続モンド通信24(2020/11/20)

2022年1月2日続モンド通信・モンド通信私の絵画館,続モンド通信,随想

続モンド通信24(2020/11/20)

私の絵画館:トムさんと馬(キャンディ)(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~③:8月のパリで(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜21: アフリカ史再考③:ナイルの谷(玉田吉行)

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1 私の絵画館:トムさんと馬(キャンディ)(小島けい)

トムさんとキャンディ

初めて牧場に行き、オーナーのトムさんに話を聞いたのが、2月19日(金)です。そしてその日から一番早い平日が、2月22日(月)。私の初乗馬の日です。(平日の方がお客さんが少ないと聞いたからです。)

月日は曜日まで妙にはっきり覚えているのに、それが何年だったのか。このところずっとあいまいでしたが、古い乗馬ノートがみつかり、2005年とわかりました。

<諸行無常>といいますが。それは牧場も同じこと。馬にも人にも、様々な変化がありました。

以前は、乗馬に来たおじ様たちの談笑の場であったゲストハウス(木造の小屋?)は、最近では若いスタッフの方たちの休憩所になっています。15年も過ぎたのですから、世代交替もあたり前ですね。

アメリカで修行をしたトムさんは、あまりにも調教が上手い!というので、あちこちから呼ばれ、日本各地を飛び回っておられて。最近では、牧場でお会いする機会も、めっきり減りました。

もともと人の少ない場所では、乗馬人口もさらに少なく、ここ宮崎で牧場を維持し続けることは、至難の技です。(実際に、いくつもの牧場がなくなりました。)

ところが女主人のメグさんは、新しい分野を切り開かれました。軽い障害のある子供たちへの<ホース・セラピー>です。

実施にこぎつけるまでには、様々な準備や手続きで何年もかかったそうですが。今ではすっかり定着し、子供たちの<にじいろホース>の活動が、主になっています。

私なども、放課後目を輝かせてやってくる子供たちの邪魔にならないよう、早めの時間帯に行くようにしています。

いわゆる登校拒否の子供たちも、学校へ行くことはできなくても、牧場には喜んでやってくる。ということで、近々教育委員会の方たちも見学に来るとか。

人はみんな違います。<学校>という場所になじめない子供たちに、このような優しい楽しい空間がある。小さなこの牧場で救われる子供たち・親たちは、これからもっと増えてゆくのだろうと思います。

キャンディは、トムさんがわざわざアメリカへ行き、連れて帰ってきた馬のなかの一頭です。今では左目がほとんど見えなくなりましたが、見えないなりに走ることもでき、元気にすごしています。

キャンディと子馬

この絵のダスティも、その時連れてきたなかの一頭です。

同じポーズのダスティを、背景の色、まわりの風景を変えて3枚描きましたが、トムさんはこの一枚を選ばれました。実家の玄関に飾られている、と以前お聞きしました。

 

ダスティ

そうそうダスティは今年、かわいい<ジャスミン>という子馬を産みました。

ジャスミン

牧場に行くと、お母さんのダスティにまだまだしっかり甘えながら、いたずらをしているジャスミンの姿が見られますよ。

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~③:8月のパリで(小島けい)

 絵本の棚を整理していると、フランス語の絵本が数冊でてきました。一番後ろのページに<’76.8.20>とありました。

はるか昔となった8月のパリが、ぼんやりと思い出されました。

その前の年の11月、母が亡くなりました。暑い夏を、母がいなくなった家ですごしたくはありませんでした。私はその年の8月を、パリですごしました。

ひと月あれば、たくさんの絵を見ることができるだろう、漠然とそう思っていましたが。実際には一日に一つの美術館を訪ねる、それがちょうどいいペースでした。

パリには美術館が多すぎて。一ヶ月の滞在でも、ほんの一部しか回れませんでした。けれど、一つだけ小さな<発見>もありました。

美術の教科書には名作といわれる絵の写真が多数載っています。そのなかには<モネの睡蓮>も、必ず入っていました。ただ、私はずっと、この絵のすばらしさがよくわかりませんでした。(今から思えば、当時の写真の色も、よくなかったのでしょうが。)

「睡蓮」

国立西洋美術館https://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1959-0151.htmlより

どの美術館だったのか。さほど大きくはない美術館に<モネの部屋>がありました。記憶では、低い天井の細長い楕円形の部屋だったと思いますが。その長い壁の片側一面が、一枚の<モネの睡蓮>でした。横の長さは5~6mもあったでしょうか。

部屋のまん中には、背もたれのないソファが一つ。私はそこに座り、長い時間、その絵と向きあっていました。これが本当の<モネの睡蓮>なのか・・・・と。

きっと絵の大きさの力もあったと思うのですが、<モネの睡蓮>は写真とは全く違い、生き生きと息づいていました。限りなく静かな水面を描きながら、この上ない迫力をもって、迫ってきたのでした。

今回のパリの旅は、この一枚と出逢えただけで十分だった、と私は打ちのめされてぼんやりとしている頭の片すみで、思いました。

プティホテルの屋根裏部屋の窓から(1992年11月)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜21:アフリカ史再考③:ナイルの谷

「アフリカシリーズ」

アフリカ史再考の3回目、エジプトの話である。

エジプト文明

三千年に渡ってナイル川流域に栄えたエジプト王朝も、実はアフリカ内部の影響を強く受けている。

1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺を皮切りに西洋諸国の世界侵略が始まっているが、侵略者たちは侵略を正当化するために自分たちの都合の言いように歴史を書き、それを押し付けてきた。侵略まがいの行為は今も形態を変えて続いているので、白人優位、黒人蔑視の考え方も、想像以上に実際は世界に浸透している。したがって、古代世界でも類のないほど栄えたエジプト文明も、古代オリエントの枠組みの中では考えられても、アフリカとの関係は完全に無視されて来た。ファラオたちの栄華がアフリカ人の手によって作り出された筈はない、アフリカ人にあんな高度な文明が築き上げられた筈はない、西洋人はこれまでそう信じ込んで来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていた。その辺りの事情について、「アフリカシリース」の中で、エジプトの首都カイロにあるカイロ博物館の中を紹介して歩きながら、バズル・デヴィッドスンは次のように解説している。

「カイロ博物館の絢爛(けんらん)たる宝物の間を歩いていると、古代エジプト文明は他からの影響はほとんど受けない全く独自の文明だと思えてくるかも知れません。恐らく大半の見学者はガイドの説明を聞くうちに、例えばこの若き王ツタンカーメンの顔が黒いのは長い歳月の間に変色したせいだと思うでしょう。ツタンカーメンが黒い皮膚をしていたと考える人は少ないはずです。しかし、これこそ多くのアフリカ学者が取り組んでいる観点なのです。」(「アフリカシリース第1回『最初の光 ナイルの谷』:NHK、1983年)

今から5000年前、エジプト文明は大文明の舞台になっていた。アフリカを知るにはこの時代、ファラオと呼ばれた王たちが支配した古代エジプトを抜きには到底理解することは出来ない。

ナイル川はアフリカ最大の湖ヴィクトリア湖に源を発し、ヴィクトリア湖から地中海に注ぎ込むまで北に向かって延々と6700キロの距離を流れている。エチオピア高原から流れ落ちる青ナイルと合流したあとは、どんな支流もない。ナイル川流域に人間が住み始めたのは数万年前からで、涸(か)れることのないナイル川は毎年定期的に氾濫を繰り返し、肥沃な泥を下流に運んで行った。そこでは、やがて農耕生活が始まった。

ファラオが支配したエジプトは、古代世界でも最も早く、また最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。ファラオたちはデルタ地帯の下エジプト、それより上流の上エジプト、その二つの領域に君臨していた。

今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中にはこうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族もまじっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

嘗ては大西洋からナイル川流域までサハラ全域には様々なアフリカ人が住んでいたと思われる。1956年にフランスの調査隊が発見したタッシリナジェール山脈の砂の中に埋もれていた岩絵には、緑のサハラの生活が生き生きと描かれている。一番古い時代のモチーフは猟をする姿で、最古の絵は七千年から八千年前に描かれたと推測されている。時代を経るにつれて絵にも変化が表われ、鞍や手綱を付けた馬は輸送手段の発達を物語っているし、犂(すき)をつけた牛からは農耕生活が営まれていたことがわかる。精巧な馬車の絵は後期のもので、人々の衣装は古代エジプト人のスカートと驚くほどよく似ている。

タッシリナジェールの岩絵

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人ともまじわっていったわけである。

古代エジプト人は大抵、自分たちの皮膚の色を赤みがかったピンクで表している。エジプト人の中には西アジアの血も流れているが、実際は、それ以上にアフリカ黒人とまじり合っていて、貴婦人の中にはエジプトの南のヌビア人がたくさんいた。ヘマカの墓から出た絵には一見して黒人とわかる貴婦人が白人の侍女を従えている様子が美しく描かれている。上エジプト王セン・ウセルト3世のように、王家に黒い肌の子供が生まれることも珍しくなかった。

古代エジプトには、エジプトとヌビアの境目にあるナイル川に浮かぶエレファンテイン島は非常に神聖な場所と考えられ、ヨーロッパ人が好んでたくさん訪れた。その中の一人歴史家のヘロドトスもその島まで足を延ばしている。ギリシャ人は違う世界の人種を異なってはいるが同等と見なす伝統の中で育っていた。エジプトに詳しいヘロドトスのようなギリシャ人は、エジプトの起源は南から来た黒人と考えていた。

ヌビア人と古代クシュ王国

アスワンダムやアスワンハイダムの建設によって水没してしまったヌビアの遺跡も多いのだが、移転された遺跡からヌビアにはナイル流域最古の王国の一つがあり、それが後のエジプトの王国の先駆けになっていたことがわかる。遺跡の一つ三千年ほど前に造られたアブ・シンベル神殿の正面を飾るラムセツ2世の巨大な像の前に立ちながら、デヴィッドスンは都から遠く離れたヌビアにこのような大規模な大神殿を建てたのは愛妻ネフェルタリ王妃がヌビア人だったからではないかと推測している。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、ファラオとしてエジプト全土を掌握した。第25王朝である。

南から来たファラオの中でも一番有名なのはタハルカ王で、ヴィッドスンはカイロ博物館の中にある巨大な立像を見上げながら「紀元前七世紀当時、エジプト人はこの王を世界の支配者と見なしていました。聖書にもエチオピア王テルハカとして出ています。エチオピアとは黒人という意味で、タハルカ王はヌビアのクシュ王国と全エジプトの王として君臨していたのです。」と話している。

タハルカ王の立像

ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。メロエの都は古代エジプトの国境から南へ千数百キロ、アフリカのずーっと内陸にあった。ヴィッドスンはワゴン車でメロエ(スーダン)を訪れながら「ここに来る度に私は驚異の念に打たれずにはいられません。荒涼たる砂漠の真ん中に失なわれたアフリカを物語る遺跡が忽然と現われるのです。アフリカ最古の黒人帝国の形見、地平線に浮かぶその姿は時の波に洗われ、砂の海を漂う難破船のように見えます。この林立するピラミッドは700年にわたってこの地を治め、葬られたクシュの王や王妃の墓です。長い間歳月や墓荒らしによって荒れるにまかせて来ましたが、現在、修復、再建が進められています。」とその感慨を述べている。

ベルベル人とペルシャ人

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人である。そして、サハラの砂漠化が進んだ後にラクダで砂漠を越えて様々な王国が栄えていた西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間の砂漠の民トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていたという壮大な話で、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく発展していった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。

トワレグ人の分布地図

東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

サハラ砂漠のトワレグ人

次回は「大陸に生きる」人たちである。

胡瓜はもう枯れてしまった。2期作をもくろんだが、あまり大きくならず、不成功に終わってしまった。鞘オクラも同様である。来年はもう2か月ほど早く種を蒔いて、もう一度やってみるつもりである。うまく行くやろか。

(宮崎大学教員)