続モンド通信・モンド通信

続モンド通信25(2020/12/20)

私の絵画館:<回転木馬>(カルーセル・エルドラド)(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~4:④:再び、8月のパリで(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜22:アフリカ史再考④大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人 (玉田吉行)

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1 私の絵画館:<回転木馬>(カルーセル・エルドラド)(小島けい)

1977年の8月、2度目のパリで。帰国する兄を見送った後、私はパリ郊外に行ってみようと思いつきました。病気持ちの兄を心配ばかりしていた日々から、少し気分を変えたかったのかも知れません。
お城がある───と何かのパンフレットで見た、シャンティーイという街に向かいました。列車で小一時間ほどだったと思いますが。計画も立てずに出かけたため、目的のお城の前に立った時は夕暮れ前で、すでに城門はきっちりと閉められていました。
<がっしりとしたりっぱな門だなあ・・・・>と、妙に感心して見上げたのを覚えています。見学時間をとうに過ぎていたため、どうしようもありません。引き返そうと横を向いた瞬間、小さな回転木馬がいきなり目に入ってきました。
それは城門の前の草原に<祭りの後>のようにポツンと置かれていました。きっと夏のシーズンだけ、お城を見に来る人たち用に、運ばれて来て置いてあるのでしょう。
そこには、私の他に観光客は誰もいませんし、もちろん遊具の係の人もいませんでした。静けさのなか、現実離れした不思議な風景に見えました。
結局シャンティーイの街としては、威圧感のある城門と小さな回転木馬だけが、2枚の写真のように、鮮明に私の記憶に残りました。

2021年カレンダー表紙絵

遠い日のことをずっと忘れていましたが。何故か三年くらい前から回転木馬を描きたい!と思い始めました。
けれど<思い>はなかなか具体化しません。そんな私を、二年前の春東京に行った時、娘が<としま園>に連れていってくれました。そして回転木馬(カルーセル・エルドラド)を見て、それに乗ることができました。
<としま園>が昨年閉園することは、ずっと後になって知りました。
描くなら今年(2020年)で、2021年のカレンダーに載せようと、イメージがふくらみ始めました。
そうして、ふつう描く絵の4~5倍ほどの労力と時間をかけて、ようやくこの一枚が出来ました。
楽しそうに乗っている犬たち、<いいなあ・・・>と下からちょっとうらやましそうに見上げる子猫のジョバンニ。
その絵を、カレンダー製作会社のいつもお世話になるデザイナーさんが、さらに楽しく仕上げて下さって、2021年の表紙となりました。

また、この絵を含めた昨年の新作12枚は、新宿にある画材店<世界堂>で、毎年お世話になっている一番センスのよいスタッフの方が、12月15日という超多忙の時期にもかかわらず、2時間かけて、それぞれの絵に一番合うマットと額を選んで下さいました。

お世話になった皆様に、心より御礼申しあげます

2021年カレンダー表紙額(作業中)

エセイ③→「8月のパリ」「続モンド通信 24」、2020年11月20日)

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~④:再び、8月のパリで(小島けい)

 1976年の8月を、私はパリですごしましたが。ひょんなことから、翌年の8月も、パリですごすことになりました。

 

もうすぐ夏休みという頃、三番目の兄が突然<パリに行く!>と言いだしました。大人ですので、ふつうなら何の反対もしませんが。当時兄は、いくつかの病気で薬を何種類も飲んでいました。そのような人が長旅に出れば、体調の悪化は目にみえていました。

けれど、言いだしたら後には引かない。走れば倒れるまで走り続ける性格は、その時も健在でした。昔、交換留学生としてノルウェーに滞在した帰り。パリに立ち寄ったけれど、お金がなくて全く楽しむことができず、みじめだった。少しはお金を自由に使えるようになった今行かなくては、悔しくて死んでも死にきれない。これが本人の言い分でした。

誰も止められず<それなら私が先にパリに行って、待っててあげるよ>となったのです。

私がパリに着いて数日後。案の上、体調の悪化した兄が、空港に到着しましたが。現地のガイドはその様子を一目見ると、即座に帰国の手続きを進めてしまいました。いわば<強制送還>です。兄は必死の思いで、空港のカウンターの方に事情を説明し、このままでは帰りたくない!と訴えました。

気の毒に思ったその方は、キャンセルされてしまった<ホテルニッコー>の代わりに、乗務員がよく利用する街のプチホテルを紹介してくれました。おかげで、兄は何とかパリに滞在することができました。

ただ、外国で病気をすることの大変さを、私はいろいろ実感しました。ある時も<シップと酢を買ってきてほしい>と頼まれた私は、薬局をさがして街のなかを歩き回りました。そんな時、ちょうど向こうから来た日本人留学生に<パリ在住の方ですか>と話しかけられ、結果、薬局の場所をおしえてもらうことができました。

歩いて行くには遠いとのことで、タクシーをつかまえようと、広い道路でこちらに向かって走ってくる車に手をあげていると、スーッと一台の車が止まりました。行き先を告げて、急いで後部座席に乗り込むと、背広の上着とカバンが置いてあり、運転手は慌ててそれらを前の座席に移動しました。片言で話をしているうちに目的地に着き、お金はいくら?とメーターをさがすと、見あたりません。その様子を見ていた運転手は笑って、初めて<この車はタクシーではないよ>と教えてくれました。そして、<お金はいらないから、気が向いたらこの住所に手紙を書いてネ>と、名刺をくれました。

薬局のことしか頭になかった私は、止まった車がタクシーではないことに、最後まで気付きませんでした。ゆっくり思い返せば、パリッ!とした白ワイシャツを着て、カバンもビジネス用の大きめの物でした。何より顔つきも精悍な感じで知的でした。パリの運転手の中にはそんな人もいるかもしれませんが、少なくとも私の乗ったタクシーの運転手さんたちとは、少し雰囲気が違ったような・・・?

とにもかくにも、その人が<いい人>でほんとうによかった・・・・と、ずうっと後になって思いました。

紹介された街のなかのホテルより、私が泊まっているホテルニッコーの方が新しくて快適というので、私が兄とホテルをとりかえてすごしたり・・・など、様々なことがありましたが。

一週間後、兄は一応満足した様子で、帰って行きました。

プティホテルの屋根裏部屋の窓から(1992年11月、ジンバブエの帰りに)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜22:アフリカ史再考④:

大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人

アフリカ史再考の4回目で、アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたか、である。

バズル・デヴィッドスンが「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)の2回目「大陸に生きる」のなかで紹介しているケニア北部に住むポコト人の牧畜生活を取り上げてヨーロッパ人が到来する前に、長い間アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたかについて書いていきたい。

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、それ以前に野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」が収録された1980年代当初でも、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人の中には、昔ながらの原始的な生活が見られていたようである。

デヴィッドスンは、コンゴの森で狩猟民として獲物を求め、絶えず移動生活をしているピグミーの1930年代の様子を収めたフィルムを紹介しながら「未開と言われる彼らが如何に巧妙な橋造りをするかを知ることが出来ます。」と解説している。密林の中で橋を架けて獲物を追う技術は移動生活には不可欠で、ピグミーは必要に応じて集まったり分散したりしながら生活をしていたので、固定した社会を持たなかった。

集団で川に橋を架けるピグミー

デヴィッドスンはまた、「サン人は狩猟採集の生活をしてきました。その人達が使う道具は手近な材料を使った単純なものです。矢尻の先に塗る毒はカブト虫の中味を絞り出して作っています。これにアロエの汁を塗って毒が落ちないようにします。道具は石器時代とは変わらないとはいうものの、獲物を追い詰める技術では彼らに敵う者はありません。」と解説しながら、狩猟しながら移動生活を続けるサン人を紹介している。

狩猟の準備をするサン人

その後、村を作り定住生活をするようになるが、そのためには狩猟採集で必要だった技術以外に大発見が必要だった。動物を飼い慣らして家畜にするようになったことで、アフリカでは今から6000年前か7000年前のことである。その結果、人口は増え、家畜のための水や草を求めて人々は広い範囲に散って行くようになった。その中には東アフリカの大地溝帯までやって来た人たちもいた。ケニア北部に住むポコト人もその子孫だと思われる。

ポコト人が住んでいる地域は、一年の大半はとげだらけの灌木に覆われた乾燥した土地で、灌木は雨期のほんの数週間だけ青青と生い茂げる。

狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的なもので、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれる。当然、入り組んだ社会組織も出来てくるわけである。

デヴィドスンはポコト人が住んでいる地域を訪れしばらく生活を共にしながら次のようにその人たちの生活を紹介している。

ポコト人を紹介するデヴィドスン

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

他の草原の住人と同様に、ポコト人にとって最も大切な財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期の間は、多いときは村には200人もの人が住む。しかし、乾期になり草や水が乏しくなるにつれ、牛を連れて遠くまで足をのばさなければならなくなるので、村の人口は次第に減っていくが、次の雨期とともにまたみんなが村に戻って来る。毎年それが繰り返される。

ポコト人の主食はミルクである。栄養不足を補うために時々牛の血を料理して食べるが、肉を食べるのは儀礼の時だけに限られる。ミルクと血だけで暮らすためにはたくさんの牛が必要になる。それに干魃などの天災にも備えなければいけないので、牛の他に、山羊や駱駝(らくだ)も飼うようになった。

女性は夫とは別にかなりの数の自分の家畜を持っている。男性が牛を追い草原に行っている間は、村に残っているのは女性と子供と老人だけである。

遙か北の方から入って来た駱駝はミルクを取るために飼われ始めた。ポコト人は、ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんどが自給自足の生活である。必要なものは自分たちのまわりにあるもの、特に家畜から作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類をこしらえる。断熱と防水の効果があるので、牛の糞は壁や屋根に塗りつける。そうして作った小屋は子牛や子山羊を昼間の暑さから守ってくれる。乳離れをさせる時にもその小屋が使われる。

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしている。家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも大変なこの土地では重労働だが、それをこなすのが女性の誇りになっている。

ポコト人女性

厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要である。家の周りの藪も薬や繊維や日用品などの宝庫で、カパサーモと呼んでいる根を煎じて腹痛や下痢の時に子供に飲ませる。デザートローズの樹の皮を粉末にして水と混ぜて殺虫剤を作り、駱駝のダニ退治に使う。

こうしてポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来ている。食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、そんな基本的な人の営みが営々と続いて来たわけである。

1992年にジンバブエに行った時、家族で住んだ借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなり、インタビューをさせてもらった。

ジンバブエ大学英語科教員のトンプソン・クンビライ・ツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながらインタビューに応じて、子供時代のことをしゃべってくれた。

トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん(小島けい画)

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれている。その村からグレートジンバブウェのあるマシィンゴまで200キロ、国の中央部に位置する都市グウェルまで150キロ離れていて、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそらしい。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごしたチヴィの村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

一族には、当然、指導的な立場の人がいて、その人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていた。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしたらしい。

村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれる。野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通だったようで、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れたと言う。

4月からは、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたそうである。

ガーデンボーイとして安い賃金で働いていたガリカーイ・モヨさんもインタビューに応じてくれた。

「私は1956年4月3日に、ハラレから98キロ離れたムレワで生まれました。ムレワはハラレの東北東の方角にある田舎の小さな村です。小さい頃は、おばあさんと一緒に過ごす時間が多く、おばあさんからたくさんの話を聞きました。いわゆる民話などの話です。家畜の世話や歌が好きでした。聖歌隊にも参加していて、いつでもよく歌を歌っていました。」

ガリカーイ・モヨさん(小島けい画)

ジンバブエ大学の学生のアレックス・ムチャデイ・ニョタさんもインビューに応じてくれた。普段の生活はゲイリーの場合とよく似ている。小さい時から、1日じゅう家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから日没まで、再び家畜の世話だったらしい。「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ」とアレックスが言っていた。

アレックス・ムチャデイ・ニョタさん

3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話が中心、ポコト人と同じというわけにはいかないが、今も田舎では、遙かな大草原で一日じゅう牛を追いながら暮らすという牧畜が占める割り合いの多い暮らしをしている人たちが多いようである。ジンバブエの首都ハラレは1200メートルの高原地帯にあり、ケニアの首都ナイロビも標高1600メートルの高地にある。

「ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」(2013年3月)、→「ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」(2012年11月)、→「アレックスの生い立ち」「モンド通信」(2012年6月)

次回は「大陸に生きる(2)農耕生活:ナイジェリアのスクール人」である。

南アフリカ概論(木7-8)

<連絡事項>

*年明けは7日(木)です。(6日から19日まで観察期間で、すべて遠隔授業です。)

12月22日(木)7-8(3:15-4:45)12回目で今年最後、残り3回となりました。

<今日>

①「アフリカの蹄」(途中まで:空港でネオと握手、の場面まで。)

「アフリカの蹄」についてはテキスト『アフリカ文化論』の中に書いています。読んでや。

<次回は>

①「アフリカの蹄」(最後まで)

②アパルトヘイト時代の映像、名誉白人の映像

「2020後南ア資料②AIDS .docx」を参考ファイルに置いてます。印刷希望の人は連絡してくれれば用意するよ。

来週、また。

クラス名簿(Campusmateからダウンロードしました。)

2020年後期 クラス名簿(32名)(2020年11月6日現在、確定名簿)

1 46190550 ナガセ ミキヒロ 教育学校小中一貫中主免(社会)
長瀬 樹潤 2年
2 50200061 イヌイ コウヘイ 農学部植物生産環境科学科
乾 公平 1年
3 50200203 ゴトウ ヒロキ 農学部植物生産環境科学科
後藤 啓貴 1年
4 50200434 ミウラ ケイト 農学部植物生産環境科学科
三浦 慶斗 1年
5 51200145 オカダ ユウナ 農学部森林緑地環境科学科
岡田 優奈 1年
6 51200396 ハシモト ナギサ 農学部森林緑地環境科学科
橋本 凪咲 1年
7 53190057 オカモト シヅキ 農学部海洋生物環境学科
岡本 姿月 2年
8 54180550 ムラカミ ユウト 農学部畜産草地科学科
村上 友斗 3年
9 54180624 オオノ アツタ 農学部畜産草地科学科
大野 篤太 3年
10 54190157 オノ ジュンペイ 農学部畜産草地科学科
小野 純平 2年
11 55190147 コンノ リュウセイ (農)獣医
金野 琉聖 2年
12 55190266 マツオカ ミヅホ (農)獣医
松岡 瑞穂 2年
13 61190063 イワキリ カズマ 工学部環境応用化学科
岩切 一真 2年
14 61190191 コタニ コウダイ 工学部環境応用化学科
古谷 航大 2年
15 63200094 ウラカワ ヤマト 工学部環境ロボティクス学科
浦川 大和 1年
16 63200216 クロキ マサト 工学部環境ロボティクス学科
黒木 雅人 1年
17 64180450 フルカワ ハルト 工学部機械設計システム工学科
古川 陽仁 3年
18 64190062 ウエヤマ シヨウタ 工学部機械設計システム工学科
上山 翔大 2年
19 64190190 キムラ イツペイ 工学部機械設計システム工学科
木村 一平 2年
20 64190242 コマツ リンタロウ 工学部機械設計システム工学科
小松 倫太郎 2年
21 64190277 シマムラ ユウ 工学部機械設計システム工学科
嶋村 悠 2年
22 64190352 ナス トモアキ 工学部機械設計システム工学科
那須 智彬 2年
23 64200189 カズモリ コウタ 工学部機械設計システム工学科
数森 皓太 1年
24 64200536 ヤマカワ リク 工学部機械設計システム工学科
山川 里玖 1年
25 65180230 サカイ マサユキ 工学部電子物理工学科
酒井 将道 3年
26 65200119 オザキ タカヤ 工学部電子物理工学科
尾崎 天哉 1年
27 65200229 コミゾ トモ 工学部電子物理工学科
小溝 睦 1年
28 65200447 マキノセ カイト 工学部電子物理工学科
牧ノ瀬 開人 1年
29 66180270 タケヨシ ケイシロウ 工学部電気システム工学科
武吉 慧史朗 3年
30 67190254 タジリ コウセイ 工学部情報システム工学科
田尻 航晟 2年
31 67190364 ニシオ キツペイ 工学部情報システム工学科
西尾 吉平 2年
32 67200171 カワゴエ ヒヨウガ 工学部情報システム工学科
川越 彪雅 1年

英語 Rb2(3)

<連絡事項>

*年明けは7日(木)です。(6日から19日まで観察期間で、すべて遠隔授業です。)

12月22日(木)5-6(1:30:-3:00)12回目、残り年明けの3回となりました。

<今日>

①発表予定者決定:Afro-American songs(未定)

資料①A3:Afro-American songs: spirituals and gospel music by African descendants(p. 31とp. 32の最後から2行目まで)

②Slaveryは発表予定に押領司さんが所用で来られなかったので僕がさっとやりました。→Slaveryの日本語訳

③映像:奴隷市(「ルーツ」とマンディンゴ)→農場(読み書き禁止と刑罰「マンディンゴ」と、「ルーツ」)、逃亡(「ルーツ」1回目と2回目)

前回の奴隷貿易と奴隷制について書いてます。→「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」、2014年3月10日)連載開始。

<次回>

①発表者決定:Afro-American songs(     )

③映像:→南北戦争→再建期→反動期→公民権公民権

「2020後地域1資料③AIDS.docx」を参考ファイルに置いてます。印刷希望の人は連絡してくれれば用意するよ。

来週、また

Slaveryの日本語訳

SLAVERY 奴隷制度

 As soon as they were landed and sold some would run away into the forest and join the indigenous people who were already living there. Thousands of Africans were brought by force to America to plant cotton, rice, corn, and wheat, to build the roads and clear the forests, to do all the hard work that went into the early building of America.

アフリカ人の中には陸揚げされて売られるとすぐに森に逃げ込み、元からそこに住んでいた現地の人たちと合流するものもいました。何千人ものアフリカ人が力ずくでアメリカに連れて来られ、綿、米、玉蜀黍(とうもろこし)、小麦を栽培し、道路を建設したり、森林を伐採するなど、初期のアメリカの土台を作ったあらゆる過酷な労働を強いられました。

Each slave was sold off to a separate plantation, for plantation owners wanted to keep them from communicating with each other through the same African language. In addition, they tried to prevent the slaves from learning to read and write English, too. When the owners found some slaves trying to read and write, they often punished them severely.

奴隷はそれぞれ別々の農場に売られました。奴隷同士が互いに同じアフリカの言葉で意思の疎通がはかれないようにしたいと荘園主が望んでいたからです。それに、奴隷が英語の読み書きを習おうとするのも邪魔しようとしたのです。荘園主が読んだり書いたりしようとする奴隷を見つけると、厳しく罰することもよくありました。

No man wanted to be a slave. Many tried to escape from slavery. Thousands ran away alone. Some slaves rebelled against their slave masters.

誰も奴隷になりたくありませんでした。多くの人々が奴隷制度から逃れようとしました。何千のも奴隷が一人で逃亡しました。奴隷主に反乱を起こした人たちもいました。

In 1800, a young black, Gabriel, organized a revolt in Virginia that involved thousands of black men and women. But on the day when the uprising was to have started, a great storm and a flood wrecked their plans. The leaders were discovered, and some thirty-five others were put to death by the slave owners. They died silently.

1800ガブリエルという若い黒人がヴァージニアで数千人に及ぶ黒人男女が関わった反乱を起こしました。しかし、その反乱が始まる予定だった日に激しい雨が降って洪水となり、計画が頓挫してしまいました。首謀者は見つけ出され、およそ35人もの人たちも奴隷主に殺されました。その人たちは黙って死んで行きました。

In 1831 another great slave rebellion broke out in Virginia, led by Nat Turner. In this insurrection, some sixty slave owners were killed. More than a hundred blacks lost their lives before this uprising was suppressed. Seventeen slaves were put to trial and hanged. As slaves became increasingly restless, they revolted more and more. In increasing numbers, too, they were escaping to the North.

また1831年には、ヴァージニアでナット・ターナーに率いられて大規模な奴隷の反乱が起きました。この暴動では60人ほどの奴隷主が殺されました。そして暴動が鎮圧されるまでに100以上もの黒人が命を亡くしました。17の奴隷が裁判にかけられて、絞首刑にされました。奴隷の不満が募れば募るほど、ますます反乱を起こしました。北部へ逃亡する奴隷の数も増えていきました。

There were many escaped slaves who fought against their slave owners together with other abolitionists, black and white, in the North.

北部にはたくさんの逃亡して来た奴隷がいて、黒人や白人の奴隷制廃止論者と一緒に奴隷主と闘いました。

ミシシッピ州の州都ジャクソン(1986年撮影、たま)

Harriet Tubman, the great conductor of the Underground Railroad to freedom, a nurse for the Union soldiers in the Civil War, a spy for the Union Armies, went back and forth in the South to rescue slaves.

自由への地下鉄道の偉大な車掌で、南北戦争では北部の兵士のための看護師や北軍のスパイも務めたハリエット・タッブマンは南部へ行き来して奴隷たちを救いました。

Frederick Douglass ran away when he was twenty-one. He got a job in New England, began to make anti-slavery speeches and eventually became one of the Great American abolitionists, founding a paper called 'The North Star,’ writing and speaking for freedom. People in bondage keenly wanted a kind of Moses to lead them to freedom and there appeared their Moses, John Brown. He was a white man, old and tall, with a flowing beard, a Bible in one hand and a gun in the other.

フレデリック・ダグラスは21才のときに逃亡しました。ニューイングランドで職を得て、奴隷制に反対する演説を始めました。そして、やがてはアメリカの偉大な奴隷廃止論者となって「ノーススター」紙を創刊し、自由を求めて本を書いたり、演説もやりました。捕らわれの境遇にいる奴隷は、解放して自由にしてくれるモーゼのような人物を切望していました。そこにモーゼのような人物ジョン・ブラウンが現れました。ジョン・ブラウンは白人で、年老いて背が高く、流れるようなあごひげを生やし、片手には聖書を、もう一方の手には銃を持っていました。

In 1859 John Brown and 22 other members, black and white, marched on the government arsenal at Harpers Ferry, Virginia, intending to seize the arms and give them to the slaves. Some were killed and the rest were taken prisoner. John Brown’s uprising was a failure in so far as freeing the slaves then went. But it shook the empire of slavery to its foundations. It gave courage to the bondsmen and struck terror into their masters. John Brown was hanged. But it was only a matter of time before the Civil War began.

1859年にジョン・ブラウンは黒人、白人を含む22名と一緒に、ヴァージニア州のハーパーズフェリーにある政府の兵器庫に行進しました。武器を奪って奴隷たちに与えるつもりでした。何人かが殺され、残りは捕らえられました。ジョン・ブラウンの蜂起はそのとき奴隷を解放するという点では失敗でしたが、その蜂起は奴隷制の根幹から揺るがしました。その蜂起は奴隷に勇気を与え、奴隷主に恐怖を与えました。ジョン・ブラウンは絞首刑にされましたが、南北戦争が始まるのも時間の問題でした。

ミシシッピ川(ミシシッピ州グリーンウッド)(1986年撮影、たま)

The European capitalists used the profits from the slave trade and from slave labor in America to develop their own industries. Gradually the industrial capitalists grew more powerful than those capitalists who invested in trade. While the slave traders and the plantation owners wanted to keep slavery, the industrial capitalists’ main interest was to buy workers on a 'free labor market.’ The capitalism of free competition was turning into monopoly capitalism.

ヨーロッパの資本家は奴隷貿易やアメリカでの奴隷の労働によって得た利益を自分たちの産業を発展させるために使いました。産業資本家が、奴隷貿易に投資した資本家よりも次第に力をつけて行きました。奴隷商や荘園主が奴隷制を維持したいと思いましたが、産業資本家の主な関心は「自由な労働力市場」で労働力を買い集めることでした。自由競争の資本主義が独占資本主義へと変貌して行きました。

 

クラス名簿(Zoomではある方がよさそうやから、学生支援課でもらったファイルからコピーしたよ。)

2020年後期 英語 Rb 2 (3)クラス名簿(30名)(2020年10月8日現在)

30190450 佐々木 智哉 ササキ トモヤ
30200010 足達 正修 アダチ セイシユウ
30200025 荒木 晴生 アラキ ハルオ
30200049 池ノ上 将基 イケノウエ シヨウキ
30200063 岩切 佑理可 イワキリ ユリカ
30200074 岩根 穂乃花 イワネ ホノカ
30200092 梅山 愛梨 ウメヤマ アイリ
30200100 押領司 尚美 オウリヨウジ ナオミ
30200124 大山 瑞輝 オオヤマ ミズキ
30200155 小畑 翔 オバタ カケル
30200162 甲斐 廉人 カイ レント
30200186 加藤 大地 カトウ ダイチ
30200232 北村 詩歩 キタムラ シホ
30200243 木原 啓太 キハラ ケイタ
30200281 古藤 凜 コトウ リン
30200346 佐土原 雛子 サドハラ ヒナコ
30200353 志貴 裕紀 シキ ユウキ
30200409 杉村 拓志 スギムラ タクジ
30200461 堂下 つばさ ドウシタ ツバサ
30200506 時松 桃花 トキマツ モモカ
30200533 戸高 みなみ トダカ ミナミ
30200544 長倉 由依 ナガクラ ユイ
30200568 長野 翔 ナガノ シヨウ
30200630 平田 あや ヒラタ アヤ
30200689 福田 真司 フクダ シンジ
30200713 藤田 涼 フジタ リヨウ
30200834 宮脇 駿介 ミヤワキ シユンスケ
30200845 森山 友渚 モリヤマ ユウナ
30200852 安田 龍司 ヤスダ リユウジ
30200883 由地 紀一郎 ユウヂ キイチロウ

 

英語 Ta2(8)

<連絡事項>

*年明けは12日(火)です。(6日から19日まで観察期間で、すべて遠隔授業です。)

課題締め切りは今日でした。→課題

*Zoomトーイック4案内→Zoomトーイック4

12月22日(火)3-4(10:30:-12:00)11回目で、今年最後でした。

<今日>

①発表:のSLAVE TRADE(橋口くん), SLAVERY(田中くん)

②映像:「ルーツ」の冒頭部、奴隷狩り(冒頭部はこの前も映してたね。誰か言ってくれたらよかったのに。申しわけないです)

橋口くんと田中くん、両方ともきちんと読めてたし、日本語訳もなかなかやったね。感心しました。→Slave Tradeの日本語訳、Slaveryの日本語訳

<次回は>

①映像:「ルーツ」奴隷船→奴隷市→農園→クンタの逃亡

②歌:Deep Riverなど

③映像と解説:南北戦争→再建期→反動→公民権運動

来週、また。

課題

読んで年内には課題の成績をつけ、トーイックの成績を加えて最終日までに最終成績を出そうと思っています。まだの人は遅れてでも出してや。

Zoomトーイック4:再掲。今からでも大丈夫やで。

試験が終わってじっくりやることにしました。メールをくれれば詳細の案内と招待状を送ります。

Slave Tradeの日本語訳

A Short History of Black Americans," in Africa and Its Descendants

アフリカ黒人小史、『アフリカ、その末裔たち』収載 SLAVE TRADE 奴隷貿易

By the early 1500’s, black people were going to the New World. The first blacks went to America as explorers, not as slaves.

1500年代の初め頃までには、黒人は「新世界」に行くようになっていました。最初の黒人は、奴隷としてではなく探検家としてアメリカに行きました。

In 1619 twenty Africans were unloaded in Jamestown, Virginia. That was the year when the roots of slavery began in the United States. Slave ships filled with captured black men and women began to sail across the Atlantic Ocean to the American shores.

1619年に20人のアフリカ人がバージニアのジェイムズタウンに積み荷として陸揚げされました。それが合衆国の奴隷制度の元が始まった年でした。捕われの身となった黒人男女で一杯の奴隷船が大西洋を横断してアメリカの岸へと航海を始めました。

In the slave trade the merchants’ profits and the products from America were exchanged in Europe for guns and cloth which were brought to Africa and exchanged for slaves. These humans were sold in America where they produced the goods to be brought to Europe. This was the so-called 'triangle trade’ or 'triangular trade.’ The riches of capitalists grew while Africa suffered. This slave trade continued for three and a half centuries and brought millions of Africans to America.

奴隷貿易では、商人の利益とアメリカでの産物がヨーロッパで銃や布と交換され、それがアフリカに持って行かれて奴隷と交換されました。その人たちはアメリカで売り飛ばされ、そこで産物を作って、その産物がヨーロッパに運ばれました。これは「三角貿易」または「三角の貿易」と呼ばれました。資本家の富は増え、アフリカは苦しみました。この奴隷貿易は3世紀半の間続いて、数百万人ものアフリカ人がアメリカに運ばれました。

 

European, above all English and American capitalists had gained enormous profits from the trade in slaves and the work performed by the slaves. Slavery was an essential part of the international capitalist market. By this trade the first large-scale collection of wealth was accumulated, speeding up development towards capitalism. The 'triangular trade’ was one of the foundations of the Industrial Revolution in Europe.

ヨーロッパ人、とりわけイギリスやアメリカの資本家が奴隷貿易と奴隷がした労働から莫大な利益を得ました。奴隷制は国際資本家市場の要の部分でした。この貿易によって大規模な初期の資本蓄積がなされて、速度を上げながら資本主義に向けて進んで行きました。「三角貿易」は、ヨーロッパの産業革命の土台の一つになりました。

For Africa the consequences of the slave trade were ruinous, not only in terms of the boundless suffering of the millions who were taken as slaves, and their descendants, but also for those left behind. In the Middle Passage sometimes whole groups of  Africans, taken on deck at night for air, would leap into the sea – committing mass suicide rather than go into slavery.

アフリカにとっては、奴隷貿易のもたらす結果は、奴隷として連れ出された何百人もの人々とその子孫が被った際限ない苦しみという意味だけではなく、後に残された人たちにとってという意味でも壊滅的でした。中間航路では、外気にあてるためにデッキに連れて出されたアフリカ人たちが集団で海へ飛び込むこともありました。奴隷にならずに集団自殺をしたのです。

ROOTS – Airdate January 23, 1977. (Photo by ABC Photo Archives/ABC via Getty Images) EDWARD ASHER;LEVAR BURTON

Slaveryの日本語訳

SLAVERY 奴隷制度

 As soon as they were landed and sold some would run away into the forest and join the indigenous people who were already living there. Thousands of Africans were brought by force to America to plant cotton, rice, corn, and wheat, to build the roads and clear the forests, to do all the hard work that went into the early building of America.

アフリカ人の中には陸揚げされて売られるとすぐに森に逃げ込み、元からそこに住んでいた現地の人たちと合流するものもいました。何千人ものアフリカ人が力ずくでアメリカに連れて来られ、綿、米、玉蜀黍(とうもろこし)、小麦を栽培し、道路を建設したり、森林を伐採するなど、初期のアメリカの土台を作ったあらゆる過酷な労働を強いられました。

Each slave was sold off to a separate plantation, for plantation owners wanted to keep them from communicating with each other through the same African language. In addition, they tried to prevent the slaves from learning to read and write English, too. When the owners found some slaves trying to read and write, they often punished them severely.

奴隷はそれぞれ別々の農場に売られました。奴隷同士が互いに同じアフリカの言葉で意思の疎通がはかれないようにしたいと荘園主が望んでいたからです。それに、奴隷が英語の読み書きを習おうとするのも邪魔しようとしたのです。荘園主が読んだり書いたりしようとする奴隷を見つけると、厳しく罰することもよくありました。

No man wanted to be a slave. Many tried to escape from slavery. Thousands ran away alone. Some slaves rebelled against their slave masters.

誰も奴隷になりたくありませんでした。多くの人々が奴隷制度から逃れようとしました。何千のも奴隷が一人で逃亡しました。奴隷主に反乱を起こした人たちもいました。

In 1800, a young black, Gabriel, organized a revolt in Virginia that involved thousands of black men and women. But on the day when the uprising was to have started, a great storm and a flood wrecked their plans. The leaders were discovered, and some thirty-five others were put to death by the slave owners. They died silently.

1800ガブリエルという若い黒人がヴァージニアで数千人に及ぶ黒人男女が関わった反乱を起こしました。しかし、その反乱が始まる予定だった日に激しい雨が降って洪水となり、計画が頓挫してしまいました。首謀者は見つけ出され、およそ35人もの人たちも奴隷主に殺されました。その人たちは黙って死んで行きました。

In 1831 another great slave rebellion broke out in Virginia, led by Nat Turner. In this insurrection, some sixty slave owners were killed. More than a hundred blacks lost their lives before this uprising was suppressed. Seventeen slaves were put to trial and hanged. As slaves became increasingly restless, they revolted more and more. In increasing numbers, too, they were escaping to the North.

また1831年には、ヴァージニアでナット・ターナーに率いられて大規模な奴隷の反乱が起きました。この暴動では60人ほどの奴隷主が殺されました。そして暴動が鎮圧されるまでに100以上もの黒人が命を亡くしました。17の奴隷が裁判にかけられて、絞首刑にされました。奴隷の不満が募れば募るほど、ますます反乱を起こしました。北部へ逃亡する奴隷の数も増えていきました。

There were many escaped slaves who fought against their slave owners together with other abolitionists, black and white, in the North.

北部にはたくさんの逃亡して来た奴隷がいて、黒人や白人の奴隷制廃止論者と一緒に奴隷主と闘いました。

ミシシッピ州の州都ジャクソン(1986年撮影、たま)

Harriet Tubman, the great conductor of the Underground Railroad to freedom, a nurse for the Union soldiers in the Civil War, a spy for the Union Armies, went back and forth in the South to rescue slaves.

自由への地下鉄道の偉大な車掌で、南北戦争では北部の兵士のための看護師や北軍のスパイも務めたハリエット・タッブマンは南部へ行き来して奴隷たちを救いました。

Frederick Douglass ran away when he was twenty-one. He got a job in New England, began to make anti-slavery speeches and eventually became one of the Great American abolitionists, founding a paper called 'The North Star,’ writing and speaking for freedom. People in bondage keenly wanted a kind of Moses to lead them to freedom and there appeared their Moses, John Brown. He was a white man, old and tall, with a flowing beard, a Bible in one hand and a gun in the other.

フレデリック・ダグラスは21才のときに逃亡しました。ニューイングランドで職を得て、奴隷制に反対する演説を始めました。そして、やがてはアメリカの偉大な奴隷廃止論者となって「ノーススター」紙を創刊し、自由を求めて本を書いたり、演説もやりました。捕らわれの境遇にいる奴隷は、解放して自由にしてくれるモーゼのような人物を切望していました。そこにモーゼのような人物ジョン・ブラウンが現れました。ジョン・ブラウンは白人で、年老いて背が高く、流れるようなあごひげを生やし、片手には聖書を、もう一方の手には銃を持っていました。

In 1859 John Brown and 22 other members, black and white, marched on the government arsenal at Harpers Ferry, Virginia, intending to seize the arms and give them to the slaves. Some were killed and the rest were taken prisoner. John Brown’s uprising was a failure in so far as freeing the slaves then went. But it shook the empire of slavery to its foundations. It gave courage to the bondsmen and struck terror into their masters. John Brown was hanged. But it was only a matter of time before the Civil War began.

1859年にジョン・ブラウンは黒人、白人を含む22名と一緒に、ヴァージニア州のハーパーズフェリーにある政府の兵器庫に行進しました。武器を奪って奴隷たちに与えるつもりでした。何人かが殺され、残りは捕らえられました。ジョン・ブラウンの蜂起はそのとき奴隷を解放するという点では失敗でしたが、その蜂起は奴隷制の根幹から揺るがしました。その蜂起は奴隷に勇気を与え、奴隷主に恐怖を与えました。ジョン・ブラウンは絞首刑にされましたが、南北戦争が始まるのも時間の問題でした。

ミシシッピ川(ミシシッピ州グリーンウッド)(1986年撮影、たま)

The European capitalists used the profits from the slave trade and from slave labor in America to develop their own industries. Gradually the industrial capitalists grew more powerful than those capitalists who invested in trade. While the slave traders and the plantation owners wanted to keep slavery, the industrial capitalists’ main interest was to buy workers on a 'free labor market.’ The capitalism of free competition was turning into monopoly capitalism.

ヨーロッパの資本家は奴隷貿易やアメリカでの奴隷の労働によって得た利益を自分たちの産業を発展させるために使いました。産業資本家が、奴隷貿易に投資した資本家よりも次第に力をつけて行きました。奴隷商や荘園主が奴隷制を維持したいと思いましたが、産業資本家の主な関心は「自由な労働力市場」で労働力を買い集めることでした。自由競争の資本主義が独占資本主義へと変貌して行きました。

クラス名簿(Zoomではある方がよさそうやから、学生支援課でもらったファイルからコピーしたよ。)

2020年後期 クラス名簿(48名)(2020年10月6日現在)

61200043 イケムラ ヒロト 工学部環境応用化学科
池村 広飛 1年
61200254 ソネ ケンセイ 工学部環境応用化学科
曽根 健聖 1年
61200375 ニシムラ ハルヒ 工学部環境応用化学科
西村 春陽 1年
61200430 ハマカワ コウヘイ 工学部環境応用化学科
濱川 光平 1年
61200441 ハヤシダ カズヤ 工学部環境応用化学科
林田 和也 1年
61200476 ヒダカ ユウセイ 工学部環境応用化学科
日高 祐誠 1年
62180110 カワノ シヨウヤ 工学部社会環境システム工学科
河野 匠哉 3年
62200062 イワモト ソウマ 工学部社会環境システム工学科
岩本 颯真 1年
62200109 オオツカ コウキ 工学部社会環境システム工学科
大塚 恒輝 1年
62200213 クラヅメ トシナリ 工学部社会環境システム工学科
倉爪 駿成 1年
62200259 サトウ リヨウセイ 工学部社会環境システム工学科
佐藤 瞭成 1年
62200471 ミヤジ ユウト 工学部社会環境システム工学科
宮地 優人 1年
63200027 イイヤマ タカト 工学部環境ロボティクス学科
飯山 貴冬 1年
63200030 イガラシ レン 工学部環境ロボティクス学科
五十嵐 廉 1年
63200319 ナカシマ リク 工学部環境ロボティクス学科
中島 陸 1年
63200373 ホリタ ヒデオミ 工学部環境ロボティクス学科
堀田 英臣 1年
63200401 ミヤ ヨシエ 工学部環境ロボティクス学科
宮 佳恵 1年
63200425 モタニ ケンタ 工学部環境ロボティクス学科
茂谷 健汰 1年
63200508 ワタナベ タクヤ 工学部環境ロボティクス学科
渡辺 拓哉 1年
64200222 カミヤ ヒョウ 工学部機械設計システム工学科
神谷 彪 1年
64200271 ソノダ コウダイ 工学部機械設計システム工学科
園田 高大 1年
64200299 タカハシ コウジ 工学部機械設計システム工学科
高橋 輝至 1年
64200356 ニシダ ツバサ 工学部機械設計システム工学科
西田 大翼 1年
64200387 ハヤシ ジユンヤ 工学部機械設計システム工学科
林 隼矢 1年
64200518 ヤガサキ リユウヘイ 工学部機械設計システム工学科
矢ケ崎 龍平 1年
64200523 ヤマガ トモヤ 工学部機械設計システム工学科
山鹿 友也 1年
65160180 サイトウ タイチ 工学部電子物理工学科
齊藤 太一 4年
65200186 クロギ アヤミ 工学部電子物理工学科
黒木 彩心 1年
65200371 ナガタ ジユンペイ 工学部電子物理工学科
永田 惇平 1年
65200384 ナカタケ キヨウタ 工学部電子物理工学科
中武 杏太 1年
65200409 ハシグチ リト 工学部電子物理工学科
橋口 理斗 1年
65200418 ヒグチ レン 工学部電子物理工学科
樋口 蓮 1年
66190222 キリハラ ヒロキ 工学部電気システム工学科
桐原 拓希 2年
66190253 クリタ ワタル 工学部電気システム工学科
栗田 亘 2年
66200060 オゼキ タイセイ 工学部電気システム工学科
尾関 泰正 1年
66200183 タムラ リユウスケ 工学部電気システム工学科
田村 竜佑 1年
66200288 ニシカワ リヨウ 工学部電気システム工学科
西川 遼 1年
66200332 ヒガシ コウシロウ 工学部電気システム工学科
東 香士朗 1年
66200451 モリ カイヤ 休学 工学部電気システム工学科
森 海也 1年
67200018 アマキ ダイスケ 工学部情報システム工学科
天木 大介 1年
67200146 オシカワ リヨウ 工学部情報システム工学科
押川 陵 1年
67200184 カワバタ アオイ 工学部情報システム工学科
川畑 葵 1年
67200212 クシマ リュウヤ 工学部情報システム工学科
櫛間 龍也 1年
67200230 コバヤシ リヨウスケ 工学部情報システム工学科
小林 良輔 1年
67200294 スギモト ダイチ 工学部情報システム工学科
杉元 大地 1年
67200333 タナカ シンノスケ 工学部情報システム工学科
田中 慎乃介 1年
67200368 トダカ ヨシヒコ 工学部情報システム工学科
戸高 快彦 1年
67200528 ヨシオカ シユン 工学部情報システム工学科
吉岡 駿 1年