つれづれに:ガーナ1860(2022年10月25日)

つれづれに

つれづれに:ガーナ1860

 旧暦では昨日から霜降(そうこう)で、冬の始まりである。昨日採って飾ってある蓼と露草と杜鵑(ほととぎす)の写真(↑)を撮った。ブロッコリーや葱やレタスの芽(↓)が出ている、絹鞘豌豆も同じ時期に蒔いたが、まだ芽は出ていない。

 アメリカは(→「米1860」)リンカーンが大統領になった1860年、日本(→「日1860」)は井伊直弼(↓)が殺された1860年、南アフリカ(→「南アフリカ1860」)はダイヤモンドが発見された1867年、ジンバブエ(→「ジンバブエ1860」)は南アフリカのケープから私設軍隊が来た1890年が歴史の流れが変わる潮目だった気がする。今回はガーナである。

 「MLA」「ラ・グーマ」で発表するときに南アフリカの歴史(→「アパルトヘイト否!」「海外事情研究部」、→「歯医者さん」)を辿ったが、元々はライトの小説を理解したくてアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り、「修士論文」はライト(→「ライトシンポジウム」)で書いた。1947年にライトがパリに行ったあと、第3世界の問題にも関心を持って精力的に活動していた。独立に向けて走り出しておいた英植民地ゴールドコースを訪問し、エンクルマにも会っている。帰ってから訪問記『ブラック・パワー』(↓、→「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、1985)を書いた。その本がガーナとの初めての接点である。

 奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こし、産業化の道を走り始めた西洋諸国は原材料と市場を求めて植民地戦争を繰り広げた。一番厚かましかったのがイギリスで、アフリカでも栄えていた所をほぼ独占している。ガーナもその餌食になった一つである。戦略も狡猾で、アフリカ人と組んで既存の制度をうまく利用して統治した。元の政治機構が優れていたからである。サハラを含む広大な土地を植民地化したフランスとは対照的である。元の制度を利用できるほど発達していなかったので、フランスは同化政策を取らざるをえなかった。

「アフリカ・シリーズ」から

 8世紀から13世紀はガーナ王国が栄えた。精度の高い金はトワレグ人(↑)がサハラを越えて運んで、ヨーロッパや遠くは中国にまで運ばれた。エイジプトはもちろん東アフリカも南部アフリカも栄えていたのである。ポルトガルはアフリカの東海岸で貿易を断られている。交易品が粗悪だったからである。1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺が西洋侵略の開始の年とされる。

キルワ復元図(「アフリカ・シリーズ」から)

 15世紀にガーナのエルミナなどに城塞を築いて奴隷貿易の拠点としたのはポルトガル人で、その後、ドイツ人デンマーク人、イギリス人、オランダ人が来航し、奴隷制が廃止されるまで続いた。金が出るので「黄金海岸」と呼ばれた。アシャンティ王国は17世紀に奴隷貿易で力を蓄え、ヨーロッパ人から購入した銃火器で周辺の民族に対して優位に立ってアシャンティ王国を建設して繁栄した。西洋人を利用して、同胞を売り飛ばしたわけである。第二次世界大戦後に先進国と手を結んで投資と貿易による新体制を築いたが、すでにこの頃に原型が出来ていたことになる。金持ち層が多数の人から搾り取る基本構図は同じである。

ガンビアのジェームズ城塞(別名キンタ・キンテ島)

 19世紀初頭には、ケープコーストが拠点のイギリスとエルミナが拠点のオランダとデンマークが勢力を持っていた。支配権をめぐってアシャンティと戦争してイギリスは沿岸部の支配権を確立し、1850年にはデンマークの砦を買収、1872年にオランダがすべての拠点をイギリスに売却して、結局イギリス領ゴールドコーストになった。そう考えると、1872年が歴史の流れ変わった潮目で、日米の潮目の12年後のことだと言えそうである。

 ガーナ1860は、ジンバブエとほぼ状況が同じだったのではないかと推察する。ライト(↓)は『ブラック・パワー』の中で、反動的な支配者層の首長を批判しているが、同胞を売り飛ばし体制側にいる既得権益者と考えれば納得が行く。独立で新しい国を作ろうとするエンクルマたちの大きな障害になったのが目に浮かぶ。「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(1985)の中で私は首長について書いている。

小島けい画

 「ライトはアクラで運転手を雇い多額の出費と危険を覚悟でクマシ方面に出向いたが、その目的の一つは首長に会ってみることだった。現に数人の首長と会見したが、その一人は蜜蜂が自分の護衛兵だと信じて疑わなかった。その人は実際に25000人の長でありながら、村の人口数の質問に対して『たくさん、たくさん、たくさん』としか答えられなかった。かつて、一本のジンとひき換えに奴隷を商人に引き渡した首長、そんな人たちをライトは<手紙>の中で「純朴な人々を長い間食いものにし、欺してきた寄生虫のような首長たち」と書いた。しかし、エンクルマ(↓)が自分達の権力を弱めたと批難しながらも、多くの首長達が御機嫌伺いに党本部に出入りしていたことや強力な首長アサンテへネが中央集権化を恐れるイギリス政府に利用されかけたにもかかわらず、結果的にはエンクルマに譲歩した事実などを考え合わせると、首長たちは時代の流れに敢えて強くは抗えなかった人違だったと言える。」

小島けい画

 模範的なイギリスの植民地ゴールドコーストは1957年に独立(↓)をしたが、1967年に首相のエンクルマがベトナム戦争の終結に向けて毛沢東と話し合いをしている時に、クーデターが起き戻れなくなった。1972年にルーマニアで侘しく死んでいる。書きたいことがたくさんあったんだろう。英語による膨大な著書は多い。

独立の式典で(「アフリカ・シリーズ」から)