つれづれに:アパルトヘイト否!(2022年8月25日)

2022年8月24日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:アパルトヘイト否!

 1988年に宮崎に来たとき、南アフリカの状況は緊迫していた。日本はアフリカ人から土地を奪ってオランダ人とイギリス人が勝手に作った政府と手を組んで高度経済成長を満喫していたが、多数派のアフリカ人を押さえ込み続けるのは経済的に効率がよくないと感じ始めたアメリカや西洋諸国は、1980年代に入ってからアパルトヘイト体制に変わる制度を模索し始めた。先進国主導の基軸は変えないで、亡命を強いられてザンビアのルサカにいたANC(アフリカ民族会議、旗↓)を担ぎ出し、「民主主義」を装う体制である。他のアフリカ諸国と同じように、アフリカ人の政権と手を握って、実質的には経済を支配するという政策である。産業資本家、金持ち投資家にとって、莫大な利益を確保し、富を増やし続けられるのであれば、大統領がアフリカ人でも何ら問題はない。実利の前に、肌の色は関係ない。

南アフリカの国旗 | アフリカ | 世界の国旗 - デザインから世界 ...

 大筋はそうだが、アフリカ人側は微力ながら西洋諸国の経済制裁を訴え続けていた。その結果、大都市では南アフリカ政府とあからさまに取引をしている大企業やスーパーは不買運動の対象になった。しかし、利益優先の大企業が手をこまねいている訳がない。都会でボイコットされた南アフリカの輸入品のワインや果物の缶詰は、せっせと地方の量販店に流していた。ダイエー(今はなき宮崎ダイエー、↓)やイトーヨーカドーで不買運動が行われていた関西から来てみたら、実際に南アフリカ産のみかんの缶詰が量販店に山積みされていた。大きな缶詰に100円の値札が貼られていた。

 しかし、抵抗を続ける人たちもいた。アパルトヘイト否(ノン)! もそういった抵抗運動の一つである。アパルトヘイト否国際美術展は1983年からアパルトヘイトが廃止された時まで世界中を巡回した。日本では1988年から2年間にわたり194か所で開催されている。その美術展が愛媛県松山(会場だった東雲学園↓)に来た時、講演会に呼ばれた。声をかけてくれたのは、母親の謝金で世話になった弁護士だった。(→「揺れ」、→「余震」)京大をでたあと、明石の法律事務所で働いていたときに世話になった。その後もやり取りが続いていて、宮崎に移ったことも知らせていた。当時その弁護士はヨットに乗っていて「水平線」という冊子を毎年送ってくれていた。私の方は書いたものや出してもらった本や妻の絵で作ったカードなどを送っていた。書いたものを見て、南アフリカの歴史の講演を思いついてもらえたようだった。まだやり始めたばかりで、南アフリカやアフリカ全般についての全体像がはっきりしていない頃だったので、拙い話になってしまって、今でも申し訳ない気持ちで一杯である。

 しかし、その後、教養の科目で南アフリカ概論を何年も担当して、しっかりとこの時のお返しをしたと思っている。借金の相談をしただけの縁で、講演会に呼んでもらえる幸運が舞い込んだわけである。西洋諸国の思惑通り、投獄した法律を変えずに同じ法律でマンデラを無条件釈放して、1994年に大統領職につけた。融和委員会を立ち上げて白人と和解する、何ともめでたい手前味噌である。タンザニアの大統領ニエレレ(小島けい画、↓)がコンゴのカビラに早期の民主主義的な選挙実施を迫る西洋諸国に「道義的にみて、お前ら、そんなことが言えた義理か?少しは恥を知れ!」とアメリカ大手の新聞に書いていた通りである。白人優位・黒人蔑視がまかり通る。
 次は、海外事情研究会、か。