リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)

2019年5月4日1976~89年の執筆物アフリカ,アフリカ系アメリカ,リチャード・ライト

解説

修士論文「リチャード・ライトの世界」では小説を中心に書いたのですがイギリス植民地ゴールド・コーストを訪れて書いた『ブラック・パワー』に続いて、1955年のインドネシアのバンドンでのアジア・アフリカ会議に出かけて書いた『カラー・カーテン』を黒人研究の会の例会で発表しました。

背景のアフリカ系アメリカの歴史やアフリカの歴史についても考え始めた頃なので、全体像もつかめないままの発表だったと思います。しかしライトの描こうとした世界の全体像をつかむためには避けられない作品だと考えて、例会を利用させてもらいました。

大抵例会で発表したものについてはその後活字にしましたが、『カラー・カーテン』については書いていません。

ナタラジャン著『広島からバンドンへ』は、ペンタゴン(米国攻防総省)の環太平洋構想を知るうえで極めて示唆的な新書でした。インド人が書いたのも印象に残っています。

アフリカ系アメリカ人の背景を知るなかで、奴隷貿易→産業革命による産業化→市場・原材料を求めての植民地争奪戦→植民地分割・植民地化→第二次世界大戦後の資本投資・多国籍企業の貿易による新しい形の搾取構造の構築というアフリカ史を辿るきっかけにもなりました。

フィリピンからスペインを駆逐して居座った米西戦争→第二次大戦・沖縄→朝鮮戦争・ソウル→ベトナム戦争・ハノイ→ソマリア内戦・モガディシオ→アフガニスタン→イラン・イラクと、今も続くペンタゴンの環太平洋構想から見る見方はこの『カラー・カーテン』を発表する準備の段階で得た貴重な視点だったように思います。

会報写真

「黒人研究の会会報」 第24号 (1986) 9ペイジ。

本文

7月例会:神戸外大(7月12日〉

リチャード・ライトと『カラー・カーテン』

ライト写真

『ブラック・パワー』に引き続いて、今回は、『カラー・カーテン』を取り上げました。フランスに移住してからのライトは、抑圧の問題を、より広い視野からとらえようと努力していました。1950年には、インドの首相パンディット・ネルーにあてて「抑圧に反対するだけではなく、人類の発展のために闘うには、世界の人々の団結が必要であります」という旨の書簡を送っています。したがって、アジア・アフリカ諸国の初めての大規模な会議に、ライトが駆けつけたのは、自然のなりゆきであったと言えます。ライトは、ゴールド・コーストへ出かけた場合と同様に、数冊の本を読んでから現地に乗り込んでいます。

今回の発表は、次の順序で行ないました。

1. バンドン会議について(朝日新聞1955年、1965年、1985年の記事を参照にして)

2. バンドン会議と日本(ナタラジャン著『広島からバンドンへ』岩波書店に触れて)

3.ライトとバンドン会議(ネルーへの手紙と『ブラック・パワー』に関連して)

4.『カラー・カーテン』に対する評価

5.私の評価

前回の『ブラック・パワー』の場合もそうでしたが・政治・経済・歴史などに疎い私には、ずいぶんと荷の重すぎる作品でした。しかし、何とかライトを正当に評価したいと願う現在、「ライトを評価する場合、作品だけではなく、闘争的知識人としての業績をも同様に評価すべきである」というファーブルさんの指摘がどうしても耳から離れません。当分は、少なくとも当分は、「苦難」の道は避けられないようです。

発表をひとつのきっかけにしたいと思います。

カラーカーテン写真

執筆年

1986年

収録・公開

「黒人研究の会会報」24号9ペイジ

会報写真

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リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)(103KB)