1976~89年の執筆物

概要(作業中)

 

本文(写真作業中)

庭では梅か満開です。木蓮の枝にさした二つ切リのみかんに、めじろやうぐいすが飛んで来て、春近しを告げてくれます。あとは、時を待つ沈丁花がにほひ出せば、春の始まりです。

紫木蓮

セスゥル、お変わりありませんか。カナダの冬はどうですか。ローズマリー、レイチェル、アレクセイは元気ですか。

レイチェルと

「遠い夜明け」を観ました。映画の間じゅう、涙が止まりませんでした。画面に写し出されるしなやかなスティーヴ・ビコの姿が、セスゥル、あなたやラ・グーマに重なって仕方がなかったからです。おそらく、ビコの黒人意識運動とラ・グーマの生きざま、あなたが夏に語ってくれた生き方の姿勢と私が常日ごろ思っている考えが、基本的なところで同じだったからでしょう。スクリーンに映る様々な光景が、あなたやラ・グーマの辿った過去の軌跡とまぶたの中で重なって来るのてす。

スティーヴ・ビコ

アフリカーナー(オランダ系ボーア人)と呼ばれる白人ドナルド・ウッズが編集長をしていたイーストロンドンの小さな新聞「デイリー・ディスパッチ」は、アパルトヘイトと勇敢に闘った伝統を持つ新聞だったそうですが、それはラ・グーマがコラム欄「わが街の奥で」を担当した「ニュー・エイジ」を想起させます。

ウッズかビコと出会ったあとで、社に二人の黒人を連れて来て、他の白人の社員に、仕事を教えてやってくれ、という場面は、黒人読者層の開拓をねらっていた「ニュー・エイジ」の社主が、ラ・グーマに白羽の矢をたてて記者としてむかえ入れ、のちにコラム欄を担当させてくれた局面と同じです。

拷問の果てに、志なかばで散った若き黒人運動家の心を全世界に伝えようと、自らの原稿を国外に持ち出すひたむきなウッズは、まさに『夜の彷徨』の原稿を国外に持ち出して出版したドイツ人作家のウーリ・バイアーです。その人についてよくは知りませんが、あなたの『アレックス・ラ・グーマ』を参考にして『夜の彷徨』の出版事情を述べたあと「ラ・グーマの機転、ブランシ夫入の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けていても、おそらく『夜の彷徨』の出版はかなわなかっただろう……時代を越えた入間の魂のカを思わずにはいられない」という書き出しで『夜の彷徨』について、ちょうど書いている最中だったので、よけいにそんな思いにとらわれたのかも知れません。

 

ウッズは家族と示し合わせて、1977年の大晦日に、友人の助けを借りて国外に脱出するのですが、ラ・グーマが家族を連れてロンドンに逃れたのは1966年の9月、あなたの場合はそれより3年も前の1963年、あなたがまだわずか23歳のときでしたね。家族と一緒に亡命したラ・グーマでさえ、はた目が気遣う程深酒をあおったというのですから、あなたの望郷の念は如何ばかりだったでしょう。カナダに来た2、3年は、南アフリカが恋しくて恋しくて、と淡々とあなたは話していましたが、その思いは私の想像をはるかに越えています

クリスマスにサンフランシスコで会って、「ゴンドワナ」を渡した翌日、家族て写真を撮ったとき、「おれは普段はあまリ笑顔を見せないエイブラムズ氏だぞ」、と言ってレンズに向ってにーっと無理やり笑ってみんなを大笑いさせましたが、ローズマリーは、結婚してアレクセイが出来るまでは本当そうでしたよ、と言っていましたね。異国の地で生まれたアレクセイの存在が、おそらく諸々の思いのいくばくかを溶かせてくれているのでしょう。

ウッズが橋を渡って行った入国したレソトは、差別の厳しいヴィットヴァータースランド大学を一年で中退したのち、あなたが学士号を取得しに行った国でしたね。当時その地はバソトと呼ばれていたということでしたが、そこにはた易く行くことが出来たのですか。そこからはすんなり帰って来られたのですか。

63年に、夕方暗くなってから、ANC(アフリカ民族会議)のトラックで国境を越えスワジランドに入った、と教えてくれましたが、その時の気持ちはどんなものだったのですか。

ラ・グーマはどのような経路でロンドンに逃れたのでしょうか。もし飛行機を利用していたとしたら、ウッズが家族といっしょに空からながめたように、ラ・グーマも又、家族といっしょに飛行機の窓から南アフリカの大地をながめたのでしょうね。そのとき一体どんな思いがラ・グーマの脳裏をかすめたのでしょう。

ソ連に亡命中のラ・グーマ、ブランシさんと長男のユージーンさんと

ウッズの、少しばかり演出の効きすぎた国外脱出行を見ながら、私はそんなことを思い浮かべました。

「デイリー・ディスパッチ」の記事に抗議して、新聞社までウッズに会いに出かけた女性ランペーレの役のジョゼット・シモンはきれいな人でしたね。貧しい入たちのあいだで助産婦や看護婦をしていたブランシ夫人が闘争家ラ・グーマを理解したように、虐げられた人々のあいだで医者として現実とむかいあって生きているランペーレには、ビコの主張が痛いほど理解できたのでしょう。あの人は、ケープタウン郊外のキングウィリアムズタウンで警官に監視されながら暮らしているビコの居場所をウッズに告げました。

ビコは、ウッズの人柄をすぐ肌で感じることができたのでしょう。ウッズをむかえ入れて、シビーンと呼ばれるもぐりの酒場に連れて行ったり、夜のスラム街に案内したりしました。あの世界は紛れもなく、ラ・グーマの小説『夜の彷徨』や『三根の縄』などに描き出されたケープタウンのスラム街第6区と同じです。ウッズと並んで歩きながら、暗闇のなかで、白人はどんな馬鹿でも豪邸に生まれて何不自由なく暮らして行けるのに、黒人はいくら優秀でもこの悲惨なスラム街で生まれ、こんな地獄のようなスラム街で死んで行くしかないのです、とつぶやくようにビコがウッズに語った時には、50年代、60年代にすでに、ラ・グーマが世界に真実を伝えようと、後世に歴史を書き留めようと、『夜の彷徨』や『三根の縄』など、数々の作品の中にその思いを託していた歴史的事実とラ・グーマの深い慈愛を思わずにはいられませんでした。そしてセスゥル、あなたはその姿を伝えたのです。

ケープタウンの第6区

映画は、ケープタウン郊外のクロスローヅというシャンティ・タウン(スラム街)の暁方のシーンから始まりました。(撮影は、ジンバブエの首都ハラレで行なわれたということですが)各小屋のまわりに見られた煙は、ガス、電気の来ないその地域の人たちが、朝餉の仕度に使う火から流れ出たもので、ソウェトの朝夕の煙は日本でも紹介されています。

『三根の縄』を読めば、辛うじて雨つゆを凌げるだけの小屋は、ほとんどが屑鉄や段ボール箱や古びたブリキ類から出来ているのがわかります。臭くて、うるさくて、穢ないスラム街に、大半の入は肩を寄せ合いながら、それでもなんとか力を合わせて生き永らえているのです。

トラックで乗リ込んで来た警官隊は、強制徹去の大義名分を掲げて、放水砲をむけ、犬をけしかけ、人々を追いまわしました。怪物のような大型車ランドローバーは、無残にも息をひそめて建ち並ぶ小屋を、次から次ヘとおし潰して行きました。スクリーンには、傾きかけの部屋に貼られてあるネルソン・マンデラのポスターが見えました。テレビの画面の中ではアナウンサーが「本日あけ方近く、住人の反対もなく、不法法居住クロスローヅは無事徹去され、住人はホームランドに送還されました」というニュースを無造作に流していました。ラ・グーマの生まれ育ったケープタウンの第6区も、あんな風に一瞬のうちに、壊されてしまったのでしょうか。

 

アフリカーナーのウッズは、あれで中流だそうですが、ビコの育ったキングウィリアムズタウンとは余りにも対照的でした。

ビコたちのコミュニティセンターを夜中に襲ったのが白人警官だと知ったウッズが直接掛け合いに出かけた警視総監クルーガーのオランタ風屋敷は、もっと壮大で豪勢でしたね。クルーガーは、応接間に並べてある何枚もの写真を見せながら、この国は我々の祖先のボーア人が汗と血を流して作り上げたものだ、とウッズに説きました。そのときは、部下を徹底的に調査する、と約束したクルーガーは結局、逆にウッズに自宅拘禁を命じました。

 

ビコが忽然と現われたサッカー場は、集会の場と変わりました。セスゥル、あなたもサッカーをやっていた、と言っていましたね。砂利だらけのところでサッカーをやるのは大変だったので芝生のしかれた白人専用の競技場にみんなを連れて行ったら逮捕されました、とも言っていましたね。わずか13歳のときだったそうですね。ビコがラクビーをやっていたところも、砂利の多そうな場所でしたよ。

ビコは、誇リ高く、機知に富んだ人ですね。サッカー場の演説で連行され、取り調べ中に警官に撲られ、脅されても卑屈になることはありませんでした。決然と撲り返しました。

裁判長かビコにむかって「どうしてあんた方の人々をブラウンと言わず、ブラックと言うのかね。だいたい、君らはブラックというよリブラウンに近いと思うんだがね」と言ったとき「それじゃあ、あなた方はホワイトよりむしろピンクに近いのにどうしてホワイトなんですかね」とやり返していましたね。黒人、カラード、インド人の分断をねらった三人種体制の政府の悪だくみを嫌って、今はカラードを使わないのです、とあなたが言ったように、ビコの真意は、ノン・ホワイトではない、あたりまえの人間としての、誇りを持ったブラックだったのですね。ラ・グーマが、なぜ楽天家なのですかと聞かれて「私に歴史がわかっているからだと思います。心の中には冒険心があります。その上、ユーモアの感覚があります」と答えたのを思い出しました。

 

誇り高きビコは、危険すぎるからと制止するまわりの人々を振り切ってケープタウンの集会に向かう途中、検問にひっかかって捕まりました。拷問のシーンもなく、突然あまリにも変リ果てたビコの姿を見せつけられたのですが、「脳損傷の兆候が出ており、危険な状態ですからすぐ専門医に……」という医師の診断結果を無視して、1100キロも離れたプレトリア中央刑務所に護送せよ、との命令が出されました。スクリーンには、がたがた道をひた走る車がクローズ・アップされていました。『夜の彷徨』の中で、撃ち倒したウィリーボーイに救急車を呼ばせず、警察署への護送を部下に命じた白人警官ラアルトの仕打ちと同じです。

1977年9月12日、そのプレトリア中央刑務所の床の上で、うつぶせになって口から泡を出しながら、ビコは脳損傷のために亡くなりました。警視総監クルーガーは、その日「あなたは黒人の指導者にハンストをする民主的な権利をお与えになったのですからご立派ですぞ」と称賛する白人の代表と談笑しなから、ビコの碑文を書いたということです。

ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・バーンズ氏は、一両日後に、プレトリアのクルーガーの部屋に呼ばれて、クルーガー本人から「ビコの真相」を聞かされたと言い、その時の模様を次のように記しています。

クルーガーは、自らの最初の声明でほのめかしたように、ビコの死因がハンストではなく、脳損傷であることを認めました。それから、壁の方に歩いて行って壁に額をごつんとぶつけました。「こんな風だったのです。ヤツは私たちを困らせたいばっかりに、自分で自分を傷つけていたのです」(1987年11月1日付「ニューヨーク・タイムズ」紙より)

ラ・グーマは『石の国』などで、自らの獄中生活をもとに「警察国家」と対峙しました。

「ソウェト」の高校生たちの躍動感は、スクリーンを飛び出して、大きく、大きく、こちら側に押し寄せて来ました。警官たちは、そんな高校生たちに、無情な死の銃弾を浴びせました。あなたの「ソウェト殉教者たちに寄せる詩」の再現です。

 

ひとりの勇敢な少年が

その少年は

わずか8歳でしかなかったが

避けようのない、見るからに恐ろしい

死の銃弾にむかった

 

少年はまっ先に死んでいった

1番あとから行動を始めたのに

少年の罪は

憎しみにただ抗議しただけであった

 

あれから10年余の歳月が流れました。これからはこの「ソウェト」を体験した若い人たちの時代です。ビコの葬式で、ビコが生前とても愛したという南アフリカ解放のうた「コシ・シケレリ・アフリカ」が流れました。あなたはその曲にあわせて踊り、突然、イッアフリカッ、アマンドラッを連発しましたね。

この映画の監督リチャード・アッテンボロー(63)は私のねらいは簡単でした。つまり、この映画を見た人は誰一人として南アフリカの状況に無関心でおれなくなり、立ち上がって、これは酷いというようになれば、ということでした」と語ったという。(同「ニューヨーク・タイムズ」紙より)

日本では3月5日(土)より全国一斉に封切られる予定です。従って私は試写会で見たわけですが、会場の神戸朝日会館は開場前から長蛇の列でした。しかし、あの人たちの大半は「ガンジー」や「コーラスライン」のアッテンボローを見に来たのでしょう。その証拠に、映画が終わりかけた時、半数の人が席を立ちました。

そのとき画面では、まだ過去25年の拘禁中に死亡した80余名の名前と死因が次々と映し出されていました。席を立った人たちは、45番目のビコの名を見なかったことになります。

「何を見に来たんだ」と私がつぶやくのを聞いて、立ちかけていた前列の若いカップルが再び座り直していました。

でも、セスゥル、ざわめきの中でさえ、感動の余韻をこらえながら、最後に写し出された80数人目かの1987年3月26日という日付けをしっかりと見届けている人もいましたよ。

帰り途、グギさんの友人であるケニアのムアンギさんと奥さん、それに私の友人との4人で、あなたとビコを演じたデンゼル・ワシントンとどちらがハンサムか、という話になりました。意見はどうも分かれたようですが、セスゥル・エイブラハムズという名前が、ニッポンのコウベで話題になった、というのは本当です。どちらがハンサムかについては、8月にあなたの大学で開かれるアレックス・ラ・グーマとベシィー・ヘッド記念大会に行ったときに、ローズマリーに直接聞いてみることにしましょう。    頓首

 

2月17日

セスゥルヘ                      ヨシ

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」11号22-28頁。

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「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」gon11-cryfreedom(303KB)

1976~89年の執筆物

概要

編集を担当した「黒人研究の会会報」22号の「あとがき」です。

1954年に創立された黒人研究の会に、81年の秋から、7年ほど入って例会に出たり、月例会の案内やら、会誌や会報の編集のお手伝いをしていました。

黒人研究の会の例会があった旧神戸市外国語大学(大学ホームページより)

本文

会誌55号を九月中旬に刊行するという約束を果たされた編集部代表の須田さんは、現在、アメリカの地。

アメリカだより、モロイセ氏の処刑、ライトのシンポジウムなど、「最新」の記事が集まりました。会報の充実を望んでいらっしゃった貫名さん、喜んで下さっていますか。

編集部には、この会報22号を送り届けたあと、会誌56号(貫名義隆氏追悼号)の仕事が待っています。時代を先取りした先人へのご恩がえしにふさわしいものにしたいと念じています。それが30年余の歴史を継承する次の布石のひとつとなりますように、と祈りながら……(玉)

貫名さん

執筆年

1985年

収録・公開

「黒人研究の会会報」 22号 12ペイジ

 

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(作業中)

1976~89年の執筆物

Richard Wright Symposium

November 21-23, at the University of Mississippi

This is the translation of my Japanese report of “Richard Wright Symposium  November 21-23, at the University of Mississippi.”

「報告 リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21~23)

The Bulletin of the Association of Black Studies in Japan

(1985)

No. 22, p. 4.

Early in July, I received a letter from Mr. Toru Kiuchi, including a pamphlet on the coming international symposium on Richard Wright. I felt overwhelmed by the big names of the participants at first, and I never dreamed I could take part in it. However, no sooner had I found it possible even for me to join it than I determined to go there, hoping that I might get a glimpse of the face of Mr. Michel Fabre.

On the first day I went upstairs to have breakfast after registration, and found there Mr. Suda who was on a six-month stay in America to study. I also found Mr. Yoshinobu Hakutani, the editor of Critical Essays on Richard Wright (G. K. Hall, 1982), who was born in Awaji Island of Hyogo, Japan, and went to America to study when he was a student of Hiroshima University; he is now a professor of English of Kent State University. I had met him once before in August during his short stay in Japan. He said in delight, “I’m very glad to see you again, here." He was kind enough to introduce me to Messrs. Kenneth Kinnamon, Edward Margolies, David Bakish, and Donald Gibson, with whom I was familiar through their books. I got a sight of Mr. Fabre. Toru, who knew him through letters, went up to and greeted him. Mr. Fabre said, “Old Friend!" embracing his arms, smiling. At that moment my first aim had already been completed.

There were 12 sessions and too many participants in three days. I regret to say I could not understand all of them as I was a poor listener of English.

There were many interesting presentations such as Gibson’s, Hakutani’s, John M. Reilly’s, Maryemma Graham’s, and Fabre’s. Mr. Kinnamon mentioned a little about the international bibliography and Richard Wright in Japan by Mr. Hakutani and Mr. Kiuchi. Mr. Fabre talked about Wright’s reception in France. They are all now active in their own fields.

In the session on the Third World, Mr. Jan Crew, who had been in touch with Mr. Wright in his student days, talked about Wright’s time in France and a little criticized the presentations on the third world. I felt very sorry to find that the audience was smaller and the papers were a little poor in quality.

We were lucky enough to attend two memorable receptions for the publications of Fabre’s The World of Richard Wright and Margaret Walker’s The Daemonic Genius of Richard Wright.

Another memorable performance was the screening of the film of Native Son. Through the screen I “met” Richard Wright himself, as it were.

On the second night I was invited to Mr. Hakutani’s room and enjoyed chattering over drinks with Messrs. Fabre, Margolies, Reilly, Bakish, Joh n A. Williams, James Arthur Miller, Mr. Kiuchi, Suda and Miss Nina Cobb. I was interested in the dispute of C. Webb, many unpublished Wright’s haikus and Mrs. Ellen Wright, about which we cannot hear in Japan.

On the third night Mr. Hakutani, Toru and I gathered in Mr. Hakutani’s room and chatted over soft drinks with the two Japanese students of the University, Mr. Koguchi and Miss Takahashi, who were studying Faulkner. Mr. Koguchi was very Americanized, and I felt his gestures looked like most Americans. We talked far into the night, and it was three when we parted.

I thought it necessary to write my paper in English as the articles on and about Wright are written in English. I had translated into English my article on Wright, so I was lucky! I was carrying several copies of my article with me, which were all gone by the end of the symposium. I handed one of them to Mr. Fabre. On the morning of the next day when Peter Jackson talked about some onomatopoeic expressions in Native Son, Mr. Fabre patted me on the shoulder, telling me that Mr. Jackson was meaning the same onomatopoeic expressions as in my article.

When I told Mr. Suda that Mr. St. Clair Drake, with his white beard, co-author of Black Metropolis, is similar in manner to the late Mr. Nukina, the founder of the Japan Black Studies Association, he agreed with me. I told Mr. Drake that the association was founded in 1954, and he looked surprised. I felt the weight of over 30-year-old history of our association. I cannot forget that Mr. Suda and I talked about the past and the future of our association, in Mississippi, so far from Japan.

To me nothing was mo re pleasant than the fact the symposium was held. In November 23, the New York Times reported on the symposium under the title of “Mississippi Honors a 'Native Son Who Fled – Mississippi Offers Homage to Native Son." What, I wonder, was Mr. Wright in heaven thinking about the symposium and the many people who joined to commemorate the 25th anniversary of his death, though he died young on foreign soil?

At the coming December meeting, Mr. Toru Kiuchi is to report in deatail on the symposium.

December 4, 1985

1976~89年の執筆物

リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って

(ミシシッピ州立大、11/21~23)

7月はじめ、会員の本内徹さんから Michel Fabreさんを通じてのパンフレットが届いた時、顔ぶれを見てすごいなあと思ったが、それは別世界のことのようだった。しかし、自分にも参加出来るとわかった瞬間、既に行くことに決めていた。Fabreさんの顔たけでも見に行こうと。

初日、受付けを済ませて朝食会場の2階に上がったら、滞米中の会員、須田さんが座って居られた。夏に一度お会いしていた伯谷さん〔Critical Essays on Richard Wright (G. K. Hall, 1982) の編者、兵庫県淡路島生まれ、広島大学在学中に渡米、現在ケント州立大学教授〕が、よく来ましたねと喜ばれて、横に居合わせた Keneth Kinnamon, Edward Margolies, David Bakish, Donald Gibson の各氏を紹介して下さった。いつも本でおなじみの人たちだ。Fabreさんの姿が目に止まった。手紙のやりとりのある木内さんが近づいて挨拶すると、"Old friend!" と腕をかかえながら人なつっこい笑みをこぼされた。当初の目的は既にこの時点で達せられていた。

3日間にセッションが12も組まれ、発表者も多かった。語学力の乏しい私には、充分に聴き取れたとはとても言えないが、Black Boy について語られた Gibsonさん、Lawd Todayの伯谷さん、近刊の3000ペイジに及ぶ解説付きの文献集(伯谷さん、木内さんによるもの。日本の文献も収載予定)に触れられた Kinnamon さん、フランスにおけるライト研究について述べられた Fabreさん、John M. Reilly さん、Robert Tener さん、Maryemma Graham さんなど、現在一線級で活躍中の人達に勢いが感じられた。

第三世界に関するセッションでは、発表のあと、パリでライトのアパートに出人りされたというJan Crewさんが、今の発表は少し違うようだと飄々と語られたのが印象探かった。出席者も一番少なく、内容も少し薄かったように思えたのは残念である。

Fabre さんのThe World of Richard WrightとM. Walker女史の近刊The Daemonic Genius of Richard Wrightの両出版記念パーティーも普段ではお目にかかれないものだった。

普段見られないものの中でも、最終日の夜に上映された「ネイティヴ・サン」は格別だった。フィルムを通じて、ライトその人に「会えた」わけである。

二日目の夜には、伯谷さんの部屋に招かれて、Fabreさん、Margolies、Kinnamon, JohnReilly, Bakish, Nina Cobb, John A. Williams, James Arthur Millerの各氏と須田さん、木内さんとで酒を飲みながらの記念すべき一時を楽しんだ。C. Webbさんの不評話や、俳諧風ポエムが出版されない事情、エレン夫人のことなど、裏話が面白かった。

三日目の夜は、フォークナー研究のために留学中の古口さん、高橋さんを交えての「日本人会」となった。お話から、寸暇を惜しんでの勉学のご様子が窺われた。古ロ氏の場合、身振りまでがアメリカ人風になっていた。解散したのは暁方の三時だった。

ライトのものが英語で書かれている以上、英語で書くことの必要性が思われた。幸い、論文の一つを英訳していたのが役に立った。10部程抜刷を持参していたが、帰りにはきれいになくなっていた。一つを Fabreさんにお渡ししたら、Peter Jackson氏が Native Son の擬声語表現について言及された翌朝、すっと寄って来られて、肩をぽんと叩き、あなたと同じことを言ってましたねと声をかけて下さった。

Black Metropolis の共著者、白髪の St. Clair Drake さんの風貌、話し振りが、貫名さんによく似てられますねえ、と須田さんにお話ししたら、同感だ、とのことだった。会の創設が1954年だとお話したら、Drakeさんは驚いておられた。「1954」年と聞いた人は例外なく驚きの表情を示した。30年余の歴史はと重いようだ。

こんな所で、こんな話をしようとはねぇー、と須田さんと研究会の来し方、行く末をはるかミシシッピの地で語ったのも、忘れ難い。

私には、シンポジウムが行われたこと自体が何よりも嬉しかった。早速、23日のニューヨークタイムズ紙は、Mississippi Honors a 'Native Son’ Who Fled – Mississippi Offers Homage to Native Son の見出しの記事を載せた。若くして異郷の地に果てたライトは、あの世から、死後25年を経た今、生まれ故郷に集まった大勢の人達を見て、一体どんな表情を見せていたのだろうか。

12月の例会で、木内徹さんが詳しく報告される。