つれづれに:インタビュー(2025年1月13日)
つれづれに:インタビュー
家の北側に苗木で植えた椿が花をつけ始めた。宮崎神宮の植木市で見つけて、1本は庭の東側に、2本を北側の花壇に植えた。本当は陽当たりのいい畑の南側に植えたかった。しかし、すでに金木犀の生垣が大きくなり過ぎていたし、陽の当たる南側に植えようとすると、20坪ほどしかない畑がだいぶ狭くなってしまう。仕方なかったのである。従って、南側のようにはいかないのだが、それでも花をつけてくれる。
小説に使うためにインタビューしてもらったのは3回目である。1回目は普通の高校生の受験勉強はどんなもんなんだろうというのが知りたくて、諒解を得て録音させてもらった。応じてくれたのは元同僚で、昔昔北九州大を受験して不合格だったと聞く。僕も不合格だったので、同じところを落ちたんやなあと言ってしまった。しかし聞いてみると、同じ受験生とも思えなかった。その人はそこだけ受けたようで、不合格のあとどこも決まらないまま時がすぎ、就職の話を薦められるまま受けて就職することになったそうである。僕の方は、5教科をほとんどしないで、時期が来て受験、最初は5教科7科目をと思っていたが、いつしか5教科5科目のつもりになり、何もしないまま受験。結果は見えていた。北九州大を受けたのは英国社3教科だったのに加えて、前期と後期の間に受験で来たからに過ぎない。少しも受験勉強しないで、ひょっとしたら通るかも知れないと考えている節があったんだから、めでたい話である。それも、30まで生きるとして、それまで時をやり過ごすためだけに大学をと考えていたようだから、救いようがない。受験勉強をして北九州大だけ受験した人とは、違う。1浪しても、何も出来なかった。
2つ目のインタビューは、やはり元同僚に医療倫理について聞いた。録音させてもらって、こちらは小説に使った。出版社の目に留まらなかったので、今のところ本人には報告出来ていない。今後目に留まれば、書き貯めたものが活字になるかも知れない。
3回目のインタビューは、今から使うつもりだが、どこかの出版社の目に留まれば幸いである。今回はズームで録画させてもらった。
昔は自分の中の想像力と生得的な創造力だけで小説は書けるものと思い込んでいたが、帚木蓬生さんの『アフリカの蹄』を見た時、インタビューしてたんだと感心してなぜか思い込みを解いた。取材力も一つの武器なのだろう。
3月末か4月末かに投稿するつもりで、「つれづれに」はしばらく休載予定で5冊目を書き始めたが、→「構想は」に続いて、また書いている。今回は、5冊目のために依頼したインタビューの報告である。今後も、連載を再開する前に、何だか書きそうな気配がする。
3人はすんなりインタビューに応じてくれたが、よく会っていた卒業生には断られた。揉めるの困りますから、とはっきりしていた。誰もがインタビューに応じてくれるわけでもないらしい。
→「小島けい2004年私製花カレンダー2004 Calendar」1月
椿には、妻の絵でずいぶんと世話になった。カレンダーの話を長崎の広告印刷会社からもらい、最初に描いた表紙絵が椿である。小振りの藪椿が好きで、それまでたくさん描いていたので、自然に出来上がった、というところだ。
1980年代の終わりに私の専任が決まる前から雑誌にたくさん記事を書かせてもらっていた出版社から、妻に「装画や挿画を書きませんか?」と誘いがあった。僕が材料を探し、妻が実際の花を見て、装画を描くことが多かった。その一つが椿である。
パソコンで世話になっている人に絵専用のブログを拵えてもらい、描いた絵を載せ始めた。年月分だけ、貯まっている。ブログは外国の人が毎日何十人かは見てくれるようで、英訳もつけ始めたがそれほど進んでいない。途中だが、一覧できるようにしている。→「椿」