英語 Ra2(2)

1月16日(水、月曜日振替授業)

今日は何とか今日中に書けそうです。7時から自治会の役員会があり、あかんやろなと思ってたけど。

13回目、映画「招かれざる客」(Guess Who’s Coming  to Dinner)の続きを1時間余り、ゴスペルとブルースを少々聴いてもらいました。

お母さん役のキャサリン・ヘップバーンがタイトルのGuess Who’s Coming  to Dinnerと言ってたん聞けたか?

ドライブに行く前に、靴紐を結びながらご主人と遣り取りして居るときにその台詞を言ってたけど、誰が来ると思います?くらいのいみやろな、タイトルの「招かれざる客」の日本語訳はなかなかええと思うけどね。(晩年のシドニー・ポワチエ ↓)

映画の解説を最後に貼っておきます。→★

残りの時間、そうなかったけど、ワシントン大行進のときのテーマソングWe Shall Overcomeのゴスペルの女王マへリア・ジャクソン(写真 ↓)の歌、ミシシッピのguitar evangelistの演奏と歌、シカゴブルース2曲、普段はなかなか聴けない歌を聴いてもらえました。

その辺りの歌については ↓

<17>→「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」(No. 90  2016年2月9日)

時代背景については ↓

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」

を読むとよりわかりやすいと思います。(前回もリンクを貼ってるけど)

来週、また。

たま

★「招かれざる客」

GUESS WHO’S COMING TO DINNER (1967)

【解説】「アメリカ上陸作戦」のウィリアム・ローズのオリジナル・シナリオを、「愚か者の船」のスタンリー・クレイマーが製作・監督した。撮影は「手錠のままの脱獄」のサム・リーヴィット、音楽は「真昼の衝動」のデヴォル。出演は、これが遺作となった「おかしな、おかしな、おかしな世界」のスペンサー・トレイシー、「いつも心に太陽を」のシドニー・ポワチエ、「去年の夏突然に」のキャサリン・ヘップバーン、そのほか、キャサリン・ホートン、セシル・ケラウェイなど。
サンフランシスコ空港で飛行機から降り、タクシーに乗った若いカップルが、人目をひいた。だが、人々のぶしつけな視線など気にしないかのように、黒人青年と白人女性は親しげに語り合っていた。青年はジョン(シドニー・ポワチエ)といい、世界的に著名な医師。女性の名はジョーイ・ドレイトン(キャサリン・ホートン)。2人はハワイで知り合い、互いに愛し合う間柄となったのである。ジョーイの母クリスティ(キャサリン・ヘップバーン)は、娘の婚約者が黒人であることを知り、驚いたが、娘の嬉々とした様子に、動揺は次第に喜びに変わっていった。だが、父のマット(スペンサー・トレイシー)は、そうはいかなかった。新聞社を経営し、人種差別と闘ってきたマットも、自分の娘のこととなれば、話はちがってくるのだ。ジョンは、学界でも有数な人物であり、近くジュネーブの大学院に迎えられることになっているということは、マットも知ってはいるのだが、黒人と白人との結婚には、想像を絶する困難がある。結婚を許しながらもマットは割り切れなかった。ジョンのジュネーブ行きの時間が迫っており、2人はその前に、互いに両親の了解を得たがっていた。息子の見送りと嫁に会うため、ジョンの両親プレンティス夫妻が空港に着き、ジョーイは出迎えたが、夫妻は嫁が白人であることを知り愕然とした。やがて、夕食の時が訪れた。ジョンとジョーイ、ドレイトン夫妻、プレンティス夫妻。そしてドレイトン夫妻の友人であるライアン神父。母親同士は結婚には賛成だったが、父親同士は反対し、とくに、マットは頑固だった。だが、そのマットも、若い2人のどんな困難にも立ち向かおうとする真剣さとその情熱に、かつての自分の青春を見、その尊さに気づき、2人の結婚を認めた。一同はそろって、夕食の席に着くのだった。→「招かれざる客」

 

 

英語 Ra2(2)

1月7日

12回目でした。

この辺り、毎日体を崩さないようにするだけでいっぱいいっぱい、毎回ブログを書くのもなかなか。

もう1週間が経って、授業の前の日になってしまいました。何とか書いとこうと思います。

折角大きな部屋を使ってやっているし、来年取りやめたアフロアメリカの歴史と音楽(3年生、2年生には学士力発展科目として取ってくれた人が多かったのにね)のかわりに、出来ればまとまって話をしておきたいと後期はやってきたけど、トーイックの過去問などをやると、それはそれで時間がかかるし。でも、何とか一本は映画を観てもらえるように、前回の続き、南北戦争から反動→公民権運動と一気に話をして、1963年のワシントン行進のときにキング牧師が言った夢の一つ、元奴隷の息子と元奴隷主の息子が同じテーブルに座って・・・・というのをそのままハリウッドに持ち込んだ映画「招かれざる客」(Guess Who’s Coming  to Dinner)を50分余り観てもらいました。途中で切ったとき、声が出てたから、それなりに惹きつけるところがあったんやろな。

あした(月曜日振替)は、その続きを60分ほど、そのあと時間があれば、少し前後の事情も補足して、歌を少々。反動の時期に産まれたブルースStrange Fruitやシカゴブルース、それに公民権運動の時、特にワシントン大行進のときのテーマソングWe Shall Overcomeなども聴いてもらおうと思います。

わりと大雑把に南北戦争(北部の産業資本家と南部の寡頭勢力の労働力の奪い合い)→反動→公民権運動(南北戦争の妥協の産物奴隷解放の実質化=公民権を求めて闘った)と走ったので、少し補足しときます。

北部共和党が担いだリンカーンが大統領になったとたん南部はアメリカ合衆国から脱退したので、リンカーンの最大の目的は南北合一になり、南北戦争。しかし、経済的に拮抗している北軍と南軍が戦っても元より最終的な決着はつかず、一応の決着をつけるために北部の自由黒人の参戦を認めて何とか勝利、その見返りに出した解放宣言は、もちろん奴隷の権利や生活を保障するものではなく、実質的な解放宣言は1954年の最高裁の判決。

そんな流れです。

その間、激動の時代、いろいろな事件がありました。

1896年の隔離すれども平等の最高裁の判決を覆した1954年の最高裁での公立学校での人種隔離は違憲という判決に従って、実際に黒人の高校生が白人の高校に入学する際に起こったアーカンソー州リトルロックの高校事件。その事件を題材にした映像「アーカンソー物語」(Crisis at Central High)の一部をみてもらいました。
白人の狂気、PTAの凄まじさ、今の時代にはほとんど見られない光景やけど、僕が受けた大学院での日教組の反対運動や、入学する1年前の東大安田講堂での学生と機動隊の攻防など、身近にあった光景です。
(僕が諦観を抱き世の中に関心を持てなくなった入った大学でさえも、まだ学生運動のなごりで、授業をしないで毎日クラス討議→学舎封鎖(写真↓神戸市外国語大学旧学舎)→機動隊による排除を冷ややかに眺めていました。)

黒人生徒の入学を阻止するのために州兵が出動、それを大統領命令で州兵を連邦政府軍の配下に置いて、今度は連邦政府軍が出動、それまでは考えられなかった天と地が逆さまになったような事態、公民権運動の間はずっとそんな状態が続いていたようです。
その大学版のミシシッピ州立大学の映像は観てもらえなかったけど、ワシントン大行進の映像は少し観てもらいました。

また、あした、あと3回やね。

たま

冬休みにHPや出版社のブログからこのブログにたくさんの記事を移しました。アフロアメリカの歴史について書いたものも移してあります。 <3>~<5>と<17>は、今読めばわかりやすいと思います。それもあって、冬休みに時間をかけました。 ↓

「アフリカ系アメリカ小史一覧」

<1>→「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」

<2>→「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」

<3>→「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」

<4>→「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」

<5>→「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」

<17>→「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」(No. 90  2016年2月9日)

「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」

 

英語 Ra2(2)

12月17日

11回目、今年最後の授業でした。

来週、再来週は休みで、次回は1月7日(課題提出)、13回目は16日(水、月曜日振替)、14回目は21日(月)、28日(月)が最終日です。

次回から、授業についてのコメントを聞きたいと思っています。最終日に全員でもええんやけど、8~9人を4回にわけて言ってもらえると嬉しいです。授業の内容(アフリカ、アフロアメリカ関係、トーイック、課題など)について、質問、要望、提案などがあれば遠慮無く。来年も担当予定なので、その時のためにも参考に出来ればと思っています。

今日は何曲か聴いてもらって、Slaveryを最後まで。今回も濟陽くんがやってくれた箇所の日本語訳を貼っときますので、参考にしてや。

Paul Robesonが歌うアイルランド民謡Danny Boy(イギリスに渡って特にシェイクスピアのオセロ役(黒人)でヒットしてヨーロッパで有名になったこともあってヨーロッパの民謡も歌っています)、ゴスペルの女王マへリア・ジャクソンが歌うメドレーSummertime(たぶんジャズナンバー), Sometimes I Feel Like a Motherless Child(たぶんスピリチャル)、それからクロマティのゴスペルの映像の冒頭とメンフィスのマへリア・ジャクソンの映像、公民権運動の時に始まったソウルの映像(ブルーズブラザーズから)。

マへリア・ジャクソン

あと、ゴスペルの映像を何本かと、ブルース、ジャズを何曲か紹介出来たら。公民権運動の時にWe Shall Overcome、そのあとWe Are the World、までかな。

歴史については、南北戦争→占領政策→反動→公民権運動と続きます。次回はさっと話をして、関連の映像も観てもらうつもりです。出来れば、公民権運動時代の映画を一本観てもらえたらええんやけど、ね。

トーイックに関しての例文のプリント④も、次回、各グループの割り当てを決めて、少しでもやろ。④の残りに目を通しておいてやな。

濟陽くんがやってくれた箇所の日本語訳です。

There were many escaped slaves who fought against their slave owners together with other abolitionists, black and white, in the North.

北部にはたくさんの逃亡して来た奴隷がいて、黒人や白人の奴隷制廃止論者と一緒に奴隷主と闘いました。

Harriet Tubman, the great conductor of the Underground Railroad to freedom, a nurse for the Union soldiers in the Civil War, a spy for the Union Armies, went back and forth in the South to rescue slaves.

自由への地下鉄道の偉大な車掌で、南北戦争では北部の兵士のための看護師や北軍のスパイも務めたハリエット・タッブマンは南部へ行き来して奴隷たちを救いました。

ハリエット・タッブマン

Frederick Douglass ran away when he was twenty-one. He got a job in New England, began to make anti-slavery speeches and eventually became one of the Great American abolitionists, founding a paper called 'The North Star,’ writing and speaking for freedom. People in bondage keenly wanted a kind of Moses to lead them to freedom and there appeared their Moses, John Brown. He was a white man, old and tall, with a flowing beard, a Bible in one hand and a gun in the other.

フレデリック・ダグラスは21才のときに逃亡しました。ニューイングランドで職を得て、奴隷制に反対する演説を始めました。そして、やがてはアメリカの偉大な奴隷廃止論者となって「ノーススター」紙を創刊し、自由を求めて本を書いたり、演説もやりました。捕らわれの境遇にいる奴隷は、解放して自由にしてくれるモーゼのような人物を切望していました。そこにモーゼのような人物ジョン・ブラウンが現れました。ジョン・ブラウンは白人で、年老いて背が高く、流れるようなあごひげを生やし、片手には聖書を、もう一方の手には銃を持っていました。

フレデリック・ダグラス

In 1859 John Brown and 22 other members, black and white, marched on the government arsenal at Harpers Ferry, Virginia, intending to seize the arms and give them to the slaves. Some were killed and the rest were taken prisoner. John Brown’s uprising was a failure in so far as freeing the slaves then went. But it shook the empire of slavery to its foundations. It gave courage to the bondsmen and struck terror into their masters. John Brown was hanged. But it was only a matter of time before the Civil War began.

1859年にジョン・ブラウンは黒人、白人を含む22名と一緒に、ヴァージニア州のハーパーズフェリーにある政府の兵器庫に行進しました。武器を奪って奴隷たちに与えるつもりでした。何人かが殺され、残りは捕らえられました。ジョン・ブラウンの蜂起はそのとき奴隷を解放するという点では失敗でしたが、その蜂起は奴隷制の根幹から揺るがしました。その蜂起は奴隷に勇気を与え、奴隷主に恐怖を与えました。ジョン・ブラウンは絞首刑にされましたが、南北戦争が始まるのも時間の問題でした。

ジョン・ブラウン

The European capitalists used the profits from the slave trade and from slave labor in America to develop their own industries. Gradually the industrial capitalists grew more powerful than those capitalists who invested in trade. While the slave traders and the plantation owners wanted to keep slavery, the industrial capitalists’ main interest was to buy workers on a 'free labor market.’ The capitalism of free competition was turning into monopoly capitalism.

ヨーロッパの資本家は奴隷貿易やアメリカでの奴隷の労働によって得た利益を自分たちの産業を発展させるために使いました。産業資本家が、奴隷貿易に投資した資本家よりも次第に力をつけて行きました。奴隷商や荘園主が奴隷制を維持したいと思いましたが、産業資本家の主な関心は「自由な労働力市場」で労働力を買い集めることでした。自由競争の資本主義が独占資本主義へと変貌して行きました。

また、来年やね。

英語 Ra2(2)

12月10日

10回目でした。その日のうちに書いたつもりが、前日になりました。水曜日から金曜日まで東京に行ってたせいか、ずいぶんと日にちが経ったような気がするなあ。

最初に、Deep River, Go Down, Moses, Joshua Fit the Battle of Jericoを聴いてもらい、クンタが売り飛ばされるAuctionと農園から逃亡して奴隷狩りに捕まえられ、鞭打ちされる場面を観てもらいました。(ちょっと曖昧、授業前に誰かに聞いて確かめんとね)

Paul Robeson

それから、A Short History of Black AmericansのSlave Tradeを橋口くんが、Slaveryを濟陽くんがやってくれ、途中で時間切れ。次(あした)はその続きから。

読んだあと、今度は映像と歌をたっぷり紹介出来るとええね。

スピリチャルやゴスペルなどの教会音楽→ソウル→ブルース(→ジャズ→アメリカンポップス、ラップなど)くらいまではいろいろ観て、聴いてもらいたいなあ。折角大きな部屋で気兼ねなしに聴いてもらえるんやしね。

南北戦争(北部の産業資本家と南部の寡頭勢力の労働力の奪い合い)→公民権運動(南北戦争の妥協の産物奴隷解放の実質化=公民権を求めて闘った)は、年明けになるね。

この前もすすめたけど、歴史を英語で読むのは、たぶんこの時間くらいしか将来機会がないと思うので、この機会に是非。課題図書にも入れてあるLangston HughesのThe Glory of Negro Historyは著者本人の朗読もあるし、誰にでも読みやすいように詩人が書いてくれた文章なので、お薦めです。音声はCDに入れてあり、本文もプリントにしてあります。

Langston Hughes

トーイックに関しては、折角例文のプリントも配ってあるんで、少なくとも④の残りは、グループで例文作りをやってもらえたらと思っています。さっと解説したあと、各グループに割り当てるんで、出来れば④の残りに目を通しておくとええな。

橋口くんと濟陽くんがやってくれた箇所の日本語訳を貼っときます。

A Short History of Black Americans," in Africa and Its Descendantsアフリカ黒人小史、『アフリカ、その末裔たち』(1刷)

(2刷)

SLAVE TRADE 奴隷貿易

By the early 1500’s, black people were going to the New World. The first blacks went to America as explorers, not as slaves.

1500年代の初め頃までには、黒人は「新世界」に行くようになっていました。最初の黒人は、奴隷としてではなく探検家としてアメリカに行きました。

In 1619 twenty Africans were unloaded in Jamestown, Virginia. That was the year when the roots of slavery began in the United States. Slave ships filled with captured black men and women began to sail across the Atlantic Ocean to the American shores.

1619年に20人のアフリカ人がバージニアのジェイムズタウンに積み荷として陸揚げされました。それが合衆国の奴隷制度の元が始まった年でした。捕われの身となった黒人男女で一杯の奴隷船が大西洋を横断してアメリカの岸へと航海を始めました。

In the slave trade the merchants’ profits and the products from America were exchanged in Europe for guns and cloth which were brought to Africa and exchanged for slaves. These humans were sold in America where they produced the goods to be brought to Europe. This was the so-called 'triangle trade’ or 'triangular trade.’ The riches of capitalists grew while Africa suffered. This slave trade continued for three and a half centuries and brought millions of Africans to America.

奴隷貿易では、商人の利益とアメリカでの産物がヨーロッパで銃や布と交換され、それがアフリカに持って行かれて奴隷と交換されました。その人たちはアメリカで売り飛ばされ、そこで産物を作って、その産物がヨーロッパに運ばれました。これは「三角貿易」または「三角の貿易」と呼ばれました。資本家の富は増え、アフリカは苦しみました。この奴隷貿易は3世紀半の間続いて、数百万人ものアフリカ人がアメリカに運ばれました。

European, above all English and American capitalists had gained enormous profits from the trade in slaves and the work performed by the slaves. Slavery was an essential part of the international capitalist market. By this trade the first large-scale collection of wealth was accumulated, speeding up development towards capitalism. The 'triangular trade’ was one of the foundations of the Industrial Revolution in Europe.

ヨーロッパ人、とりわけイギリスやアメリカの資本家が奴隷貿易と奴隷がした労働から莫大な利益を得ました。奴隷制は国際資本家市場の要の部分でした。この貿易によって大規模な初期の資本蓄積がなされて、速度を上げながら資本主義に向けて進んで行きました。「三角貿易」は、ヨーロッパの産業革命の土台の一つになりました。

For Africa the consequences of the slave trade were ruinous, not only in terms of the boundless suffering of the millions who were taken as slaves, and their descendants, but also for those left behind. In the Middle Passage sometimes whole groups of  Africans, taken on deck at night for air, would leap into the sea – committing mass suicide rather than go into slavery.

アフリカにとっては、奴隷貿易のもたらす結果は、奴隷として連れ出された何百人もの人々とその子孫が被った際限ない苦しみという意味だけではなく、後に残された人たちにとってという意味でも壊滅的でした。中間航路では、外気にあてるためにデッキに連れて出されたアフリカ人たちが集団で海へ飛び込むこともありました。奴隷にならずに集団自殺をしたのです。

SLAVERY 奴隷制度

 As soon as they were landed and sold some would run away into the forest and join the indigenous people who were already living there. Thousands of Africans were brought by force to America to plant cotton, rice, corn, and wheat, to build the roads and clear the forests, to do all the hard work that went into the early building of America.

アフリカ人の中には陸揚げされて売られるとすぐに森に逃げ込み、元からそこに住んでいた現地の人たちと合流するものもいました。何千人ものアフリカ人が力ずくでアメリカに連れて来られ、綿、米、玉蜀黍(とうもろこし)、小麦を栽培し、道路を建設したり、森林を伐採するなど、初期のアメリカの土台を作ったあらゆる過酷な労働を強いられました。

Each slave was sold off to a separate plantation, for plantation owners wanted to keep them from communicating with each other through the same African language. In addition, they tried to prevent the slaves from learning to read and write English, too. When the owners found some slaves trying to read and write, they often punished them severely.

奴隷はそれぞれ別々の農場に売られました。奴隷同士が互いに同じアフリカの言葉で意思の疎通がはかれないようにしたいと荘園主が望んでいたからです。それに、奴隷が英語の読み書きを習おうとするのも邪魔しようとしたのです。荘園主が読んだり書いたりしようとする奴隷を見つけると、厳しく罰することもよくありました。

No man wanted to be a slave. Many tried to escape from slavery. Thousands ran away alone. Some slaves rebelled against their slave masters.

誰も奴隷になりたくありませんでした。多くの人々が奴隷制度から逃れようとしました。何千のも奴隷が一人で逃亡しました。奴隷主に反乱を起こした人たちもいました。

In 1800, a young black, Gabriel, organized a revolt in Virginia that involved thousands of black men and women. But on the day when the uprising was to have started, a great storm and a flood wrecked their plans. The leaders were discovered, and some thirty-five others were put to death by the slave owners. They died silently.

1800ガブリエルという若い黒人がヴァージニアで数千人に及ぶ黒人男女が関わった反乱を起こしました。しかし、その反乱が始まる予定だった日に激しい雨が降って洪水となり、計画が頓挫してしまいました。首謀者は見つけ出され、およそ35人もの人たちも奴隷主に殺されました。その人たちは黙って死んで行きました。

In 1831 another great slave rebellion broke out in Virginia, led by Nat Turner. In this insurrection, some sixty slave owners were killed. More than a hundred blacks lost their lives before this uprising was suppressed. Seventeen slaves were put to trial and hanged. As slaves became increasingly restless, they revolted more and more. In increasing numbers, too, they were escaping to the North.

また1831年には、ヴァージニアでナット・ターナーに率いられて大規模な奴隷の反乱が起きました。この暴動では60人ほどの奴隷主が殺されました。そして暴動が鎮圧されるまでに100以上もの黒人が命を亡くしました。17の奴隷が裁判にかけられて、絞首刑にされました。奴隷の不満が募れば募るほど、ますます反乱を起こしました。北部へ逃亡する奴隷の数も増えていきました。