は近いんだと思った記憶が妙に残っている。

古くから秀吉を始め侵略行為も犯し、倭寇として悪名を流した。スペインやポルトガルが南米で行った海賊行為と同じである。韓国を併合した時は土地や金で分断支配を画策して、朝鮮社会を分断した。財閥たちや軍事政権と組んで悪行を続け、果ては第2次大戦まで突き進んだ。朝鮮半島は中国にも日本にもやられ放題で大変な思いをしてきたのに、日本人の韓国への批判は手厳しい。インターネットでの書き込みは見るに堪えないものが多い。他の人への配慮など無縁の世界である。匿名だから歯止めがない。どちらの国もアメリカ軍に支配された点や、社会のアメリカ化の進み具合も似通っている。

終戦から6年目でまだ連合国軍最高司令官総司令部(↓)が駐留し、マッカーサー(↑)が指揮を執っていた。連合国の主要国だったアメリカの対日政策は、既に始まっていた東西冷戦で日本を「反共の砦」にする方向に向かっていた。

中国では、1949年に蒋介石の国民党政府を台湾島へ逃亡させ、ソ連の後押しで中国共産党による中華人民共和国が成立して台頭を始めていた。1950年6月には朝鮮戦争が勃発、北朝鮮優位の攻勢が続いていた。その状況下でマッカーサーも含めアメリカは、対日政策の大きな転換を余儀なくされた。その結果、岸信介はじめ公職追放されていた旧体制側の人物たちが1952年のサンフランシスコ講和条約発効を機に公職追放を解除され復権していくことになったのである。

 宗教団体と手を結び自民党内で最大派閥を作って裏金を作り、数の力で忖度政治を浸透させ、国家公務員に書類を書き換えさせ、国会でも嘘の答弁を繰り返した元首相の祖父とその取り巻き、つまり太平洋戦争を起こした側の輩が充分に罪を償わずに公然と復職したわけである。その時点で、3代先の悪夢を誰が予測できただろう。1950年に朝鮮戦争が起こった時点での首相は吉田茂だった。ペンタゴン(↓)の構想はマニラ→オキナワ→ソウルと進んで行く。

 池田勇人蔵相が国会で「貧乏人は麦を食え」と発言したのも1950年である。貧乏人が多かったと言うことだろう。もちろん、私もそんな貧乏人が住む密集地帯に生まれている。家の中の暮らしも電気のおかげで、大きく変わり始めていた。冷蔵庫、洗濯機、トースターなどが次々に発売されるのもすぐ後からである。家の中の道具が電気を利用した物に変化して行く。ただ、値段が高かったので、行き渡るのはもう少し後になる。従って、この頃は私の母親もまだ手で洗濯をして、竈でご飯を炊いていたことになる。

ペンタゴンの環太平洋構想について初めて読んだ新書

つれづれに

つれづれに:比較編年史1950①私

近くの空き家で見つけたカンゾウ

 今回からは、比較編年史の1950年である。→「1949①私 」では、私が1949年に生まれたということだけを書いた。1950年は1歳だったが記憶はないので、生まれた地域と家の周りについて書こうと思う。

生まれた家も地域も嫌だったので長いこと町の名前も言いたくなかったが、当時の状況を日本国内や世界のいくつかの地域と比較しながら自分の生きた時代について書こうとしているので、比較する元の私の生まれた町についても書くことにした。

前に少し書いたが、神戸から電車で1時間ほど西の小さな町で生まれている。国鉄の複線の駅のある加古川である。北に向かう単線の加古川線の起点でもある。町に関心を持ったことがなかったので、詳しくは知らないが宿場町で栄えたらしい。銘菓にかこの餅というのがあった気がする。市の南側は瀬戸内海に面し、肥料工場や化学工場がある。西端に加古川が流れていて、川の両側に日本毛織の工場がある。複線の駅があるので、それなりに人口も養えるくらいには経済も回っているということだろう。神戸・大阪の通勤圏で、大学の頃にはすでに単線の駅沿いにも神戸や大阪に通う人用の住宅地が出来ていた。地価がそう高くなかったからだろう。

 吉川英治の『宮本武蔵』で親しんだ武蔵は作州浪人と思い込んでいたが、石の宝殿や加古川市泊町の出身だと言う人もいるらしい。泊神社(↓)の写真も出ていた。石の宝殿は私の母が継母に虐められ暮らした土地のすぐ近くだし、泊神社の近くを自転車で通った記憶もかすかにある。作州は岡山で気候などもよく似ている。たけぞうと言われていた少年時代は、村人に馴染めなくて疎外感を味わっていたようだ。関ヶ原の戦いに志願して死にかけたのも、村での居心地の悪さも一因だろう。最初の辺りで宮本村からいっしょに志願した幼馴染と会話をしている場面があるが、小早川陣営の足軽だったようだから、戦いに敗けて逃げ帰ったというところだろう。私の生まれた村からも関ヶ原の戦いに志願して死んだ武士の末裔も少なからずいそうである。

 播州と呼ばれる土地柄としては東の方に関心が強く、岡山と大阪までの距離はそう変わらないのに、岡山の方には関心が向かない傾向がある。宮崎に来てから岡山に住む人に会いに出かけた時、姫路までは電車も多かったが、それより西は単線並みの不便さだと改めて思ったことがある。従って、大学を選ぶ時も、西の方は視野にないようである。旧帝大系の九大を選ばず、東北大や北大を選ぶ人の方が多かった。名古屋大もかなりレベルの高い大学だが、行く人は多くなかった。

石の宝殿

 宮崎に来て、加古川線(↓)の一つ目の駅の新興住宅地に住んでいた人と知り合いになった。研究室が近かったので、よく部屋を行き来した。その人と最近ズームで話す機会があって初めて知ったのだが、その地域から見れば私の住んでいた地域は町だったそうだ。駅前の商店街はわりと人出があったし、少し南からは商店街が川の手前まで続いていた。スーパーやモールが出来る前のなので、商店街にはいつも人が行き来して店にも活気があった。高校の通学路に指定されていたので、高校の時も大学の6年間もその商店街を通った。高校で教員として世話になった校長とばったり出会ったのも、駅前通りだった。

1950~60年代

 生まれた家は商店街が切れる辺りの、ごみごみした密集地帯にあった。周りは長屋が多かった。家の南側には国道2号線が通り、家の裏手には小さな溝があった。その溝で魚を取っていた記憶がある。鰻を捕まえたこともあるので、水も澄んでいたような気がする。しかし、生活排水を垂れ流すようになってから、急に溝が濁り、悪臭がするようになった。私の家はその長屋の途切れた辺りにあり、6畳と4畳半の2間で、トタン屋根の粗末なものだった。辛うじて南側に小さな縁がついていて、南隣との間に少し空き地があった。辺り一帯の長屋も家も大体似たりよったりで、陽当たりも悪くじめじめしていて、淀んだ臭いが漂っていた。私の記憶の中では、スラムだった。

1950~60年代の日本毛織印南工場

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つれづれに:比較編年史1949⑦ケニア

宮崎市民の森花菖蒲園

 妻が宮崎に来た時に、最初に描いた花が花菖蒲である。宮明神宮の北辺りにに借家があったので、市民の森公園(↑)が近くで自転車で行ける距離だった。引っ越ししてしばらくはばたばたしていたが、落ち着いた頃に家族4人が自転車で行ったのが市民の森公園で、花菖蒲が盛りだった。そのまま妻は毎日通い出した。その頃、私が雑誌に書かせてもらったいた出版社の人から装画を描いてみませんかと誘われた。そして、花菖蒲が表紙絵になった。

上田進『琴線にふれる教育を求めて』(1993/3/20)

 比較編年史6回目、ケニアの1949年である。1回目→「1949私 」では、編年史を書こうとした経緯と1949年に私が生まれたということを、2回目→「1949日本」でその年の日本の経済と政治の全般的な状況についてを、3回目→「1949アメリカ」はアメリカについてを、4回目→「1949④アフリカ」はアメリカについてを、5回目→「1949⑤南アフリカ」は南アフリカについてを、6回目→「つれづれに:比較編年史1949⑥コンゴ」はコンゴについて書いた。今回は1949年の最終回である。

コンゴと同様にケニアについては、アフリカ系アメリカや南アフリカほど時間を取れなかったので、植民地時代と独立の頃辺りしか詳しくは書けない。少し調べる時間を取り肉付けしながら書き進めたい。今回は大雑把なケニアの歴史について書いておきたい。

 ケニアの独立は1963年だが、ヨーロッパ人と戦った歴史は長い。1921年にギクユ青年協会が設立され、政治運動が始まっている。その後も政治運動が続き、50年代にケニア土地自由軍が植民地政府に対してイギリスへの抵抗運動を始めたが敗北して、ケニヤッタも投獄されている。しかし、その運動を契機に独立の機運が高まり、1963年に英連邦王国として独立、翌1964年に共和制へ移行してケニア共和国が成立した。従って、ケニアの1948年はケニア土地自由軍が抵抗運動を始める前の年だったわけである。

 ヨーロッパ人の侵略が始まる前のケニアの歴史である。

アフリカ東海岸には豊かな港町がいくつもあった。古くからギリシャやローマやアラビアとも行き来があり、高度な航海術などの影響も受けていた。

西アフリカの黄金を通貨にアフリカ大陸には黄金の交易網張り巡らされていた。交易網はアフリカ内陸部をカバーして、大西洋から中国沿岸部にまで及んでいた。その一大交易網の中心がエジプトの旧カイロである。8世紀半ばにイスラム教徒に征服されたエジプトは、君主の下でイスラム世界の中心になっていった。10世紀にファーティマ朝がカイロを都にしてからは、目覚ましい繁栄ぶりを見せた。繁栄の元は交易で、世界の半分を取り仕切り、国際都市となっていった。北アフリカの歴史家イブン・ハルドゥンは14世紀末のカイロを『カイロは全宇宙の都、世界の園、イスラムの入り口、王者の玉座だ。学識という月の光に照らされた城と王宮の都市、それがカイロだ』と讃えている。

 商取引を支え、繁栄を支えたのは、極めて質の高い硬貨で、アフリカの黄金で出来ていた。北西アフリカで造られたベルベル人の高価ディナールは600年もの間、最も信用度の高だった。そのうち、ヨーロッパも暗黒時代を抜け出し、アフリカから黄金を輸入できるようになり、貨幣価値は安定した。それとともに、ヨーロッパは通称時代の基礎を固めて行く。

当時のカイロには世界中の交易品が集まった。アフリカ東海岸や南部の奥地とカイロを繋いだのは、ペルシャ人とアフリカ人の混血のスワヒリ商人である。元々東海岸には紀元前から、古代ギリシャ人やローマ人、アラブ人が切り拓いた海上ルートがあり、インドや中国にまで延びていた。アラブ人はアフリカ人の中に溶け込み、独自のスワヒリ人とスワヒリ都市が生まれた。

 スワヒリ都市でもモンバサやラム島、ソファラやキルワ島などは特に活気があった。モンバサは今も有名なケニアの港町で、ソファラはキルワ島の対岸にある港町である。ソファラは南部アフリカの入り口で、ジンバブエなどの内陸部から黄金が集まっていた。キルワ島には遠くから商人が集まって、大層賑わっていた。1980年代の初めに島に渡り、今は廃墟になっている宮殿への階段を上りながら、デヴィドソンが当時の様子を語っている。

 「キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。彼らも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その10世紀末から16世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登っていったんです。そして、一番てっぺんに達したとき、眼の前に広がったのは活気と華やかさに溢れた、それはもう夢のような美しい街でした」

10世紀に歴史家アル・マスーディーがきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。マスーディーはインド洋の様子を次のように書き残している。
「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです」

高い航海術は、高度な航海術を持ったギリシャやローマから学んだものを、アフリカ東海岸の人たちが更に改良したものだろう。

 しかし、その豊かな街はポルトガルによって破壊されて行く。