生きゆけるかしら
概要
新設高校の教員1年目に「竣工記念誌」に書いたものです。
26歳で、普通科の県立高校の教員 になりました。
大学浪人1年、留年2年、大学院浪人1年、そんなつもりはなかったのですが、結果的にはそう いうことになってしまいました。
新設3年目の高校は、2年間の仮舎住まいを終えて、新校舎に移転しました。 その記念誌に寄せたもので、残っている数少な高校教員の頃の文章です。
新任研修の翌日4月2日、 職員室に足を踏み入れたとん、一日も早く辞めて「空間」を確保出来る場所探さなければと思いました。しかし、結局は7年間を高校の教員として過ごし ました。
1年目は、担任なしの教務担当、2年目から4年間は学級担任、6年目、7年目は在籍したまま 、教員再養成のめに新設され大学院修士課程に通いました。(大学にはあまり行きませんでしたが。)
正規の教員になる前の写真は全部燃やしてありませんが、載せた写真は、竣工直前、非常勤講師(産休の代わりで、週に15コマの授業。新任の際の職員紹介の時は、校長の鉄ちゃんが旧職員です、と紹介してました。)として女子バスケット部の人たちといっしょに淡路島の県大会に行った時に撮ったものです。学校としては初めての県大会参加で、職員室ではようやった、ようやったと言ってる人が多かったです。4部で全勝、上の3部、2部でも全勝、1部6位の三木高校に勝って県大会に。1回戦で負けましたが、一泊出来ました。
1月に非常勤で行ったとき、リーグ戦の最下部4部で勝ち残っていた時期で、顧問の人がいるのに、顧問みたいな顔をしていっしょに練習をしてました。4月からはそのまま顧問に。
本文
河川敷(かわはら)を歩みて一歳(ひととせ)過ぐしけり 春に蒲公英(たんぽぽ)まう枯れ薄(すすき)
こんな風な和歌(うた)を詠(よ)みながら、気負ってみせて、毎日河原を歩きまわっていた生活と、毎日学校に来る生活と一体何の違いが、ぼくには、あるだろう。結局、青春の無軌道でしかないんだろうか。挫折。希望。挫折。夢。シェイクスピアも続みたい。フロイトも。朔太郎も。ナイアガラにも行ってみたい。太宰さんを越えたい。ライトの作品も続みたい。体が、こちこちに張っても、強心剤を打ってでも。だけど生きる命題が見つからない。法華経を読んだ。長いこと。
「玉田、お前は読み方がたらんぞ。」
だれかしら、思いくそ、しかりとばした。読んでわかるのかしらん。かといって死ぬ命題も見つからない。
「川端さんが死んだ理由が、何となくわかります。」
「無茶いわんで下さいよ、玉田くん、二十代の君にわかったら困りますよ」
ぼくの好きな恩師と呼び得る人がつぶやかれた。36の坂まであと10年。生きゆけるかしら。旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる。十代に涙した。暗闇の寝間の中でふとんをかぶりながら。涙がどうしてもとまらなかった。秘すれば花、秘せずば花なるべからずとなり。ああ、わかった風のことを。
執筆年
1976年
収録・公開
「兵庫県立東播磨高等学校舎竣工記念誌」 21-22ペイジ