つれづれに:牛乳配達(2022年3月30日)

つれづれに

 

牛乳配達

 

いつから始めたのかははっきりとはしないが、母親が毎朝新聞と牛乳を配っているのを見兼ねて、代わって牛乳を配り出した。小学校3年生の年末に祖父が急死して、川を挟んで西側にあった祖父の持ち家に引っ越すことになった。6畳4畳半二間の一戸建ての元市営住宅だった。大理石職人だった祖父は岐阜県大垣市に出稼ぎに出て、家にはほとんど戻らなかったらしい。覚えているのはちょび髭を蓄えた遺影だけで、私自身は会った記憶がない。祖父が再婚した相手に私の母親は相当虐められたらしいが、祖父の葬式の時も、それ以降もそれらしき人は見かけなかった。祖父には出稼ぎ先に内縁の妻と子供がいたようで、その後どうなったか、どう折り合いがついたのかはわからない。私が生まれ育ったところは父親の兄弟や家族が済むスラムのような密集地帯で、暗い、臭い、穢いというイメージしか残っていない。→「戦後?①」(2021年11月24日)

当時とあまり変わっていない引っ越しの時に渡った橋

引っ越したところは、両親と子供4人には充分密集地帯だったが、東側と南側に小さな庭もあり、裏は川の堤防までほとんど畑と空き地で開放感があって、それまでの暗いというイメージは払拭された。大学に入る頃には家が建ち始めており、その一軒に住む高校生の親から家庭教師を頼まれた。十年ほど前に、駅から自転車を借りて、当時住んでいた辺りを回ったことがあるが、その辺り一帯はすっかり宅地に造成されて、家が建ち並んでいた。南側の少し離れたところに国道2号線が走っており、車の往来は常時激しかった。小さい頃はバスに車掌さんが乗っていた。あるとき、バスが満員で両手で手摺を握っていた車掌さんが落ちて死んだことがあった。ワンマンの時代では考えられない事故である。転校する前にしばらくそのバスに乗っていたので、鮮明に覚えている。
町内には朝鮮部落が二つあり、国道沿いに少し西に行くと片方の部落があった。国道より南側の、家のある辺りから朝鮮部落辺りまでが配達区域だった。酒屋、呉服屋、クリーニング屋などがあったが、基本的には長屋か小さな一軒家が多かった。朝鮮部落は豚を飼い、残飯を野ざらしにしたままだったので、年中悪臭が漂っていた。朝鮮部落の脇に、更に貧しい人たちも住んでいた。概ね、貧しい人たちが多かった。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

引っ越したときはすでに両親の関係は破綻していた、と思う。母親は自立しようと働き始めたが、学歴もない女性にまともな職はなく、保険の外交のあとスクーターに乗ってミシン販売をやっていた。ほとんど家にはいなかった。父親は家事育児をしないうえ、ほとんど家にいなかったので、手のかかる年代の子供5人は、それぞれの形で自分を守るしかなかった。母親が新聞や牛乳を配っていたのも、その流れだったとは思うが、見兼ねた私が変わって配り始めたというわけである。しかし、実際には毎日朝早く起きるのはなかなか大変だった。明け方なので人には会わうことは滅多にないが、集金に行くと、なんだか憐れんで見下したような目で見られた。自転車に瓶入りの牛乳を一箱乗せて配るのだが、かなり重量があり、毎回落として壊してしまわないかと心配だった。一度だけ落として大半の瓶が割れてしまったことがある。そのあとどうしたのかは覚えていない。印象に残っているのは、クリーニング屋から出される空き瓶に、毎回たばこの吸い殻がぎっしりと詰まっていたことである。火を消すのに水を入れたのだろう。その悪臭がいまだに鼻に残っているような気がする。
入学後半年ほどで、牛乳配達はやめた。家庭教師を言われたのと、時間的に夜の授業との両立が難しくなってきていたからである。→「高等学校1」(1月17日)、→「高等学校2」(1月19日)、→「高等学校3」(1月21日)

高校ホームページから

春分の日もとっくに過ぎ、4月5日には次の節気清明の時期に入る。 季節の変わり目でぐずつく天気が続いている。三十数年前に明石から宮崎に越して来たときも、雨の日が多かった。南国に行くのでもうこの時期、なんぼなんでもストーブは要らんでと調子のいいことを言ったから、毎年、この時期になると、この時期にストーブなしね?と嫌味を言われる。子供二人の世話にみんなの食事を作り、学校の職をこなすだけでも大変なのに引っ越しまで加わって、今思うとよう持ってくれたものだと思う。ぐうの音も出ない。ひたすら耐えるだけである。それに、紹介してもらった公務員共済の宿も、変に侘しかった。最悪の出だしだった。春は、淡い季節である。

次回は、植木市と牡丹、か。