1976~89年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマ (1925ー1985)が闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿っています。大きな影響を受けた父親ジェームズや少年時代、ANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に加わり、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わる一方、作家としても活動しました。今回は、ブランシさんと結婚し、1反体制の週間紙「ニュー・エイジ」の記者になった辺りまでを書きました。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

本文

1.闘争家として

◎解放の前夜

南アフリカの事態は非常に緊迫している。ボタ白人政権は、いよいよ追いつめられてきた。外では、国連をはじめとする国際世論が厳しく、経済制裁も強まっており、内では、アバルトヘイト体制では立ち行かなくなった南ア経済への不満から人種差別撤廃を打ち出した財界のつきあげを受けている。ザンビアに本部を置く非合法黒人解放組織アフリカ民族会議 (ANC) は、果敢な武力闘争の手を緩めていない。83年11月に結成された反アパルトヘイト国内組織「統一民主戦線」(UDF) には、650以上の組織、二百以上のあらゆる人種の人々が参加しており、その力は圧倒的だ。ロンドンの反アパルトヘイト団体IDAF製作の記録映画「燃えあがる南アフリカ!-南ア組織UDFの記録」を見ると、もはや何びとも押し寄せる怒濤はとめようがない、という思いがひしひしと伝わってくる。指導者のひとりアラン・ブーサック牧師の演説に呼応する聴衆の姿は、50年代、60年代のアメリカ黒人公民権運動を率いたマーチン・ルーサー・キング師の演説に歓呼する人々の姿に重なって仕様がない。それは、もはやとどまるところを知らぬ歴史のうねリ、と言ってよい。

そんな危機感の強まるなか、白人政権は5月6日の総選挙で、国際世論に反して圧勝し、166議席のうち123議席 (改選前110、定数178のうち12は任命議員) 議席を確保した。そればかりか、アパルトヘイト政策体制の維持を訴えた右翼保守党の進出で、結果的にはますます保守化の傾向を強める勢いである。

5月31日付の朝日新聞 (朝刊) は、29日未明、南ア特殊部隊がモザンビークの首都マプトのANC本部を襲撃した、と報じた。また、6月2日には、ボタ大統領が「日本を含めた西側先進七か国首脳に対して書簡を送り、人種問題解決に向けて、同大統領自身が黒人諸組織の代表と話し合いに入る用意がある旨を説明するとともに、この話し合いを可能にするために、先進諸国が非合法黒人解放運動組織アフリカ民族会議 (ANC) に『暴力主義を放棄するよう』圧力をかけてほしいと訴えた」との記事を掲載した。そもそもANCに武力闘争路線を強いたのは「シャープビル虐殺事件」での白人側の蛮行がきっかけだ。ANCはルツーリ初代議長のはじめから、平和的な話し合いを提唱してきた。獄中に居る前議長ネルソン・マンデラ氏も、現議長オリバー・タンボ氏も同じことを言い続けている。日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)連帯委員会の招きで、ANC東京事務所開設の具体化を図るために来日したANCの指導者のひとりダン・シンディ氏(ポール・ラベロソンと共に来日) も、その路線が変わっていないことを言明した。(6月3日夜、京都立命館大学で行なわれたAALAアフリカ研究会にて、翌日、ムアンギさんも同行して、清水寺などを訪問されたとのこと。)

  • マンデラ氏を含むすべての政治犯を即時釈放すること。
  • ANCを含む非合法とされる組織をすべて認めること。
  • 非常事態宣言を解き、黒人地区に駐留する軍隊を引き上げること。
  • それらの意志をはっきり示すこと。

以上の4つの条件が満たされれば、いつでも白人政府と話し合う準備があると・・・・・・。

歴史に照らしてみても、無恥厚顔な「悪あがき」を演じ続ける白人政府側の非は、誰の目にも明らかだ。白人政権のますますの孤立化は必然の結果である。

そんな潮流を察知してか、日本政府は4月にANC現議長オリバー・タンボ氏を招待した。8月には、UDFの若き指導者アラン・ブーサック師を正式に招く、という。今日のハイテク産業を支えるクロム、マンガン、モリブデン、コバルトなどの希少金属 (レアメタル)の大半を「南アフリカ共和国」に依存しているニッポンとしては、白人政権崩壊後の次期政権に、何とか早めに媚を売っておかねばならぬ、というわけである。新聞では40万ドルの資金援助、ANC東京事務所設置の約束、などと報じられたが、中曽根首相との会談の翌日、アラン・ブーサック師の来日依頼に出かけた政府高官が、昨日の中曽根首相の約束は、あれはあくまで、民間団体の援助でANC事務所を東京に開設することに関して政府は一切関知しないということでして、と語ったはなしを耳にすると、人間として、むしょうに哀しい、恥ずかしい。拘禁されても、弾圧されても、毅然とした人間としての態度と誇りを持ち続けてきたアフリカ人、自らの利害にのみ窮々とし、火事場ドロボウのように他人の富を狙い、掠め取るニッポンジン、ニッポン政府。最後の最後まで醜態を演じ続けるボタ白人政権―最近の一連の動きは、解放前夜近し、の感を抱かせる。歴史の流れは、誰にも止めようがない。

オリバー・タンボ氏

◎南アフリカ人として

黒人も、白人も、「カラード」も、そしてアジア人も、手を携えて共存しあえる統合民主国家「南アフリカ」を願いながら、アレックス・ラ・グーマは、1985年10月11日、夢なかば、異郷の地キューバの首都ハバナで死んだ。日本の各紙はその死を報じなかったが、民族の真の解放を信じて勇敢に斗い続けた闘争家として、作家として、歴史にそして文学史に、はっきりとその名を刻んで死んでいった。

1925年2月20日、ラ・グーマは、ケープタウンの「カラード」居住地区「第六区」に生まれた。母方の祖母は、インドネシアからの移民で、オランダ系とインドネシア系の血を引いており、祖父はスコットランド系の移民であった。一方、父方の祖父母はマダガスカルからの移民で、インドネシア系とドイツ系の血を引いていた。19世紀初頭に、ボーア人 (先住オランダ系移民) からケープ地方の支配権を奪ったイギリス人は、世界経済の流れに便乗して奴隷制そのものを廃止し、それまでボーア人が保持していた奴隷を解放した。そんなイギリス人の支配を嫌ったボーア入の大半は、内陸部への大移動 (グレート・トレック) を開始したが、残ったボーア人は、奴隷にかわる安価な労働力として、旧オランダ植民地から大量に移民を輸入した。母方の祖父、父方の祖父母はその時の移民である。(ラ・グーマのラは、東インド諸島の特定の地域に見られる名前である、とラ・グーマ自身、ある専門家から教えられたことがあるという。) 従って、母ウィルヘルミナ・アレクサンダーも、父ジェイムズ・ラ・グーマも、アジア人とヨーロッパ人の血を引いた、言わば「歴史」の落とし子であったと言える。そのような両親のもとに生をうけたアレックス・ラ・グーマもまた、必然的に、政治や社会的関係が生んだ「いわゆる」カラードではあったが、粉れもなく南アフリカの地に生まれ、南アフリカの大地に育った、れっきとした南アフリカ人には違いなかった。

ケープタウンの「第六区」

◎父ジェイムズ・ラ・グーマ

ジェイムズ・ラ・グーマは、1984年にケープタウンで生まれた。革職人の徒弟修行を終えてしばらくしてから、故郷を離れている。ひとりで南西アフリカに行き、ドイツ系移民の経営する農場や、港、ダイヤモンド鉱山などで働くかたわら、労働運動に従事し、ストライキなどを指導した。1924年に共産党に加わり、1933年には活動中に当局に逮捕された。その間、1924年には、当時たばこ工場で働いていたウィルヘルミナ・アレクサンダーと結婚し、翌年、長男アレックスが誕生、8年後には長女ジョーンが生まれている、ラ・グーマ家は、闘争拠点として若き活動家の出入りも激しく、闘争家ジェイムズも忙しかったが、子供の教育への配慮も決して怠らなかった。息子アレックスに政治や文学への関心を植えつけたのも父ジェイムズであったし、アレックスの文才をほめ、育んだのもジェイムズだった。そんな父を、ラ・グーマは次のように語る。

父から受けた影響は非常に強く、そのお蔭で私は自分の哲学観や政治観を持つようになりましたし、政治や文学についての堅い作品も読むようになりました。父自身も、本はむさぼるように読んでいました。成長する過程で、そんな姿に、おそらく、私は何らかの形で感化をうけたのではないかと思います。父は1961年に死にました。私の処女小説『夜の彷徨』が出る直前のことでした。父は自分の蒔いた種が芽を出して立派に実を結んだ姿を自らの目で確めずに死んでいった、と言えるでしょう。

父親だけではない、ラ・グーマによれば、ウィルヘルミナ・ラ・グーマは「第6区の他の女性たちと同様、辛く厳しい毎日の、ありきたりの雑事をやりこなし」、夫には献身的な妻であり、子供には優しくて心の寛い母親であった。両親の慈愛は、スラム街の生活環境が惨めであればあるほど、ラ・グーマにとってはかけがいのないものであったに違いない。

ラ・グーマに接した人は、一様に、その物腰の柔らかさ、同胞への愛の深さを指摘する。「ゴンドワナ」編集子の言葉を借りれば、「恐れというものを痛いほど知り、悲しいほど同胞を愛するラ・グーマ」であった。

アパルトヘイト下の、目をそむけたくなるほど陰惨な実態が克明に描かれている作品のなかに、それでも何かしらホッとする暖かさを読者が感じとるのは、目をそむけたくなる現実に、自ら真っ向から挑んだラ・グーマの慈愛の深さのゆえからだろう。「私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです。その進展状況の中で写実的表現を見るべきです。写実的表現には原動力が含まれています。活力や様々な直接的反応とつながりがあります。写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。その目的は読者の心を動かすことなのです。」とラ・グーマが語り得たのは、統合民主国家の実現を願うラ・グーマが、虐げられた同胞への暖かい目を絶えず具え持っていたからだろう。その願いを慈愛にくるんで作品に刻み込んだラ・グーマ。父ジェイムズ・ラ・グーマと母ウィルヘルミナ・ラ・グーマの存在がなかったら、闘争家アレックス・ラ・グーマも、あるいは作家アレックス・ラ・グーマも生まれなかったかもしれない。

◎少年から青年へ

親子二代にわたった解放闘争も、息子アレックスの時代と較べて父ジェイムズの時代は、締めつけもまださほどきつくはなかった。白人長期政権確立にむけて、多数派黒人と白人との間に位置するカラード、インド人、それに少数の黒人エリート層との協調路線を推し進めていた1890年のセシルローズ政策のなごりが未だ残っていたからである。その政策の下で少年期を過したアレックスは、従って、アジア人や黒人と同地域に住み、毎日一緒に遊ぶことが出来た。当時のことを思い起こしながら、特に仲のよかった一人の黒人少年について、あるインタビューの中でラ・グーマは回想するー

私の家の真向いに住むダニエルという友だちのことを特に憶えています。ダニエルは黒人でしたが、当時は正式な形での人種隔離、つまりアパルトヘイトはありませんでしたから、労働者階層は黒人もカラードもインド人も同地域で一緒に住んでおりました。ダニエルは私とおない年の黒人少年で、二人は大の仲よしでした。ダニエルはすごく生きのいい陽気な奴でしたから、特に私のお気に入りで、ずいぶん一緒に遊んだものでした。しかしながら、そのうち居住区の人種隔離政策もだんだんと厳しくなって、ダニエルの家族もその地域から出て行かざるを得なくなりました。ダニエルの家族はケープタウンの郊外のランガというところへ移りました。それっきり、ダニエルとは長いこと会いませんでした。それからずっとあと、私が自活するようになって働きに出ていたある日、突然、再会することになりました。しかし、そのときのダニエルはもはや昔のダニエルではありませんでした。もういっぱしのチンピラで、刑務所にも行ったことがあり、これから先にバラ色の未来が開けているとは私にはどうしても思えませんでした。うまくやっていけない環境の犠牲になったかつての友人と再会したのは心動かされる痛ましい経験でした。

徐々に強化されるアパルトヘイト政策によって、仲よしの二人、カラード少年アレックスと黒人少年ダニエルは引き離された。(ダニエルは『夜の彷徨』の主人公青年マイケル・アドニスのモデルの一人である)。人種隔離政策は、様々な形で多感な少年の心に深い傷跡を残したが、前号のインタビュー記事にあった「サーカス」の一件もその一つである。諸々の差別を規定したアパルトヘイト法は「サーカス」にまで及び、黒人席に座っていたラ・グーマ少年は、白人と同じ料金を払いながら、演技者たちの背中ばかりを見るはめになった。しかし、その体験が、結果的にラ・グーマの心に「ある程度の政治的意識」を芽生えさせるきっかけになるのだが・・・・・・。それっきり、南アフリカでラ・グーマがサーカスに行くことはなかったが、亡命後のヨーロッパでサーカス見物に出かけた時のことに触れて「当時はじめて味わった人種差別の体験、その時の状況を、とても悲しい思いで振り返りました」とあるインタビューの中で答えている。(「サーカス」の経験は、のちに作品の中で少し顔を出す。『季節終わりの霧の中で』において、主人公ビュークが、あるお祭りに出かけた時に「少年の頃、叔母にサーカスに連れて行ってもらったことがあるよ」とほろ苦い思い出を友人に語りかける場面である)

 『夜の彷徨』(ナイジェリア版)

1932年、ラ・グーマはアパー・アッシュリ小学校に入学、ダニエル少年と遊んだのもその頃である。1938年には、トラファルガル・ハイスクールに入学。学業成績は特によくはなかったが、それは関心がもっぱら学校の外にあったからである。当時闘争拠点になっていたラ・グーマ家では、ヨーロッパで台頭し、その勢力を拡大して自由主義陣営を脅かしつつあったファシズムが話題の中心であった。当時まだ13歳であったにもかかわらず、アレックス少年はスペイン市民戦争の国際旅団への従軍を志願している。もっとも、13歳の少年の夢が実現することはなかったが。(最近NHK番組「1963年・スペイン」というのがあった。昨年10月に首都マドリッドで行なわれたスペイン内戦50周年記念集会の模様や、日本人国際義勇兵の話やら、なかなか興味深かった。クーデターを起こした軍部ファシズムに対抗し、自由を守れ、と子供心にラ・グーマも熱く燃えていたわけだ。「スペインでの出来事が家族の間や家でたびたび行なわれていた会合でよく話題にのぼりました。自分の性格の理想主義的な側面がその出来事から幾分か刺激を受けたのではないかと思います」とのちにラ・グーマは語っている。貨物船で函館からニューヨークに密入国し、某レストランで働いていたジャック・白井という日本人がひとり、アメリカリンカーン旅団の義勇兵として市民戦争に参加した史実と、南アフリカの片隅で、年端も行かぬラ・グーマ少年が志願をした、という史実に、なぜかしら感動を覚えた)

15歳、まだハイスクール在籍中に、第2次大戦が始まった。父親は、エチオピア、エジプトでケープ陸軍兵団員として従軍している。ラ・グーマは再び志願したが、今度はやせ細っていたために入隊を断られ、又も「戦争参加」は果たせなかった。しかし、戦争への関心は消えず、1942年に入学許可認定試験に合格すると、卒業を待たずに学校を離れ、職に就いた。結局、ケープ・テクニカル・カレッジは、のちに、働きながら修了することになる。

最初、ラ・グーマが働いたのはある倉庫で、梱包をしたり家具を運んだりの仕事であった。そのうち、一般労働者のより近くで働きたいとの願いもあって工場で働くことを決意、運よくケープタウンの「メタル・ボックス・カンパニー」で職を得る。約2時間、缶詰用の缶の製造などに携ったが、賃上げや労働条件改善を求めたストライキを先導した委員会の一員であったとの理由で解雇された。しばらく、ケープタウンの商店や石油会杜の帳薄係をやったのち、レポーターになる。「メタル・ボックス・カンパニー」で、はじめて解放闘争に関心を持つようになったラ・グーマは次第にストライキやデモなどの労働闘争に積極的に参加するようになった。1948年、アフリカーナの国民党が政権を握ってからはアパルトヘイト政策が強化され、反体制運動に対する弾圧はますます厳しくなって行った。この頃から、ラ・グーマは実質的に闘争家として、民族解放のための闘いの渦中に身を置くことになる。

2.作家として

◎闘いのさなかに

国民党が政権を取る前年、ラ・グーマは青年コミュニスト・リーグに参加、翌年南アフ刃力共産党に修り「第20区」のメンバーになった。1950年の「共産主義弾圧法」によって共産党がその活動を禁止され、弾圧された時、著名コミュニストのリストにラ・グーマの名も記載されていた。

1954年には、看護婦であり助産婦であったブランシ・ハーマンと結婚した。ブランシは、ケープタウンで名高いセイント・モニカ産院を卒業したあと、ケープタウンの貧民層のあいだで働いていた。厳しい現状に立ち向かいながら必死に働く日々のなかで、いつしか虐げられた人々の生活地位向上を願って、自ら積極的に政治活動に参加するようになっていた。ハイスクール以来会うことのなかったラ・グーマと再会したのは、そんな政治活動を通してである。ブランシによれば、ラ・グーマは「いつもロマンティストで、最初のデートでプロポーズをしてくれましだ」とのこと。ブランシはその場で結婚を承諾はしたが、同時に父親を説得しなければ、と覚悟を決めていた。札付きのコミュニストで定職もままならぬラ・グーマだが、きっと私を幸せにしてくれるんだと・・・・・・。幸い、父親の反対はなかった。ただ、教会で式を挙げるように、との条件が出された。無宗教を任じていたラ・グーマだが、この時ばかりは譲歩し、教会で2人は、無事結婚式を挙げるごとが出来た。そして1956年に長男ユージーンが、1959年には次男バーソロミューが生まれている。(長男は結婚してソ連に在住、次男は東ドイツで写真の勉強中、とのことである)

ブランシさんと(1992年に、ロンドン亡命中のブランシさんから)

1954年、ラ・グーマは新しく創設された南アフリカ・カラード人民機構 (SACPO)の執行委員会の一人となった。翌年には議長となり、「人民会議」へのSACPO代議長にも選出されている。「人民会議」は、1955年6月25日、ヨハネルブルグ郊外のクリップタウンで開かれ、アフリカ民族会議(ANC)、南アフリカ・インド人会議 (SAIC)、南アフリカ労働組合会議 (SACTU)、民主主義者会議 (COD)、それにラ・グーマの属するSACPOの5組織から3000人の代議員が出席した。会議では「われわれ南アフリカ人民は、つぎの事頂を確認するよう南アフリカ全土と世界に宣言する。

南アフリカは、黒人、白人を問わず、そこに住むすべての人びとにぞくし、どんな政府も、全人民の意志にもとづかないかぎり、その権威を正当に主張することはできない。」[野間寛二郎著『差別と反逆の原点』(理論社、1969) に全文訳がある] という言葉で始まる自由憲章が採択された。あらゆる人種が手を携えて集い合った事実は白人政府に脅威を与えた。人民会議は弾圧され、消える運命となったが、28年後の1983年には、統一民主戦線 (UDF)として甦り、あらゆる人種、階層の人々が参加、650組織200人以上の大規模な合法的反体制勢力に発展することになる。

ラ・グーマは、しかし、人民会議に出席できなかった。ラ・グーマに率いられた代表団の一行は、ケープ州ビューフォート・ウェストで警察に足止めされたからである。結局は会議に出るはずの週末をトラックの中で眠って過ごすことになった。もっとも、そんなことで代表団の闘争への情然が萎える筈もなかった。ラ・グーマは、足止めを食った人々の心境を代弁して「SACPOや他の組織のこれからの課題は、自由憲章をわが国のすみずみにまで浸透させ、現在解放闘争にかかわっていない人びとにも自由憲章に具体的に示された考えを知らせていくことである」という新たなる意を表明している。その後ただちに、人民会議を指導した人たちへの政府側の弾圧が開始された。SACPOの議長ラ・グーマの演説や.抗議運動も厳しい当局のチェックを受けるようになった。それでもラ・グーマは一斉検挙や禁止令や拘禁を強行しても解放闘争を止められはしない」と強調し続け、次々と出される差別法に対する攻撃の先頭に立った。中でも、1956年ケープタウン市当局がバスに於ける人種隔離法の決定を下した際には、当局を烈しく非難し、4月、5月にかけて、バスボイコット運動を指導した。その際には「ケープタウンの人民は、白人政府の人種的狂気に対して、いつでも全面的に反対闘争に入る準備があることを示したのである」という声明を発表している。そして同年のメーデーには次のような激しく挑戦的なメッセージをラ・グーマは贈っている。

この重大な日に、私は南アフリカのすべての労働者と虐げられた人びとに対して、民主的で明るく平和的な未来を願いながら、心よりのご挨拶を申し上げます。本年度のメーデーは、現支配階層と国民党圧制者達によるますますの弾圧により冒濱されています。警察のテロ行為や暴力行為もおびただしいものがあります。

「白人当局」と「クリスチャン市民」は、鞭やホースや機関銃をちらつかせながら誇らしげに行進しています、しかしながら一方では、自由憲章に新しいいのちを吹き込むために、アパルトヘイトやパス法、それに強制退去、国外追放や経済搾取に反対する虐げられた入びとの勇ましい闘いによって祝福を受け、このメーデーはまばゆいばかりに盛り上がっています。日に日に世界じゅうの虐げられた人びとの連帯は強くなっています。反帝国主義や平和や友交の輪がアフリカからアジアヘの広がりをみせています、そして植民地主義的奴隷制や戦争の光は急速に翳りを見せています。アパルトヘイトを打倒せよ。帝国主義と戦争を打ち崩せ! 新民主主義と平和と国際連帯に幸いあれ!

ラ・グーマが本格的に創作活動を始めたのは「ニュー・エイジ」からの誘いを受けたのがきっかけである。「ニュー.エイジ」は、既に廃刊に追いやられていた「ガーディアン」及び「アドヴァンス」の精神を継承した進歩的左翼系の週間新聞である。その目標には「良心、出版、言論、集会、運動の自由。民主主義と法律規定の復活。人種間、国家間の平和、すべての人間にとっての政治的、社会的、文化的な平等諸権利と膚の色、人種、信条による差別の撤廃」が掲げられていた。社主は、リベラルなイギリス系白人で、自分たちと同じ文化背景や知性を備えた購読者層にその目標に沿った訴えかけをしたいと願っていた。同時に、非白人社会での購読者を増やすねらいで、黒人社会で活躍できるスタッフを探してもいた。そして、白羽の矢が立ったのが、ラ・グーマである。ラ・グーマは、当時すでに、ケープカラードの杜会でかなりの影響力を持っていたし、同系の「ガーディアン」で既にその文才を示していたから、うってつけの人物であったわけである。「『ニュー・エイジ』からの仕事の誘いを受けた時、あれが本格的に私が書き始めた最初です。必然的に、私は机に向かって、短篇を書いたんだ、と今思います」と当時のことをラ・グーマは振り返っている。闘いのさなかに、こうして作家ラ・グーマが誕生した。こののち、闘争家として、作家として、精力的に解放闘争に、創作活動に活躍することになる。(6月17日)

「ニュー・エイジ」で担当したコラム欄 “Up My Alley"

(1988年にUCLAの図書館でお目にかかった新聞の現物)

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」8号22-26ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として

1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマへのインタビューの日本語訳で、インタビューは、コートジボワール人学者リチャード・サミン氏が1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在中のラ・グーマに行なったものです。

本文(写真作業中)

《アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー》

 

時 1976年1月16日、27日

所 ダルエスサラーム大学(タンザニア)
玉田吉行 訳
—-南アフリカで政治的なかかわりを持つようになったきっかけについて、少しお話ししていただけませんか。
ラ・グーマ 両親が政治とかかわっていました。父は労働組合員でしたし、1924年に入党した共産党員でした。(注1) 7歳の時、母があるサーカスに連れて行ってくれました。母に、ピエロはどうしてこちらに背中ばかり向けて演技をするのか 、と尋ねました。それは、ピエロが白人観衆のためにだけ演技しているからよ、とのことでした。このことによって、ある程度の政治的意識が私の心の中に芽生えました。

—-南アフリカについてのあなたの展望はどんなものですか。

ラ・グーマ 私は南アフリカをひとつの統合民主国家、ひとつの民主主義国家だと考えています。従って、すべての人びとが、実際に融合してひとつの南アフリカになることです。

—-自伝『2番通り』(注2) の中で、E.ムファレレ (注3) は「文学的素材として南アフリカの状況が如何に月並みなテーマにしかならないかが今わかりました」(注4) と書いています。その意見にどの程度賛同されますか。

ラ・グーマ ムファレレと全く意見が同じというわけではありません。南アフリカは人種的偏見、民族主義、階級闘争などすべての矛盾が存在する国です。作家にとって南アフリカは一つの宝庫なのです。

—-南アフリカで書かれた小説について話していただけませんか。それらの小説はどんな状況の下で書かれたのですか。

ラ・グーマ 1960年に『夜の彷徨』(注5) を書きました。私は、官憲の手に葬られたある少年の短かい新聞記事をすでに読んでいました。そののち刑務所で数ケ月過ごしました。妻の協力を得て、どうにかその小説を書き上げました。一九六一年に釈放されたあと、ウーリ・バイア (注6) に会いました、その時、私の短篇を読んだことがあると知りました。当時、作家活動を禁じられていましたし、私の書いたものを引用すれば罰せられることになっていました。そこで、その原稿をウーリ・バイアーに渡したのです。(注7) それは1962年にナイジェリアで出版されました。1962年には『三根 (みこ)の縄』(注8) に取りかかりました。その原稿はベルリンのセブン・シィーズ出版社に郵便で送りました。その本は一九六四年に出版されました。『石の国』(注9) は拘留中の自らの個人的な経験を語っています。その作品は1964年と65年にかけて書きました。そうしている間に私は南アフリカを離れました。『季節終わりの霧の中で』(注10) は1967年にロンドンで執筆し、出版されました。

—-『夜の彷徨』の舞台設定には何か特別重要な意味合いがあるのですか。

ラ・グーマ まず何より、「第六区」はよく知っている場所だということです。私はそこで生まれ、そこで暮らしました。しかし、同時に閉所恐怖を暗示し、抑圧的な雰囲気を醸し出したいとも考えました。

—-『夜の彷徨』は多少悲劇仕立てだと言えば賛成して下さいますか。

ラ・グーマ ええ、執筆する際に、そういう考えは心の中にありました。その物語は徐々に最高頂に達して劇的な緊張感を生み出します。

—-あなたの小説、ことに『夜の彷徨』と『季節終わりの霧の中で』では、登場人物がよく場所を変えて動きます。そこにはどんな意図があるのですか。

ラ・グーマ 私はただ南アフリカの人々の経験を語りたいのです。選択の余地はありません。人は自らの労働力を切り売りすることを余儀なくされます。アフリカ人は決してひとところに落ち着くことは出来ません。その場面で他の人物を紹介し、隠された、最下層の南アフリカの姿を示すのもひとつの文学上の手法なのです。細かな部分では自伝的なところもあります。

—-現に南アフリカに存在する社会的状況が、あなたの選ぶ文学上の形態と何か関連がありますか。

ラ・グーマ たとえば、小説『夜の彷徨』では、「第6区」のイメージ、「第六区」の雰囲気を創り出すことに努めました。そこで、その目的のために言葉を選び、文章を組み立てました。

—-あなたの使う隠喩的表現には、人間的なものを非人間的なものに同化してしまう傾向があります。ただの叙述的描写のためですか、それとも何か特別な意味を表すためにそうしているのですか。

ラ・グーマ 私の場合、小説の中では、人間らしさを失なった白人を扱っています。ただし、個人的に非人間的な感情はありません。私はまた、肉体的にも、精神的にも疎外の問題を取り扱っています。

—-文学上の技法として象徴的表現をどうお考えですか。

ラ・グーマ 読者が正しく解釈する力を備えている場合には、象徴的表現に私は反対です。私の小説では、写実的表現と平明な象徴的表現が組み合わさっています。

—-小説を書く何か特別な方法を編み出されましたか。

ラ・グーマ いえ、特別には。私には決まった予定表といったものはありません。ある考えを広げていき、頭の中でそのプランを立てる、それから書き始めます。ただそのうちのいくらかを書くだけです。また、その考えをおし広げて、もう一度書きます。草稿は一本しか書きません。草稿を終えると手を加えます。組み立てについては、書く作業をしている間じゅう、変わることはありません。

—-あなたの場合、亡命したことが、書くことにどれほど影響を及ぼしていますか。

ラ・グーマ 亡命したから変わったということは全くありません。見るものごとは変わるかもしれません、でも、主だったところは当然付随的についてくるものです。南アフリカのほかでも、書こうと思えば何についてでも、私は書くことが出来ます。

—-どんな形であれ、いままでに、ある特別な作家、もしくはある特別な文学的伝統の影響を受けたことがありますか。南アフリカのアフリカ文学に感化を受けたことはありますか。

ラ・グーマ ええ、私の受けた文学教育はかなり伝統的なものです。ドストエフスキー、ゴーリキー、スタインベック、それにディケンズを読みました。私が思うのは、人は社会的状況によっていやおうなしに新しい特徴を見い出すということです。比喩的表現の技法とか比喩的表現の内容とか、小説の場面の設定とか。アフリカ文学の中にはいくらか読んだものもありますが、影響を受けたとは言えません。その上、南アフリカには、アフリカ文学のほかにイギリス文学もあるのです。

—-最初の小説を書かれた時、南アフリカで出版出来ると考えられましたか。特にどんな読者層のために書かれたのですか。

ラ・グーマ 私はその本が書きたかったから書いたのです。そして南アフリカで出版されたらと願いました。ケイプ・タイムズ紙 (注11) はその書評を書きました。それから発禁処分となったのです。私は主に南アフリカの人たちのために書いていますが、同時に英語を使っている人々のためにも書いています。

—-南アフリカには短篇小説が多いのですが、それをどう説明されますか。

ラ・グーマ 他より短篇小説の方が、烈しさの度合いは強く、それが今の南アフリカの状況により適っています。南アフリカではまず何より執ように事態を批判する必要性があります。次に出版の問題があります。つまり、短篇なら出せる雑誌がたくさんあるのです。

—-ロシアの批評家ルナチャールスキー (注12) は「芸術の神髄は、特殊的、一時的なものを、普遍的、恒常的なものにかえることであり、出来得る限り広範な読者の心に感化を与えることである」と言っています。あなたに関して言えば、南アフリカの現状ではその目的は妨げられてはいませんか。

ラ・グーマ 芸術性のゆえにそんなことはありません。芸術性によってものごとは普遍的になります。
—-再びムファレレを引用しますが、南アフリカの創作について「人間を人間として考え政治環境の犠牲者としては考えない時など、ほとんど一瞬たりともない」(注13) といっています。その意見にどの程度賛成されますか。

ラ・グーマ 問題なのは人びとの威厳であり、作家は人びとを人びととして描かなければなりません。私は、小説の中では、特殊な社会背景の中での平均的な経験や人間の反応を書き表そうと努めました。洋の東西を問わず、作家は常に人間を取り扱います。要は何を優先させるかの問題だと思います。

—-それでは、小説の中で表現しようとされている価値とは一体どんなものなのですか。

ラ・グーマ できる限りもったいぶらずに人びとの威厳、基本的な人間精神を表現したいと思っています。宣伝やうたい文句は避けねばなりません。私も政治的なかかわりはあります。作家活動でも政治活動でも、人の威厳を擁護してはいますが、二つは違った活動なのです。

—-批評家ドドスン (注14) は「アフリカン・スタディーズ・レビュー」(注15) (1974年9月) の中で「ある南アフリカの文学作品の写実的表現には人びとや社会環境と政治機構との因果関係を辿ろうとする試みが見られない」と言っています。その意見に賛成されますか。あなたにとって写実的表現とはどんな意味を持っていますか。

ラ・グーマ 自らの観点を投影する流儀を自分で選ぶ創作においては、作家は好きならどんな手段でも選びます。私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです。その進展状況の中で写実的表現を見るべきです、写実的表現には原動力が含まれています、活力や様々な直接的反応とつながりがあります。写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。そめ目的は読者の心を動かすことなのです。

—-小説は人びとに影響を与えたり、自分たちの現状について考えさせたりすべきだというのは、はっきりしていると思います。あなたの小説は南アフリカ内では読めず、南アフリカ外の人びとだけが読めるわけですが、その事実に満足しておられますか。

ラ・グーマ いえ、決して満足してはいません。中には本来の役目を果たしている作品もありますが、そのことはほとんど慰めにはなりません。

—-多くの批評家はあなたが楽天家だと言っています。それは当たっていますか。

ラ・グーマ そうです。私は楽天家ですよ。「なぜ」ですか。それは私に歴史がわかっているからだと思います。心の中には冒険心があります。その上、ユーモアの感覚があります。そして、今の南アフリカの状況を恒常的な特質だと、私は考えていないのです。

 

 

この記事は、フランスのソルボンヌ大学が発行している AFRICAN NEWS LETTER (仏文) 24号 (1987年1月) 8~14ペイジの “Interviews de Alex La Guma" (英文)を、同大教授主幹ミシェール・ファーブル(Michel Fabre) さんとインタビュー者、コートジボアールのアビジャン大学教授リチャード・サミン (Richard Samin) 氏の諒解を得て翻訳したものです。本年3月27日付けのサミン氏からの手紙によると、この記事は1976年1月16日と27日にタンザニアのダルエスサラーム大学で行なった2回のインタビュー記事をサミン氏が合成したものである。同年1月から2月まで当大学の客員作家にむかえられていたラ・グーマは、文学部主催のアフリカ文学国際会議で “African Literature and the Materialist Conception of the Arts" と “Literature and the Anti-Imperialist Struggle" の両論文を発表している。内容はアジア・アフリカ作家会議の「ロータス」誌 (Lotus) とアフリカ民族会議 (ANC) の「セチャバ」誌 (Sechaba) に発表された論文と同趣旨のものであったとのことである。更に、ラ・グーマの個人的印象については、筋金入りの活動家という評とは違い、非常に物腰が軟かく、ユーモアの感覚に富み、絶えず冗談をとばしたり、微笑みを絶やさなかったとのこと。サミン氏の研究にも好意的で、ロンドンでの研究・調査に際しては、いつでも快よく会見の要請に応じてくれたから、それだけよけいに、1985年10月12日、訃報に接したときの悲しみは大きかった、と綴られている。アパルトヘイトと闘い続け、夢半ば、異郷の地で果てたアレックス・ラ・グーマヘの追悼の意をこめ、このインタビューの記事を翻訳したが、作者紹介の、或いは作者研究の一助になれば、と願っています。

 

 

《紹介》

アレックス・ラ・グーマ (Alex La Guma) 南アフリカ、ケープタウン生まれのカラード作家。ケープ・テクニカル・カレッジ修了後、アパルトヘイト反対闘争を指導、何度か投獄、自宅拘禁を体験ののち、1966年ロンドンに亡命。アジア・アフリカ作家会議事務総長などを務める。1969年には同作家会議のロータス賞に選ばれ、翌70年のインド、ニュー・デリーでの第4回大会で受賞。1976年ダルエスサラーム大学の客員作家としてむかえられる。(滞在は1月からだが、2月には 、心臓病のためロンドンに戻っている。1978 年、アフリカ民族会議(ANC)カリブ代表としてキューバのハバナに赴任。1981年には来日、川崎市での「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」などに出席。1985年10月11日夕刻、心臓発作のため、ハバナにて死去。なお、邦訳については、本文中の『夜の彷徨』(注4参照)のほか、短篇小説「コーヒーと旅」(“Coffee for the Road")〔土屋哲訳『現代アフリカ文学短編集「』(鷹書房、1977年)〕、荒木のり訳「タシュケントヘもう一度」(“Come back to Tachkent" 1970) (「新日本文学」1971年3月号)、石井碩行訳評論「アパルトヘイト下の南アフリカ文学」(“South African Writing under Apartheid",1975) (「新日本文学」一九七七年四月号)がある。

 

《参考》

アパルトヘイト
1948年オランダ系白人を中心とする国民党が政権をとって以来、南アフリカ共和国が採用している人種隔離政策。異人種間のあらゆる結婚を禁じた「雑婚禁止法」、ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人とのあらゆる肉体交渉を禁じた「背徳法」、全住民が白人、黒人(アフリカ人)、有色人種(カラード、アジア系)に区分されて登録される「住民登録法」、特に都市とその周辺地域で、白人、黒人、有色人種の個々の居住区を設定し、混在して住むことを禁じた「集団地域法」などを法制化し、南アフリカ政府は白人優位を維持してきたが、国際世論をかわし、5倍の人口の黒人に完全な市民権を与えないための方法として、ホームランド政策をとっている。その政策は、南ア黒人を民族別に十ケ所の地域(ホームランド)に押し込め、その地域を独立国とみなし、南ア国内に住む黒人はすべて、いずれかのホームランドから出稼ぎに来ている外国人として扱うことによって、黒人住民から南ア国籍を奪っている。そして、低賃金で雇える外国人出稼ぎ労働者を確保することによって最大限の経済利潤をあげようとするアパルトヘイト体制の主柱をなしている。なお、ホームランドは国際社会では、独立国として承認されていない。これらの人種差別制度の手続き法的なパス法では、16歳以上の黒人は身分証(パス)の携帯を義務づけれ、パスを持たずに白人地域に立ち入ることは許されないし、パスがあっても、特別な雇用契約がない限り72時間以上、白人地域にはとどまれないことになっていた。現ボタ政権は、84年9月には、カラードとインド系には参政権を認め、白人、カラード、インド系からなる3人種別の2院制議会を誕生させたり、85年4月には雑婚禁止法と背徳法を撤廃したり、86年4月にはパス法廃止宣言を出したりするなど、一連の対黒人融和策を打ち出してきたが、一方では85年10月18日の詩人モロイセ氏の処刑強行や非常事態宣言などの「力」による制圧姿勢を強めており、多数派の黒人には、未だ参政権も与えていない。それは、昨年来日したデズモンド・ツツ主教(現大主教)が「アパルトヘイトと闘う」と題した講演の中で「私はノーベル平和賞を受賞しました。私は55歳です。私は母国において投票権を持っておりません」と語ったとおりである。(ツツ師は8月6日に広島で「86平和サミット基調講演」を、7日には東京日比谷公園大音楽堂でその講演を行なっている。講演要旨は「朝日ジャーナル」誌9月5日号に収録され、そのもようが10月12日深夜に「"名誉白人〃に問う・南アツツ主教は訴える」と題して日本テレビ系で放映された。
現在、反対制の非合法組織アフリカ民族会議 (ANC)、統一民主戦線 (UDF) などを中心に、アパルトヘイト打破をめざす解放闘争が続けられている。本年4月20日にはANC現議長オリバー・タンボ氏が来日、中曽根首相、倉成外相と会談した。同24日には、大阪の四天王寺学園で約1000名の聴衆を前にして「アパルトヘイト撤廃のために、日本が経済制裁を強化するよう、それぞれ応援していただきたい」と訴えた。UDFの提唱者アラン・ブーサック牧師が教会団体などの招待で来日、8月には外務省の招待で再来日の予定である。南ア問題について、新聞では、断固とした経済制裁の必要性を説く坂本義和氏(ツツ主教歓迎委員会代表)の「南ア問題と『国際日本』」(朝日新聞1986年8月1日夕刊)、本では、ツツ師の『南アフリカに自由を』(桃井・近藤訳、サイマル出版会、1983年)、ブーサック師の『アパルトヘイトに抗して』(君島訳日本基督教団出版局、1986年)、楠原彰『アフリカの飢えとアパルトヘイト-私たちにとってのアフリカ』(亜紀書房、1985年)、篠田豊『アパルトヘイト、なぜ? -南アの実情、歴史、そして私たち-』(岩波ブックレット no.51、1985年)、伊高浩昭『南アフリカの内側-崩れゆくアパルトヘイト-』(サイマル出版会、1985年)、英連邦賢人調査団『アパルトヘイト白書-英連邦調査団報告-』(笹生ほか訳現代企画室、1987年)などがある。又、アフリカ行動委員会編パンフレット『アパルトヘイトとニッポン』(1986年) や国連からもパンフレット『南アフリカの政治学』(国際連合広報センター、1986年)など多数のアパルトヘイト関係の資料が提出されている。テレビ番組では、昨年7月14日のNHK特集「南アフリカで今何が起きているか-非常事態宣言一カ月泥沼の人種対立」と、本年3月25日のNHK海外秀作ドキュメンタリー「メイドとマダム・アパルトヘイトの断面」(1986年イタリア賞特別賞受賞) が、最近の南アの緊迫した情況を伝えている。

 

《訳注》

(1) 父ジェイムズ・ラ・グーマ (James La Guma, 1894-1961) は、精力的な活動家で 、1950年に共産党が禁止された時には中央委員会の一員であった。家には活動家の出入りが激しく、多忙であったが、子供の教育への配慮も怠らず、息子アレッ クスに、政治的、文学的に少なからず影響を及ぼした。アレックス自身、1947年に青年コミュニスト・リーグに参加、翌年南アフリカ共産党に移っている。1950年の党禁止の際には、その名が著名コミュニストの名簿に記載されていた。

(2) 原題は Down Second Avenue (London:Fabre,1959; Berlin:Seven Seas,1962; New York:Doubleday,1971)で、貫名美隆氏の邦訳『わが苦悩の町2番通り-アパルトヘイト下の魂の記録』(理論社、1965年)がある。邦訳副題が示す通り、きびしい人種隔離政策をしく南アフリカ共和国の首都プレトリアの一画に設けられたアフリカ人指定居住地区「二番通り」で過ごした幼少期から、一九五七年にナイジェリアに亡命したのち、あとがきを書くまでの著者自身の「魂の記録」が綴られている。

(3) エゼキエル・ムファレレ (Ezekiel Mphahlele,1919) 南アフリカ、マラバスタド出身の黒人作家。高校教員の時、バンツー教育法反対闘争を指導、52年に解雇、教職追放処分を受ける。一時「ドラム」誌の編集を担当、56年に南アフリカ大学で修士号を取得、57年にナイジェリアに亡命、「黒いオルフェ」誌を編集。ナイロビ、パリを経て、70年渡米、大学で教鞭をとる。78年祖国に戻り、現在ヨハネスブルグのヴィットヴァータースラント大学教授。著書には、既出の自伝のほか 、『流浪者たち』(The Wanderers, New York: Macmillan,1971; London: Macmillan,1972) などがある。

(4) 終章「おしまいに」(“EPILOGUE")からの引用。1957年9月にナイジェリアの首都ラゴスに着き、学校の仕事のめどがついたあと、この自伝の後半を仕上げながら、著者がナイジェリアと南アフリカを比較して述懐したところ。

(5) 原題は A Walk in the Night (Ibadan,Nigeria: Mbari Publications,1962; rept.London: Heinemann and Evanston, Illinois: Northwestern University Press, 1967 as A Walk in the Night and Other Stories)で、酒井格氏の邦訳が『全集現代世界文学の発見9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に収められている。ケープタウン、のスラム街「第六区」で職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれている。

(6)ウーリー・バイアー (Ulli Beier,1922-) ドイツの作家。編著『黒いオルフェ』〔Black Orpheus; an anthology of new African and Afro-American stories (London: Longman, 1964)〕、編著『アフリカ文学の紹介』〔Introduction to African literature; an anthology of critical writing from Black Orpheus (Evanston: Northwestern University press,1967)〕、著書『ナイジェリアの芸術』〔Art in Nigeria (Cambridge: University Press,1960)〕など、多数の編著書がある。

(7) 自宅拘禁中のラ・グーマが、どのようにして首尾よく当局の手を逃れたのかについて、亡命詩人デニス・ブルータスが「アパルトヘイトに対する抗議」と題する文章の中で次のように記しているのは興味深い。「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中も小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜局員か国際警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである」(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年、191~192ペイジ)

(8) 原題は And a Threefold Cord  (Berlin: Seven Seas,1964) で、『夜の彷徨』と同じく、カラード青年主人公チャーリー・ポールズと両親、弟妹、叔父、好意を寄せる未亡人フリーダなどの日常生活を通じて、アパルトヘイト体制下に呻吟する惨めなカラード社会の実態が綴られている。

(9)原題は The Stone Country  (Berlin: Seven Seas,1967) で、「政治犯」として投獄されたカラード青年ジョージ・アダムズが体験する獄中記。食事から一般的取扱いに至るまでアパルトヘイト体制のしみこんだ牢獄は、社会の生んだ「政治犯」も「殺人犯」もかかえこむ、まさに色のない「石の国」、ラ・グーマ自身の獄中体験をもとに、ラ・グーマの観点から、リアルに描かれている。

(10) 原題は In the Fog of the Seasons’ End  (London: Heinemann,1972; New York: Third Press,1973) で、カラード青年主人公ビュークスの地下活動を通じて、南アフリカのアパルトヘイト反対闘争が急速に進展していることを示唆している。小説は、1976年に殺された親友活動家バジィル・フェブルュアリと他の戦士たちに献じられている。

(11) 南アフリカ、ケープタウン発行の英字経済新聞。日刊、1986年創刊。

(12) ルナチャールスキー (Anatolii Vasilievich Lunachar’skii,1875-1933) ソ連邦の文芸批評家、劇作家、政治家。1917年の10月革命後、初代教育人民委員に選ばれ、モスクワ大学文学芸術部教授、初代スペイン公使などを歴任、南フランスで死去。ソ連邦の教育、社会主義文化発展のために大きな役割を演じた。文学史、芸術史の研究者としても活躍、ロシアの文学、音楽、演劇についての多くの論文、美学についての著作などがある。

(13) 自伝第23草「ナイジェリアヘの切符」 (“TICKET TO NIGERIA") からの引用 。パスポート、切符を手にしてナイジェリアに発つ直前に、多くの友人が出国を思いとどまらせようとした。教えたくても教えられず、書きたくても書けないと嘆くムファレレに「きみのほしい材料はすっかりここにある。だから刺激にはこと欠かない」と反論した友人にむかって「それが困るのだ、麻ひさせる刺激なんだ、ここのは、いつも動いていないとしびれてしまうのだ。何でもかんでも毒舌のかぎりに 、激烈に書きつづけなければいけないんだ」と答えた文章に続くくだり。

(14) ドドスン (Don Dodson) 同誌7巻2号 (1974年9月) の著者紹介によると、ドドスン氏は、米スタンフォード大学の Acting Assistant Professor of Communication でアフリカのマスメディアと大衆文化の専門家。論文 “The Role of the Publisher in Onitsha Market Literature." in Research in African Literature (Fall 1973) が紹介されている。

(15)「アフリカン・スタディーズ・レビュー」(The African Studies Review) はアフリカ研究会 (The African Studies Association) の機関誌で、現在は、季刊で本部がカリフォルニア大学ロサンゼルス校に置かれている。経済、歴史関係の論文も多く、書評には定評がある。

4月29日           (大阪工業大学嘱託講師)

執筆年

1987年

収録・公開

(翻訳)、「ゴンドワナ」7号19-24ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-

1976~89年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文(作業中)

第八章●リチャード・ライトとアフリカ
玉田吉行

『箱船、21世紀に向けて』 門土社 (1987) 147-170ペイジ。

(1)抗議を超えて
一九四〇年代の後半から五〇年代にかけてパリに住み、ヨーロッパ各地を回りながら、アフリカはアフリカ人自身のものであり、理不尽な富の強奪によって繁栄を続けてきた西洋杜会は今こそその責任を負うべきであると声高に叫んだアメリカ人がいる。ミシシッピー出身の黒人作家リチャード・ライト(一九〇八~一九六〇年)である。
ライトは『アメリカの息子』(一九四〇年)で一躍、国際的にも知られるようになった。シカゴのゲットーに住む黒人青年ビガー・トーマスによる白人娘メアリーの殺害事件を通して人種の問題をはらむアメリカ社会の矛盾をみごとに描き出し、「アメリカの息子」ビガーを生み出した白人社会の責任を鋭く問いただしたからである。ライトはすでに、アメリカ南部を舞台に、もはやアンクル・トムではない新しい世代を描いた短篇集『アンクル・トムの子どもたち』(一九三八年)によって新進作家として注目されていたが、『アメリカの息子』で人種の問題に対する抗議派を代表する作家としての評価を強めた。
以来、現在もなお、その評価が大勢である。
しかし、ライトとアフリカを語るとき、一つの事実を見逃すわけにはいかない。それは『アメリカ

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の息子』を出版したあたりから、ライトがすでに人種の問題を一歩踏み越えたテーマの広がりを意識し始めていた事実である。例えば、写真家エドウィン・ロスカムとの共作、黒人民衆史『千二百万の黒人の声』(一九四一年)の中では、アフリカから無理やり連れて来られて、苦難の歴史を強いられはしたが、それでもなお生き永らえてきた同胞への愛着を示しながら、ライトは次のように述べている。

私たち黒人は、生まれ故郷のアフリカから、かつてなかったほど最も複雑に、高度に工業化された文明の真只中にほうり出されはしたが、今までほとんど何びとも持ち得なかったような記憶や意識をもって、今日しっかりと立っている。

そこには三百年以上のあいだ抑圧され、虐げられ続けてきた過去の黒人体験を逆手にとって、むしろ有利な地点として捉えようとする姿勢がうかがえる。
一九四一年の暮れには、のちに「地下にひそむ男」のタイトルで公にした作品の草稿を書き上げたあと、出版代理人ポール・レノルヅに「自分がまともに黒人・白人の問題を越えて、一歩踏み出したのは初めてのことです」と言明する手紙を送っている。事実、加筆して一九四四年に発表した作品では、人間の盲目性を突いた鋭い視点から、人間の本質的な問題に迫ることに成功している。
その視点から、ライトは自伝を書いた。その中に、一九四一年、メキシコ旅行の帰途、故郷に立ち寄り、幼い頃に自分と家族を捨てた父親との再会を果たすくだりがある。年老いた無学の父親を前にして、再会までの四半世紀の歳月によって二人があまりにも隔てられてしまった現実をかみしめなが

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ら、ライトは次のように語る。

自分を操る白人地主達から、父は忠節とか情操とか伝統とかいったものの意味合いを知る機会を一度だって与えられることはなかった。父には諦めと同様に喜びもまったく無縁のものであった。
父は土に這う生物として、恨みとか望みもなく、ただ元気に、体ごと、見かけは決して壊れることがない様子で、生き永らえてきただけなのである。……私は父を許し、哀れに思った。

そう語ることのできたライトには、ジム・クロウ体制下で苦難を強いた時代と社会に対する憤りや、家族を捨てた父親への恨みはない。むしろ、社会と個人の関係を正当に把握し、過去の体験を未来の糧に転じようとする姿勢がある。一九四七年にライトは家族とともにパリに移り住んだが、その時点ですでに、抑圧の問題を、人種の問題という枠を越えたもっと大きな視点から捉えようとしていたのである。インドの首相パンディット・ネルーに送った一九五〇年十月九日付けの次の書簡の中にも、その姿勢をかいま見ることができる。

現代社会の歴史的な発達のみならず、世界の変容する物質的な構造によって、世界のあらゆる民族は、主体性や利益についての共通の意識を持つことを迫られています。世界中の抑圧された情況は普遍的に同じであり、その連帯は、抑圧に反対するときだけではなく、人類の発展のために闘う際にも重要なのです。

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それらの視点や姿勢を持ち合わせていたライトは、舞台をフランスに移したとき、当然のごとく、抑圧に苦しむ「アフリカ」に急速に近づいていくことになる.

(2)アフリ力意識
パリに移り住むまでアフリ力との直接の接触はなかったが、当初からライトがアフリカに対して正当な理解を示していた事実は注目に値しよう。西洋諸国は、西洋人が行く以前のアフリカは、文化も持たない野蛮な〈暗黒の大陸〉だったというイメージを捏造して自らの正当性を王張するのに余念がなかったが、ライトは決してそのような〈負〉のイメージに惑わされてはいなかった。むしろ、ヨーロッパ人が踏み入を以前から、アフリ力にはすでに固有のすぐれた文化や伝統が存在していたことを再三指摘している。例えば、ある論文では「黒入は(今日ちょうどメキシコインディアンがそうであるように)この異郷の岸辺に連れてこられたときには、豊かで複雑な文化を所有していた」と記している。あるいは、新大陸に連れてこられたアフリカ人について、前述の『千二百万の黒人の声』の中では次のように述べている。

捕えられ、この地に送り込まれる前から、アフリカにはアフリカ人自身の文明があった。私たちがアフリカで暮らしていた生活の様式を文明と呼べば、きっと微笑まれてしまうだろうが、いろんな点で大勢のアフリカ人を捕えた人達がやって来た国の文化と同等であった。私たちは鉄を製錬し、踊り、音楽を作り、民族の歌を唄った……私たちは交易の手段を発明し、金や銀を掘り、陶器や刃

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物を造った……私たちには文学も、独特の法のしくみも、宗教も、医術も、科学も、教育もあった……牛や羊や山羊を飼い、穀物を植えて取り入れを行なったーつまり、ローマ人が君臨するようになる何世紀も前から、私たちは人間として暮らしていたのである。

しかし、子孫のアフロ・アメリカ人の文化の中に、祖先のアフリカ人の文化のなごりを認めはするものの、歳月によって両者があまりにも隔てられてしまった現実をライトは明確に認識している。例えば、『アメリカの飢え』の中で示された、一九三〇年代にシカゴで接触のあったマーカス・ガーヴーイを信奉する運動家たちに対する反応は、そのあたりの事情を端的に物語っている。

このように模索を続ける日々の中で出合い、その生活に魅せられた一つのグループはガーヴーイ主義者たちで、寄るべくもなくアフリカに帰りたがっていた黒人男女の組織だった……私にはその人たちの気持ちが理解できた、というのも、感じ方が一部同じだったからである……私が好感を持ちながら、その運動に加わらない理由がその人たちには分からないのを私は充分承知していたから、あまりにも哀れに思えて、決して目標が達成できはしないこと、アフリカがヨーロッパの帝国主義列強の手になっていること、その人たちの生活がアフリカ人の生活とまったく違っていること、さらにその人たちはあくまで西洋人なのであり、西洋に溶け込むか、滅びてしまうかするまでは永遠に西洋人であり続けることを、とても口に出して言う気にはなれなかった。

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もっとも、ライト自身、のちにアフリカの地に立ったとき、アフリカ人たちの烈しい拒絶反応に合い、膚のの色が同じことや、アフリカが祖国であることが、自分とアフリカ人をつなぐ何の手立てにもならない現実を思い知らされて、戸惑うはめに陥いるのではあるが。

(3)アフリカヘ
パリでライトが最初に接したアフリカ人は、一九四六年の渡仏に協力をしてくれたセネガル人レオポルド・サンゴールである。すぐあとには、ザンゴールを通じてマルティニックの黒人詩人エメ・セゼールに紹介されるが、ネグリチュード運動の唱道者である二人とは、当初からそりが合わなかった。幼少時に厳しい宗教教育を強いた祖母への反発から、宗教によって個人の自由を奪われることを忌み嫌ったライトは、カトリックの見地に立つサンゴールと相容れなかった。また、アメリカですでに脱党の経験を持つライトは、当時自分や交友のあった実存主義者たちを烈しく批難していたフランス共産党に所属するセゼールを信用してはいなかった。しかし、なにより二人に反発したのは、「見失われたアフリカの再発見」というスローガンを掲げたネグリチュードの運動が、現実には親西欧的で、植民地主義に極めて妥協的であったからである。したがってライトは、ネグリチュード運動に批判的だった、英語を媒体として活動する作家たちとの交わりを通じてアフリカを考え、アフリカに接近していった。
親交のあった一人に、南アフリカの作家ピーター・エイブラハムズがいる。「西洋と接するようになってから、西洋で通り抜けてきたあらゆる思考過程の中によりも、私がともに育ったアフリカ人たち

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の中に、何かもっと力強く、精力的で、創造的なものが存在すると、改めて確信するようになりました」と語るエイブラハムズにライトは共感するところが多く、作品の原稿を読む労を取ったり、アメリカの出版社にいる友人に草稿を送って出版の便宜をはかったりして、アパルトヘイトと闘う若きアフリカ作家への援助を惜しまなかった。
なかでも、最も親交が深く、多大の感化を受けたのは、トリニダード出身のパン・アフリカニスト、ジョージ・パドモア(一九〇二~一九五九年)である。パドモアは、サンゴールなどのネグリチュード運動家たちを「西洋人以上に西洋人になりさがってしまった黒人知識人ども」と酷評し、「腐った政策しか持たないカフェに入りびたりのインテリたちから決して何も期待できはしない」と決めつけた。早くからパドモアは、アフリカはアフリカ人自身のものであり、アフリカの統一こそが真の解放の道だと説いていたが、ガーナの独立に際しては、エンクルマに闘争の戦略を授け、独立後もよき協力者としてエンクルマを助け続けた。
ライトの永年のアフリカへの夢が実現したのは、このパドモアの勧めと尽力による。一九五三年の復活祭の夜にライト夫妻を訪れたパドモアの妻ドロシィーの強い勧めと、ライトの企画に暖かい助言を与え、ハーバー社からの資金援助をとりつけてくれた友人レノルヅの協力によって、ライトは初めてアフリカの地を踏むことになる。

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(4)『ブラック・パワー』
(イ)イギリス領ゴールド・コースト
一九五三年六月四日の朝、ライトはアフリカに向けてリバプールを発った。目的地は一九五七年三月六日に独立を果たしたイギリス連邦ガーナ(現ガーナ共和国)、当時のイギリス領ゴールド・コーストである.結果的には、これがライトにとっての最初で最後のアフリカ紀行となるのだが、約三か月にわたる紀行は、翌一九五四年九月二十二日にハーバー社から『ブラック・パワi』と題して出版された。
自ら植民地問題調査委員会のメンバーであったフランス人作家アンドレ・ジイド(一八六九~一九五一年)は、かつて旧フランス領コンゴを訪れたあと『コンゴ紀行』(一九二七年)を書いた。当初の旅行の主要な動機は自然科学的好奇心であったが、植民地政策の犠牲となって苦しむ黒人たちの惨状と、官吏、商人、宣教師たちの横暴と腐敗ぶりを目の当たりにして「私は語らねばならぬ」と決意し、同書を世に問うている。
ライトの場合は、しかし、出版の意図や動機が違う。ブラック・アフリカ最初の黒人主権国として独立への胎動を始めたイギリス領ゴールド・コーストの地に自らが立ち、自らの目で確めた「人々の日常」を西洋世界に紹介するのだという意図を最初から持っていた。
タコラディ港で黒人労働者たちがクレーンなどを操縦している姿を見て歓喜し、南アフリカのマラン博士が黒人にはクレーンなどは操れないと記していたことを思い出してひとり苦笑している。アフリカに対する正しい視点と姿勢を備えていると信じてはいたものの、知らず知らずの間に、自分が西

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洋文明によって作り上げられたアフリカへのく負>のイメージに毒されていたことに気付いたからである。しかし、それらのイメージをかなぐり捨てて、ありのままの真実の姿を見、理解しようとする姿勢がライトにはあった。同じ黒い皮膚の色が何の助けにもならず、自分がアフリカ人から西洋人だと見なされていることを思い知らされたときにば、さすがに困惑の色は隠せなかったが、それでも膚の色の幻想を直ちに捨てて、むしろ用意された宿舎を出てまで、意欲的に危険を覚悟の行動を取ることができたのは、そうした姿勢をライトが持ちあわせていたからに他ならない。そこには、この旅行に賭けるライトの並々ならぬ決意とペンで闘う作家としての厳しさが感じられる。
印象記の羅列にしかすぎず、提示された問題に対しての論理的な追求への努力のあとが見られないと評する人もいるが、仔細に本文を読めば、決してそうではないことが分かる。アフリカに渡る前に、パドモアからあらかじめ読むべき本のリストをもらい、それに従って準備をしたが、本文中のエンクルマとの会話の中で洩らしたように、会うべき人々についてのリストも手に入れていた。つまり、ライトは決して行きあたりばったりではなく、最初から見るべきもの、会うべき人々にねらいを定めて行動したのである。さらに、表面的には主観的な感想記の様式を取ってはいるが、注意してみれば、明らかに焦点が絞られていることに気づく。その手掛りを独立後に出版されたエンクルマの『わが祖国への自伝』(筑摩書房、野間寛二郎訳)の一節が与えてくれる。一九四七年に故国に戻り、統一ゴールド・コースト会議の書記として精力的に活動をしていたエンクルマが、その微温性にあきたらず、大衆に促されてその職を辞し、会議人民党を指導していくことを決意した直後の次のくだりである。

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私を支持してくれる人々の前に立ちながら、ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をささげようと私は誓った。
これが黄金海岸の民族運動の進路を定める分岐点となったのだ。イギリス帝国主義の敷た間接統治の制度から、民衆の新たな政治覚醒へと───。この時から闘いは、反動的な知識人と族長、イギリス政府、「今すぐ自治を」のスローガンをかかげた目覚めた大衆の三つどもえで行なわれることになったのだった。

ライトの訪れた一九五三年は、まさにその「三つどもえ」の闘いの真最中で、「人々の日常」と来たるべき独立国「ガーナ」の真の姿を描こうとするライトには、その「三つどもえ」をいかに正しく捉えるかが最大の課題であった。したがって、ライトは印象記を単に羅列したのではなく「三つどもえ」に焦点を置き、様々な例証をあげ、分析を加えながら最後のエンクルマへの手紙にまとめあげた───言い換えれば、エンクルマへの手紙に集約する意図を持って、見聞した具体的な実例をあげ、それらに分析を加えていったということになる。以下、その「三つどもえ」を手掛かりに、ライトがどのように現状を捉え、エンクルマへの手紙にまとめていったかを考えてみたいと思う。

(ロ)イギリス政府
ライトは、エンクルマへの手紙の冒頭で、西洋ではアフリカを従属の状態に留めておきたいために、アフリカには文化も歴史もないかのごとき〈負〉のイメージをさかんに与えているが、なによりもま

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ず、アフリカ人自身が自信を持たない限り二十世紀への前進はないと心理面を強調する忠告を与えた。そして結びの部分で、アフリカのために事を成し遂げられるのはアフリカ人自身以外にはいないことを繰り返して述べている。それは、国際人として同胞の真の解放を願う誠実なライトの「精神のアフリカ化」の勧めに他ならないが、その点をまず強調したのは、滞在中に首相からマーケット・マミーに至るまでのあらゆるアフリカ人が話の肝心な所へ来ると必ず示すあの微妙な〈不信感〉をライトが敏感に肌で感じ取ったからである。なによりも感性を大切にする文学者ならではの分析が見られる。政治上の最初の敵は宣教師達だったと、感情を抑えながら言ったエンクルマの発言を思い出したあとの本書に見られる次の分析である。

金(ゴールド)は他のものでも替えがきく。木は再び育ちもしよう。しかし、どのような力をもってしても、精神的な習性を再構築し、かつては人々の生活に意義を与えていた視点を取り戻すことは不可能である。何ものも、あの自らの誇りを、物事を決断するあの能力を(中略)人々に取り戻すことはできない。今日、それがわれわれにどれほど残酷に、また野蛮に映ろうとも、以前の文化の形骸が、はにかんだり、ためらったり、狼狽したりする人々の動作の中に見え隠れする。相手の様子をうかがってやろうとする心理的な目を持つ人間に対して、その蝕まれた性格がぬーっと顔を現わすのである。

植民地政策のもたらした最大の罪の一つは、宣教師たちが一方的に、アフリカ人の日常に踏み込み、

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代替物を与えることなく人々の精神構造を破壊したことだと言いたかったのであろう。最初に、ライトは心理面を強調はしたが、それらは自らの目で実際に確かめた〈アフリカ〉の厳しい現実から感得したものである……歩道もなく、側溝にたれ流された小便の臭いのふんぷんとする街路、所かまわずつばを吐き捨てる老人、商売用の重い荷物を頭に乗せて運ぶ年端もいかぬ少年、水汲み場で子どもを洗う母親、水浴みをする少女、物乞いをする正視に絶えない乞食たち、文字が読めないために配達されない郵便物、たちまちにびっしりとつく赤さび、悪臭を放つ沼、ツェツェばえ、まだ存在すると言われる生贅(いけにえ)、病院に行きたがらずに村の祈濤(きとう)師をせがむ出稼ぎ労働者、まともな教育を受けられない人々、頭のただれた村の子どもたち、道路のひどさ、炎天下に安賃金でロボットのように働かされる沖仲士たち……。それらの「現実」は、当時の実状を回想して綴られたエンクルマの『アフリカは統一する』(理論社、野間訳)の中に記された次の一節にも符合する。

イギリスの植民地政庁がわが国を統治していた全期間に、農村の水の開発がまともに行なわれたことはほとんどなかった。これが何を意味するかを、栓をひねるだけで良質の飲料水が得られるのを当然とみなしている読者に伝えるのは、容易ではない。私たちの農村社会に、もしそんなことが起こっていたら、人々はまさしくそれを天国だと思っただろう。村に一つの井戸か配水塔でもあれば、彼らはどんなにか感謝したであろう。
事実はそうでなかったので、暑い湿気のある畑でつらい一日の仕事を終えると、男や女は村に帰り、それから、手桶か水がめを持って二時間ものあいだ、とぼとぼと歩いていかなければならなか

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った。行きついたところで、沼とほとんど変わらないような所からでも、塩気のある、ばい菌だらけの水を、その桶やかめにくめたら、幸運なのだ。それから長い道のりを戻る。洗ったり飲んだりする水、たいていは病気のもとになる水の、取るに足りないほどの量を得るのに、一日に四時間!
国中のほとんどが、ほんとうにこのような状態だったのだ。

予想以上の惨状に、驚きの念を禁じ得なかったが、イギリスのもたらした<現実>から、ライトは決して目をそらさず、物事の本質を見極めようとしている。
特有の<不信感>や悲惨な<現実>は、あくまで表面に現われた現象にすぎず、それらの現象は、富の強奪にしか関心のない植民地政策によってもたらされたことをライトは充分に承知していた。同時に、イギリス政府が村落共同体という伝統的機構を利用せざるを得なかった植民地支配の限界にも気づいていた。抑圧された境遇に一種の連帯の意識すら覚えながら、エンクルマへの<手紙>の中で、ライトはその限界をむしろ喜ぶべき特徴であると指摘したのち、次のように続けている。

民族の文化的な伝統は、西洋諸国の事業や宗教の利害関係によって毀されてはきたが、西洋人たちのその毀し方がそれほど積極的なものではなかったので、ひとつの<世界像>を創造したいという渇望が無垢(むく)のまま、損なわれないで、人々の間に依然として存在しているのである。
元来、厳しい自然の中で農民が生き延びるために自然発生的に生まれた村落共同体は、植民地化

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以前には当然、自立のための発展性を秘めていた。その発展の可能性は、最初、奴隷貿易によって奪われた。のちに土地収奪や強制労働、あるいは税金賦課などの植民地政策によって奪われ続けた。ライトが見たアクラ海岸の沖仲士たちやビビアニの金鉱やサンレボイの木材会社で働く人々の大半は、強制労働や税金賦課などの政策により村を離れることを余儀なくされた出稼ぎ労働者たちだった。驚くほどの安賃金に危険を伴う重労働にも、決して働き手が不足することはなかった。アクラの海岸では、仕事の順番を待つ上半身裸の若い黒人たちが、炎天下、事務所の前に群がっていた。奴隷売買あるいは税金賦課などの植民地政策によって、村落共同体が働き盛りの人間を奪われることは、その支柱をなくすこと、その内在する発展性を失うことを意味していた。内在する発展性を奪われた共同体は弱体化して後進的状態にとどまる方向に進んだが、残された者は、なお、より強固な団結と労働で厳しい収奪に耐えた。弱体化しながらも、かろうじて崩壊の危機を免れ、じっと耐える共同体の姿の中に、ライトはおそらく人々の<渇望>を見い出したのだろう。
ともあれ、本来自立のために生まれた共同体は、支配のために利用される機構へと変容させられていった。イギリス政府は人々の心に不信感を、人々の日常に惨状をもたらした。そして、本来の機能を充分果たしていない形骸化した、いわゆる<トライバリズム>なるものを残した。トライブあるいはトライバリズムという言葉自体が、西洋諸国の一方的な押しつけであるように、その実体もまた、アフリカに内在した歴史的な発展過程を辿ったものではなく、あくまで外部因子である植民地支配によって無理やり押しつけられたものであることを忘れてはならない。ライトは<手紙>の中で、沈滞する<トライバリズム>を打破する必要性をしきりに提言しているが、それはライト

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自身が人々の<渇望>を感じながらも、本来機能すべきものが充分に機能せず、伝統的文化の形骸だけが残されている実情を見てとったからに他ならない。
ライトはまた、<手紙>の中で、独立に際して、過去そうであったように未来も決してイギリス政府から真の援助は望めないばかりか、スキあらばいつ何時たりとも襲いかかってくると予言し、西洋に頼るな、少なくとも西洋のみせかけの援助の受け入れは最小限にとどめよと忠告した、数回にわたる暗殺未遂事件、そして軍事クーデターによる失脚、ギニアへの亡命、さらには親友であったコンゴ共和国首相バトリス・ルムンバの虐殺と国連軍の背信行為など、のちの歴史的な経過を考慮すれば、それらの予告が決して大げさなものではなかったことが知られよう。しかし、そのことを一番よく知っていたのは、他ならぬエンクルマ本人ではなかったか。そのあたりの事情については、エンクルマ自らが独立時回想して書き残した『アフリカは統一する』(野間訳)の中の次の象徴的な一節を掲げるにとどめよう。

遺産としては厳しく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとのイギリス総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。特別の家具が一つあったほかは、わずか数日前まで、人々がここに住み、仕事をしていたことを示すものは、まったく何一つなかった。ぼろ布一枚、本一冊も、発見できなかった。紙一枚も、なかった。非常に長い年月、植民地行政の中心がここにあったことを思いおこさせるものは、ただ一つもなか

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った。
この完全な剥奪は、私たちの連続性を横切る一本の線のように思えた。私たちが支えを見い出すのを助ける、過去と現在のあいだのあらゆる絆を断ち切る、という明確な意図があったかのようであった。

(ハ)首長と反動的知識人
イギリス政府が植民地政策を取らざるを得なかったのは、限られた人員で<完全占領>するにはアフリカが広大すぎたからであり、伝統的機構を利用したのは、それが支配するのに好都合だったからである。植民地政策により共同体の支柱を奪い、人々の教育の機会をそぎ、首長を傀儡(かいらい)に仕立ててその形骸のみを温存させ続けた。
ライトはアクラで運転手を雇い多額の出費と危険を覚悟の上でクマシ方面へ出向いたが、その目的は首長に会ってみることだった。現に数人の首長と会見したが、そのうちの一人は、蜜蜂が自分の護衛兵だと信じて疑わなかった。その人は実際に二万五千人の長でありながら、人口はどれくらいいるのかの質問に対して「たくさん、たくさん」としか答えられなかった。かつて、一本のジンとひき換えに同胞を奴隷として商人に譲り渡した首長。そんな人たちをライトは<手紙>の中で「純朴な人々を長い間食いものにし、欺し続けてきた寄生虫のような首長たち」と書いた。しかし、エンクルマが自分たちの権力を弱めたと批難はしながらも、多くの首長たちがご機嫌うかがいに党本部に出入りしていたことや、強力な首長アサンテヘネが中央集権化を恐れるイギリス政府に利用

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されかけたにもかかわらず、結果的にはエンクルマに譲歩した事実などを考え合わせると、首長たちは時代の流れに敢えて強くは抗えなかった人たちだったと言える。
むしろ、エンクルマに強力に敵対したのは、かつてはともに闘った統一ゴールド・コースト会議の中心であった、西洋で教育を受けた黒人知識人達だった。ライトはその中の中心人物、ダンクァとブシア(のちに首相となる)にも会っている。「なるべく早い自治を」と主張する反対派は、エンクルマがイギリスと組んで自分個人のために大衆を煽動(せんどう)していると批判した。そして独立はいまだ時機尚早だと言い、伝統の大切さを説いた。
一方、エンクルマは反対派について『アフリカは統一する』(野間訳)の中で次のように回想している。

今日まで、反対派はほとんどいつも破壊的だった。(中略)”今すぐ自治を”の私たちの政策の正しさが一九五一年の選挙の結果で証拠だてられたことに対して、統一黄金海岸会議の指導者たちは、私と私の仲間を決して許さなかった。その後、彼らの敵対は、独立を事実上否定し、イギリスの退去を不本意とするところまで達した。もし私と私の仲間を政権からしりぞけておけるならば、わが国の民族解放を犠牲にするつもりでいたのだ。

数人の黒人知識人との会見や「金持ちの奴らは、イギリス人たちよりたちが悪い」と嘆く黒人青年の声などから、私欲にかられた反対派が大衆からすでに遊離してしまっていることを察知していたラ

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ライトは<手紙>の中で西洋で教育を受けたアフリカ人たちはあてにするなとエンクルマに書いた。

(ニ)大衆
自分たちのために何もしてくれないイギリス政府、何もしてくれなかった首長や金持ち黒人達、大衆は、すでに誰も何も信じ守なっていた.大衆は長年の抑圧の状況の中で、「自分たちの生活を制御する力を取り戻し、新しい意味での自らの運命を創り出したい」と渇望していた。大衆は「目に見えない神々への誓い」に倦み、もはや「自分たちの日々の福利に直接かかわりのある誓い」しか唱えられなくなっていた。驚くほど短期間の間に、エンクルマはその大衆の心を捕えた。ライトはそんな情況を「エンクルマはイギリス人や宣教師達が民族の伝統的な文化を打ち壊した際に残していった真空をすでに塞いでいた」と分析した。大衆の心を捕えたエンクルマの勢いには目をみはるものがあった。沿道で、あるいは集会で歓呼する大衆。主に統一ゴールド・コースト会議の人達に見捨てられていた労働者・学生、マーケット・マミーたちだったが、なかでも、植民地政策の下で低い地位に甘んじることを強いられ続けていた女性たちの熱狂ぶりは凄まじかった。一九四九年に、エンクルマが官吏侮辱罪で三百ポンドの罰金を科せられたとき、即座に保釈金を掻き集めたのも、主としてマーケット・マミーたちだった。大衆の大多数は文字すら読めず、自分たちが一体何をやり、全体がどういう方向に進んでいるのかを正確に把握してはいなかったが、それだけに、ライトはく手紙Vの中で、エンクルマに、大衆に約束したあなたがそれらの約束を果たすためには、行動の論理を人々の生活の状況に応じて決定すべきであり、自らの歩むべき道を、自らの価値を発見すべきであると、まず語りか

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けたかったのであろう。そして「国を統一し、形骸化した統一のしがらみを一掃し、大衆の足を現実という基盤の上に据える」ためには「アフリカの生活に尚武の心を植え付けなければならない」と敢えて提言したのは、独立するに際して、これから歩む道があまりにも厳しく、険しいものであることを肌で感じ取ったライトの、精一杯の暖かい助言ではなかっただろうか。

(ホ)『ブラック・パワー』
ヨーロッパでは、植民地大国イギリス、フランスで一部出版拒否にあっているが、各国で翻訳され全般的には受け入れられた。殊にドイツでは熱烈な歓迎を受けている。
アメリカでは「レポートとしては一級品」という評も含め、おおむね評判は悪くなかったが、辛辣(しんらつ)な批判も多く、ライト自身少なからず傷ついている。
それらの反応は、植民地に対する各国の政策や直接の利害関係と無縁ではない。宗主王国イギリスで、当初激しい出版拒否にあったのも、植民地への依存度の高い国の事情と深いかかわりがあろう。
ここに、ライトにアフリカ行きを勧めたドロシィー・パドモアが本書の真価について語った一節がある。ドロシィーがガーナに住み、エンクルマを助けて働いていただけに注目に値する。ライト研究の第一人者ミシェール・ファーブル氏の要請に応えて送った一九六年三月十三日の付けの手紙の中の次の一節である。

『ブラック・パワi』がついに出て、リチャードが夫と私に本を一冊送ってくれたとき、その本が

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夢中にさせて-れるほど素敵なものだと分かりました。そして、その頃までにすでに私はゴールド・コーストに行った経験がありましたから、そこには私の考えや反応と響きあつ個所がたくさんあるのを知りました。その点では、夫も大体同じでした。二人とも、その本ではゴールド・コーストの社会が、熱望や過去.未来の展望などが織り交ってかなりうまくまとめ上げられていると考えました。ゴールド・コーストでは、その本で述べられていることが、多くは時代にあっていない発言であるとか評論であるなどと言われていましたが、問題はそれがどのように受け入れられたかどうかではないのです……。
アフリカ人以外の批評家の間では、本書の巻末に載せられたエンクルマへの手紙について、リチャードが出しゃばりすぎていると考えられていました.しかし、私と夫の意見では、その手紙が建設的な意味合いで、最も貢献度が高いということだったのです。私は、書かれた当時だけでなく今でもそれが正当性を失ってはいないと思っています。もし、手紙が意図されたように、暖かい助言として受け入れられていたとしたら、多くの落とし穴にはまらなくて済んでいたのに……と、私は思うのです。

西洋諸国はアフリカに対して理不尽の限りを辱してきた。そしてその情況は今もなお、続いている。三世紀半にわたる奴隷貿易に続嵜酷な植民地支配下で、そして「近代的な文明も科学的技術の恩恵も断たれた、世界で最低の条件下で」人的資源を増大させ、伝統的文化と教育を温存し、人間として威厳を守り続けてきたアフリカから、われわれが学ぶべきこと、教えられる点は実に多い。それ

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ばかりか、現在もなお、植民地主義、新植民地主義と闘い続けるアフリカの姿は、現代われわれに真の生き方、真のあり方を問いかけている。
先般来日したセネガル人作家センベーヌ・ウスマン氏は、日本で繰り広げられた飢餓救援活動に対して「援助は要りません。それより、暖かい目で見守って下さい」と語ったが、それは見せかけの援助より正当な理解をという生き方を問う鋭い発言であろう。援助と称しながら、その実、アフリカを食いものにしてきた西洋諸国ばかりか、アメリカの政策を強力に支援する日本もまた、過去から積み重ねてきた罪の責任を取るべきことを、今、迫られている。ライトも、本書の中でその点について次のような指摘をしている。

人はその人となりや、その暮らしぶりに応じてアフリカに反応する。人のアフリカに対する反応は、その人の生活であり、その人の物事についての基本的な感覚である。アフリカは大きな煤けた鏡であり、現代人はその鏡の中で見るものを憎み、壊したいと考える。その鏡をのぞき込んでいるとき、自分では劣っている黒人の姿を見ているつもりでも、本当は自分自身の姿を見ているのだ。(中略)アフリカは危険をはらんでおり、人の心に人生に対する総体的な態度を呼び覚まし、存在についての基本的な異議をさしはさむ。

出版代理人や出版社の入れこみようとは裏腹に売れ行きは芳しくなく、その意味では出版が成功したとは言えないかもしれないが、独立への胎動をいち早く察知してアフリカに駆けつけ「人々の日常」

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を、あるいは独立への歩みを西洋世界に紹介することによって、アフリカを正当に理解しようとした功績は少なくない。西洋の援助を受ければ新しい形の帝国主義搾取を招くという新植民地主義への予言は、現在、アフリカの多くの国が支払えないほど莫大な対外債務を抱え、新植民地主義政策の犠牲を強いられている情況を思えば、いかに的を得たものであったかが分かる。また、内部からの腐敗に留意せよ、それらに対しては厳しい態度で臨めという警告も、エンクルマ失脚の一因が内部者の目にあまる腐敗ぶりにあったことなどを考慮すれば、その適切さがうかがえよう。
ライトは旅の終わりに、船上でレノルヅ宛てに「私はこの地で見たものに衝撃を受けた。しかも、ゴールド・コーストはアフリカでも一番良い所だと聞く。もしそれが本当なら、一番ひどい所を私は見たくない」という手紙を書いた。しかし、すぐあとには仏領西アフリカへの長期にわたる紀行を企画している。ドロシィーの手紙が明らかにしているが、「アフリカの独立国について諸外国で広がっている誤った情報に対抗するために、その紀行を利用してより本当の姿を世界に紹介したい」と願ったからである。残念ながら、ライトは病にたおれ、夢半ば、異郷の地に果ててしまった。しかしながら、病床にあってもなお、つむぎ続けたアフリカへの夢から、東西の力関係ではもうどうしようもない世界の現状を憂うるライトの真情が、確かに伝わってくる。

(5)『白人よ、聞け!』
主として一九五〇年代に、ライトは要請に応えて、ヨーロッパ各地で数々の講演を行ない、西洋の犯した罪をあがなうべき道を力説した。「今日の世界における白人と有色人、東洋と西洋に関する相互

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に関連した、首尾一貫した」四編が『白人よ、聞け!』として出版されたが、なかでも「抑圧された人々の心理的反応」と「伝統と工業化」の中の次の一節は、ライトの西洋とアフリカへの姿勢を浮き彫りにしている。

あなた方西洋の白人に言おう。あのアジアやアフリカの人たちをどれほど簡単に征服し、略奪したかを自慢しすぎるなと……法律においてと同様に、歴史においても、人間は、そのような結果を意図していたかどうかにかかわらず、歴史的行為の結果に対して厳しく責任を負わなければならない……西洋がその責任を取ることこそ、白人が不安や恐慌や恐怖から自分を解放する手だてを作り出すことになるのだ……。
あなた方は、いかに見当違いであったとはいえ、アフリカやアジアのエリートを訓練し、教育をした。そして、心に自由と合理性に対する渇望を植えつけた。いま、あなた方のこのエリートたちは……飢えや病いや貧困……などによって、ひどく追いつめられている……今、私はあなた方に言いたい、ヨーロッパの人々よ、あのエリートたちに道具を与え、この事業を成し遂げさせてやれ!と。

もっとも、一般的に、アフリカ人作家たちは、ライトからある程度感化を受けたことは認めても、ライトをあくまでアメリカ人、西洋知識人とみなしており、ライトの"西洋的"見方に反発もしている。例えば、ギニア出身のカマラ・レイは「アフリカと世界中の黒人が思想的に協調すべきである」

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というライトの信念に共感は寄せながらも、次のように反論している。

アフリカでは、問題は私たちが平等や公民権を達成するということではない。私たちはいかなる種類のものであれ白人社会との統合には関心がない。近代的なものを切望はしても、決してヨーロッパ化されたい、つまり白人化されたいとか、危険を冒してもアフリカ特有のものを失いたいとか、望んでいるわけではない。

独立後のガーナの首相エンクルマの相談役をしようというライトの書簡に、エンクルマがなんら反応を示さなかったのも、おそらくそのあたりに原因が潜んでいよう。その意味では、フランス人学者ミシェール・ファーブル氏が指摘するように「ライトは、ときおり、二つの違ったグループの願望の間の調整役をつとめながら、せいぜい、統合とネグリチュードのまんなかあたりに立っていた」と言えそうである。
しかしながら、新植民地主義への鋭い洞察や、ピーター・エイブラハムズやフランツ・ファノンらのアフリカ人作家への影響なども含めて、「白い仮面と黒い膚との間で」、自由を求めて、闘う黒人西洋知識人として苦悩し続けたライトの足跡から、学ぶべき点、教えられることは、今もなお、多い。

執筆年

1987年

収録・公開

『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ

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リチャード・ライトとアフリカ(本文は作業中)

1976~89年の執筆物

概要

高校を辞め、大学を探し始めて4年目、私立の短大とか大学とか話はあるものの決まらず、結局大阪工業大学の嘱託講師(見かけは常勤、実際は非常勤)と他の非常勤をかけもちし、週に16コマの授業を持っていた頃です。

修士論文で取り上げた作品の中でも、ライトの出世作『ネイティヴ・サン』(Native Son, 1940)を、特に擬声語を手がかりに、テーマに表現をからめて考えてみました。「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground” の擬声語表現」(1984)を書いた時に、他の作品でもテーマにからむ重要な場面で擬声語の表現が意図的に用いられていると予測し、『ネイティヴ・サン』や『ブラック・ボーイ』(1945)のような主要な作品で同じように書けないかと考えるようになっていました。

『ネイティヴ・サン』を最初に読んだ時は、その展開の早さや勢いを感じながら、2日か3日で一気に読んだ記憶があります。その印象は、やっぱり使われている言葉遣いとも密接に関係があったのだと、この小論を書きながら思いました。英語を母国語としている人たちが、この文章で分析しようとしているように感じて、意識的に擬声語を用いたのかどうか自信はありませんが、今までにない視点だと思います。

『ネイティヴ・サン』

1981年と86年にシカゴに行きましたが、この小説の舞台になったサウス・サイドには行きませんでした。81年は初めてのアメリカ行きで余裕がなかったうえ、ミシガン通りでパレードを眺め、この小説の初版本を手に入れようと古本屋をまわるだけで精一杯でした。86年は、シアーズタワーに登り、前年にミシシッピ大学であったシンポジウムでの発表者シカゴ大学のSterling Plumpp さんに会うだけで終わってしまいました。英語もあまり聞けないのに、電話をかけて自宅のマンションに会いに行きました。

日本語版は→「Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」「言語表現研究」第4号29-45頁(1986)。

This paper aims to give an estimation of some symbolical and metaphorical expressions in the opening scene in Native Son (1940) by Richard Wright (1908-1960).

He chose the rat’s scene to open the story because he wanted to lay down some impressive event that would sound and resound in varied form throughout its length.

The story begins in a little room in Chicago’s South Side where the hero and his family live together. Wright succeeds in giving us symbolical and metaphorical meaning by making the best use of the hero, the rat, and the little room, focusing on noisiness. filthiness, and closeness.

In this paper efforts are made to show hove ~’4’right succeeds in making each of them play their part in the schemed opening scene, by making the skillful use of symbolical and metaphorical expressions.

本文

  1. The opening scene

Quite a few readers were shocked when they read through Native Son (1940) by Richard Wright (1908-1960). We can imagine how great its impact was even from the fact that the book was taken away from the shelves in public libraries. It was not simply because the book presented a vital problem to society’s racial crisis, but because the book was supported by its devised plot, schemes and expressions.Richard Wright(小島けい画)

  He seems to have been at great pains to think of its opening scene when he sat down to type. The next passage tells us vividly of the difficulty :

…, when I sat down to the typewriter, I could not work ; I could not think of a good opening scene for the book. I had definitely in mind the kind of emotion I wanted to evoke in the reader in that first scene, but I could not think of the type of concrete event that would convey the motif of the entire scheme of the book, that would convey the motif of the note that was to be resounded throughout its length, that would introduce to the reader just what kind of an organism Bigger’s was and the environment that was bearing hourly upon it. Twenty or thirty times I tried and failed ; then…(1)

The text shows us his desire of setting the event in the opening scene that would sound and resound in varied form throughout its length. After many trials and errors, he finally chose the scene in which Bigger Thomas kills a rat. We see how worried he was about this “rat" by reading this section of his essay :

I went back to worry about the beginning…, one night, in desperation…I sneaked out and got a bottle. With the help of it, I began to remember before. One of them was that Chicago was overrun with rats. I recalled that I’d seen many rats on the streets, that I’d heard and read of Negro children being bitten by rats in their beds. At first I rejected the idea of Bigger battling a rat in his room ; I was afraid that the rat would “hog" the scene. But the rat would not leave me; he presented himself in many attractive guises. So. cautioning myself to allow the rat scene to disclose only Bigger, his family, their little room, and their relationships, I let the rat walk in, and he did his stuff.(2) (Emphases mine.)

It could be said that he wished to allow the opening scene to disclose the hero, his family and their relationships by making impressive use of the rat and their room where they spent their daily lives.

Now let us see how symbolically and metaphorically he devised the opening scene in this work, with emphasis on some of the key words.

II . i ) “their little room" The story begins in a tiny room in the South Side of Chicago. Wright chose the room as a familiar scene to the inhabitants of the South Side, not as a special one. The passage we now quote from 12 Million Black Voices (1941) reveals the background and the conditions of the district at the time :

12 Million Black Voices

When the white folks move, the Bosses of the Buildings let the property to us at rentals higher than those the whites paid.

And the Bosses of the Buildings take these old houses and convert them into "kitchenettes", and then rent them to us at rates so high that they make fabulous fortunes before the houses are too old for habitation…They take, say; a seven-room apartment, which rents for $50 a month to whites, and cut it up into seven small apartments, of one room each ; they install one small gas stove and one small sink in each room…because there are not enough houses for us to live in,…we rent these kitchenettes and are glad to get them,…Sometimes five or six of us live in a one-room kitchenette,…(3)

The room, in which on one bed sat three naked children looking at the other bed on which lay a man and a woman, both naked and black, and which the fugitive Bigger saw from the roof through a window and turned away, thinking it was a disgusting familiar sight, the unventilated and rat-infested one-room his lawyer Max questioned about to Mr. Dalton, the owner of the building who had exacted an exhorbitant rent from the Thomas family, and “their little room" are nothing but the “kitchenette" just quoted.

“their little room" – "kitchenettes"

  On this “little room" some images are thrown, focusing especially on (1) noisiness, (2) filthiness, and (3) closeness. Now we will begin to attempt some analysis of the scene, laying emphasis on these three points.

(1) “noisiness"……In order to appeal to our ears directly, Wright uses many onomatopoeic words in this scene. Although Wright often made good use of such words in his other works, the reader is always surprised at the beginning of the story, Brrrrrrriiiiiiiiiiiiiiiiiiinng! Here is the opening scene :

Brrrrrrriiiiiiiiiiiiiiiiiiinng!

An alarm clack clanged in the dark and silent room. A bed spring creaked. A woman’s voice sang out patiently

'Bigger, shut that thing off?’

A surly grunt sounded above the tinny ring of metal. Naked feet swished dryly across the planks in the wooden floor and the clang ceased abruptly.

'Turn on the light, Bigger.’

'Awright,’ came a sleepy mumble.(4)

The second line tells us that the unfamiliar word is the sound of an alarm clock. Both the verb “clang," imitative of that sound, and the noun “clang" in the sixth line hint that the metallic sound resonates loudly in the little room.(5) The spelling of Brrrrrrriiiiiiiiiiiiiiiiiiinng! makes us feel something extraordinary. It reminds us of the following scene in The Long Dream, where he uses the same pattern. In this scene the six-year-old protagonist is asked to look after his father’s funeral parlor at midnight and begins to feel worried when he discovers the mischief he has done with his friends to a white lady passing by frightens himself as well :

They entered the office and stood in the dark.

Brriiiinnnnnnnnnnng!

The phone’s metallic ringing shattered the dark and the boy’s muscles grew stiff. They could hear one another’s breathing.

Brrriiiiiinnnnnnnnnnnnnng.

“Oh Lawd. I got to answer." Fishbelly whispered stickily….

Brriiiiiiiinnnnnnnng.~ Brrriiiiiiiiiiiinnnng.“(6)

We find that Wright spells thus to imitate the sound of the phone, but also notice that the words are spelled differently from the sound of the clock. He uses more “n"s, particularly suitable for expressing grumbling reverberation.(7) He must have given weight to a lingering echo of the sound. It is no wonder that the bell rings furiously with a lingering echo as it is midnight and in the wide concrete basement of the undertaking establishment. But also, we can not miss his elaborate contrivance for each spelling of the bell. The contrived expressions bring forth the sensitive feelings of a boy in the South who can never forget the uncertainties contained in cz-ord~ such as “a white woman" and “the lynching."(8)

If we can say he emphasizes a lingering echo by the expressions of the bell, it might be also said he emphasizes clamorousness and restlessness by those of the clock. “Brrrrrrriiiiiiiiiiiiiiiiiiinng!" includes the vowel “i" to symbolize swiftness and abrupt-ness,(9) while the two “clang"s of the clock characterize loudness. Taking into consideration the restless development of the story which moves swiftly with two murders, a flight scene, and an arrest, this noisy sound of the clock, which symbolizes clamorousness and restlessness, is to be the fittest bell tolling at the opening of this story. With this in mind, the next comment is to the point : Brrrrrrriiiiiiiiiiiiiiiiiiinng! is the shrieking sound of the clock in the first line which is the signal bell of the opening. This grating metallic sound rings in succession throughout the length of the story. Every incident of the story moves swiftly together with the clamorous sound of this alarm clock.(10)

The sound of the clock plays the leading part, while various other sounds fill the supporting roles of the opening scene. Strictly speaking, it is the clock, the bed spring, Bigger’s feet and the floor, his mother, and Bigger that virtually give forth sounds or voices. Apart from the clock sound and their conversations, the sentences can be put in the simplified Subject+Verb form : clock+clang./spring+creak/voice+sing/grunt+sound/feet+swish/clang+cease/mumble+come. (The underlined parts are onomatopoeic words.) “Brrrrrrriiiiiiiiiiiiiiiiiiinng!" is the sound itself. Its movement is expressed by the verb “clang" and the sound by both “the tinny ring of metal" and “the clang." A woman’s voice is “Bigger, shut that thing off!" which is expressed by “A surly grunt." “Awright" in the last line is nothing but “a sleepy mumble." Now we see that the sentences which include the clock sound and their conversations in the first 9 lines are sounds or voices themselves or expressions connected with the sound. It is remarkable that six out of seven sentences include echo words (clang, creak, grunt, swish, clang, mumble), which are the imitative words of natural sounds and signified as [Imitative. in O. E. D. In this case we can not forget that they are all grating and noisy sounds to the ear.

The first loud sound “clang" and the grating sound “creak" bring out the word “impatiently" expressive of the mother’s irritation and the words “A surly grunt" expressive of her complaint. It follows that Bigger’s pace quickened by the loud sound, the grating sound, and her irritation produced the fricative word “swish" which includes the vowel [i] to symbolize swiftness and abruptness. In that situation the word “mumble" is effective enough to express his dissatisfaction with his mother who urges him to “shut the clock" when he is heavy with sleep. The word “mumble" including two nasal [m] and a voiced plosive [b] (11) is just the word to express the dissatisfaction the boy feels as he rubs his drowsy eyes in the silent room after the clamorous clock has been stopped.

However, there is a shade of difference in meaning between “grunt" and “mumble," although they both express complaint. The nasals are fit for the muffled sound of “mumble" with a lingering echo, while the ending plosive [t] expresses well the passing sound of “grunt" drowned by the clamorous metallic ringing sound in the tiny room.(12)

Furthermore, the effect of the clamorousness of the clock sound is heightened by the striking contrast between the short vowel [i] of the sharp “swish" and the “super" long vowel of the clock expressed by 19 “i"s.

Now we also find the effective use of both “creak" of the bed spring and “swish" between the feet and the floor, for they are suggestive of bad household equipment. The bed on which Bigger is sleeping is cheap, hard, and made of iron, not gorgeous or soft. The rusty spring may have creaked. The floor Bigger walks across is not a soft thick-carpeted one, but the hard “planks" horribly stained and smelled. It can surely be said that in order to show us the bad conditions of the room, Wright designedly sets the scene where the bed spring creaks and the boy swishes across the floor. Later in the text, we learn about the same poor household equipment when to his friends Bigger voices his dissatisfaction with his white landlord who is reluctant to have the “radiators" repaired. His following complaint for “a small stove" is too heart-breaking to us readers when we consider the fact that in Chicago some were frozen to death in the severe winters.

'Kinda warm today.’

'Yeah’, Gus said.

'You get more heat from this sun than from them old radiators at home.’

'Yeah, them old white landlords sure don’t give much heat.’

'And they always knocking at your door for money.’

'I’ll be glad when summer comes.’

'Me too,’ Bigger said. (13-14)

In part two “FLIGHT," we come across a scene where Bigger remembers the time when the police has driven his family out of the flat. The building collapses two days after they move out. Once again we seem to hear these “creak"ing and “swish"ing sounds.

Now let us go on to the next scene. The boy switches on the light. In the room their brief conversation is heard for a while. Suddenly, a complete change in their mood is caused by “a light tapping" slightly audible to their ears. It is “the rat." “He" is to leave the “scene" after being killed by the skillet Bigger throws and is put into a garbage can by Bigger’s own hand. The following is the text of that scene :

…Abruptly, they all paused,…, their attention caught by a light tapping…. Bigger looked round the room,…and grabbed two heavy iron skillets…Buddy ran to a wooden box and shoved it quickly in front of a gaping hole…A huge black rat squealed and leaped at Bigger’s trouser-leg…Bigger held his skillet ;…The rat squeaked…Bigger swung the skillet ; it clattered to a stop against a wall… The rat…let out a furious screak… The rat…bared long yellow fangs, piping shrilly,…Bigger…let the skillet fly with a heavy grunt… “I got 'im," he muttered,…(4-6, emphases mine.)

In contrast to the clamorous scene of the clock, the rat’s scene begins calmly with a light sound expressed by an imitative word “tap." In the scene we can find six onomatopoeic words other than in their conversations ; “squeal," “squeak," “streak," and “pipe" of the rat and “clatter" and “grunt" of the skillet. (Of these “squeal," “squeak." and “grunt" are given the sign of [Imitative.] by O. E. D.) Even if “shrilly" is not inserted after “piping," “pipe," as well as “squeal," “squeak," and “streak" carries an implication of “shrill" (=piercing & high-pitched in sound), which is usually uttered in the state of fear or pain. In [ski : l] , [ski : k] and [skri : k] we find the same sounds in common – [sk] (a voiceless fricative [s] plus a voiceless plosive [k] ) and [i : ] (a long vowel [i : ] ). The former is imitative of the hoarse voice the rat strains in a frenzy of flight when he recognizes that the way of retreat is completely blocked. The latter is suggestive of the sharpness and high-pitchedness of the sound. And two liquids [r] and [1] express well the changing motion of the rat ; “squeal" hints at the rat’s leaping at Bigger with a wild shriek after crouching ; “streak" is suggestive of the motion of the rat which is now looking around restlessly just after running around, while “squeak" is of the motionless state of the rat which holds the crouching position. Of all these words, “streak" is most worthy of our notice. We can not find it either in P. O. D. or C. O. D. In O. E. D. it is signified as “Now chiefly dial.," from which we recognize the writer’s device of expression. He must have wanted to impress on us the delicate differences of each situation or each sound of the rat dodging in flight even by making the best use of the word unfamiliar to our ears.

Next is “clatter," which is imitative of the sound of the skillet Bigger throws. It symbolizes loudness by cl-, the metallic sound produced between the skillet and the wall by the voiceless [k] , and its movement by the liquid [l].

In contrast to “clatter," “grunt," imitative of the sound of Bigger’s second pitch of the skillet, shows the disagreeable dull sound produced when the skillet hits the rat’s soft body. It symbolizes the dull sound by the voiced [g] , its movement by the liquid [r] , and the passing sound with no lingering echo by the plosive [t] . Above all, the ending [t] is effective enough to help us get a feeling of “I got 'im."

In this scene we find 12 predicate verbs after the quotations (for example, “muttered" of “`I got 'im,’ he muttered.") although most of the story is composed of dialogues. They are “wail" and “whimper" of his sister, “shout" of his brother, 5 “scream"s of Mother, and “call," “whisper," “ask," and “mutter" of Bigger. Of those, “scream" is very similar both in meaning and in pronunciation to the previous [ski : l], and [skri : k]. His “wail"ing and “whimper"ing sister, “scream"ing Mother, and the “squeal"ing, “squeak"ing, and “streak"ing rat…… The word “mutter" contrasts well with them. The short complaint at the end of this scene is the fittest word to complete this bustling and noisy rat scene.

(2) “filthiness"…… The rat plays a more important role as a symbol of “filthiness" rather than “noisiness." Now let us quote from the same rat scene in a different way apart from the phonetic side :

…Abruptly, they all paused,…, their attention caught by a light tapping in the thinly plastered walls of the room…their eyes strayed apprehensively over the floor.

“There he is again, Bigger!" the woman screamed, and the tiny, one-room apartment galvanized into violent action. A chair toppled… (4, emphases mine.)

The word “tapping" is the sound slightly audible to their ears as is suggested by the signification of “tap" in O. E. D. ="strike a light but audible blow," but their reaction to that sound is surprisingly quick and “the tiny, one-room apartment galvanized into violent action." It might be pointed out here that the rat is called “he", and not “it." “He" is one of the “staff," and they are familiar with “him" for years -Mother screams ; his sister climbs onto the bed, whimpering ; the brothers pose with the skillet in hand ; their eight eyes roam after “him." To his family, however, it is nothing but a commonplace event. And “he" is extremely big. The next dialogue teaches us how huge “he" is :

The two brothers stood over the dead rat and spoke in tones of awed admiration.

'Gee, but he’s a big bastard.’

'That sonofabitch could cut your throat.’

'He’s over a foot long.’

'How in hell do they get so big?’

'Eating garbage and anything else they can get.’

'Look, Bigger, there’s a three-inch rip in your pant-leg.’ (6)

In the segregated, slummed areas too many blacks are forced to live their miserable lives together in unventilated old buildings. They naturally supply too much “food" for those rats. This is why the rats grow huge enough to hurt the inhabitants. It is not an exaggeration to say that the enormous size of the rats is equal to the poor housing conditions. Various extraordinary social phenomena are caused by these devastating conditions :

The kitchenette is the seed bed for scarlet fever, dysentery typhoid, tuberculosis, gonorrhea, syphilis, pneumonia, and mulnutrition.

The kitchenette scatters death so widely among us that our death rate exceeds out birth rate and…(13)

The devastating reality of their condition lends realism to his mother’s curse on Bigger – “We wouldn’t have to live in this garbage dump if you had any manhood in you" (7, emphsis mine.).

This rat’s scene clearly reminds us of the underground sewer scene in “The Man Who Lived Underground," the manuscript of which had been completed by the end of 1941, the year following the publication of Bigger’s story, and published after revision in 1944 :

He…jerked his head away as a whisper of scurrying life whisked past and was still. He held the match close and saw huge rat, wet with slime, blinking beady eyes and baring tiny fangs. The light blinded the rat and the frizzled head moved aimlessly. He grabbed the pole and let it fly against the rat’s soft body ; there was a shrill piping and grizzly body splashed into the dun-colored water and was snatched out of sight, spinning in the scuttling stream.(14)

The huge rat is symbolic of filthiness or a nauseating bad odor of the underground sewer world, along with the dead body of a baby floating on the sewer water. In this work Wright suggests that the world above ground might be compared to the world of the Whites, and the underground world to that of the Blacks. And he at last begins to view life from a new angle, the so-called “underground viewpoint." He then begins to regard the segregated condition of the oppressed blacks rather as the vantage point. In this scene, the rat in Native Son, prototype of the rat in the “underground" story, plays a large role.

(3) “closeness"…… The sound of the clock stops ; the light is switched on and his mother and sister begin to change their clothes :

'Turn your heads so I can dress,’ she said.

The two boys averted their eyes and gazed into far corner of the room….

A brown-skinned girl…fumbled with her stockings. The two boys kept their faces averted while their mother and sister put on enough clothes to keep them from feeling ashamed ;…Abruptly, they all paused,…, their attention caught by a light tapping… They forgot their conspiracy against shame….(3-4)

In the story, we read of a scene after Mary’s murder where Bigger sits in his room at a breakfast table. He is then blamed by his sister who thinks he is looking at her altough he is merely staring vacantly in her direction. In the tiny room even privacy is impossible. “Closeness" produces unnecessary friction among the occupants and their personalities are gradually warped :

The kitchennete throws desperate and unhappy people into an unbearable closeness of association, thereby increasing latant friction, giving birth to never-ending quarrels of recrimination, accusation, and vindictiveness, producting warped personalities.(15)

The rat’s scene relates a daily occurrence, but the emotions of “noisiness," “filthiness," and “closeness" are doubtlessly conveyed to the readers by “their little room" in which the alarm clock clings and the rat is killed.

kitchennete

ii ) “Bigger, his family," and “their relationships"

“Noisiness" irritates the mind of the occupants and “filthiness" causes various kinds of disease. “Closeness" brings out unnecessary quarrels among the families – `Day in and day out there was nothing but shouts and bickering." (11) In “their little room," Mother directs her bitter complaints against Bigger, saying “We wouldn’t have to live in this garbage dump if you had any manhood in you." (7, emphsis mine.) She earnestly begs him to have “manhood" in place of her husband who has been killed by a mob down in the South. He hates his family because he is powerless to help them though he understands their sufferings all too well. In such a life he has already decided what attitude to take :

…So he held toward them an attitude of iron reverse ; he lived with them, but behind a wall, a curtain. And toward himself he was even more exacting. He knew that the moment he allowed what his life meant to enter fully into his consciousness, he would either kill himself or someone else. So he denied himself and acted tough. (9)

The rat’s scene presents Bigger’s attitude toward his family and their relationships, especially toward his screaming mother and whimpering sister (women). His attitude contrasts in a striking way with theirs. The contrast is also suggested by the predicate verbs which show their actions. (It is also suggested by some nouns.) As I briefly mentioned earlier, in the opening scene (pp. 3-11) the frequency of each word is as follows ; “scream"-6, “sob"-3, “cry"-1 (about Mother) “whimper"-2, “wail," “cry," and “scream"-1 (about his sister). The contrast between Bigger with his forced calmness and the screaming, whimpering women is shown again in parts two and three. In part two, we find it in the scene where Bigger has killed Bessie after taking her out of her apartment (pp. 190-201). In this scene, the frequency of predicate verbs about Bessie is as follows ; “cry"- 8, “whimper," “moan," and “sigh"-5, “sob" (including “sobs")-4. “wail" and “scream"-1. And in part three, we also find it in Bigger’s cell scene where a district attorney, his family, Mr. and Mrs. Dalton, and the others are all together (pp. 251-257). As for the predicate verbs, the frequency is 7-“sob" including “sobs"), 5-“cry," 2-“wail," 1-“mumble" and “whimper" (about Mother) and 1-“sob" (about his sister who says nothing in the scene although Bigger once speaks to her.)

Contrary to the woman’s case, we notice that in Bigger’s, the predicate verb after his conversation sentence is only “shout" in the opening scene of part one and in the cell scene of part three ; the scene in PART ONE where Mother earnestly begs him to get the job offered by Mr. Dalton ; and in PART THREE where his mother pleads on her knees with Mrs. Dalton for Bigger’s life.

“Sob," “cry," “wail," “whimper," etc…, commonly used for women, play a role as key words which give readers some symbolical meaning. What Wright likes to emphasize by these key words is how hopelessly most blacks accept their misery and try to find some escape from their everyday sufferings by praying or drinking as Mother and Bessie do. Through the symbolical descriptions he shows his resentment against the present condition of black people and extends passive warnings towards such blacks. The resentment and warnings are among the main themes of this story along with his protest towards the white world which has produced such miserable conditions for the blacks. In this scene, it might be said that one of the motives for “the entire scheme of the book" is suggested by “the rat scene to disclose only Bigger, his family, their little room, and their relationships."

III. Native Son and Chicago’s South Side

Chicago, the setting of this story, was one of the Promised Lands for black people living in the South. We see this even from a song often sung down in the South ; 'Lawd, I’d ruther be a lamppost in Chicago than the President in Miss’ipp…"(16)Unfortunately, however, Chicago was not the Promised Land for many blacks who had left their native South. Naturally, Wright was no exception to that rule. In the North they were segregated in one corner of the town, the so-called black ghetto. In the ghetto they were forced to earn precarious livelihood – “Last hired, first fired." The “color" line was strictly drawn between the white world and the black one. The blacks could never cross the “line." As the slaves in the South had been exploited by the plantation owners, many blacks were severely exploited by the capitalists in the urban North. In the story we discover the relationship between the oppressor and the oppressed when the text tells us that Mr. Dalton is the owner of Bigger’s room who is falsely kind and philanthropic enough to give him a job. By borrowing the historical, economical, and social analyses of the Marxists, he was able to point out American racial dilemma and make it clear that Bigger was a native son America had produced, and that it was not on Bigger but on Mr. Dalton and white America that Bigger’s crime should have been blamed rationally. Chicago’s South Side was the best place by which he could show us the segregated and exploited situation of the blacks.

  1. Symbol and Metaphor

The Thomas family and their relationships were not extraordinary in Chicago’s South Side. Such families could easily be seen in the district. 12 Million Black Voices gives some clue to that matter. Now let us go back to his history book :

The kitchenette injects pressure and tension into our individual personalities, making many of us give up the struggle, walk off and leave wives, husbands, and even children behind to shift as best they can…

The kitchenette blights the personalities of our growing children, disorganizes them, blinds them to hope, treats problems whose effects can be traced in the characters of its child victims for years afterward.(17)

Bigger’s family is typical of the ghetto-a family of mother and children. The father has been killed in the South ; the mother manages to support her family by toiling for bread in a white family ; the family has a bad boy who is busy making trouble in one corner of the town. “Their little room" in which this typical family is living is to be an exact miniature of the South Side of Chicago.

Chicago

Along with “their little room," the rat overrunning in the South Side is a symbol of their poor living environment. The rat is to be chased down, cornered, killed, and finally thrown into a garbage can, after running around the tiny room. Bigger is to be cornered, arrested, and then executed in the electric chair, after running around the South Side. They both meet the same end, indeed. The South Side has produced the “rat" and America has produced “Bigger," a native son. And they both are to be eliminated as social diseases.

Wright often said, “The Negro is the metaphor of America." Now if we borrow his phrase, we may well say that “their little room’ is the metaphor of the South Side" and “the 'rat’ is the metaphor of 'Bigger.'"

Bigger, the rat, and “their little room." By making skillful use of their symbolical and metaphorical expressions, Wright succeeds well in letting each of them play their part in the schemed opening scene.

Note

(1) Richard Wright, “How 'Bigger’ Was Born," Saturday Review, No. 22 (June 1, 1940), rpt. in Native Son (New York : Harper & Row, 1969), p. xxix.

(2) Wright, “How 'Bigger’ Was Born," p. xxxiii.

(3) Wright, 12 Million Black Voices: A Folk History of the Negro in the United States (New York : The Viking Press, 1941), pp. 104-105.

(4) Wright, Native Son (New York : Harper & Brothers, 1940), p. 3 ; all subsequent page references to this work will appear in parentheses in this paper.

(5) In O. E. D. we can find clang signified as “1. A loud resonant ringing sound ; …"

(6) Wright, The Long Dream (1958 ; rpt. Chatham : The Chatham Bookseller, 1969), p. 54.

(7) Cf, INUI Ryoichi, “Giseigo Zakki" (“Miscellaneous Notes on Onomatopoeia"), in Ichikawa Hakase Kanreki Shukuga Ronshu (A Collection of Papers in Celebration of the 60th Birthday of Dr. Sanki Ichikawa), 2nd ser. (Tokyo : Kenkyusha, 1947), p. 3.

(8) The text reminds us of Big Boy and his friends in “Big Boy Leaves Home," who suffered unexpected misery because a white young woman happened to appear in the spot where they were swimming. Furthermore shortly after this event in The Long Dream, we find the scene in which a friend of the hero’s who got in touch with a white woman was cruelly murdered by a white mob. Here the reader notices that this scene is a kind of prelude of the cruel murder, finding the anxiety has come true.

(9) INUI, p. 6.

(10) SAEKI Shoichi, Bungakuteki America (Literal America)(Tokyo : Chuokoronsha, 1967), p. 193.

(11) Cf. INUI, pp. 2-3 ; “A nasal [m] has some connection with a continuous lingering echo of the sound and a voiced plosive [b] gives a blunt noisy impression of the sound."

(12) Cf. INUI, p. 3 ; “A plosive [t] is appropriate to express the sudden, abrupt movement without a lingering echo."

(13) Wright, 12 Million Black Voices, pp. 106-107.

(14) Wright, “The Man Who Lived Underground," in Cross-Section, ed. Edwin Seaver (New York : L. B. Fisher, 1944), p. 60.

(15) Wright, 12 Million Black Voices, p. 108.

(16) Cf. Wright, Lawd Today (New York : Walker, 1963), p. 154.

(17) Wright, 12 Million Black Voices, pp. 109-111.

執筆年

1986年

収録・公開

Chuken Shoho, Vol. 19, No. 3: 293-306

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Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native Son(138KB)