アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後
概要
前回は『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」("A Short History of Black Americans")の④で、第二次世界大戦後、法的に解放されながら基本的には余り変わらなかったアフリカ系アメリカ人が立ち上がって闘った公民権運動ついて書きました。今回は公民権運動のその後についてです。
本文
公民権運動、その後
公民権法が成立して半世紀が立ちました。私は戦後まもなくの1949年に生まれましたから、その頃アメリカでは、変革の嵐が吹き荒れようとしていたわけです。1954年の最高裁判決から1963年のワシントン大行進、翌年の公民権法成立まで怒濤のような日々が続きました。
ワシントン大行進で手を振るマーチン・ルーサー・キング牧師
同じ頃、無条件降伏を受け入れた日本では、占領政策により、日常に「アメリカ」がどっと押し寄せて来ていました。学校ではアメリカの言葉が偏重され、小学校の頃にはテレビが普及し始めてハリウッド映画が流れ、食事も洋食が増えていきました。一度は独立を果たした大抵のアフリカ諸国が軍事独裁政権の名の下に暗黒の時代に突入して行くのを尻目に、日本はオリンピックを機に高度経済成長期にどっと流れ込んで行きました。田舎の隅々まで道路が整備され、新幹線も開通して速度を増して行きました。
公民権運動が終わった1970年代の初めに大学に入って、始めてリチャード・ライトの作品を英語の授業で目にしました。70年安保、安田講堂の攻防があった翌年です。学生運動は国家に完璧に押さえ込まれたのに、地方の大学ではまだ残り火がくすぶっていました。火炎瓶を脇に置き、ヘルメットを被った学生がマイクを手にがなり立てていました。
神戸市外大旧学舎のバリケード封鎖、1971年(大学ホームページより)
そのころ神戸三宮の場末の映画館で再上映されていた、シドニー・ポワチエの「招かれざる客」(“Guess Who’s Coming to Dinner”) や「いつも心に太陽を」(“To Sir, with Love,” 1967)を観ています。ことを起こした張本人の責任は棚に上げて、白人アメリカは公民権運動を支持しているぞと、ハリウッドから全世界に発信して大儲けするところは如何にもアメリカらしいと思いますが。
「招かれざる客」「いつも心に太陽を」の主人公シドニー・ポワチエ
もちろん持てるものがそう簡単に既得権益を手放すわけがありません。公民権法が成立したとはいえ、経済格差や長年かかって根付いた人種的な偏見がそう簡単に是正されることはあり得ません。公民権運動を検証するドキュメンタリーがたくさん放映されてきましたが、「キング牧師の遺産~いま アメリカ黒人社会は~」(英テムズTV、1988年)もその一つです。アラバマ州の白人街ラウンデスボロに黒人が移り住む場合にどうなるか、市長のT・リンガムが「ここでは前例のない話ですし、他の地区でもそんな話は聞いたためしがありません。だから、どうなることやら引っ越して来たとしても翌朝までその家が無事かどうか。引っ越して来るのは自由ですが、保証はし兼ねます。」とインタビューに応じています。
マーチン・ルーサー・キング牧師
またアラバマ州フォーサイスで行なわれた黒人デモ(1987年)では「帰れ、ニガー」などの罵声とともに白人の激しい憎悪が向けられていました。ジョージア州ストーンマウンテンで行なわれた反黒人団体キュークラックスクランの集会では「警察が腑抜けなら我々が制裁を!ジョージアのクランは法を超越する。聞け、ニガーども!我々を甘く見るな。もっと大声でホワイとパワー!」と白人青年が絶叫していました。
1954年の判決後人種共学の「草分け」としてサウスカロライナ州のグリーンズボロ高校を卒業したジョセフィンブラッドレーさんは白人生徒たちに卵やトマトを投げつけられ、卒業式にはやじと怒号を浴びせられ、父親の食堂も焼かれたそうで、半世紀後に「いったい何の役にたったのか」とやりきれない思いを語っています。(「人種共学阻む経済力」読売新聞、2005年12月)
公立学校の人種共学に続いて、人種的少数派への優遇措置「アファーマティブ・アクション」(積極的差別撤廃措置)も広がりましたが、90年代に入り経済力のある白人が私立学校に子供を入れるようになり、人種隔離は60年代と同程度にまで再び拡大しています。1978年には「逆差別」だと主張した白人学生の入学を認める判決が下され、1966年にはカリフォルニア州で措置を廃止する住民投票も成立しています。もっとも、その時期に南カリフォルニアに在外研究に行っていた同僚の話では、実際に優遇措置をなくして入試をしたところ黒人の入学者がいなくなり、これはやばい、暴動の恐れがあるぞと、その次の年に元の入試に戻したということでした。ロサンゼルスの暴動で韓国系アメリカ人が襲われた恐怖が大きかったということでしょう。
最近ミズリー州ファーガソンで起こった黒人(アフリカ系)射殺事件も、多数派の黒人社会と、白人中心の警察との日頃からの隔絶が表面化したもので、背景には貧困や人種の壁が厳然とあり、全米に共通した問題でもあります。
2002年の74回アカデミー賞授賞式で、「49年間追い続けたシドニーと同じ夜に授賞できました。今まであなたの後を追い続けて来ました、あなたの足跡を追い続けてきました。これ以上の感謝の言葉もありません。」とトロフィーを高々と掲げながら名誉賞を受けたシドニー・ポワチエに語りかけたデンデル・ワシントンの祝辞は、苦難を強いられてきたアフリカ系アメリカ人の思いを代弁していたのかも知れません。悪の限りを尽くすサンフランシスコ市警を演じた「トレイニング デイ」( “Training Day,” 2001)での二度目の主演男優賞です。(宮崎大学医学部教員)
デンデル・ワシントン
アフリカ系アメリカ小史④では、「闘いは続く」("STUGGLE CONTINUES")について、英文で書きました。日本語訳もつけた全文は→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis9.docx(画面上に出てくるZimHis9.docxです。)アドレスをクリックすれば “A Short History of Black Americans” in Africa and Its Descendants「アメリカ黒人小史」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995; 2009; Chapter 3) のワードファイルをダウンロード出来ます。
『アフリカとその末裔たち』