書いたもの

2022/2/6現在

分類別は→「書いたもの一覧:年代順、連載一覧、テーマ別」

2022年

「アングロ・サクソン侵略の系譜35:アフリカとエイズ 」続モンド通信38、2022年1月20日)【アフリカ/医療】【公開】

2021年

「アングロ・サクソン侵略の系譜34:ケニアの歴史(4)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」続モンド通信37、2021年12月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」続モンド通信36、2021年11月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜32:ケニアの歴史(2 )ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来」続モンド通信35、2021年10月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史1植民地化以前』」続モンド通信34、2021年9月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜30:在外研究」続モンド通信33、2021年8月20日)【ジンバブエ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜29:編註書And a Threefold Cord 」続モンド通信32、2021年7月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜28: :日本語訳『まして束ねし縄なれば』」続モンド通信31、2021年6月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜27: A Walk in the Night」続モンド通信30、2021年5月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)【アフリカ/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜24: 2021年Zoomシンポジウム」続モンド通信27、2021年2月20日)【アフリカ/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜23:ケニアの歴史(1)植民地化以前」 続モンド通信26、2021年1月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

2020年

「アングロ・サクソン侵略の系譜22:アフリカ史再考④大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人 」続モンド通信25、2020年12月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜21: アフリカ史再考③:ナイルの谷」続モンド通信24、2020年11月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜20:アフリカ史再考:②『アフリカシリーズ』」続モンド通信23、2020年10月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜19:アフリカ史再考:①アフリカ史再考のすすめ 」続モンド通信22、2020年9月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜18:アフリカ系アメリカの歴史 」続モンド通信21、2020年8月20日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜17: アフリカの歴史」続モンド通信20、2020年7月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜16: 科学研究費 1」続モンド通信19、2020年6月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜15: ゴンドワナ (12~19号)」続モンド通信18、2020年5月20日)【アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜14::宮崎医科大学 」続モンド通信17、2020年4月20日)【随想】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜 13:ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日) 【アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜12:MLA(Modern Language Association of America)」続モンド通信15、2020年2月20日) 【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜11:アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」「続モンド通信14」、2020年1月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

2019年

「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」「続モンド通信13」、2019年12月20日)【随想】【公開】

「『まして束ねし縄なれば』の文学技法―雨の象徴性と擬声語の効用を軸に―」「続モンド通信12」、2019年11月20日)【ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜9:『言語表現研究』」「続モンド通信11」、2019年10月20日)【ライト/ラ・グーマ/グギ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1」「続モンド通信10」、2019年9月20日)【アフリカ】【公開】【★出版】

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)【アフリカ系アメリカ/アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」「続モンド通信9」、2019年8月20日)【随想】【公開】

「ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3」「続モンド通信8」、2019年7月20日)【翻訳/ライト/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑤オハイオ州デイトン」「続モンド通信7」、2019年6月20日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」「続モンド通信6」、2019年5月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」「続モンド通信5」、2019年4月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」「続モンド通信4」、2019年3月13日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」「続モンド通信3」、2019年2月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開」「続モンド通信2」、2019年1月20日)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

2018年

「『続モンド通信』について」「続モンド通信」2018年12月29日)【案内】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要」「続モンド通信1」2018年12月29日)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

2018年12月より「続モンド通信」を開始。↑

編集者の不調により「モンド通信」休刊↓

2016年

「ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3」(「モンド通信」未掲載)→「続モンド通信8」、2019年7月20日)に収載。【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑦イリノイ州シカゴ2」「モンド通信 No. 97」、2016年9月11日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑥イリノイ州シカゴ」「モンド通信 No. 96」、2016年8月3日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑤オハイオ州デイトン」(「モンド通信」未掲載)→2020年「続モンド通信」に収載。【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」「モンド通信 No. 94」、2016年6月19日)【翻訳/南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」「モンド通信 No. 93」、2016年4月26日)【翻訳/南アフリカ】【公開】

「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」「モンド通信 No. 92」、2016年4月3日)【翻訳/南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」「モンド通信 No. 91」、2016年3月22日)【翻訳/随想】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」★番号を訂正「モンド通信 No. 90」、2016年2月9日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

2015年

「アフリカとその末裔たち2(3)③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在」★番号を訂正「モンド通信 No. 89」、2015年12月23日)【ジンバブエ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(3)②今日的諸問題:ザイールの苦難」★番号を訂正「モンド通信 No. 88」、2015年11月28日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(3)①今日的諸問題:エイズ流行病(AIDS epidemic)」★番号を訂正「モンド通信 No. 87」、2015年11月20日)【医療】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(2)②The Honourable MP」★番号を訂正「モンド通信 No. 86」、2015年10月19日)【ジンバブエ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(2)①And a Threefold Cord」★番号を訂正「モンド通信 No. 85」、2015年8月22日)【ラ・グーマ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑩自信と譲歩」★番号を訂正「モンド通信 No. 84」、2015年7月29日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑨開発援助と発達なき成長」★番号を訂正「モンド通信 No. 83」、2015年6月23日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑧経済的依存」★番号を訂正「モンド通信 No. 82」、 2015年5月30日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑦新しい階級の創造」★番号を訂正「モンド通信 No. 81」、2015年4月30日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑥コンゴ危機」★番号を訂正「モンド通信 No. 80」、2015年3月26日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑤コンゴ自由国」★番号・題を訂正「モンド通信 No. 79」、2015年2月22日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度④ガーナ」★題を追加(「モンド通信 No. 77」、2015年1月15日)【アフリカ】【公開】

2014年

「EMP9年、結果として、active learning」(「ESPの研究と実践」第11号57-67頁。)【EMP】【★出版】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1」(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に未掲載、新規→2019年10月20日「続モンド通信」11に収載)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度②執筆の経緯」★番号・題を訂正(「モンド通信 No. 72」、2014年11月1日)連載開始。【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2一覧」(2014年11月~2016年2月に「モンド通信」に連載。掲載分の番号、題などを修正)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度①概略」(「モンド通信」No. 71、2014年10月1日に未掲載)→2019年9月20日「続モンド通信」10に収載)【アフリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」「モンド通信 No. 71」、2014年7月10日)連載終了。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」「モンド通信 No. 70」、2014年6月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」「モンド通信 No. 69」、2014年5月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」「モンド通信 No. 68」、2014年4月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史一覧」(2014年3月~7月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」、2014年3月10日)連載開始。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「南アフリカ小史一覧」(2014年1月~2月に「モンド通信 」に連載)【南アフリカ】【公開】

「南アフリカ後半」「モンド通信 No. 66」(2014年2月10日)連載終了。【南アフリカ】【公開】

「南アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 65」(2014年1月10日)連載開始。【南アフリカ】【公開】

2013年

「アフリカとその末裔たち1一覧」(2013年12月~2014年7月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ/南アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ小史一覧」(2013年11月~12月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ】【公開】

「アフリカ小史後半」「モンド通信 No. 64」(2013年12月10日)連載終了。【アフリカ】【公開】

「アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 63」(2013年11月10日)連載開始。【アフリカ】【公開】

「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」「モンド通信」No. 59」、2013年7月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記24ふたつの壷」「モンド通信」No. 58」、2013年6月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記23チサライ」「モンド通信」No. 57」、2013年5月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記22ジャカランダの季節に」「モンド通信」No. 56」、2013年4月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在21ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」No. 55」、2013年日3月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑳演劇クラス」「モンド通信」No. 54」、2013年2月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑲ロケイション」「モンド通信」No. 53」、2013年1月10日)【ジンバブエ】【公開】

2012年

「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」「モンド通信」No. 52」、2012年12月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」「モンド通信」No. 51」、2012年11月11日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑯75セントの出会い」「モンド通信」No. 50」、2012年10月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」「モンド通信」No. 49」、2012年9月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑭ルカリロ小学校」「モンド通信」No. 48」、2012年8月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」「モンド通信」No. 47」、2012年7月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解27:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告6」「モンド通信 No. 47」、2012年7月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解26:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告5」「モンド通信 No. 46」、2012年6月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」「モンド通信」No. 45」、2012年5月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解25:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告4」「モンド通信 No. 45」、2012年5月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」「モンド通信」No. 44」、2012年4月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解24:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告3」「モンド通信 No. 44」、2012年4月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑨ゲイリーの家族」「モンド通信」No. 43」、2012年3月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解23:「シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告2」「モンド通信 No. 43」、2012年3月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑧グレートジンバブエ」「モンド通信」No. 42」、2012年2月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解22:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告1」「モンド通信 No. 42」、2012年2月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑦ホテル」「モンド通信」No. 41」、2012年1月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解21:『ニューアフリカン』:エイズの起源4 米国産の人工生物兵器としてのウィルス」「モンド通信 No. 41」、2012年1月10日)【アフリカ/医療】【公開】

2011年

「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」(「ESPの研究と実践」第10号25-34ペイジ)【アフリカ/医療】【★出版】

「ジンバブエ滞在記⑥買物」「モンド通信」No. 40」、2011年12月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解20:『ニューアフリカン』:エイズの起源3 アフリカの霊長類がウィルスの起源」「モンド通信 No. 40」、2011年12月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑤バケツ一杯の湯」「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解19:『ニューアフリカン』:エイズの起源2 アフリカ人の性のあり方」「モンド通信 No. 39」、2011年11月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記④ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解18:『ニューアフリカン』:エイズの起源1 アフリカ人にとっての起源の問題」「モンド通信 No. 38」、2011年10月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記③突然の訪問者・小学校・自転車」「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記②ハラレ第1日目」「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記一覧」(2011年7月~ 2013年7月に「モンド通信」に連載)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記①アメリカ1981~1988」「モンド通信」No. 35」、2011年7月10日)連載開始。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(30) 最終章」「モンド通信 No. 35」、2011年6月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解17:雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 34」、2011年6月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(29) 第30章 タラで過ごした一週間」「モンド通信 No. 34」、2011年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解16:メディアと雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 33」、2011年5月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(28) 第29章 カナーン証明書」「モンド通信 No. 33」、2011年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解15:エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代4 アパルトヘイト政権の崩壊とその後」「モンド通信 No. 32」、2011年4月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(27)第28章 カナーンホスピス」「モンド通信 No. 32」、2011年3月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解14:エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代3 アパルトヘイト政権との戦い」「モンド通信 No. 31」、2011年3月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(26)第27章 男の赤ん坊」「モンド通信 No. 31」、2011年2月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(25)第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気」「モンド通信 No. 30」、2011年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

2010年

「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ)【南アフリカ/医療】【★出版】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(24)第24章 1982年」「モンド通信 No. 29」、2010年12月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(23)第23章 一匹狼の医者」「モンド通信 No. 28」、2010年11月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(22) 第22章 仮論文」「モンド通信 No. 27」、2010年10月10日)【ケ翻訳/ニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(21) 第21章 一九七九年モンバサ」「モンド通信 No. 26」、2010年9月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(20) 第20章 四十年間の投獄」「モンド通信 No. 25」、2010年8月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(19) 第19章 花婿の値段」「モンド通信 No. 24」、2010年7月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(18) 第18章 ナイセリア菌」「モンド通信 No. 23」、2010年6月1日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(17) 第17章 医師用宿舎B10」「モンド通信 No. 22」、2010年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(16) 第16章 豚野郎フィル」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解13:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ2 育った時代と社会状況2 アパルトヘイト」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(15) 第15章 ユーニス」「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解:12 エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1」 「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(14) 第14章 ドクターGGの娘(後半)」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(13)第14章 ドクターGGの娘(前半)」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

2009年

“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"(「ESPの研究と実践」第10号12-20頁。)【アフリカ/医療】【★出版】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(12)第13章 行方不明者」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(11)第12章 初めてのX線機器 」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(10)第11章 リバーロード診療所」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(9)第10章 ンデル警察署」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解6:アフリカでのエイズの広がり」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(8)第9章 マインバ家」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解5:アフリカを起源に広がったエイズ」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(7)第8章 ハリマ」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解4:1981年―エイズ患者が出始めた頃2 不安の矛先が向けられた先」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(6)第7章 イアン・ブラウン」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解3:1981年―エイズ患者が出始めた頃1」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(5)第6章 メアリ・ンデュク」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(4)第5章 ベネディクト神父」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(2009年4月~2012年7月まで「モンド通信 」に連載。)【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解1:『ナイスピープル』とケニア」」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)連載開始。【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」「モンド通信 No. 8」、2009年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(2) 第2章・第3章」「モンド通信 No. 6」、2009年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

2008年

『アフリカ文化 [Ⅱ]ーアフリカとエイズと哀しき人間の性(さが)(上)』 (門土社で出版予定で送った原稿です。)【アフリカ/医療】【未出版】

「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(2008年12月~2011年6月まで「モンド通信 」に連載。)【翻訳/ケニア/医療】【公開】
「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(1) 著者の覚え書き・序章・第1章」「モンド通信 No. 5」、2008年12月10日)連載開始。【翻訳/ケニア/医療】

2007年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター4号」【日本語支援】【刊行】

『アフリカ文化論(一)ー南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)総64ページ。【アフリカ/医療】【★出版】

2006年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター3号」【日本語支援】【刊行】

「エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師」(門土社「mon-monde 」6号に収載予定で送った原稿です。)【南アフリカ/医療】【未出版】

「コンゴの悲劇 独立―新植民地支配の始まり」(門土社「mon-monde 」5号に収載予定で送った原稿です。)【アフリカ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 四 ゲイリーの家族」(門土社「mon-monde 」4号に収載予定で送った原稿です。)【ジンバブエ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 三 グレート・ジンバブエ」(門土社「mon-monde 」3号に収載予定で送った原稿です。)【ジンバブエ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 二 買い物と自転車」(門土社「mon-monde 」2号に収載予定で送った原稿)【ジンバブエ】【未出版】

「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号61-69頁。【アフリカ/医療】【★出版】

2005年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター2号」【日本語支援】【刊行】

「ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 1 初めてのアフリカ」「mon-monde」創刊号14-24頁。【ジンバブエ】【★出版】

「アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』」「mon-monde」創刊 25-31頁。【ケニア/医療】【★出版】

「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁。【南アフリカ/医療】【★出版】

「『日本語支援教育専修』と私」「日本語支援教育研究報告書」宮崎大学大学院教育文化学部修士課程学校教育専攻日本語支援教育専修【日本語支援】【刊行】

2004年

「宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報英語版」【日本語支援】【刊行】

「宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報日本語版」【日本語支援】【刊行】

「宮崎医科大学留学生ニューズレター1号」」【日本語支援】【刊行】

「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」「ESPの研究と実践」第3号5-17頁。【ケニア/医療】【★出版】

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム草稿)【アフリカ/医療】【刊行】

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム報告)【アフリカ/医療】【刊行】

「 シンポジウム『アフリカと医療』~世界で一番いのちの短い国~」宮崎大学医学部国際医療保健研究会編【アフリカ/医療】【刊行】

「コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』」(「ごんどわな」25号に収載予定で送った原稿です。)【アフリカ】【未出版】

「エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間性(さが)」(平成15年度版宮崎大学広報誌)「2003 Research研究活動紹介 宮崎大学」56頁。【アフリカ/医療】【刊行】

2003年

“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”「言語表現研究」19号12-21頁。【ケニア】【★出版】

2002年

「速達便」宮崎大学医学部すずかけ祭第27回パンフレット43頁。【随想】【刊行】

2001年

「新任教官紹介『宮崎も14年目にな【★出版】

「新任教官等紹介」宮崎医科大学「学園だより」第82号24頁。【案内】【刊行】

「ショナ人とことば」「ごんどわな」24号62-65頁。【ジンバブエ】【★出版】

「コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』」」「ごんどわな」24号2-5頁。【アフリカ】【★出版】

2000年

「ジンバブエ大学② ツォゾさん」「ごんどわな」23号(復刊2号)74-77頁。【ジンバブエ】【★出版】

「ジンバブエ大学① アレックス」「ごんどわな」22号(復刊1号)99-104頁。【ジンバブエ】【★出版】

「アフリカとエイズ」「ごんどわな」22号(復刊1号)2-14頁。【アフリカ/医療】【★出版】

1998年

Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage(英文書、Mondo Books)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

1997年

「高千穂小旅行」【随想】【未出版】

1996年

「なぜ英語が出来なかったか」すずかけ祭第20回宮崎医科大学パンフレット?頁。【随想】【刊行】

“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”「言語表現研究」12号73~79頁。【ラ・グーマ】【★出版】

1995年

“Africa and I”【随想】【未出版】

“I Like Michel ”【随想】【未出版】

Africa and Its Descendants(英文書、Mondo Books)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

1994年

「ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて」「ゴンドワナ」21号6-19頁。【南アフリカ】【★出版】

1993年

「ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて」「ゴンドワナ」20号14-20頁。【南アフリカ】【★出版】

「海外研修記「『アフリカは遠かった』」宮崎医科大学「学園だより」第号10-11頁。【ジンバブエ/随想】【刊行】

「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」宮崎医科大学「学報」第50号18-19頁。【ジンバブエ/随想】【刊行】

1992年

「アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』」(翻訳書、門土社)【翻訳/ラ・グーマ】【★出版】

1991年

「マグディ・カアリル・ソリマン『エジプト 古代歴史ゆかりの地』」「ゴンドワナ」18号2-6頁。【翻訳/アフリカ】【★出版】

「自己意識と侵略の歴史」「ゴンドワナ」19号10-22頁。【アフリカ】【★出版】

And a Threefold Cord by Alex La Gum(註釈書、Mondo Books)【ラ・グーマ】【★出版】

「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」「ゴンドワナ」18号7-12頁。【南アフリカ】【★出版】

1990年

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」17号6-19頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」「ゴンドワナ」15号9-29頁。【南アフリカ】【★出版】

「ミリアムさんを宮崎に迎えて」「ゴンドワナ」15号2-8頁。【南アフリカ】【★出版】

1989年

「A Walk in the Night by Alex La Guma」(註釈書、Mondo Books)【ラ・グーマ】【★出版】

1988年

「アパルトヘイトの歴史と現状」「ゴンドワナ」14号10-33頁。【南アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」「ゴンドワナ」13号14-25頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)「ゴンドワナ」12号6-19頁。【南アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」「黒人研究」58号36頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト」「黒人研究」第58号103-15頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」「ゴンドワナ」11号39-47頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「グギの革命的後段(メタ)言語学1 『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の中の諺」「ゴンドワナ」11号34-38頁。【ケニア】【★出版】

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」「ゴンドワナ」11号22-28頁。【南アフリカ】【★出版】

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」「中研所報」20巻3号359-375頁。【ラ・グーマ】【★出版】

1987年

「あぢさい、かげに浜木綿咲いた」「英米文学手帖」24号123-124頁。【随想】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」「ゴンドワナ」10号24-29頁。【ラ・グーマ】【★出版】

“TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams ”(August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada)【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」「ゴンドワナ」10号10-23頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」「ゴンドワナ」9号28-34頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」「ゴンドワナ」8号22-26頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アフリカ・アメリカ・日本」「ゴンドワナ」7号24-25頁。【アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」「ゴンドワナ」7号19-24頁 。【ラ・グーマ】【★出版】

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社、1987年)147-170頁。【ライト/アフリカ】【★出版】

1986年

「黒人研究の会会報編集後記あとがき」「黒人研究の会報」第24号(1986年)12頁 。【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」「黒人研究の会会報」24号9頁。【ライト/アフリカ】【★出版】

「ミシシッピ、ナチェズから」「英米文学手帖」24号72-73頁。【ライト】【★出版】

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」「ゴンドワナ」3号8-9頁。【随想】【★出版】

“Richard Wright and Black PowerMemoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48.【ライト/アフリカ】【★出版】

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」第56号50-54頁。【ライト】【★出版】

“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native SonChuken Shoho, Vol. 19, No. 3: 293-306.【ライト】【★出版】

Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」「言語表現研究」第4号29-45頁。【ライト】【★出版】

1985年

「黒人研究の会会報編集後記」「黒人研究の会報」第22号10頁。【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

「リチャード・ライトとクワメ・エンクルマ-ブラック・パワーを中心に(口頭発表報告)」「黒人研究の会会報」22号6頁。【ライト/アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

“Richard Wright Symposium”上記の英語訳。【ライト/翻訳】【★出版】

「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」「黒人研究の会会報」第22号4頁。【ライト】【★出版】

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」第55号26-32頁【ライト/アフリカ】【★出版】

1984年

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」第54号、33-38頁。【ライト】【★出版】

“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1984, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.【ライト】【★出版】

「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」「言語表現研究」第2号1-14頁。【ライト】【★出版】

1983年

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」第53号1-4頁。【ライト】【★出版】

1982年

“Richard Wright and His World”兵庫教育大学修士論文(兵庫教育大学付属図書館所蔵)【ライト】【★出版】

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」第52号1-4頁。【ライト】【★出版】

1981年

「貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風」兵庫県立東播磨高等学校第7期生文集「どんぐりの実」4頁。【随想】【刊行】

1978年

「露とくとく」 兵庫県立東播磨高校文芸部「黄昏」6号32-34頁。【随想】【刊行】

1976年

「生きゆけるかしら」 兵庫県立東播磨高校文芸部「黄昏」6号 32-34頁。【随想】【刊行】

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信20(2020/7/20)

 

私の絵画館:「赤い屋根」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記13回目:パリ編(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜17:「 アフリカの歴史」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「赤い屋根」(小島けい)

赤い屋根が印象的なこの街は、クロアチアのドブロブニクです。

何故かイタリアの石だたみの街には、とても猫が似合うと思うのですが。この街にも猫がぴったり!と思い、たくさん登場してもらいました。

 

絵を描きおえた後で、この街がジブリ映画<魔女の宅急便>のモデルになったと知りました。

2020年9月カレンダー

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2 小島けいのジンバブエ日記13回目:「パリ編」(小島けい)

 

ハラレ最後の夜。空港の殺気立った大混雑のなかから、ようやくパリ行きの飛行機に乗り込むことができた時は<アフリカから何とか抜け出せた!>という思いに尽きました。

空港で飛行機に乗る。ただそれだけのはずでしたが。その場所が<アフリカ>だったということなのでしょう。

慣れない土地で少しずつたまってきていた疲れに、最後の一撃のような空港での大混乱で、私たちは疲れ果てドロのように眠りました。

 

私にとっては三度目のパリでしたが、初めて飛行機に酔い、同じく気分が悪くなった息子と私は重い足どりで、相方と娘は元気にシャルル・ド・ゴール空港に降り立ちました。

ロンドンでは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマの奥さんのブランシさんにお会いしましたが。パリでは、ソルボンヌ大学でアメリカ文学を研究しておられるファーブルさんにお会いします。

宿は、ファーブルさんが素敵な屋根裏部屋を予約して下さいました。建物の最上階に最後はハシゴを使って登ると、広い空間が広がっていました。ベッドは手前と奥の二カ所にあり、空にむかって斜めになった窓を開けると、パリの屋根屋根が目の前に重なっています。

小島けい画(奥の扉は壁に描かれた絵です!)

 

いかにもパリらしい<ワンルーム>に大喜びしましたが。まもなく由緒ある古い建物の不便さに気付くことになりました。

最上階なので水圧が弱く、水もお湯もチョロチョロしかでません。バスタブのお湯も一杯になるまで長―――い時間がかかります。また10月初めのパリはすでに寒くなっていましたが、暖房も思うように使えませんでした。

とても魅力的な部屋で、普通の時ならきっとその不便さも許容できたと思いますが、当時の私たちにはその余裕がありませんでした。

2~3日後、パリらしさよりも快適さを選び、この上なく心地よくすごせる<モン・タ・ボー>というホテルに宿を移しました。

湯船にいっぱいお湯を入れ、シャボンの泡に包まれている子供たちの笑顔が、どれほどしあわせそうに見えたことか。

大学用テキストの装画に使ったこの時のパリのスケッチ

少し休んだ後、ファーブルさんのお宅に伺いました。やはり古い建物の中の一軒で、1回が玄関とロビー、2階が広いリビングとキッチン、3階が書斎と寝室でした。奥さんのジュヌビエーブさんも大学の先生で、忙しくしておられました。

私たちはご挨拶の後お茶をいただきましたが、ファーブルさんはテーブルに置いてあった小さなリンゴを薦めて下さいました。それは<別荘で一昨日摘んできたりんご>ということでした。

パリは古くからの街並みを大切にしているため。古い建物を壊して高層ビルを建てたりはしません。そこで、ある程度余裕のある人たちは、ふだんは街なかですごし、週末は広い庭のある田舎の別荘でのんびりすごすという生活をされているようでした。

お茶の後、ファーブルさんと私たちはレストランで食事をしました。まだ飛行機酔いが収まっていない息子に、彼は心配して<そんな時はコーラが一番いいんだよ>と勧めてくれました。私は内心<ほんとかなあ・・・?>と思いましたが、効果があったかどうかは、息子に聞き忘れました。

もう何十年も昔のことですので、どんなお話をしたのかは忘れてしまいましたが、食器の音や人々の話し声のする暖かくてにぎやかなレストランの雰囲気だけはぼんやりと記憶に残っています。

食事の後は、ソルボンヌ大学を案内して下さいました。あちこちの建物を回り、最後には授業中の大きな教室にもずんずん入って行かれました。私たちが少しためらっていると<気にしなくていいからおいで>と呼ばれます。いいのかなあ?と思いながらもついていったのですが。今から思えば、突然見知らぬ東洋人の家族が入ってきて、きっと学生さんたちは<何だ、これは?>とびっくりされたことでしょう。

 

すでに秋の気配のするパリは、肌寒い日々でした。寒さに弱い子供たちの体が心配で、残りの数日はあまり無理をせず、小さな美術感をいくつかめぐったり、少し買い物をしたりしてすごしました。

毎朝焼きたてのフランスパンを買いに行くお店で、店員のかわいいパリジェンヌが、おつりを渡す時、相方に笑顔でウィンクしてくれた!と子供たちが大喜びしたり・・・。

そんな何げないパリでの数日が、アフリカでの生活の疲れを、知らないうちに少し軽くしてくれたような気がしました。

本の装画に使ったスケッチ

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜17:「アフリカの歴史」(玉田吉行)

 リチャード・ライトの『ブラック・パワー』をきっかけに本格的にアフリカに首を突っ込むようになったものの、アフリカの歴史について何を拠り所にするかは大きな問題でした。

リチャード・ライト(小島けい画)

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」、「黒人研究」第55号26-32頁、1985年。

“Richard Wright and Black Power”Memoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48. 1986年。

大学職に就くためには業績も必要で研究らしきものも始めましたが、小説を書く空間さえ確保出来れば充分で、元より研究の目標も展望もあるはずもありませんでした。しかし、その都度やれることをやっていたら次が見え始め、また次が見え、気がついてみたら、アフリカの歴史の拠り所を探り始めていました。探り始めて手がかりらしきものが見え始めたのも、黒人研究の会、リベレーションブックストア、「アフリカシリーズ」の影響が大きかったと思います。

黒人研究の会

黒人研究の会は第二次世界大戦後のアジアやアフリカの独立運動や、アメリカの公民権運動の頃から活動を始めていた小さな研究会です。アフリカ系アメリカとアフリカが研究の対象で、神戸市外国語大学の教員が活動の中心でした。

神戸市外国語大学の夜間課程を卒業後、高校教員6年目に入学した大学院で修士論文を書き始めた頃に入会し、月例会にも参加し始めました。会員は文学や語学が専門の人が中心でしたが、歴史や政治の専門家もいましたので、アフリカ系アメリカやアフリカの広範囲な話が聞けました。発表の場が欲しくて参加しましたが、自然にアフリカの文学や政治や歴史にも触れるようになりました。アフリカ人の会員もいて、アフリカ人の立場からの意見も聞けましたし、自然にアフリカも視野に入れて考えるようになったのは大きかったと思います。

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)

月例会が行なわれた神戸市外国語大学旧校舎事務局、研究棟(大学ホームページより)

リベレーションブックストア

リベレーションブックストアはニューヨーク市ハーレムにあるアフリカ系アメリカとアフリカの専門店で、1981年にニューヨーク公立図書館のハーレム分館を訪れた帰りにたまたま立ち寄りました。そこでThe Struggle for Africa (Zed Press, 1983)を見つけました。図書館にはアフリカ系アメリカとアフリカの貴重な資料が揃ったションバーグコレクションがあり、その中に修士論文の軸に据えたライトの中編小説が掲載された雑誌のフォトコピーがあると知って出かけました。実際には、図書館に行く前に、ニューヨーク市の古本屋で雑誌の現物を見つけたので、コピーを手に入れる必要はなくなってしまいましたが。

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」「続モンド通信3」、2019年2月20日)

前書きによれば、The Struggle for Africaはアフリカを見直そうという目的で、南部アフリカとの連帯を掲げて活動していたスウェーデンのアフリカグループ(The African Groups of Sweden)が書いたアフリカ史で、1982年にスウェーデン語で出版された本の英語版です。

そのグループは、長年南部アフリカ諸国と連携して解放のために活動を続けていましたが、参考図書として使っていた選集The Liberation Struggle in Africa (Befrielsekampen i Afrika)に飽き足らずに、その選集に代わるものとしてThe Struggle for Africaを書きました。解放運動を支援する政府や州の先進的な方向性は認められるものの、それでもアフリカ全般、特に解放運動に関しては、学校図書もマスメディアも表面的で、スウェーデンの大衆に届く情報の数々に西洋の偏見(バイアス)がはっきりと見て取れたからです。

本が生まれた経緯を編者Mai Palmbergが前書きで次のように書いています。

「歴史背景と紛争の現実の問題をよく知った上で連携作業を進めるべきだと考えていましたので、アフリカの闘争で実際何が問題なのかを説明するために私たちは書籍を作りました。そして、アフリカ大陸で現実に何が起こっているのかを理解したいと思っている人たちの間でも、私たちのグループ以外でも、この種の背景や分析を強く望む声があるというのがわかりました。

解放闘争に携わっている人たち自身の間でも、こういった事実や分析の必要性が非常に高いとわかって、書籍を作るという発想が生まれました。もちろん、南部アフリカの解放闘争の背景をもっとよく知りたい人すべてに役に立てばと思いますが、同時に、書籍が読まれる所で連帯関係が強まればと願っています。」

 The Struggle for Africa は9章からなり、最初の3章がアフリカ史全般、4~9章が南部諸国の解放運動についてです。

1章はアフリカの植民地化、2章は独立運動と植民地時代の終焉、3章が第二次世界大戦後の新しい形の支配体制(「新植民地支配」)。

4章は、ギニア・ビサウとカーボベルデ、5章はモザンビーク、6章はアンゴラ、7章はジンバブエ、8章はナミビア、9章は南アフリカの解放運動についてです。

ションバーグコレクションからの帰りに立ち寄ったリベレーションブックストアで、「アフリカ大陸で現実に何が起こっているのかを理解したい」と考えていた日本人がたまたまこの書籍を発見し、その本を軸にアフリカ史の入門書として2冊の英文書 Africa and Its Descendants (Yokohama: Mondo Books, 1995)、Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage (Yokohama: Mondo Books, 1998)を書いて、その後大学のテキストとして使うことになったというわけです。

「アフリカシリーズ」

「アフリカシリーズ」は1983年にNHKで放送された8回シリーズ(各45分)の番組です。英国誌タイムズの元記者で後に多数の歴史書を書いた英国人バズル・デヴィドスンが案内役で、日本語の吹き替えで放送されています。

30年以上も前のものですが、前半でヨーロッパ人の侵略が始まる以前のアフリカ大陸を紹介し、後半では人類の歴史を大きく変えた奴隷貿易→アフリカ分割・植民地支配を経て、第二次世界大戦後の多くのアフリカ諸国の独立闘争後に再構築された新しい形の搾取体制を丹念に紹介して、今こそ先進国はアフリカから搾り取って来た富を返すべき時であると結論づけていています。アフリカに対する意識が当時とそう変わったとも思えない大半の日本人には、今でもその提言は充分に傾聴に値するものだと思います。

バズル・デヴィドスン

8回の内容は「第1回 最初の光 ナイルの谷」、「第2回 大陸に生きる」、「第3回 王と都市」、「第4回 黄金の交易路」、「第5回 侵略される大陸」、「第6回植民地化への争い」、「第7回 沸き上がる独立運動」、「最終回 植民地支配の残したもの」です。

前半は古くからアフリカ大陸には黄金の交易網が張り巡らされていてヨーロッパともペルシャやインドや中国とアフリカ内陸部とも繋がっていたという壮大な物語です。その豊かな大陸が1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺から始まるヨーロッパ人の侵略に悩まされ、現在に至っているというのが後半です。

西欧が自らの理不尽な侵略を正当化するために捏造した白人優位・黒人蔑視の意識、現在の資本主義社会の方向性を決めた奴隷貿易、解決策としての「先進国の経済的譲歩」を軸にして、バズル・デヴィドスンはシリーズ全体を展開しています。

白人優位・黒人蔑視―デヴィドスンは番組の冒頭で、ジンバブエの遺跡グレートジンバブエなどを紹介しながら、500年に及ぶ侵略の過程で、ヨーロッパ人は自分たちの行為を正当化するため白人優位・黒人蔑視の意識を如何に浸透させて来たかについて、次のように語っています。

アフリカの真ん中の石造りの都市、発見当初、アフリカにも独自の文明が存在したと考えるヨーロッパ人はいませんでした。文明などあるはずがないという偏見がまかり通っていたのです。初期の研究者はこれをアフリカ人以外の人間が造ったものだと主張しました。果てはソロモン王とシバの女王の儀式の場だという説まで飛び出したものです。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

しかし、歴史を見る限り古くからヨーロッパ人とアフリカ人の関係は対等で、ルネッサンス期以前のヨーロッパ絵画を解説しながら、デヴィドスンは「人種差別は比較的近代の病なのです」と断言しています。

18世紀、19世紀のヨーロッパ人は祖先の知識を受け継ごうとはしなかったようです。 それ以前のヨーロッパ人は、例えば、西アフリカに中世ヨーロッパにひけをとらない立派な王国がいくつもあることをよく知っていました。しかも、そうした王国を訪れた貿易商人や外交官の報告には、人種的な優越感を臭わせる態度は全く見られません。人種差別というのは、比較的近代の病なのです

この違いを何より語っているのはルネッサンスまでのヨーロッパ絵画です。ここには 黒人と白人が対等に描かれています。非常に未熟な人間という、後の世の言葉を思わせるものはありません。美術の世界だけではありません。中世では広く一般に、黒人は白人と対等に受け入れられていました。例えば、中央ヨーロッパで崇拝されていた聖人聖モーリスは、13世紀に十字軍に加わって殉教した騎士ですが、彼はエジプトの南ヌビアの黒人です。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

奴隷貿易―そしてその人種的偏見を生んだ大きな原因の一つとして奴隷貿易をあげ、デヴィドスンは次のように述べています。

では、黒人に対する白人の人種的偏見はどこから生まれたのでしょう?歴史が示す大きな原因の一つは奴隷貿易です。

かつてヨーロッパ諸国はアフリカ西海岸に堅固な砦を築き、そこを根城に何千万という奴隷の積み出しを競い合いました。大砲は海に向けられていました。アフリカ大陸の内側には彼らの敵はいませんでした。敵は水平線にふいに現われる競争相手の国の船だったのです。

むろん、人種差別や人種的偏見の犠牲者はアフリカ人だけに限りません。しかし私は、アフリカ人はどの人種よりも酷い目に遭って来た、そしてその原因は奴隷貿易という歴史にあったと考えます。情け容赦のない奴隷貿易で、300年もの間、黒人たちは無理やり故郷から引き離され海の彼方の白人社会に送り込まれました。囚われの身となった黒人は一切の人間的権利を奪われました。家畜同然に売買される商品と見なされ、どんな虐待行為も認められていました。

奴隷貿易の出現で、アフリカ社会の秩序は崩壊していきました。損なわれたのはそれだけではありません。黒人と白人の間にあった互いを尊重するという関係も打ち砕かれたのです。

恐怖の奴隷貿易はずーっと昔になくなり、今はアフリカを知る新しい時期に来ています。黒人を劣ったものと見る古い考えは何の根拠もありません。ここで素直な目でアフリカを根本から見直してみる必要があります。そうするとどんな姿が見えて来るでしょうか。近年、考古学の発展で今まで知られていなかった事実が次々と出て来ました。それはここアフリカに彼ら独自の、長い多彩な歴史があったことを示しています。このシリーズではアフリカを一つの舞台と見て、そのダイナミックなドラマを捉えていきたいと思います。「第1回 最初の光 ナイルの谷」

経済的譲歩―そうした長い歴史的な背景を踏まえ、難しいことは百も承知のうえで、先進国は今までのアフリカについての見方や関係を改め、今まで搾り取って来た富をアフリカに返すべきだと次のように結んでいます。

援助を待つだけでなく、自力で立ち上がる、どんなにささやかでもこれは今アフリカで一番大事なことです。かつては自給自足し、豊かな生活内容を持っていた人々が飢餓地獄に置かれている。これは一つには自分たちの食料を犠牲にし、輸出用の作物を作っていた植民地時代の延長線上にあるためです。

そしてもう一つ、アフリカ諸国が都市の開発に力を注ぎ、巨大な農村をなおざりにしていることも上げなければなりません。

しかし、これと取り組むには先進国の大きな経済的譲歩が必要でしょう。飢えている国の品を安く買いたたき、自分の製品を高く売りつける、こんな関係が続いている限り、アフリカの苦しみは今後も増すばかりでしょう。アフリカ人が本当に必要としているものは何か、私たちは問い直すことを迫られています・・・。

奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た先進国は、形こそ違え今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取って来た富、今はそれを返すときに来ているのです。「最終回 植民地支配の残したもの」

今回の科学研究費の「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」もこうした背景から生まれました。(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信19(2020/6/20)

 

私の絵画館:「アフリカ―家路―」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記12回目:アフリカの旅―前と後―(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜16:「 科学研究費 1」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「アフリカ―家路―」(小島けい)

 

この絵は、1992年に出版されたアレックス・ラ・グーマ著『まして束ねし縄なれば』の装画です。

私たちがジンバブエに向かったのは、その年の6月の終わり頃ですから、出発する前に描き終えて、出版社に送ったわけです。

この小説は、南アフリカが舞台ですが。実際にはどういうところなのか、私は全くわかりませんでした。そこで参考にしたのがBSで放送されたアンゴラのニュースです。その短かい映像のなかで一番印象に残ったのが、乾いた土埃りの道を黙々と歩く黒人の人たちの姿でした。

南アフリカではありませんが、アンゴラもアフリカ南部に位置しており、南アフリカの北側にあります。きっと同じような光景があるのではないか、と思いました。

当時の私の描き方は、今とは全く違います。短時間で一気に描きあげて,終わり!というきわめて大ざっぱなものです。<5m離れて見てみると、いい感じ>とよく言われました。

この絵は、その描き方の最たるものだと思います。ただ、いつもは注文の多い出版社の社長さんも編集者の方も、珍しく1回で気に入って下さり、OKがでました。

おかげで、私たちはハラレ滞在中に、日本から送られてきたこの本を受けとることが出来ました。

私が参考にしたのはアンゴラでしたが、実際にジンバブエに行ってみて、驚きました。ハラレのいろいろな場所で、これと同じような光景を目にしたからです。

白人はいつも車で移動して、決して外を歩いたりはしません。私たちは中古の自転車を買いましたが、それさえも高価なものです。そのため、黒人は働きに行く時も、買い出しに向かう時も歩くしかありません。

野原には、自然とその人々の通る道が幾すじも出来て、交差していました。

一瞬のイメージで描いた絵でしたが、それは日常のよくある風景で、黙々と、ひたすら歩いて家にむかうしかない<現実>そのものでした。

『まして束ねし縄なれば』

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2 小島けいのジンバブエ日記11回目:「アフリカの旅―前と後―」(小島けい)

 今でこそ、アフリカの情報も多少は入ってくるようにはなりましたし、ましてやインターネットという便利な物も普及していますが。

私たちがジンバブエに行こうと決めた約三十年前は、アフリカでの生活が実際にどういうものかは、全くわかりませんでした。

そこで、日本から直接アフリカの生活に入るのではなく、一度どこかに滞在し少し体調を整えてから、ジンバブエに向かおうと思いました。

ジンバブエの地図

帰りも同じように、どこかでアフリカでの生活の疲れを少しとってから、日本への長旅に備えたいと考えました。

そうして、往きはロンドンで帰りはパリで、それぞれ一週間程すごすことに決めました。

どちらにも、相方が以前アメリカやカナダでの国際会議でお会いして、再会を約束した方たちがおられました。

ただ、旅を記録した3~4冊のノートは、最後の一冊以外は紛失しましたので、断片的な記憶にたよるしかありません。

<ロンドン編>

ロンドンでまず思い出すのは、ヒースロー空港です。

<やっと着いたあ・・・・>と四人はそれぞれ背中にはリュックを担ぎ、大きなトランクをゴロゴロ引っぱりながらタクシー乗り場に向かいました。するとすかさず二人の男の人がやってきて、サッサと荷物を二台の車に積み込みました。何かを考える間もなく、宿に向かって出発です。

ところが、これが空港名物(?!)の<白タク>だったとわかったのは、もはや宿についた後でした。

ロンドンの宿は、私の大学時代の友人が経営している日本人向けのインです。大学時代は、最初はケービング部(洞窟探検部)で、後では部をやめて二人で一緒にケイビングをやっていたお友だちですが。

その頃は、ロンドンで3~4件のインの経営者となっていて、中でも一番落ち着くからと住宅街にある<イン>を紹介してくれました。

<イン>

彼女の<イン>は、ビジネスマンや旅行者にとても人気でした。何故なら朝食に、しっかりした日本食の<定食>を出してくれるからです。

私たちの滞在中も、朝からハンバーグ定食やら天ぷら定食が出ましたが、慣れない外国生活では、とてもありがたいものでした。

朝ご飯をしっかり食べた後は子供たちのリクエストで、大英博物館でミイラを見たり、シャーロックホームズの家(?!)を訪ねたりしましたが。

もちろん一番の目的は、相方が研究している南アフリカの作家<アレックス・ラ・グーマ>の奥さんであるブランシさんに会うことでした。

ラ・グーマは、1966年にANC(アフリカ民族会議)の指示でロンドンに家族で亡命し、その後ソ連とキューバに外交官として招かれたりしましたが。1985年に亡命先のキューバのハバナで急死しました。60歳の若さでした。

ラ・グーマ(小島けい画)

私たちが訪れた頃、ブランシさんはロンドンで一人暮らしをしておられました。古いアパートのなかの一軒が彼女の住まいでしたが、1階は玄関、2階が居間兼台所、3階が寝室になっていました。つつましい生活のようでしたが、清潔感のある落ちついた雰囲気の家でした。それは、ブランンシさんの温かくもの静かな性格と重なりました。

彼女は私たちのために、ミートボールのような郷土料理を準備して待っていてくれました。心のこもったおいしい食事の後に、相方は、結婚式や、ソ連で(長男・次男も一緒に)撮った写真をいただいたり、本だけでは知りえない作家の実像や様々な体験談

をいろいろ聞かせていただき、大きな感銘を受けたようでした。

二人が話し込んでいる間、私と子供たちはアパートのまわりの庭を散策したりして、ロンドンという街をそれなりに楽しんで過ごしました。

<アフリカのお母さん>という感じのブランシさんとの時間は、四人にとってあったかい、そして心地よい数時間となりました。

その後世界の情勢は変わり、お会いした数年後にブランシさんは南アフリカへの帰国が実現しますが。相方との交流は、南アフリカにもどられてからもしばらく続いていたそうです。

ブランンシさん(小島けい画)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜16:「科学研究費 1」(玉田吉行)

 1988年度前期の授業が終わって一段落した頃、人事の世話をして下さった化学の人から科学研究費に応募したらどうですかと薦められました。高校の教員を辞めたあと非常勤も長く、科学研究費の存在も知らなかったので、よくわからないまま取り敢えず出してみるかと、殴り書きで書類を出しました。応募要領を読んでも具体的なイメージが湧きませんでしたが、その時一番力を入れていた南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマに関連させて「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」とタイトルをつけ、研究種目は一般研究(C)、研究分野は該当するものがなさそうなので「その他外国語・外国文学」、個人では500万が上限のようなので、3年か4年で500万、そんな感じだったと思います。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

その後書類を書いたことも忘れていましたが、翌1989年四月に単年で100万を交付するという通知が届きました。交付決定の基準はわかりませんが、直前の出版物が多かったからだと思います。1987年の年末にサンフランシスコで行なわれたMLA(Modern Language Association of America)とカナダで行なわれたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会(Alex La Guma /Bessie Head Memorial Conference)での発表や、反アパルトヘイト運動の一環として行なわれていたアパルトヘイト否(ノン)関連の講演会での発表などの原稿に手を入れて、雑誌「ゴンドワナ」(横浜:門土社)や「黒人研究」、「言語表現研究」などの研究誌にたくさん書いていたからです。業績欄には1987年と1988年十月までのラ・グーマ関連の14本分を記入しました。

元々小説を書くための空間を確保するために大学に来ましたので、研究は念頭にはなかったのですが、大学では教育の他に研究と社会貢献が求められるとあとになって知りました。出版社の社長さんの助言もあって小説は当座封印して、薦められるままに大学用のテキストやら翻訳も含めて、いろいろ書くことにしました。

理科系と文科系では科学研究費に対してかなりの温度差があったようで、一般教育の文系の同僚にも後期から非常勤を始めた旧宮崎大学でも、科学研究費の交付を受けた文系の人は見当たらないばかりか、そもそもほとんどの人が申請すらしてないようでした。大学が外部資金獲得をうるさく言うようになったのは、文部科学省によって運営交付金の恒常的な削減が強行され始めてからです。

交付が決まった年の秋に文部省の職員が来て、夕方4時からの懇親会に出席するように言われました。授業が入っていたので行きませんでしたが、同僚二人が情報を聞きつけて出席してもいいですかと聞いてきました。もちろん僕に権限があるわけでもないので、出席したようですが、二人とも翌年に科学研究費が交付されていました。英語科の同僚にその話をすると、学年末に予算が余ったから科研費どうですかと電話があったけど、断りましたよ、ということでした。急に申請する気が失せてしまいました。

その時の申請書類のコピーはファイルに綴じて保管し、定年退職の時も残していたのですが、部屋の引っ越しでどこかに紛れてしまったようで、申請の詳細は今となっては定かではありません。ただ、内定が決まっていた名古屋医療専門職大学の事務の方が文部科学省に提出する審査書類を作成するために課題番号を調べている際に最終報告書をウェブ上で見つけて下さり、初めて報告書が公開されて残っているのを知りました。→「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」その報告書です。

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研究課題「1950〜70年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」

研究課題/領域番号           01510294

研究種目/一般研究(c)

配分区分/補助金

研究分野/その他外国語・外国文学

研究機関/宮崎医科大学

研究代表者/玉田 吉行  宮崎医科大学、医学部、講師 (80207232)

研究期間(年度)1989

研究課題ステータス           完了 (1989年度)

配分額 *注記       1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

1989年度: 1,000千円 (直接経費: 1,000千円)

キーワード アレックス・ラ・グーマ / 南アフリカ文学 / 亡命作家 / アパルトヘイト下の文学 / ミリアム・トラーディ / カラード作家 / アフリカ人作家

研究概要

アレックス・ラ・グーマの『三根の縄』(1964)の作品論、アパルトヘイトの歴史と現状についての講演、南アフリカ作家ミリアム・トラーディさんの宮崎講演の実現、が主な成果である。

『三根の縄』は50年代のアパルトヘイト体制下で呻吟するケープタウン郊外の「カラード」と称される人々の状況を描いた物語だが、歴史を記録したい、世界に現状を伝えたいという作家ラ・グーマの願いが反映されている。雨のイメージを象徴的に使った文学手法に着目し、1988年カナダのブロック大学で開催されたアレックス・ラ・グーマ/ベシー・ヘッド記念大会で行なった口頭発表を軸に「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6『三根の縄』―南アフリカの人々」にまとめた。近々出版予定(校正済み)

講演は、愛媛県松山市の市民グループ「アサンテ・サーナ!」に招かれ、50年代、60年代の文化的・社会的状況を生み出した政治的、歴史的背景を中心に行なったもので、今までのまとめと今後の方向づけという意味と、研究成果を社会に問う意味でよかったと思う。「アパルトヘイトの歴史と現状」にまとめ、近々出版の予定。(校正済み)

突然の来日のため、個人的招待という形になったが、南アフリカ国内外で活躍中の作家ミリアムさんを迎え、本学で一般公開の講演会を持った。文化的行事の少ない宮崎では、マスコミも好意的に取り上げ、大きな反響があった。通訳も含め、講演会という形で研究成果を社会に還元出来たのは、出版物を世に問う以上の成果があったように思う。1960年代後半から作家活動を始めたミリアムさんとの交流は、研究テーマそのものでもあった。宮崎訪問、滞在についてのエッセイ、講演「南アフリカの文学と政治」と質疑応答の翻訳も含め「ミリアムさんを宮崎に迎えて」にまとめ、近々出版の予定。(現在、校正中)

「ミリアムさんを宮崎に迎えて」ミリアムさん

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ミリアムさん・トラーディ(小島けい画)

次に申請書類を出したのは、外部資金がうるさく言われ始めた2000年に入ってからです。たまたまその少し前に教授になり、大学の教員には教育、研究、社会貢献が求められると意識し始めた頃です。(宮崎大学教員)

2010年~の執筆物

アングロ・サクソン侵略の系譜11:「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」(玉田吉行)

1985年に伯谷さんからMLA (Modern Language Association of America)に誘われたとき、ライトの発表だと思っていましたが、帰ってから届いた手紙では、English Literature Other than British and Americanと言う小さなセッションでアフリカの作家で発表をということのようでした。ライトの小説を理解したいという思いでアフリカ系アメリカの歴史を辿り、奴隷が連れて来られたアフリカに目が向き始めていましたし、黒人研究の会の月例会での発表も半分はアフリカ関連でしたし、アフリカの作家の発表でもやれそう、さて、誰にするか、と割りとすんなりと切り替えが出来ました。

伯谷さんと奥さんの路子さんと長男の嘉樹くん

身近にアフリカのことをやっている人も多かったですし、大阪のこむらど委員会に手紙を出して反アパルトヘイト運動の集会にも参加したりしていたからもあったと思います。日本では専門にやっている人はいないようでしたので、アレックス・ラ・グーマをやってみようかと思いました。

ちょうどその頃、一冊の本『アレックス・ラ・グーマ』が届きました。1985年のライトのシンポジウムで知りあったミシシッピの本屋さんのリチャーズさんからでした。「もしラ・グーマの資料が入ったら送って下さい」とお願いしていたというわけです。

Alex La Guma

本格的な作品論・伝記を読んで、著者のセスル・A・エイブラハムズさんに会いたくなりました。ラ・グーマが亡命先のハバナで急死していなければ、たぶんキューバに会いに行ったと思いますが、その時点でラ・グーマのことを一番よく理解している人だと感じましたから。

さっそく住所を調べて「お訪ねしたいのですが」と手紙を出すと、「北アメリカに着いたら電話して下さい」という返事が返ってきました。

手紙の通り北アメリカに行って電話しましたが、残念ながら繋がりませんでした。オハイオ州の伯谷さんのところに泊めてもらったり、ニューヨークに出かけたりしながら、電話をかけ続けました。何とかお会い出来たのは一週間ほどしてからです。

 エイブラハムズさん、レイチェルと。奥はローズマリーさん

南アフリカのアフリカ人にとって日本は当時アメリカと並んで白人政権への投資高を競う貿易パートナーで、シャープヴィルの虐殺以来の最悪の裏切り国のはずです。にもかかわらず、そんな国からやってきた突然の訪問者を受け入れて、丸々三日間、温かくもてなして下さいました。長時間のインタビューにも応じて下さり、ラ・グーマの作品の草稿のコピーなども分けて下さいました。七月に移ったばかりのオンタリオ州のブロック大学で、「私の国が解放されたとき、この学校管理の仕事を役立てたいんです」と言いながら、学生一万人、教授陣300人を擁する人間学部の学部長として忙しい日々を送っておられました。

エイブラハムズさんは、1940年にヨハネスブルク近郊のブルドドープに生まれています。父親がインド出身で、母親がユダヤ人の父とズールー人の母を持つ家庭に生まれ、政府に「カラード」と分類分けされました。貧しい家庭でしたが、教育熱心な母親のお陰で、高校を出てヴィットヴァータースラント大学に進んでいます。99%が白人のその大学ではアフリカ人は授業に出ることと図書館を利用することしか許されませんでしたので、一年で退学し、その後現在のレソトの大学で学士号を取って再び南アフリカに戻り、7ヶ月間無免許で高校の教壇に立ちました。

インタビューのなかで少年時代のことを次のように語ってくれました。

「私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。サッカーの競技場のことで反対したんです。アフリカ人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです。」

エイブラハムズさん

ANC(アフリカ民族会議)の会員になったのは16歳の時です。61年5月、共和国宣言に抗議して行なわれた在宅ストを指導して裁判なしに4ヶ月間拘禁された後、63年に、ANCの車で国境を越え、スワジランド、タンザニアを経てカナダに亡命しています。エイブラハムズさんが亡命したため、母親が逮捕され、兄が教職を奪われたことをのちに口づてに聞かされたということです。

ラ・グーマより15歳年下のエイブラハムズさんも、12歳で拘禁され、ラ・グーマより3年も前に亡命を余儀なくされていたのです。

カナダでは市民権を得て、修士号、博士号を取ったあと、大学の教壇に立ちました。カナダにはアフリカ文学のわかる人がいなかったため、英国詩人ウイリアム・ブレイクで博士論文を書いたそうです。

そんなエイブラハムズさんがラ・グーマと出会ったのは、客員教授としてタンザニアのダル・エス・サラーム大学に招かれた76年のことです。当時、ラ・グーマは客員作家として同大学に滞在していました。2年後、エイブラハムズさんはロンドンでラ・グーマに再会し、ラ・グーマに関する本を書くことを決意したと言います。80年あたりから本格的にその作業に取りかかり、82年には、ラ・グーマの出版や原稿の管理を家族から頼まれ、更に伝記家としての仕事も引き受けました。私が読んだ『アレックス・ラ・グーマ』は、こうして生まれたのです。

「わが子を見つめる父親のように」「いつも山の向う側をみつめていた」ラ・グーマを偲びながら、エイブラハムズさんが語ります。

「アレックスは、カラード社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました。その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。

ラ・グーマはまた、自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て『仕方がないな、この子供たちは・・・・・・』と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・・・・・。」

ラ・グーマ

1985年に念願のファーブルさんにお会いして英語を話せるようになろうと決めてやり始めていましたが、まだ十分とまではいかずにいましたので、マイクロカセットテープをたくさん持って行って録音させてもらいました。帰ってから当時親交のあったイギリス人のジョンに手伝ってもらって内容を繰り返して確かめ、記事にまとめました。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁)

“TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams ” (August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada)

MLAの会員でもあったエイブラハムズさんはその年の12月のサンフランシスコの発表には「聞くのも気の毒だから、遠慮しとく」と言って来てはくれませんでしたが、奥さんのローズマリーさんといっしょにホテルまで会いに来てくれました。

サンフランシスコで家族と

翌年ブロック大学で開かれたラ・グーマとベシー・ヘッドの記念大会に誘われ、主に北米で亡命中の50人ほどの前でラ・グーマの初期の作品について発表し、日本での南アフリカ事情についてもお話しました。亡命先のロンドンから駆けつけたブランシ夫人とも初めてお会い出来ました。MLAで発表した原稿と、その時発表した原稿を元に作品論も書き、黒人研究の会でも紹介しました。

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」(「中研所報」20巻3号359-375頁)

「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」</a>(「黒人研究」58号36頁)

会議でのブランシさん

エイブラハムズさんはアフリカ人政権誕生後、マンデラの公開テレビインタビューを受けて西ケープタウン大学の学長になって長年の「管理職になって役に立ちたい」という願いを叶えました。学長を二期務めた後、米国セントルイスのミズーリ大学セントルイス校に招聘教授として招かれました。その頃に一度メールの遣り取りをしたきりです。

あの頃中学生だったレイチェル、変に気が合っていっしょに餃子を作るのを手伝ってくれたりしましたが、今頃どうしているでしょうか。(宮崎大学教員)

レイチェル