リチャード・ライトとアフリカ

2019年8月29日1976~89年の執筆物リチャード・ライト

概要

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第八章●リチャード・ライトとアフリカ
玉田吉行

『箱船、21世紀に向けて』 門土社 (1987) 147-170ペイジ。

(1)抗議を超えて
一九四〇年代の後半から五〇年代にかけてパリに住み、ヨーロッパ各地を回りながら、アフリカはアフリカ人自身のものであり、理不尽な富の強奪によって繁栄を続けてきた西洋杜会は今こそその責任を負うべきであると声高に叫んだアメリカ人がいる。ミシシッピー出身の黒人作家リチャード・ライト(一九〇八~一九六〇年)である。
ライトは『アメリカの息子』(一九四〇年)で一躍、国際的にも知られるようになった。シカゴのゲットーに住む黒人青年ビガー・トーマスによる白人娘メアリーの殺害事件を通して人種の問題をはらむアメリカ社会の矛盾をみごとに描き出し、「アメリカの息子」ビガーを生み出した白人社会の責任を鋭く問いただしたからである。ライトはすでに、アメリカ南部を舞台に、もはやアンクル・トムではない新しい世代を描いた短篇集『アンクル・トムの子どもたち』(一九三八年)によって新進作家として注目されていたが、『アメリカの息子』で人種の問題に対する抗議派を代表する作家としての評価を強めた。
以来、現在もなお、その評価が大勢である。
しかし、ライトとアフリカを語るとき、一つの事実を見逃すわけにはいかない。それは『アメリカ

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の息子』を出版したあたりから、ライトがすでに人種の問題を一歩踏み越えたテーマの広がりを意識し始めていた事実である。例えば、写真家エドウィン・ロスカムとの共作、黒人民衆史『千二百万の黒人の声』(一九四一年)の中では、アフリカから無理やり連れて来られて、苦難の歴史を強いられはしたが、それでもなお生き永らえてきた同胞への愛着を示しながら、ライトは次のように述べている。

私たち黒人は、生まれ故郷のアフリカから、かつてなかったほど最も複雑に、高度に工業化された文明の真只中にほうり出されはしたが、今までほとんど何びとも持ち得なかったような記憶や意識をもって、今日しっかりと立っている。

そこには三百年以上のあいだ抑圧され、虐げられ続けてきた過去の黒人体験を逆手にとって、むしろ有利な地点として捉えようとする姿勢がうかがえる。
一九四一年の暮れには、のちに「地下にひそむ男」のタイトルで公にした作品の草稿を書き上げたあと、出版代理人ポール・レノルヅに「自分がまともに黒人・白人の問題を越えて、一歩踏み出したのは初めてのことです」と言明する手紙を送っている。事実、加筆して一九四四年に発表した作品では、人間の盲目性を突いた鋭い視点から、人間の本質的な問題に迫ることに成功している。
その視点から、ライトは自伝を書いた。その中に、一九四一年、メキシコ旅行の帰途、故郷に立ち寄り、幼い頃に自分と家族を捨てた父親との再会を果たすくだりがある。年老いた無学の父親を前にして、再会までの四半世紀の歳月によって二人があまりにも隔てられてしまった現実をかみしめなが

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ら、ライトは次のように語る。

自分を操る白人地主達から、父は忠節とか情操とか伝統とかいったものの意味合いを知る機会を一度だって与えられることはなかった。父には諦めと同様に喜びもまったく無縁のものであった。
父は土に這う生物として、恨みとか望みもなく、ただ元気に、体ごと、見かけは決して壊れることがない様子で、生き永らえてきただけなのである。……私は父を許し、哀れに思った。

そう語ることのできたライトには、ジム・クロウ体制下で苦難を強いた時代と社会に対する憤りや、家族を捨てた父親への恨みはない。むしろ、社会と個人の関係を正当に把握し、過去の体験を未来の糧に転じようとする姿勢がある。一九四七年にライトは家族とともにパリに移り住んだが、その時点ですでに、抑圧の問題を、人種の問題という枠を越えたもっと大きな視点から捉えようとしていたのである。インドの首相パンディット・ネルーに送った一九五〇年十月九日付けの次の書簡の中にも、その姿勢をかいま見ることができる。

現代社会の歴史的な発達のみならず、世界の変容する物質的な構造によって、世界のあらゆる民族は、主体性や利益についての共通の意識を持つことを迫られています。世界中の抑圧された情況は普遍的に同じであり、その連帯は、抑圧に反対するときだけではなく、人類の発展のために闘う際にも重要なのです。

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それらの視点や姿勢を持ち合わせていたライトは、舞台をフランスに移したとき、当然のごとく、抑圧に苦しむ「アフリカ」に急速に近づいていくことになる.

(2)アフリ力意識
パリに移り住むまでアフリ力との直接の接触はなかったが、当初からライトがアフリカに対して正当な理解を示していた事実は注目に値しよう。西洋諸国は、西洋人が行く以前のアフリカは、文化も持たない野蛮な〈暗黒の大陸〉だったというイメージを捏造して自らの正当性を王張するのに余念がなかったが、ライトは決してそのような〈負〉のイメージに惑わされてはいなかった。むしろ、ヨーロッパ人が踏み入を以前から、アフリ力にはすでに固有のすぐれた文化や伝統が存在していたことを再三指摘している。例えば、ある論文では「黒入は(今日ちょうどメキシコインディアンがそうであるように)この異郷の岸辺に連れてこられたときには、豊かで複雑な文化を所有していた」と記している。あるいは、新大陸に連れてこられたアフリカ人について、前述の『千二百万の黒人の声』の中では次のように述べている。

捕えられ、この地に送り込まれる前から、アフリカにはアフリカ人自身の文明があった。私たちがアフリカで暮らしていた生活の様式を文明と呼べば、きっと微笑まれてしまうだろうが、いろんな点で大勢のアフリカ人を捕えた人達がやって来た国の文化と同等であった。私たちは鉄を製錬し、踊り、音楽を作り、民族の歌を唄った……私たちは交易の手段を発明し、金や銀を掘り、陶器や刃

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物を造った……私たちには文学も、独特の法のしくみも、宗教も、医術も、科学も、教育もあった……牛や羊や山羊を飼い、穀物を植えて取り入れを行なったーつまり、ローマ人が君臨するようになる何世紀も前から、私たちは人間として暮らしていたのである。

しかし、子孫のアフロ・アメリカ人の文化の中に、祖先のアフリカ人の文化のなごりを認めはするものの、歳月によって両者があまりにも隔てられてしまった現実をライトは明確に認識している。例えば、『アメリカの飢え』の中で示された、一九三〇年代にシカゴで接触のあったマーカス・ガーヴーイを信奉する運動家たちに対する反応は、そのあたりの事情を端的に物語っている。

このように模索を続ける日々の中で出合い、その生活に魅せられた一つのグループはガーヴーイ主義者たちで、寄るべくもなくアフリカに帰りたがっていた黒人男女の組織だった……私にはその人たちの気持ちが理解できた、というのも、感じ方が一部同じだったからである……私が好感を持ちながら、その運動に加わらない理由がその人たちには分からないのを私は充分承知していたから、あまりにも哀れに思えて、決して目標が達成できはしないこと、アフリカがヨーロッパの帝国主義列強の手になっていること、その人たちの生活がアフリカ人の生活とまったく違っていること、さらにその人たちはあくまで西洋人なのであり、西洋に溶け込むか、滅びてしまうかするまでは永遠に西洋人であり続けることを、とても口に出して言う気にはなれなかった。

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もっとも、ライト自身、のちにアフリカの地に立ったとき、アフリカ人たちの烈しい拒絶反応に合い、膚のの色が同じことや、アフリカが祖国であることが、自分とアフリカ人をつなぐ何の手立てにもならない現実を思い知らされて、戸惑うはめに陥いるのではあるが。

(3)アフリカヘ
パリでライトが最初に接したアフリカ人は、一九四六年の渡仏に協力をしてくれたセネガル人レオポルド・サンゴールである。すぐあとには、ザンゴールを通じてマルティニックの黒人詩人エメ・セゼールに紹介されるが、ネグリチュード運動の唱道者である二人とは、当初からそりが合わなかった。幼少時に厳しい宗教教育を強いた祖母への反発から、宗教によって個人の自由を奪われることを忌み嫌ったライトは、カトリックの見地に立つサンゴールと相容れなかった。また、アメリカですでに脱党の経験を持つライトは、当時自分や交友のあった実存主義者たちを烈しく批難していたフランス共産党に所属するセゼールを信用してはいなかった。しかし、なにより二人に反発したのは、「見失われたアフリカの再発見」というスローガンを掲げたネグリチュードの運動が、現実には親西欧的で、植民地主義に極めて妥協的であったからである。したがってライトは、ネグリチュード運動に批判的だった、英語を媒体として活動する作家たちとの交わりを通じてアフリカを考え、アフリカに接近していった。
親交のあった一人に、南アフリカの作家ピーター・エイブラハムズがいる。「西洋と接するようになってから、西洋で通り抜けてきたあらゆる思考過程の中によりも、私がともに育ったアフリカ人たち

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の中に、何かもっと力強く、精力的で、創造的なものが存在すると、改めて確信するようになりました」と語るエイブラハムズにライトは共感するところが多く、作品の原稿を読む労を取ったり、アメリカの出版社にいる友人に草稿を送って出版の便宜をはかったりして、アパルトヘイトと闘う若きアフリカ作家への援助を惜しまなかった。
なかでも、最も親交が深く、多大の感化を受けたのは、トリニダード出身のパン・アフリカニスト、ジョージ・パドモア(一九〇二~一九五九年)である。パドモアは、サンゴールなどのネグリチュード運動家たちを「西洋人以上に西洋人になりさがってしまった黒人知識人ども」と酷評し、「腐った政策しか持たないカフェに入りびたりのインテリたちから決して何も期待できはしない」と決めつけた。早くからパドモアは、アフリカはアフリカ人自身のものであり、アフリカの統一こそが真の解放の道だと説いていたが、ガーナの独立に際しては、エンクルマに闘争の戦略を授け、独立後もよき協力者としてエンクルマを助け続けた。
ライトの永年のアフリカへの夢が実現したのは、このパドモアの勧めと尽力による。一九五三年の復活祭の夜にライト夫妻を訪れたパドモアの妻ドロシィーの強い勧めと、ライトの企画に暖かい助言を与え、ハーバー社からの資金援助をとりつけてくれた友人レノルヅの協力によって、ライトは初めてアフリカの地を踏むことになる。

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(4)『ブラック・パワー』
(イ)イギリス領ゴールド・コースト
一九五三年六月四日の朝、ライトはアフリカに向けてリバプールを発った。目的地は一九五七年三月六日に独立を果たしたイギリス連邦ガーナ(現ガーナ共和国)、当時のイギリス領ゴールド・コーストである.結果的には、これがライトにとっての最初で最後のアフリカ紀行となるのだが、約三か月にわたる紀行は、翌一九五四年九月二十二日にハーバー社から『ブラック・パワi』と題して出版された。
自ら植民地問題調査委員会のメンバーであったフランス人作家アンドレ・ジイド(一八六九~一九五一年)は、かつて旧フランス領コンゴを訪れたあと『コンゴ紀行』(一九二七年)を書いた。当初の旅行の主要な動機は自然科学的好奇心であったが、植民地政策の犠牲となって苦しむ黒人たちの惨状と、官吏、商人、宣教師たちの横暴と腐敗ぶりを目の当たりにして「私は語らねばならぬ」と決意し、同書を世に問うている。
ライトの場合は、しかし、出版の意図や動機が違う。ブラック・アフリカ最初の黒人主権国として独立への胎動を始めたイギリス領ゴールド・コーストの地に自らが立ち、自らの目で確めた「人々の日常」を西洋世界に紹介するのだという意図を最初から持っていた。
タコラディ港で黒人労働者たちがクレーンなどを操縦している姿を見て歓喜し、南アフリカのマラン博士が黒人にはクレーンなどは操れないと記していたことを思い出してひとり苦笑している。アフリカに対する正しい視点と姿勢を備えていると信じてはいたものの、知らず知らずの間に、自分が西

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洋文明によって作り上げられたアフリカへのく負>のイメージに毒されていたことに気付いたからである。しかし、それらのイメージをかなぐり捨てて、ありのままの真実の姿を見、理解しようとする姿勢がライトにはあった。同じ黒い皮膚の色が何の助けにもならず、自分がアフリカ人から西洋人だと見なされていることを思い知らされたときにば、さすがに困惑の色は隠せなかったが、それでも膚の色の幻想を直ちに捨てて、むしろ用意された宿舎を出てまで、意欲的に危険を覚悟の行動を取ることができたのは、そうした姿勢をライトが持ちあわせていたからに他ならない。そこには、この旅行に賭けるライトの並々ならぬ決意とペンで闘う作家としての厳しさが感じられる。
印象記の羅列にしかすぎず、提示された問題に対しての論理的な追求への努力のあとが見られないと評する人もいるが、仔細に本文を読めば、決してそうではないことが分かる。アフリカに渡る前に、パドモアからあらかじめ読むべき本のリストをもらい、それに従って準備をしたが、本文中のエンクルマとの会話の中で洩らしたように、会うべき人々についてのリストも手に入れていた。つまり、ライトは決して行きあたりばったりではなく、最初から見るべきもの、会うべき人々にねらいを定めて行動したのである。さらに、表面的には主観的な感想記の様式を取ってはいるが、注意してみれば、明らかに焦点が絞られていることに気づく。その手掛りを独立後に出版されたエンクルマの『わが祖国への自伝』(筑摩書房、野間寛二郎訳)の一節が与えてくれる。一九四七年に故国に戻り、統一ゴールド・コースト会議の書記として精力的に活動をしていたエンクルマが、その微温性にあきたらず、大衆に促されてその職を辞し、会議人民党を指導していくことを決意した直後の次のくだりである。

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私を支持してくれる人々の前に立ちながら、ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をささげようと私は誓った。
これが黄金海岸の民族運動の進路を定める分岐点となったのだ。イギリス帝国主義の敷た間接統治の制度から、民衆の新たな政治覚醒へと───。この時から闘いは、反動的な知識人と族長、イギリス政府、「今すぐ自治を」のスローガンをかかげた目覚めた大衆の三つどもえで行なわれることになったのだった。

ライトの訪れた一九五三年は、まさにその「三つどもえ」の闘いの真最中で、「人々の日常」と来たるべき独立国「ガーナ」の真の姿を描こうとするライトには、その「三つどもえ」をいかに正しく捉えるかが最大の課題であった。したがって、ライトは印象記を単に羅列したのではなく「三つどもえ」に焦点を置き、様々な例証をあげ、分析を加えながら最後のエンクルマへの手紙にまとめあげた───言い換えれば、エンクルマへの手紙に集約する意図を持って、見聞した具体的な実例をあげ、それらに分析を加えていったということになる。以下、その「三つどもえ」を手掛かりに、ライトがどのように現状を捉え、エンクルマへの手紙にまとめていったかを考えてみたいと思う。

(ロ)イギリス政府
ライトは、エンクルマへの手紙の冒頭で、西洋ではアフリカを従属の状態に留めておきたいために、アフリカには文化も歴史もないかのごとき〈負〉のイメージをさかんに与えているが、なによりもま

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ず、アフリカ人自身が自信を持たない限り二十世紀への前進はないと心理面を強調する忠告を与えた。そして結びの部分で、アフリカのために事を成し遂げられるのはアフリカ人自身以外にはいないことを繰り返して述べている。それは、国際人として同胞の真の解放を願う誠実なライトの「精神のアフリカ化」の勧めに他ならないが、その点をまず強調したのは、滞在中に首相からマーケット・マミーに至るまでのあらゆるアフリカ人が話の肝心な所へ来ると必ず示すあの微妙な〈不信感〉をライトが敏感に肌で感じ取ったからである。なによりも感性を大切にする文学者ならではの分析が見られる。政治上の最初の敵は宣教師達だったと、感情を抑えながら言ったエンクルマの発言を思い出したあとの本書に見られる次の分析である。

金(ゴールド)は他のものでも替えがきく。木は再び育ちもしよう。しかし、どのような力をもってしても、精神的な習性を再構築し、かつては人々の生活に意義を与えていた視点を取り戻すことは不可能である。何ものも、あの自らの誇りを、物事を決断するあの能力を(中略)人々に取り戻すことはできない。今日、それがわれわれにどれほど残酷に、また野蛮に映ろうとも、以前の文化の形骸が、はにかんだり、ためらったり、狼狽したりする人々の動作の中に見え隠れする。相手の様子をうかがってやろうとする心理的な目を持つ人間に対して、その蝕まれた性格がぬーっと顔を現わすのである。

植民地政策のもたらした最大の罪の一つは、宣教師たちが一方的に、アフリカ人の日常に踏み込み、

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代替物を与えることなく人々の精神構造を破壊したことだと言いたかったのであろう。最初に、ライトは心理面を強調はしたが、それらは自らの目で実際に確かめた〈アフリカ〉の厳しい現実から感得したものである……歩道もなく、側溝にたれ流された小便の臭いのふんぷんとする街路、所かまわずつばを吐き捨てる老人、商売用の重い荷物を頭に乗せて運ぶ年端もいかぬ少年、水汲み場で子どもを洗う母親、水浴みをする少女、物乞いをする正視に絶えない乞食たち、文字が読めないために配達されない郵便物、たちまちにびっしりとつく赤さび、悪臭を放つ沼、ツェツェばえ、まだ存在すると言われる生贅(いけにえ)、病院に行きたがらずに村の祈濤(きとう)師をせがむ出稼ぎ労働者、まともな教育を受けられない人々、頭のただれた村の子どもたち、道路のひどさ、炎天下に安賃金でロボットのように働かされる沖仲士たち……。それらの「現実」は、当時の実状を回想して綴られたエンクルマの『アフリカは統一する』(理論社、野間訳)の中に記された次の一節にも符合する。

イギリスの植民地政庁がわが国を統治していた全期間に、農村の水の開発がまともに行なわれたことはほとんどなかった。これが何を意味するかを、栓をひねるだけで良質の飲料水が得られるのを当然とみなしている読者に伝えるのは、容易ではない。私たちの農村社会に、もしそんなことが起こっていたら、人々はまさしくそれを天国だと思っただろう。村に一つの井戸か配水塔でもあれば、彼らはどんなにか感謝したであろう。
事実はそうでなかったので、暑い湿気のある畑でつらい一日の仕事を終えると、男や女は村に帰り、それから、手桶か水がめを持って二時間ものあいだ、とぼとぼと歩いていかなければならなか

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った。行きついたところで、沼とほとんど変わらないような所からでも、塩気のある、ばい菌だらけの水を、その桶やかめにくめたら、幸運なのだ。それから長い道のりを戻る。洗ったり飲んだりする水、たいていは病気のもとになる水の、取るに足りないほどの量を得るのに、一日に四時間!
国中のほとんどが、ほんとうにこのような状態だったのだ。

予想以上の惨状に、驚きの念を禁じ得なかったが、イギリスのもたらした<現実>から、ライトは決して目をそらさず、物事の本質を見極めようとしている。
特有の<不信感>や悲惨な<現実>は、あくまで表面に現われた現象にすぎず、それらの現象は、富の強奪にしか関心のない植民地政策によってもたらされたことをライトは充分に承知していた。同時に、イギリス政府が村落共同体という伝統的機構を利用せざるを得なかった植民地支配の限界にも気づいていた。抑圧された境遇に一種の連帯の意識すら覚えながら、エンクルマへの<手紙>の中で、ライトはその限界をむしろ喜ぶべき特徴であると指摘したのち、次のように続けている。

民族の文化的な伝統は、西洋諸国の事業や宗教の利害関係によって毀されてはきたが、西洋人たちのその毀し方がそれほど積極的なものではなかったので、ひとつの<世界像>を創造したいという渇望が無垢(むく)のまま、損なわれないで、人々の間に依然として存在しているのである。
元来、厳しい自然の中で農民が生き延びるために自然発生的に生まれた村落共同体は、植民地化

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以前には当然、自立のための発展性を秘めていた。その発展の可能性は、最初、奴隷貿易によって奪われた。のちに土地収奪や強制労働、あるいは税金賦課などの植民地政策によって奪われ続けた。ライトが見たアクラ海岸の沖仲士たちやビビアニの金鉱やサンレボイの木材会社で働く人々の大半は、強制労働や税金賦課などの政策により村を離れることを余儀なくされた出稼ぎ労働者たちだった。驚くほどの安賃金に危険を伴う重労働にも、決して働き手が不足することはなかった。アクラの海岸では、仕事の順番を待つ上半身裸の若い黒人たちが、炎天下、事務所の前に群がっていた。奴隷売買あるいは税金賦課などの植民地政策によって、村落共同体が働き盛りの人間を奪われることは、その支柱をなくすこと、その内在する発展性を失うことを意味していた。内在する発展性を奪われた共同体は弱体化して後進的状態にとどまる方向に進んだが、残された者は、なお、より強固な団結と労働で厳しい収奪に耐えた。弱体化しながらも、かろうじて崩壊の危機を免れ、じっと耐える共同体の姿の中に、ライトはおそらく人々の<渇望>を見い出したのだろう。
ともあれ、本来自立のために生まれた共同体は、支配のために利用される機構へと変容させられていった。イギリス政府は人々の心に不信感を、人々の日常に惨状をもたらした。そして、本来の機能を充分果たしていない形骸化した、いわゆる<トライバリズム>なるものを残した。トライブあるいはトライバリズムという言葉自体が、西洋諸国の一方的な押しつけであるように、その実体もまた、アフリカに内在した歴史的な発展過程を辿ったものではなく、あくまで外部因子である植民地支配によって無理やり押しつけられたものであることを忘れてはならない。ライトは<手紙>の中で、沈滞する<トライバリズム>を打破する必要性をしきりに提言しているが、それはライト

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自身が人々の<渇望>を感じながらも、本来機能すべきものが充分に機能せず、伝統的文化の形骸だけが残されている実情を見てとったからに他ならない。
ライトはまた、<手紙>の中で、独立に際して、過去そうであったように未来も決してイギリス政府から真の援助は望めないばかりか、スキあらばいつ何時たりとも襲いかかってくると予言し、西洋に頼るな、少なくとも西洋のみせかけの援助の受け入れは最小限にとどめよと忠告した、数回にわたる暗殺未遂事件、そして軍事クーデターによる失脚、ギニアへの亡命、さらには親友であったコンゴ共和国首相バトリス・ルムンバの虐殺と国連軍の背信行為など、のちの歴史的な経過を考慮すれば、それらの予告が決して大げさなものではなかったことが知られよう。しかし、そのことを一番よく知っていたのは、他ならぬエンクルマ本人ではなかったか。そのあたりの事情については、エンクルマ自らが独立時回想して書き残した『アフリカは統一する』(野間訳)の中の次の象徴的な一節を掲げるにとどめよう。

遺産としては厳しく、意気沮喪させるものであったが、それは、私と私の同僚が、もとのイギリス総督の官邸であったクリスチャンボルグ城に正式に移ったときに遭遇した象徴的な荒涼さに集約されているように思われた。室から室へと見まわった私たちは、全体の空虚さにおどろいた。特別の家具が一つあったほかは、わずか数日前まで、人々がここに住み、仕事をしていたことを示すものは、まったく何一つなかった。ぼろ布一枚、本一冊も、発見できなかった。紙一枚も、なかった。非常に長い年月、植民地行政の中心がここにあったことを思いおこさせるものは、ただ一つもなか

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った。
この完全な剥奪は、私たちの連続性を横切る一本の線のように思えた。私たちが支えを見い出すのを助ける、過去と現在のあいだのあらゆる絆を断ち切る、という明確な意図があったかのようであった。

(ハ)首長と反動的知識人
イギリス政府が植民地政策を取らざるを得なかったのは、限られた人員で<完全占領>するにはアフリカが広大すぎたからであり、伝統的機構を利用したのは、それが支配するのに好都合だったからである。植民地政策により共同体の支柱を奪い、人々の教育の機会をそぎ、首長を傀儡(かいらい)に仕立ててその形骸のみを温存させ続けた。
ライトはアクラで運転手を雇い多額の出費と危険を覚悟の上でクマシ方面へ出向いたが、その目的は首長に会ってみることだった。現に数人の首長と会見したが、そのうちの一人は、蜜蜂が自分の護衛兵だと信じて疑わなかった。その人は実際に二万五千人の長でありながら、人口はどれくらいいるのかの質問に対して「たくさん、たくさん」としか答えられなかった。かつて、一本のジンとひき換えに同胞を奴隷として商人に譲り渡した首長。そんな人たちをライトは<手紙>の中で「純朴な人々を長い間食いものにし、欺し続けてきた寄生虫のような首長たち」と書いた。しかし、エンクルマが自分たちの権力を弱めたと批難はしながらも、多くの首長たちがご機嫌うかがいに党本部に出入りしていたことや、強力な首長アサンテヘネが中央集権化を恐れるイギリス政府に利用

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されかけたにもかかわらず、結果的にはエンクルマに譲歩した事実などを考え合わせると、首長たちは時代の流れに敢えて強くは抗えなかった人たちだったと言える。
むしろ、エンクルマに強力に敵対したのは、かつてはともに闘った統一ゴールド・コースト会議の中心であった、西洋で教育を受けた黒人知識人達だった。ライトはその中の中心人物、ダンクァとブシア(のちに首相となる)にも会っている。「なるべく早い自治を」と主張する反対派は、エンクルマがイギリスと組んで自分個人のために大衆を煽動(せんどう)していると批判した。そして独立はいまだ時機尚早だと言い、伝統の大切さを説いた。
一方、エンクルマは反対派について『アフリカは統一する』(野間訳)の中で次のように回想している。

今日まで、反対派はほとんどいつも破壊的だった。(中略)”今すぐ自治を”の私たちの政策の正しさが一九五一年の選挙の結果で証拠だてられたことに対して、統一黄金海岸会議の指導者たちは、私と私の仲間を決して許さなかった。その後、彼らの敵対は、独立を事実上否定し、イギリスの退去を不本意とするところまで達した。もし私と私の仲間を政権からしりぞけておけるならば、わが国の民族解放を犠牲にするつもりでいたのだ。

数人の黒人知識人との会見や「金持ちの奴らは、イギリス人たちよりたちが悪い」と嘆く黒人青年の声などから、私欲にかられた反対派が大衆からすでに遊離してしまっていることを察知していたラ

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ライトは<手紙>の中で西洋で教育を受けたアフリカ人たちはあてにするなとエンクルマに書いた。

(ニ)大衆
自分たちのために何もしてくれないイギリス政府、何もしてくれなかった首長や金持ち黒人達、大衆は、すでに誰も何も信じ守なっていた.大衆は長年の抑圧の状況の中で、「自分たちの生活を制御する力を取り戻し、新しい意味での自らの運命を創り出したい」と渇望していた。大衆は「目に見えない神々への誓い」に倦み、もはや「自分たちの日々の福利に直接かかわりのある誓い」しか唱えられなくなっていた。驚くほど短期間の間に、エンクルマはその大衆の心を捕えた。ライトはそんな情況を「エンクルマはイギリス人や宣教師達が民族の伝統的な文化を打ち壊した際に残していった真空をすでに塞いでいた」と分析した。大衆の心を捕えたエンクルマの勢いには目をみはるものがあった。沿道で、あるいは集会で歓呼する大衆。主に統一ゴールド・コースト会議の人達に見捨てられていた労働者・学生、マーケット・マミーたちだったが、なかでも、植民地政策の下で低い地位に甘んじることを強いられ続けていた女性たちの熱狂ぶりは凄まじかった。一九四九年に、エンクルマが官吏侮辱罪で三百ポンドの罰金を科せられたとき、即座に保釈金を掻き集めたのも、主としてマーケット・マミーたちだった。大衆の大多数は文字すら読めず、自分たちが一体何をやり、全体がどういう方向に進んでいるのかを正確に把握してはいなかったが、それだけに、ライトはく手紙Vの中で、エンクルマに、大衆に約束したあなたがそれらの約束を果たすためには、行動の論理を人々の生活の状況に応じて決定すべきであり、自らの歩むべき道を、自らの価値を発見すべきであると、まず語りか

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けたかったのであろう。そして「国を統一し、形骸化した統一のしがらみを一掃し、大衆の足を現実という基盤の上に据える」ためには「アフリカの生活に尚武の心を植え付けなければならない」と敢えて提言したのは、独立するに際して、これから歩む道があまりにも厳しく、険しいものであることを肌で感じ取ったライトの、精一杯の暖かい助言ではなかっただろうか。

(ホ)『ブラック・パワー』
ヨーロッパでは、植民地大国イギリス、フランスで一部出版拒否にあっているが、各国で翻訳され全般的には受け入れられた。殊にドイツでは熱烈な歓迎を受けている。
アメリカでは「レポートとしては一級品」という評も含め、おおむね評判は悪くなかったが、辛辣(しんらつ)な批判も多く、ライト自身少なからず傷ついている。
それらの反応は、植民地に対する各国の政策や直接の利害関係と無縁ではない。宗主王国イギリスで、当初激しい出版拒否にあったのも、植民地への依存度の高い国の事情と深いかかわりがあろう。
ここに、ライトにアフリカ行きを勧めたドロシィー・パドモアが本書の真価について語った一節がある。ドロシィーがガーナに住み、エンクルマを助けて働いていただけに注目に値する。ライト研究の第一人者ミシェール・ファーブル氏の要請に応えて送った一九六年三月十三日の付けの手紙の中の次の一節である。

『ブラック・パワi』がついに出て、リチャードが夫と私に本を一冊送ってくれたとき、その本が

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夢中にさせて-れるほど素敵なものだと分かりました。そして、その頃までにすでに私はゴールド・コーストに行った経験がありましたから、そこには私の考えや反応と響きあつ個所がたくさんあるのを知りました。その点では、夫も大体同じでした。二人とも、その本ではゴールド・コーストの社会が、熱望や過去.未来の展望などが織り交ってかなりうまくまとめ上げられていると考えました。ゴールド・コーストでは、その本で述べられていることが、多くは時代にあっていない発言であるとか評論であるなどと言われていましたが、問題はそれがどのように受け入れられたかどうかではないのです……。
アフリカ人以外の批評家の間では、本書の巻末に載せられたエンクルマへの手紙について、リチャードが出しゃばりすぎていると考えられていました.しかし、私と夫の意見では、その手紙が建設的な意味合いで、最も貢献度が高いということだったのです。私は、書かれた当時だけでなく今でもそれが正当性を失ってはいないと思っています。もし、手紙が意図されたように、暖かい助言として受け入れられていたとしたら、多くの落とし穴にはまらなくて済んでいたのに……と、私は思うのです。

西洋諸国はアフリカに対して理不尽の限りを辱してきた。そしてその情況は今もなお、続いている。三世紀半にわたる奴隷貿易に続嵜酷な植民地支配下で、そして「近代的な文明も科学的技術の恩恵も断たれた、世界で最低の条件下で」人的資源を増大させ、伝統的文化と教育を温存し、人間として威厳を守り続けてきたアフリカから、われわれが学ぶべきこと、教えられる点は実に多い。それ

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ばかりか、現在もなお、植民地主義、新植民地主義と闘い続けるアフリカの姿は、現代われわれに真の生き方、真のあり方を問いかけている。
先般来日したセネガル人作家センベーヌ・ウスマン氏は、日本で繰り広げられた飢餓救援活動に対して「援助は要りません。それより、暖かい目で見守って下さい」と語ったが、それは見せかけの援助より正当な理解をという生き方を問う鋭い発言であろう。援助と称しながら、その実、アフリカを食いものにしてきた西洋諸国ばかりか、アメリカの政策を強力に支援する日本もまた、過去から積み重ねてきた罪の責任を取るべきことを、今、迫られている。ライトも、本書の中でその点について次のような指摘をしている。

人はその人となりや、その暮らしぶりに応じてアフリカに反応する。人のアフリカに対する反応は、その人の生活であり、その人の物事についての基本的な感覚である。アフリカは大きな煤けた鏡であり、現代人はその鏡の中で見るものを憎み、壊したいと考える。その鏡をのぞき込んでいるとき、自分では劣っている黒人の姿を見ているつもりでも、本当は自分自身の姿を見ているのだ。(中略)アフリカは危険をはらんでおり、人の心に人生に対する総体的な態度を呼び覚まし、存在についての基本的な異議をさしはさむ。

出版代理人や出版社の入れこみようとは裏腹に売れ行きは芳しくなく、その意味では出版が成功したとは言えないかもしれないが、独立への胎動をいち早く察知してアフリカに駆けつけ「人々の日常」

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を、あるいは独立への歩みを西洋世界に紹介することによって、アフリカを正当に理解しようとした功績は少なくない。西洋の援助を受ければ新しい形の帝国主義搾取を招くという新植民地主義への予言は、現在、アフリカの多くの国が支払えないほど莫大な対外債務を抱え、新植民地主義政策の犠牲を強いられている情況を思えば、いかに的を得たものであったかが分かる。また、内部からの腐敗に留意せよ、それらに対しては厳しい態度で臨めという警告も、エンクルマ失脚の一因が内部者の目にあまる腐敗ぶりにあったことなどを考慮すれば、その適切さがうかがえよう。
ライトは旅の終わりに、船上でレノルヅ宛てに「私はこの地で見たものに衝撃を受けた。しかも、ゴールド・コーストはアフリカでも一番良い所だと聞く。もしそれが本当なら、一番ひどい所を私は見たくない」という手紙を書いた。しかし、すぐあとには仏領西アフリカへの長期にわたる紀行を企画している。ドロシィーの手紙が明らかにしているが、「アフリカの独立国について諸外国で広がっている誤った情報に対抗するために、その紀行を利用してより本当の姿を世界に紹介したい」と願ったからである。残念ながら、ライトは病にたおれ、夢半ば、異郷の地に果ててしまった。しかしながら、病床にあってもなお、つむぎ続けたアフリカへの夢から、東西の力関係ではもうどうしようもない世界の現状を憂うるライトの真情が、確かに伝わってくる。

(5)『白人よ、聞け!』
主として一九五〇年代に、ライトは要請に応えて、ヨーロッパ各地で数々の講演を行ない、西洋の犯した罪をあがなうべき道を力説した。「今日の世界における白人と有色人、東洋と西洋に関する相互

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に関連した、首尾一貫した」四編が『白人よ、聞け!』として出版されたが、なかでも「抑圧された人々の心理的反応」と「伝統と工業化」の中の次の一節は、ライトの西洋とアフリカへの姿勢を浮き彫りにしている。

あなた方西洋の白人に言おう。あのアジアやアフリカの人たちをどれほど簡単に征服し、略奪したかを自慢しすぎるなと……法律においてと同様に、歴史においても、人間は、そのような結果を意図していたかどうかにかかわらず、歴史的行為の結果に対して厳しく責任を負わなければならない……西洋がその責任を取ることこそ、白人が不安や恐慌や恐怖から自分を解放する手だてを作り出すことになるのだ……。
あなた方は、いかに見当違いであったとはいえ、アフリカやアジアのエリートを訓練し、教育をした。そして、心に自由と合理性に対する渇望を植えつけた。いま、あなた方のこのエリートたちは……飢えや病いや貧困……などによって、ひどく追いつめられている……今、私はあなた方に言いたい、ヨーロッパの人々よ、あのエリートたちに道具を与え、この事業を成し遂げさせてやれ!と。

もっとも、一般的に、アフリカ人作家たちは、ライトからある程度感化を受けたことは認めても、ライトをあくまでアメリカ人、西洋知識人とみなしており、ライトの"西洋的"見方に反発もしている。例えば、ギニア出身のカマラ・レイは「アフリカと世界中の黒人が思想的に協調すべきである」

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というライトの信念に共感は寄せながらも、次のように反論している。

アフリカでは、問題は私たちが平等や公民権を達成するということではない。私たちはいかなる種類のものであれ白人社会との統合には関心がない。近代的なものを切望はしても、決してヨーロッパ化されたい、つまり白人化されたいとか、危険を冒してもアフリカ特有のものを失いたいとか、望んでいるわけではない。

独立後のガーナの首相エンクルマの相談役をしようというライトの書簡に、エンクルマがなんら反応を示さなかったのも、おそらくそのあたりに原因が潜んでいよう。その意味では、フランス人学者ミシェール・ファーブル氏が指摘するように「ライトは、ときおり、二つの違ったグループの願望の間の調整役をつとめながら、せいぜい、統合とネグリチュードのまんなかあたりに立っていた」と言えそうである。
しかしながら、新植民地主義への鋭い洞察や、ピーター・エイブラハムズやフランツ・ファノンらのアフリカ人作家への影響なども含めて、「白い仮面と黒い膚との間で」、自由を求めて、闘う黒人西洋知識人として苦悩し続けたライトの足跡から、学ぶべき点、教えられることは、今もなお、多い。

執筆年

1987年

収録・公開

『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社)、147-170ペイジ

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