書いたもの

2022/2/6現在

分類別は→「書いたもの一覧:年代順、連載一覧、テーマ別」

2022年

「アングロ・サクソン侵略の系譜35:アフリカとエイズ 」続モンド通信38、2022年1月20日)【アフリカ/医療】【公開】

2021年

「アングロ・サクソン侵略の系譜34:ケニアの歴史(4)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」続モンド通信37、2021年12月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」続モンド通信36、2021年11月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜32:ケニアの歴史(2 )ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来」続モンド通信35、2021年10月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史1植民地化以前』」続モンド通信34、2021年9月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜30:在外研究」続モンド通信33、2021年8月20日)【ジンバブエ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜29:編註書And a Threefold Cord 」続モンド通信32、2021年7月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜28: :日本語訳『まして束ねし縄なれば』」続モンド通信31、2021年6月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜27: A Walk in the Night」続モンド通信30、2021年5月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)【アフリカ/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜24: 2021年Zoomシンポジウム」続モンド通信27、2021年2月20日)【アフリカ/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜23:ケニアの歴史(1)植民地化以前」 続モンド通信26、2021年1月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

2020年

「アングロ・サクソン侵略の系譜22:アフリカ史再考④大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人 」続モンド通信25、2020年12月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜21: アフリカ史再考③:ナイルの谷」続モンド通信24、2020年11月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜20:アフリカ史再考:②『アフリカシリーズ』」続モンド通信23、2020年10月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜19:アフリカ史再考:①アフリカ史再考のすすめ 」続モンド通信22、2020年9月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜18:アフリカ系アメリカの歴史 」続モンド通信21、2020年8月20日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜17: アフリカの歴史」続モンド通信20、2020年7月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜16: 科学研究費 1」続モンド通信19、2020年6月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜15: ゴンドワナ (12~19号)」続モンド通信18、2020年5月20日)【アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜14::宮崎医科大学 」続モンド通信17、2020年4月20日)【随想】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜 13:ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日) 【アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜12:MLA(Modern Language Association of America)」続モンド通信15、2020年2月20日) 【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜11:アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」「続モンド通信14」、2020年1月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

2019年

「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」「続モンド通信13」、2019年12月20日)【随想】【公開】

「『まして束ねし縄なれば』の文学技法―雨の象徴性と擬声語の効用を軸に―」「続モンド通信12」、2019年11月20日)【ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜9:『言語表現研究』」「続モンド通信11」、2019年10月20日)【ライト/ラ・グーマ/グギ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1」「続モンド通信10」、2019年9月20日)【アフリカ】【公開】【★出版】

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)【アフリカ系アメリカ/アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」「続モンド通信9」、2019年8月20日)【随想】【公開】

「ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3」「続モンド通信8」、2019年7月20日)【翻訳/ライト/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑤オハイオ州デイトン」「続モンド通信7」、2019年6月20日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」「続モンド通信6」、2019年5月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」「続モンド通信5」、2019年4月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」「続モンド通信4」、2019年3月13日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」「続モンド通信3」、2019年2月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開」「続モンド通信2」、2019年1月20日)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

2018年

「『続モンド通信』について」「続モンド通信」2018年12月29日)【案内】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要」「続モンド通信1」2018年12月29日)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

2018年12月より「続モンド通信」を開始。↑

編集者の不調により「モンド通信」休刊↓

2016年

「ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3」(「モンド通信」未掲載)→「続モンド通信8」、2019年7月20日)に収載。【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑦イリノイ州シカゴ2」「モンド通信 No. 97」、2016年9月11日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑥イリノイ州シカゴ」「モンド通信 No. 96」、2016年8月3日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑤オハイオ州デイトン」(「モンド通信」未掲載)→2020年「続モンド通信」に収載。【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」「モンド通信 No. 94」、2016年6月19日)【翻訳/南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」「モンド通信 No. 93」、2016年4月26日)【翻訳/南アフリカ】【公開】

「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」「モンド通信 No. 92」、2016年4月3日)【翻訳/南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」「モンド通信 No. 91」、2016年3月22日)【翻訳/随想】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」★番号を訂正「モンド通信 No. 90」、2016年2月9日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

2015年

「アフリカとその末裔たち2(3)③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在」★番号を訂正「モンド通信 No. 89」、2015年12月23日)【ジンバブエ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(3)②今日的諸問題:ザイールの苦難」★番号を訂正「モンド通信 No. 88」、2015年11月28日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(3)①今日的諸問題:エイズ流行病(AIDS epidemic)」★番号を訂正「モンド通信 No. 87」、2015年11月20日)【医療】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(2)②The Honourable MP」★番号を訂正「モンド通信 No. 86」、2015年10月19日)【ジンバブエ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(2)①And a Threefold Cord」★番号を訂正「モンド通信 No. 85」、2015年8月22日)【ラ・グーマ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑩自信と譲歩」★番号を訂正「モンド通信 No. 84」、2015年7月29日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑨開発援助と発達なき成長」★番号を訂正「モンド通信 No. 83」、2015年6月23日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑧経済的依存」★番号を訂正「モンド通信 No. 82」、 2015年5月30日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑦新しい階級の創造」★番号を訂正「モンド通信 No. 81」、2015年4月30日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑥コンゴ危機」★番号を訂正「モンド通信 No. 80」、2015年3月26日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑤コンゴ自由国」★番号・題を訂正「モンド通信 No. 79」、2015年2月22日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度④ガーナ」★題を追加(「モンド通信 No. 77」、2015年1月15日)【アフリカ】【公開】

2014年

「EMP9年、結果として、active learning」(「ESPの研究と実践」第11号57-67頁。)【EMP】【★出版】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1」(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に未掲載、新規→2019年10月20日「続モンド通信」11に収載)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度②執筆の経緯」★番号・題を訂正(「モンド通信 No. 72」、2014年11月1日)連載開始。【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2一覧」(2014年11月~2016年2月に「モンド通信」に連載。掲載分の番号、題などを修正)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度①概略」(「モンド通信」No. 71、2014年10月1日に未掲載)→2019年9月20日「続モンド通信」10に収載)【アフリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」「モンド通信 No. 71」、2014年7月10日)連載終了。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」「モンド通信 No. 70」、2014年6月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」「モンド通信 No. 69」、2014年5月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」「モンド通信 No. 68」、2014年4月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史一覧」(2014年3月~7月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」、2014年3月10日)連載開始。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「南アフリカ小史一覧」(2014年1月~2月に「モンド通信 」に連載)【南アフリカ】【公開】

「南アフリカ後半」「モンド通信 No. 66」(2014年2月10日)連載終了。【南アフリカ】【公開】

「南アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 65」(2014年1月10日)連載開始。【南アフリカ】【公開】

2013年

「アフリカとその末裔たち1一覧」(2013年12月~2014年7月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ/南アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ小史一覧」(2013年11月~12月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ】【公開】

「アフリカ小史後半」「モンド通信 No. 64」(2013年12月10日)連載終了。【アフリカ】【公開】

「アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 63」(2013年11月10日)連載開始。【アフリカ】【公開】

「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」「モンド通信」No. 59」、2013年7月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記24ふたつの壷」「モンド通信」No. 58」、2013年6月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記23チサライ」「モンド通信」No. 57」、2013年5月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記22ジャカランダの季節に」「モンド通信」No. 56」、2013年4月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在21ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」No. 55」、2013年日3月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑳演劇クラス」「モンド通信」No. 54」、2013年2月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑲ロケイション」「モンド通信」No. 53」、2013年1月10日)【ジンバブエ】【公開】

2012年

「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」「モンド通信」No. 52」、2012年12月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」「モンド通信」No. 51」、2012年11月11日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑯75セントの出会い」「モンド通信」No. 50」、2012年10月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」「モンド通信」No. 49」、2012年9月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑭ルカリロ小学校」「モンド通信」No. 48」、2012年8月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」「モンド通信」No. 47」、2012年7月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解27:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告6」「モンド通信 No. 47」、2012年7月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解26:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告5」「モンド通信 No. 46」、2012年6月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」「モンド通信」No. 45」、2012年5月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解25:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告4」「モンド通信 No. 45」、2012年5月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」「モンド通信」No. 44」、2012年4月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解24:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告3」「モンド通信 No. 44」、2012年4月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑨ゲイリーの家族」「モンド通信」No. 43」、2012年3月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解23:「シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告2」「モンド通信 No. 43」、2012年3月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑧グレートジンバブエ」「モンド通信」No. 42」、2012年2月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解22:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告1」「モンド通信 No. 42」、2012年2月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑦ホテル」「モンド通信」No. 41」、2012年1月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解21:『ニューアフリカン』:エイズの起源4 米国産の人工生物兵器としてのウィルス」「モンド通信 No. 41」、2012年1月10日)【アフリカ/医療】【公開】

2011年

「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」(「ESPの研究と実践」第10号25-34ペイジ)【アフリカ/医療】【★出版】

「ジンバブエ滞在記⑥買物」「モンド通信」No. 40」、2011年12月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解20:『ニューアフリカン』:エイズの起源3 アフリカの霊長類がウィルスの起源」「モンド通信 No. 40」、2011年12月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑤バケツ一杯の湯」「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解19:『ニューアフリカン』:エイズの起源2 アフリカ人の性のあり方」「モンド通信 No. 39」、2011年11月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記④ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解18:『ニューアフリカン』:エイズの起源1 アフリカ人にとっての起源の問題」「モンド通信 No. 38」、2011年10月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記③突然の訪問者・小学校・自転車」「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記②ハラレ第1日目」「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記一覧」(2011年7月~ 2013年7月に「モンド通信」に連載)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記①アメリカ1981~1988」「モンド通信」No. 35」、2011年7月10日)連載開始。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(30) 最終章」「モンド通信 No. 35」、2011年6月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解17:雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 34」、2011年6月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(29) 第30章 タラで過ごした一週間」「モンド通信 No. 34」、2011年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解16:メディアと雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 33」、2011年5月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(28) 第29章 カナーン証明書」「モンド通信 No. 33」、2011年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解15:エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代4 アパルトヘイト政権の崩壊とその後」「モンド通信 No. 32」、2011年4月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(27)第28章 カナーンホスピス」「モンド通信 No. 32」、2011年3月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解14:エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代3 アパルトヘイト政権との戦い」「モンド通信 No. 31」、2011年3月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(26)第27章 男の赤ん坊」「モンド通信 No. 31」、2011年2月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(25)第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気」「モンド通信 No. 30」、2011年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

2010年

「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ)【南アフリカ/医療】【★出版】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(24)第24章 1982年」「モンド通信 No. 29」、2010年12月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(23)第23章 一匹狼の医者」「モンド通信 No. 28」、2010年11月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(22) 第22章 仮論文」「モンド通信 No. 27」、2010年10月10日)【ケ翻訳/ニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(21) 第21章 一九七九年モンバサ」「モンド通信 No. 26」、2010年9月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(20) 第20章 四十年間の投獄」「モンド通信 No. 25」、2010年8月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(19) 第19章 花婿の値段」「モンド通信 No. 24」、2010年7月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(18) 第18章 ナイセリア菌」「モンド通信 No. 23」、2010年6月1日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(17) 第17章 医師用宿舎B10」「モンド通信 No. 22」、2010年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(16) 第16章 豚野郎フィル」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解13:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ2 育った時代と社会状況2 アパルトヘイト」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(15) 第15章 ユーニス」「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解:12 エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1」 「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(14) 第14章 ドクターGGの娘(後半)」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(13)第14章 ドクターGGの娘(前半)」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

2009年

“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"(「ESPの研究と実践」第10号12-20頁。)【アフリカ/医療】【★出版】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(12)第13章 行方不明者」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(11)第12章 初めてのX線機器 」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(10)第11章 リバーロード診療所」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(9)第10章 ンデル警察署」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解6:アフリカでのエイズの広がり」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(8)第9章 マインバ家」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解5:アフリカを起源に広がったエイズ」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(7)第8章 ハリマ」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解4:1981年―エイズ患者が出始めた頃2 不安の矛先が向けられた先」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(6)第7章 イアン・ブラウン」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解3:1981年―エイズ患者が出始めた頃1」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(5)第6章 メアリ・ンデュク」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(4)第5章 ベネディクト神父」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(2009年4月~2012年7月まで「モンド通信 」に連載。)【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解1:『ナイスピープル』とケニア」」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)連載開始。【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」「モンド通信 No. 8」、2009年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(2) 第2章・第3章」「モンド通信 No. 6」、2009年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

2008年

『アフリカ文化 [Ⅱ]ーアフリカとエイズと哀しき人間の性(さが)(上)』 (門土社で出版予定で送った原稿です。)【アフリカ/医療】【未出版】

「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(2008年12月~2011年6月まで「モンド通信 」に連載。)【翻訳/ケニア/医療】【公開】
「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(1) 著者の覚え書き・序章・第1章」「モンド通信 No. 5」、2008年12月10日)連載開始。【翻訳/ケニア/医療】

2007年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター4号」【日本語支援】【刊行】

『アフリカ文化論(一)ー南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)総64ページ。【アフリカ/医療】【★出版】

2006年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター3号」【日本語支援】【刊行】

「エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師」(門土社「mon-monde 」6号に収載予定で送った原稿です。)【南アフリカ/医療】【未出版】

「コンゴの悲劇 独立―新植民地支配の始まり」(門土社「mon-monde 」5号に収載予定で送った原稿です。)【アフリカ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 四 ゲイリーの家族」(門土社「mon-monde 」4号に収載予定で送った原稿です。)【ジンバブエ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 三 グレート・ジンバブエ」(門土社「mon-monde 」3号に収載予定で送った原稿です。)【ジンバブエ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 二 買い物と自転車」(門土社「mon-monde 」2号に収載予定で送った原稿)【ジンバブエ】【未出版】

「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号61-69頁。【アフリカ/医療】【★出版】

2005年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター2号」【日本語支援】【刊行】

「ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 1 初めてのアフリカ」「mon-monde」創刊号14-24頁。【ジンバブエ】【★出版】

「アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』」「mon-monde」創刊 25-31頁。【ケニア/医療】【★出版】

「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁。【南アフリカ/医療】【★出版】

「『日本語支援教育専修』と私」「日本語支援教育研究報告書」宮崎大学大学院教育文化学部修士課程学校教育専攻日本語支援教育専修【日本語支援】【刊行】

2004年

「宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報英語版」【日本語支援】【刊行】

「宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報日本語版」【日本語支援】【刊行】

「宮崎医科大学留学生ニューズレター1号」」【日本語支援】【刊行】

「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」「ESPの研究と実践」第3号5-17頁。【ケニア/医療】【★出版】

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム草稿)【アフリカ/医療】【刊行】

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム報告)【アフリカ/医療】【刊行】

「 シンポジウム『アフリカと医療』~世界で一番いのちの短い国~」宮崎大学医学部国際医療保健研究会編【アフリカ/医療】【刊行】

「コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』」(「ごんどわな」25号に収載予定で送った原稿です。)【アフリカ】【未出版】

「エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間性(さが)」(平成15年度版宮崎大学広報誌)「2003 Research研究活動紹介 宮崎大学」56頁。【アフリカ/医療】【刊行】

2003年

“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”「言語表現研究」19号12-21頁。【ケニア】【★出版】

2002年

「速達便」宮崎大学医学部すずかけ祭第27回パンフレット43頁。【随想】【刊行】

2001年

「新任教官紹介『宮崎も14年目にな【★出版】

「新任教官等紹介」宮崎医科大学「学園だより」第82号24頁。【案内】【刊行】

「ショナ人とことば」「ごんどわな」24号62-65頁。【ジンバブエ】【★出版】

「コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』」」「ごんどわな」24号2-5頁。【アフリカ】【★出版】

2000年

「ジンバブエ大学② ツォゾさん」「ごんどわな」23号(復刊2号)74-77頁。【ジンバブエ】【★出版】

「ジンバブエ大学① アレックス」「ごんどわな」22号(復刊1号)99-104頁。【ジンバブエ】【★出版】

「アフリカとエイズ」「ごんどわな」22号(復刊1号)2-14頁。【アフリカ/医療】【★出版】

1998年

Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage(英文書、Mondo Books)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

1997年

「高千穂小旅行」【随想】【未出版】

1996年

「なぜ英語が出来なかったか」すずかけ祭第20回宮崎医科大学パンフレット?頁。【随想】【刊行】

“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”「言語表現研究」12号73~79頁。【ラ・グーマ】【★出版】

1995年

“Africa and I”【随想】【未出版】

“I Like Michel ”【随想】【未出版】

Africa and Its Descendants(英文書、Mondo Books)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

1994年

「ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて」「ゴンドワナ」21号6-19頁。【南アフリカ】【★出版】

1993年

「ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて」「ゴンドワナ」20号14-20頁。【南アフリカ】【★出版】

「海外研修記「『アフリカは遠かった』」宮崎医科大学「学園だより」第号10-11頁。【ジンバブエ/随想】【刊行】

「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」宮崎医科大学「学報」第50号18-19頁。【ジンバブエ/随想】【刊行】

1992年

「アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』」(翻訳書、門土社)【翻訳/ラ・グーマ】【★出版】

1991年

「マグディ・カアリル・ソリマン『エジプト 古代歴史ゆかりの地』」「ゴンドワナ」18号2-6頁。【翻訳/アフリカ】【★出版】

「自己意識と侵略の歴史」「ゴンドワナ」19号10-22頁。【アフリカ】【★出版】

And a Threefold Cord by Alex La Gum(註釈書、Mondo Books)【ラ・グーマ】【★出版】

「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」「ゴンドワナ」18号7-12頁。【南アフリカ】【★出版】

1990年

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」17号6-19頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」「ゴンドワナ」15号9-29頁。【南アフリカ】【★出版】

「ミリアムさんを宮崎に迎えて」「ゴンドワナ」15号2-8頁。【南アフリカ】【★出版】

1989年

「A Walk in the Night by Alex La Guma」(註釈書、Mondo Books)【ラ・グーマ】【★出版】

1988年

「アパルトヘイトの歴史と現状」「ゴンドワナ」14号10-33頁。【南アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」「ゴンドワナ」13号14-25頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)「ゴンドワナ」12号6-19頁。【南アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」「黒人研究」58号36頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト」「黒人研究」第58号103-15頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」「ゴンドワナ」11号39-47頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「グギの革命的後段(メタ)言語学1 『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の中の諺」「ゴンドワナ」11号34-38頁。【ケニア】【★出版】

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」「ゴンドワナ」11号22-28頁。【南アフリカ】【★出版】

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」「中研所報」20巻3号359-375頁。【ラ・グーマ】【★出版】

1987年

「あぢさい、かげに浜木綿咲いた」「英米文学手帖」24号123-124頁。【随想】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」「ゴンドワナ」10号24-29頁。【ラ・グーマ】【★出版】

“TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams ”(August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada)【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」「ゴンドワナ」10号10-23頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」「ゴンドワナ」9号28-34頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」「ゴンドワナ」8号22-26頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アフリカ・アメリカ・日本」「ゴンドワナ」7号24-25頁。【アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」「ゴンドワナ」7号19-24頁 。【ラ・グーマ】【★出版】

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社、1987年)147-170頁。【ライト/アフリカ】【★出版】

1986年

「黒人研究の会会報編集後記あとがき」「黒人研究の会報」第24号(1986年)12頁 。【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」「黒人研究の会会報」24号9頁。【ライト/アフリカ】【★出版】

「ミシシッピ、ナチェズから」「英米文学手帖」24号72-73頁。【ライト】【★出版】

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」「ゴンドワナ」3号8-9頁。【随想】【★出版】

“Richard Wright and Black PowerMemoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48.【ライト/アフリカ】【★出版】

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」第56号50-54頁。【ライト】【★出版】

“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native SonChuken Shoho, Vol. 19, No. 3: 293-306.【ライト】【★出版】

Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」「言語表現研究」第4号29-45頁。【ライト】【★出版】

1985年

「黒人研究の会会報編集後記」「黒人研究の会報」第22号10頁。【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

「リチャード・ライトとクワメ・エンクルマ-ブラック・パワーを中心に(口頭発表報告)」「黒人研究の会会報」22号6頁。【ライト/アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

“Richard Wright Symposium”上記の英語訳。【ライト/翻訳】【★出版】

「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」「黒人研究の会会報」第22号4頁。【ライト】【★出版】

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」第55号26-32頁【ライト/アフリカ】【★出版】

1984年

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」第54号、33-38頁。【ライト】【★出版】

“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1984, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.【ライト】【★出版】

「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」「言語表現研究」第2号1-14頁。【ライト】【★出版】

1983年

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」第53号1-4頁。【ライト】【★出版】

1982年

“Richard Wright and His World”兵庫教育大学修士論文(兵庫教育大学付属図書館所蔵)【ライト】【★出版】

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」第52号1-4頁。【ライト】【★出版】

1981年

「貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風」兵庫県立東播磨高等学校第7期生文集「どんぐりの実」4頁。【随想】【刊行】

1978年

「露とくとく」 兵庫県立東播磨高校文芸部「黄昏」6号32-34頁。【随想】【刊行】

1976年

「生きゆけるかしら」 兵庫県立東播磨高校文芸部「黄昏」6号 32-34頁。【随想】【刊行】

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信26(2021/1/20)

私の絵画館:「のあちゃんとスイートピー」(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑤:「心臓は・・・?」(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜23:「 ケニアの歴史(1)植民地化以前」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「のあちゃんとスイートピー」(小島けい)

のあちゃん

美しい白浜海岸の、すぐ前のお家で暮らしている<のあちゃん>です。しばらく前に見送ったラブラドール・レトリーバーの<ダンク>の後を引きうけ、日々ご家族に明るさを届けています。

ダンク

絵の<モデルさん>として、この犬種<トイ・プードル>と初めて出会ったのは、大分県飯田高原の<九州芸術の杜>で、個展をしている時でした。→ 「2012年個展報告」

ある日館長さんが<先日来ていた方が、またいらっしゃいましたよ>と一人の女性を紹介してくれました。彼女は<個展を見て帰った後、青い絵がどうしても忘れられず、また来ました>と言われました。

その年、個展会場<ギャラリー夢>の入口近くに2枚の馬の絵を飾りました。左側に<山桃の樹の下で>を、右側に<秋立ちぬ>という絵を置きました。

山桃の樹の下で

秋立ちぬ

彼女の<青い絵>というのは、左側の絵でしたが。改めて2枚を前にして、ずいぶん長い間迷われた後、やはり左側の<青い絵>を選ばれました。

そしてさらに、大人しく抱かれているピースちゃんの絵もご注文下さいました。ピンクが大好きということで、ピンクの服を着たまっ白な毛のピースちゃんとピンクのバラで、この絵ができました。

ピースちゃんとバラ

次に描かせていただいたのは、アビシニアンという種類の猫リリちゃんと一緒に住んでいる愛らしいグレーの毛の男の子ペペちゃんです。見るからに高貴な猫ととっても愛らしい犬ちゃんの対比がかわいくて、白い梅と一緒に描きました。

リリちゃんとぺぺちゃんと梅

3枚目はチャイニーズ・クレステッドという珍しい犬種の<レオンくん>と一緒に住んでいる<バーディくん>です。飼い主さんは、フェルト・アートの先生です。

レオンくん

見るからにかわいいバーディくんは、やはり可憐な忘れな草の花と一緒に描きました。

バーディくん

4枚目は、モクくんとスノーマンです。小さい頃から大好きな毛布と一緒に、とのご希望で、この絵になりました。

モクくんとスノーマン

モクくんも、お写真を送っていただき絵を描きましたが。翌年の個展で実際に会うことができ、ビックリ。これまで会ってきたトイ・プードルとは大きさが違いました!よく見かける犬ちゃん達の4倍くらいもあったのです。椅子に座っておられるお母さんの膝の上で、今にもはみ出しそうで、笑ってしましました。

大きくても、愛らしさは全く同じでしたので、まさかそのような大きな子とは、想像もしませんでした。

そして、5枚目となるのあちゃんです。モクくんの時もそうでしたが。そのままで愛らしいだから、他の要素は、ほぼ何も加えなくてよいのではないか、と最近では思うようになりました。そのためスイートピーの花を一緒に描きましたが、できるだけのあちゃんのかわいらしさの邪魔をしないようにと、気をつけて描きました。

一緒に暮らしていると、犬も猫も、きっとその他の種類の子たちもみんな、そのままで十二分に可愛いのだと、つくづく思います。

のあちゃん:カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」1月

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑤:「心臓は・・・?」(小島けい)

 

一本の道がある

生まれる前に 歩いた道である

 

昔、ぽつりぽつりと書いていた詩の一節を、ふと思い出しました。

それはきっと<心臓>という臓器の話を聞いたからだと思います。人間の身体を毎回一つずつ取り上げる織田裕二さん司会の番組で、前回は心臓でした。

脳と心臓はこれまで、脳が指示を出して心臓はそれに基づき動くもの、と考えられてきました。

ところが、一方的ではなく互いに影響しあう存在ではないか、というのです。

もう何年も前ですが、韓国ドラマで。心臓移植を受けた人が、提供してくれた人が生きていた頃想っていた人物と出逢い、惹かれていく、という物語がありました。

それを見た時は、本当にそういうことが起きるのかしらん?と思いましたが。

研究論文の中にはアメリカで実際にあった話として。ある男に殺された人の心臓をもらった少女が、移植後殺される恐い夢を何度も見るようになり、その夢に現われる男の似顔絵を書いたところ、その絵がもとで真犯人がつかまった、という例が紹介されていました。

そこまでではなくても、若い男性の心臓をもらった中年女性が、それまではほとんど食べなかった油っこいフライドポテトなどを好んで食べるようになり、調べてみると、それは心臓を提供した若者の好みだった、という場合もあるそうで。

最近では、脳から心臓への一方通行ではなく、心臓から脳へも何らかのメッセージが送られているらしい、とわかってきているとか。

私自身子供の頃、数回だけですが。ある場面に出くわした時<私は前に、この場面に出会ったことがある・・・・>と感じたことがありました。

大人になってからは、きっと夢と現実がごちゃまぜになってしまったからだろうと深く考えたりしませんでしたが。

<心臓>という不可思議な存在が体のなかにあるのだから、理屈にあわない何かを感じたとしても、それはそれでいいのではないか。

今私は、そんなふうに思っています。

ちなみに、これまでに描いた三百枚以上の絵の中で、一枚だけ、夢のなかでできた、絵があります。

それが「月に眠る」です。

ある夕方、いつも通る自転車道の横にある小さな公園で、見事に色づいたイチョウを見ました。

その夜、夢のなかで見た絵がこれでした。イチョウの木々のもと、深々と眠るラブラドール・レトリーバーの三太。天には細い三日月がありました。

「月に眠る」

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜23:

「ケニアの歴史(1)植民地化以前」

2021年Zoomシンポジウム(11月27日土曜日)/「アングロ・サクソン侵略の系譜―アフリカとエイズ」1/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」1:

今回のシンポジウムでは、アングロ・サクソン侵略の系譜の中で、ケニアの小説から見たアフリカのエイズについて話をした。科学研究費のテーマで、医学と文学の狭間からみるアングロ・サクソン侵略の系譜の一つである。話をした内容の詳細を書いてみたい。

エイズの話の前に先に歴史をみておく必要があるが、ケニアの歴史には詳しくないので、「駐日ケニア共和国大使館」(東京都目黒区)案内のケニア小史を借用して、ざっと歴史を辿ってみようと思う。

駐日ケニア共和国大使館

ケニア小史

紀元前2000年頃に北アフリカから来た人たちが東アフリカの今のケニアの一部に定住、のちにアラブ人とペルシャ人が来て植民地化、次いで1498年にポルトガル人が来てモンバサを拠点に貿易を支配、そのあとイギリス人が来て、1895年に東アフリカ保護領に、1920年に植民地に。長年ホワイトハイランド(現在の首都ナイロビ)に住んでいた多数派のギクユ人は、南アフリカケープ州のイギリス人入植者に奪われた植民地を取り戻すためにジョモ・ケニヤッタたちの主導で抵抗運動を開始、1963年に独立を果たし、1969年に「事実上の」単一政党国家に。その後、モイ、キバキの一党独裁支配を経て、大統領の国家統一党とオレンジ民主運動の連立政権で折り合いをつけて、現在に至る。これが大雑把な歴史である。

だが、それだけではアングロ・サクソン侵略の系譜の中でケニアのエイズを捉えることは出来ない。侵略の前にはケニア人が代々培ってきた暮らしや文化があったし、ヨーロッパ人の侵略によって、その伝統や文化や生活様式は大きく変えられてしまったからである。植民地化されたイギリスに抵抗して長く苦しい武力闘争を続けて、やっと独立を果たしたものの、独立後に指導者ケニヤッタとその取り巻きは、いっしょに闘った人たちを裏切って、欧米諸国や日本の勢力と手を組んでしまった。その後、一党独裁時代が長く続き、ケニアはさらに変貌した。ケニア大使館の小史からは、そんな姿は浮かんで来ない。額面上の見える史実を手掛かりに、その意識下に流れる目には見えない深層を探る必要がある。歴史過程の必然的な現象として、貧困や病気なども捉えるべきで、エイズもその一例に過ぎない。

日本もケニヤッタたちが手を結んだ相手国の一つで、関係は想像以上に密である。普通のケニア人や日本人が意識していない歴史の深層は、公教育の場で語られることはない。富を享受する一握りの金持ち層・支配者階級にとって、自分たちのやって来たこと、今も継続的に実行し続けていることを正当化する必然性があるからである。大多数が共有する表面上の歴史も、その手段に過ぎない。だからこそ、可能なら、公教育でこれまで受けてきた歴史を再考する必要がある。その流れで、ケニアの歴史を見てゆきたい。

(1)植民地化以前→(2)ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来→(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 →(5)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代

ケニアの歴史(1)植民地化以前

遠い遠い昔の話なので確かめようもないが、元タイムズ誌の記者で歴史家のバズル・デヴィッドスンの映像「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)を借りながら、「大陸に生きる」(「アフリカシリーズ」2回目の表題)人たちについて考えたい。

バズル・デヴィッドスン

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」には、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人が1980年代にも昔ながらの原始的な生活をしている貴重な映像が収められている。狩猟採集に必要な技術以外に、動物を飼い慣らして家畜にするという大発見によって、人々の定住生活が可能になり、社会組織が大きく変化した。狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的で、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれ、入り組んだ社会組織も現われ始めた。デヴィッドスンは、ケニア北部に住むポコト人が住んでいる地域を訪れてしばらく生活を共にしながら、次のようにその人たちの生活を紹介している。牧畜を営む人たちの例としてそのポコト人を紹介したい。

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

ポコト人とデヴィッドスン

他の草原の住人と同様に、ポコト人の最大の財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期には200人もの人が村に住み、乾期になって草や水が乏しくなると牛を連れて遠くまで足を運び、村の人口が減る。次の雨期にはまた人が村に戻る、毎年それが繰り返されるわけである。主食はミルクで、栄養不足を補うために儀礼などの時に牛の血を料理して食べる。ミルクと血だけで暮らすにはたくさんの牛が必要で、干魃などの天災にも備えなければならないので、山羊や駱駝も飼うようになっている。

女性は夫とは別の自分の家畜を持ち、男性が草原に行っている間は、村に残って子供や老人の世話をする。ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんどが自給自足の生活である。必要なものは自分たちの周りにあるものから作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類を拵える。牛の糞は壁や屋根の断熱と防水用に利用する。

ポコト人女性

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしていて、家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも重労働だが、女性は誇りを持って日常をこなす。厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要で、家の周りの藪から薬や繊維や日用品などを作り出す。カパサーモの根を煎じて腹痛や下痢に使い、デザートローズの樹の皮の粉末から殺虫剤を作り出して、駱駝のダニを退治する。ポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来たわけである。

アフリカ大陸の東側には壮大なサバンナがあって、今でもそこに遊牧民が暮らしているし、牧畜が生活に占める割合の多い田舎もある。1992年に家族でジンバブエに行った時、借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなった。3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話をして暮らしていたらしい。その中の一人英語科のツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながら、インタビューに応じて子供時代のことをしゃべってくれた。

(小島けい画)

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれ、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそうである。幼少期を過ごした村には、伝統的なショナ文化が残っていたようで一族には指導的な立場の人がいて、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていたと言う。

村では、雨期に農作業が行なわれ、野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度や子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉でミリミールを拵えたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親を手伝い、男の子は外で家畜の世話をするのが普通で、ツォゾォさんも毎日放課後2時頃から、牛などの世話に明け暮れたそうである。乾期には、男が兎や鹿や水牛などの狩りや魚釣りをして野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたと話してくれた。

食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、基本的な人の営みはそう変わるはずもなく、植民地以前は農耕と牧畜を中心にしたこうした生活を、営々と続けていたわけである。そして、田舎では、今も基本的にはこういった生活が続いている地域が多いようだ。

3人のうちの一人ゲイリーの村のスケッチ(小島けい画)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信25(2020/12/20)

私の絵画館:<回転木馬>(カルーセル・エルドラド)(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~4:④:再び、8月のパリで(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜22:アフリカ史再考④大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人 (玉田吉行)

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1 私の絵画館:<回転木馬>(カルーセル・エルドラド)(小島けい)

1977年の8月、2度目のパリで。帰国する兄を見送った後、私はパリ郊外に行ってみようと思いつきました。病気持ちの兄を心配ばかりしていた日々から、少し気分を変えたかったのかも知れません。
お城がある───と何かのパンフレットで見た、シャンティーイという街に向かいました。列車で小一時間ほどだったと思いますが。計画も立てずに出かけたため、目的のお城の前に立った時は夕暮れ前で、すでに城門はきっちりと閉められていました。
<がっしりとしたりっぱな門だなあ・・・・>と、妙に感心して見上げたのを覚えています。見学時間をとうに過ぎていたため、どうしようもありません。引き返そうと横を向いた瞬間、小さな回転木馬がいきなり目に入ってきました。
それは城門の前の草原に<祭りの後>のようにポツンと置かれていました。きっと夏のシーズンだけ、お城を見に来る人たち用に、運ばれて来て置いてあるのでしょう。
そこには、私の他に観光客は誰もいませんし、もちろん遊具の係の人もいませんでした。静けさのなか、現実離れした不思議な風景に見えました。
結局シャンティーイの街としては、威圧感のある城門と小さな回転木馬だけが、2枚の写真のように、鮮明に私の記憶に残りました。

2021年カレンダー表紙絵

遠い日のことをずっと忘れていましたが。何故か三年くらい前から回転木馬を描きたい!と思い始めました。
けれど<思い>はなかなか具体化しません。そんな私を、二年前の春東京に行った時、娘が<としま園>に連れていってくれました。そして回転木馬(カルーセル・エルドラド)を見て、それに乗ることができました。
<としま園>が昨年閉園することは、ずっと後になって知りました。
描くなら今年(2020年)で、2021年のカレンダーに載せようと、イメージがふくらみ始めました。
そうして、ふつう描く絵の4~5倍ほどの労力と時間をかけて、ようやくこの一枚が出来ました。
楽しそうに乗っている犬たち、<いいなあ・・・>と下からちょっとうらやましそうに見上げる子猫のジョバンニ。
その絵を、カレンダー製作会社のいつもお世話になるデザイナーさんが、さらに楽しく仕上げて下さって、2021年の表紙となりました。

また、この絵を含めた昨年の新作12枚は、新宿にある画材店<世界堂>で、毎年お世話になっている一番センスのよいスタッフの方が、12月15日という超多忙の時期にもかかわらず、2時間かけて、それぞれの絵に一番合うマットと額を選んで下さいました。

お世話になった皆様に、心より御礼申しあげます

2021年カレンダー表紙額(作業中)

エセイ③→「8月のパリ」「続モンド通信 24」、2020年11月20日)

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~④:再び、8月のパリで(小島けい)

 1976年の8月を、私はパリですごしましたが。ひょんなことから、翌年の8月も、パリですごすことになりました。

 

もうすぐ夏休みという頃、三番目の兄が突然<パリに行く!>と言いだしました。大人ですので、ふつうなら何の反対もしませんが。当時兄は、いくつかの病気で薬を何種類も飲んでいました。そのような人が長旅に出れば、体調の悪化は目にみえていました。

けれど、言いだしたら後には引かない。走れば倒れるまで走り続ける性格は、その時も健在でした。昔、交換留学生としてノルウェーに滞在した帰り。パリに立ち寄ったけれど、お金がなくて全く楽しむことができず、みじめだった。少しはお金を自由に使えるようになった今行かなくては、悔しくて死んでも死にきれない。これが本人の言い分でした。

誰も止められず<それなら私が先にパリに行って、待っててあげるよ>となったのです。

私がパリに着いて数日後。案の上、体調の悪化した兄が、空港に到着しましたが。現地のガイドはその様子を一目見ると、即座に帰国の手続きを進めてしまいました。いわば<強制送還>です。兄は必死の思いで、空港のカウンターの方に事情を説明し、このままでは帰りたくない!と訴えました。

気の毒に思ったその方は、キャンセルされてしまった<ホテルニッコー>の代わりに、乗務員がよく利用する街のプチホテルを紹介してくれました。おかげで、兄は何とかパリに滞在することができました。

ただ、外国で病気をすることの大変さを、私はいろいろ実感しました。ある時も<シップと酢を買ってきてほしい>と頼まれた私は、薬局をさがして街のなかを歩き回りました。そんな時、ちょうど向こうから来た日本人留学生に<パリ在住の方ですか>と話しかけられ、結果、薬局の場所をおしえてもらうことができました。

歩いて行くには遠いとのことで、タクシーをつかまえようと、広い道路でこちらに向かって走ってくる車に手をあげていると、スーッと一台の車が止まりました。行き先を告げて、急いで後部座席に乗り込むと、背広の上着とカバンが置いてあり、運転手は慌ててそれらを前の座席に移動しました。片言で話をしているうちに目的地に着き、お金はいくら?とメーターをさがすと、見あたりません。その様子を見ていた運転手は笑って、初めて<この車はタクシーではないよ>と教えてくれました。そして、<お金はいらないから、気が向いたらこの住所に手紙を書いてネ>と、名刺をくれました。

薬局のことしか頭になかった私は、止まった車がタクシーではないことに、最後まで気付きませんでした。ゆっくり思い返せば、パリッ!とした白ワイシャツを着て、カバンもビジネス用の大きめの物でした。何より顔つきも精悍な感じで知的でした。パリの運転手の中にはそんな人もいるかもしれませんが、少なくとも私の乗ったタクシーの運転手さんたちとは、少し雰囲気が違ったような・・・?

とにもかくにも、その人が<いい人>でほんとうによかった・・・・と、ずうっと後になって思いました。

紹介された街のなかのホテルより、私が泊まっているホテルニッコーの方が新しくて快適というので、私が兄とホテルをとりかえてすごしたり・・・など、様々なことがありましたが。

一週間後、兄は一応満足した様子で、帰って行きました。

プティホテルの屋根裏部屋の窓から(1992年11月、ジンバブエの帰りに)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜22:アフリカ史再考④:

大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人

アフリカ史再考の4回目で、アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたか、である。

バズル・デヴィッドスンが「アフリカシリーズ」(NHK、1983年)の2回目「大陸に生きる」のなかで紹介しているケニア北部に住むポコト人の牧畜生活を取り上げてヨーロッパ人が到来する前に、長い間アフリカ大陸で人々がどのように暮らしていたかについて書いていきたい。

アフリカの生活のあり方として牧畜や農耕はかなり新しいもので、それ以前に野生の動物を狩り、木の実や草の根を集めて暮らしていた時期が長かった。「アフリカシリーズ」が収録された1980年代当初でも、中央アフリカのピグミーやナミビア・南アフリカのカラハリ砂漠に住むサン人の中には、昔ながらの原始的な生活が見られていたようである。

デヴィッドスンは、コンゴの森で狩猟民として獲物を求め、絶えず移動生活をしているピグミーの1930年代の様子を収めたフィルムを紹介しながら「未開と言われる彼らが如何に巧妙な橋造りをするかを知ることが出来ます。」と解説している。密林の中で橋を架けて獲物を追う技術は移動生活には不可欠で、ピグミーは必要に応じて集まったり分散したりしながら生活をしていたので、固定した社会を持たなかった。

集団で川に橋を架けるピグミー

デヴィッドスンはまた、「サン人は狩猟採集の生活をしてきました。その人達が使う道具は手近な材料を使った単純なものです。矢尻の先に塗る毒はカブト虫の中味を絞り出して作っています。これにアロエの汁を塗って毒が落ちないようにします。道具は石器時代とは変わらないとはいうものの、獲物を追い詰める技術では彼らに敵う者はありません。」と解説しながら、狩猟しながら移動生活を続けるサン人を紹介している。

狩猟の準備をするサン人

その後、村を作り定住生活をするようになるが、そのためには狩猟採集で必要だった技術以外に大発見が必要だった。動物を飼い慣らして家畜にするようになったことで、アフリカでは今から6000年前か7000年前のことである。その結果、人口は増え、家畜のための水や草を求めて人々は広い範囲に散って行くようになった。その中には東アフリカの大地溝帯までやって来た人たちもいた。ケニア北部に住むポコト人もその子孫だと思われる。

ポコト人が住んでいる地域は、一年の大半はとげだらけの灌木に覆われた乾燥した土地で、灌木は雨期のほんの数週間だけ青青と生い茂げる。

狩猟採集の生活から食べ物を管理して定住する生活への変化は画期的なもので、牧畜生活が始まると水や草があるところには人が集まり、そこに共同体が生まれる。当然、入り組んだ社会組織も出来てくるわけである。

デヴィドスンはポコト人が住んでいる地域を訪れしばらく生活を共にしながら次のようにその人たちの生活を紹介している。

ポコト人を紹介するデヴィドスン

「ここにあるポコト人の住まいは見た目には何ともまあ原始的でみすぼらしく、住民はお話にならないほど貧しく無知に見えます。しかし、実際生活に彼らと生活を共にしてみると、それはほんのうわべだけのことで、うっかりするととんでもない誤解をすることが、すぐわかって来ます。私はアフリカのもっと奥地を歩いた時にも、何度となくそれを感じました。外から見れば原始的だ、未開だと見えても、実はある程度自然を手なずけ、自然の恵みを一番して能率的に利用とした結果で、そこには驚くほどの創意、工夫が見られるのです。」

他の草原の住人と同様に、ポコト人にとって最も大切な財産は牛で、生活は牛を中心に展開する。雨期の間は、多いときは村には200人もの人が住む。しかし、乾期になり草や水が乏しくなるにつれ、牛を連れて遠くまで足をのばさなければならなくなるので、村の人口は次第に減っていくが、次の雨期とともにまたみんなが村に戻って来る。毎年それが繰り返される。

ポコト人の主食はミルクである。栄養不足を補うために時々牛の血を料理して食べるが、肉を食べるのは儀礼の時だけに限られる。ミルクと血だけで暮らすためにはたくさんの牛が必要になる。それに干魃などの天災にも備えなければいけないので、牛の他に、山羊や駱駝(らくだ)も飼うようになった。

女性は夫とは別にかなりの数の自分の家畜を持っている。男性が牛を追い草原に行っている間は、村に残っているのは女性と子供と老人だけである。

遙か北の方から入って来た駱駝はミルクを取るために飼われ始めた。ポコト人は、ビーズなどの贅沢品を外から買うだけで、ほとんどが自給自足の生活である。必要なものは自分たちのまわりにあるもの、特に家畜から作り出す。山羊の皮をなめして毛をそぎ取り、油で柔らかくして衣類をこしらえる。断熱と防水の効果があるので、牛の糞は壁や屋根に塗りつける。そうして作った小屋は子牛や子山羊を昼間の暑さから守ってくれる。乳離れをさせる時にもその小屋が使われる。

ポコト人の社会では男女の役割がはっきりしている。家庭は女性の領域で、家事、雑用、出産、育児を担っている。材料集めだけでも大変なこの土地では重労働だが、それをこなすのが女性の誇りになっている。

ポコト人女性

厳しい自然を生き抜くには自分たちの周囲にあるものを詳しく知り、利用できるものは最大限に利用することが必要である。家の周りの藪も薬や繊維や日用品などの宝庫で、カパサーモと呼んでいる根を煎じて腹痛や下痢の時に子供に飲ませる。デザートローズの樹の皮を粉末にして水と混ぜて殺虫剤を作り、駱駝のダニ退治に使う。

こうしてポコト人は厳しい自然をてなづけて、ほぼ自給自足の生活を続けて来ている。食べて出す、寝て起きる、男と女が子供を作って育てる、生まれて死ぬ、そんな基本的な人の営みが営々と続いて来たわけである。

1992年にジンバブエに行った時、家族で住んだ借家と在外研究先のジンバブエ大学で3人のショナ人と仲良くなり、インタビューをさせてもらった。

ジンバブエ大学英語科教員のトンプソン・クンビライ・ツォゾォさんは「バンツー(Bantu)とはPeople of the peopleの意味で、アフリカ大陸の東側ケニアから南アフリカまでの大草原で遊牧して暮らす人たちが自分たちのことを誇りにして呼んだ呼び名です」と言いながらインタビューに応じて、子供時代のことをしゃべってくれた。

トンプソン・クンビライ・ツォゾォさん(小島けい画)

ツォゾォさんは国の南東部にあるチヴィという都市の近くの小さな村で生まれている。その村からグレートジンバブウェのあるマシィンゴまで200キロ、国の中央部に位置する都市グウェルまで150キロ離れていて、第2次大戦の影響をほとんど受けなかったそらしい。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごしたチヴィの村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

一族には、当然、指導的な立場の人がいて、その人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめていた。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれて、比較的恵まれた少年時代を過ごしたらしい。

村では、12月から4月までの雨期に農作業が行なわれる。野良仕事に出るのは男たちで、女性は食事の支度をしたり、子供の面倒をみるほか、玉蜀黍の粉をひいてミリミールをこしらえたり、ビールを作るなどの家事に専念する。女の子が母親の手伝いをし、男の子は外で放し飼いの家畜の世話をするのが普通だったようで、ツォゾォさんも毎日学校が終わる2時頃から、牛や羊や山羊の世話に明け暮れたと言う。

4月からは、男が兎や鹿や時には水牛などの狩りや、魚釣りに出かけて野性の食べ物を集め、女の子が家の周りの野草や木の実などを集めたそうである。

ガーデンボーイとして安い賃金で働いていたガリカーイ・モヨさんもインタビューに応じてくれた。

「私は1956年4月3日に、ハラレから98キロ離れたムレワで生まれました。ムレワはハラレの東北東の方角にある田舎の小さな村です。小さい頃は、おばあさんと一緒に過ごす時間が多く、おばあさんからたくさんの話を聞きました。いわゆる民話などの話です。家畜の世話や歌が好きでした。聖歌隊にも参加していて、いつでもよく歌を歌っていました。」

ガリカーイ・モヨさん(小島けい画)

ジンバブエ大学の学生のアレックス・ムチャデイ・ニョタさんもインビューに応じてくれた。普段の生活はゲイリーの場合とよく似ている。小さい時から、1日じゅう家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから日没まで、再び家畜の世話だったらしい。「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ」とアレックスが言っていた。

アレックス・ムチャデイ・ニョタさん

3人とも田舎で育ち、少年時代は大草原で牛の世話が中心、ポコト人と同じというわけにはいかないが、今も田舎では、遙かな大草原で一日じゅう牛を追いながら暮らすという牧畜が占める割り合いの多い暮らしをしている人たちが多いようである。ジンバブエの首都ハラレは1200メートルの高原地帯にあり、ケニアの首都ナイロビも標高1600メートルの高地にある。

「ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」(2013年3月)、→「ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」(2012年11月)、→「アレックスの生い立ち」「モンド通信」(2012年6月)

次回は「大陸に生きる(2)農耕生活:ナイジェリアのスクール人」である。

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信24(2020/11/20)

私の絵画館:トムさんと馬(キャンディ)(小島けい)

2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~③:8月のパリで(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜21: アフリカ史再考③:ナイルの谷(玉田吉行)

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1 私の絵画館:トムさんと馬(キャンディ)(小島けい)

トムさんとキャンディ

初めて牧場に行き、オーナーのトムさんに話を聞いたのが、2月19日(金)です。そしてその日から一番早い平日が、2月22日(月)。私の初乗馬の日です。(平日の方がお客さんが少ないと聞いたからです。)

月日は曜日まで妙にはっきり覚えているのに、それが何年だったのか。このところずっとあいまいでしたが、古い乗馬ノートがみつかり、2005年とわかりました。

<諸行無常>といいますが。それは牧場も同じこと。馬にも人にも、様々な変化がありました。

以前は、乗馬に来たおじ様たちの談笑の場であったゲストハウス(木造の小屋?)は、最近では若いスタッフの方たちの休憩所になっています。15年も過ぎたのですから、世代交替もあたり前ですね。

アメリカで修行をしたトムさんは、あまりにも調教が上手い!というので、あちこちから呼ばれ、日本各地を飛び回っておられて。最近では、牧場でお会いする機会も、めっきり減りました。

もともと人の少ない場所では、乗馬人口もさらに少なく、ここ宮崎で牧場を維持し続けることは、至難の技です。(実際に、いくつもの牧場がなくなりました。)

ところが女主人のメグさんは、新しい分野を切り開かれました。軽い障害のある子供たちへの<ホース・セラピー>です。

実施にこぎつけるまでには、様々な準備や手続きで何年もかかったそうですが。今ではすっかり定着し、子供たちの<にじいろホース>の活動が、主になっています。

私なども、放課後目を輝かせてやってくる子供たちの邪魔にならないよう、早めの時間帯に行くようにしています。

いわゆる登校拒否の子供たちも、学校へ行くことはできなくても、牧場には喜んでやってくる。ということで、近々教育委員会の方たちも見学に来るとか。

人はみんな違います。<学校>という場所になじめない子供たちに、このような優しい楽しい空間がある。小さなこの牧場で救われる子供たち・親たちは、これからもっと増えてゆくのだろうと思います。

キャンディは、トムさんがわざわざアメリカへ行き、連れて帰ってきた馬のなかの一頭です。今では左目がほとんど見えなくなりましたが、見えないなりに走ることもでき、元気にすごしています。

キャンディと子馬

この絵のダスティも、その時連れてきたなかの一頭です。

同じポーズのダスティを、背景の色、まわりの風景を変えて3枚描きましたが、トムさんはこの一枚を選ばれました。実家の玄関に飾られている、と以前お聞きしました。

 

ダスティ

そうそうダスティは今年、かわいい<ジャスミン>という子馬を産みました。

ジャスミン

牧場に行くと、お母さんのダスティにまだまだしっかり甘えながら、いたずらをしているジャスミンの姿が見られますよ。

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2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~③:8月のパリで(小島けい)

 絵本の棚を整理していると、フランス語の絵本が数冊でてきました。一番後ろのページに<’76.8.20>とありました。

はるか昔となった8月のパリが、ぼんやりと思い出されました。

その前の年の11月、母が亡くなりました。暑い夏を、母がいなくなった家ですごしたくはありませんでした。私はその年の8月を、パリですごしました。

ひと月あれば、たくさんの絵を見ることができるだろう、漠然とそう思っていましたが。実際には一日に一つの美術館を訪ねる、それがちょうどいいペースでした。

パリには美術館が多すぎて。一ヶ月の滞在でも、ほんの一部しか回れませんでした。けれど、一つだけ小さな<発見>もありました。

美術の教科書には名作といわれる絵の写真が多数載っています。そのなかには<モネの睡蓮>も、必ず入っていました。ただ、私はずっと、この絵のすばらしさがよくわかりませんでした。(今から思えば、当時の写真の色も、よくなかったのでしょうが。)

「睡蓮」

国立西洋美術館https://www.nmwa.go.jp/jp/collection/1959-0151.htmlより

どの美術館だったのか。さほど大きくはない美術館に<モネの部屋>がありました。記憶では、低い天井の細長い楕円形の部屋だったと思いますが。その長い壁の片側一面が、一枚の<モネの睡蓮>でした。横の長さは5~6mもあったでしょうか。

部屋のまん中には、背もたれのないソファが一つ。私はそこに座り、長い時間、その絵と向きあっていました。これが本当の<モネの睡蓮>なのか・・・・と。

きっと絵の大きさの力もあったと思うのですが、<モネの睡蓮>は写真とは全く違い、生き生きと息づいていました。限りなく静かな水面を描きながら、この上ない迫力をもって、迫ってきたのでした。

今回のパリの旅は、この一枚と出逢えただけで十分だった、と私は打ちのめされてぼんやりとしている頭の片すみで、思いました。

プティホテルの屋根裏部屋の窓から(1992年11月)

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3 アングロ・サクソン侵略の系譜21:アフリカ史再考③:ナイルの谷

「アフリカシリーズ」

アフリカ史再考の3回目、エジプトの話である。

エジプト文明

三千年に渡ってナイル川流域に栄えたエジプト王朝も、実はアフリカ内部の影響を強く受けている。

1505年のポルトガル人によるキルワの虐殺を皮切りに西洋諸国の世界侵略が始まっているが、侵略者たちは侵略を正当化するために自分たちの都合の言いように歴史を書き、それを押し付けてきた。侵略まがいの行為は今も形態を変えて続いているので、白人優位、黒人蔑視の考え方も、想像以上に実際は世界に浸透している。したがって、古代世界でも類のないほど栄えたエジプト文明も、古代オリエントの枠組みの中では考えられても、アフリカとの関係は完全に無視されて来た。ファラオたちの栄華がアフリカ人の手によって作り出された筈はない、アフリカ人にあんな高度な文明が築き上げられた筈はない、西洋人はこれまでそう信じ込んで来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていた。その辺りの事情について、「アフリカシリース」の中で、エジプトの首都カイロにあるカイロ博物館の中を紹介して歩きながら、バズル・デヴィッドスンは次のように解説している。

「カイロ博物館の絢爛(けんらん)たる宝物の間を歩いていると、古代エジプト文明は他からの影響はほとんど受けない全く独自の文明だと思えてくるかも知れません。恐らく大半の見学者はガイドの説明を聞くうちに、例えばこの若き王ツタンカーメンの顔が黒いのは長い歳月の間に変色したせいだと思うでしょう。ツタンカーメンが黒い皮膚をしていたと考える人は少ないはずです。しかし、これこそ多くのアフリカ学者が取り組んでいる観点なのです。」(「アフリカシリース第1回『最初の光 ナイルの谷』:NHK、1983年)

今から5000年前、エジプト文明は大文明の舞台になっていた。アフリカを知るにはこの時代、ファラオと呼ばれた王たちが支配した古代エジプトを抜きには到底理解することは出来ない。

ナイル川はアフリカ最大の湖ヴィクトリア湖に源を発し、ヴィクトリア湖から地中海に注ぎ込むまで北に向かって延々と6700キロの距離を流れている。エチオピア高原から流れ落ちる青ナイルと合流したあとは、どんな支流もない。ナイル川流域に人間が住み始めたのは数万年前からで、涸(か)れることのないナイル川は毎年定期的に氾濫を繰り返し、肥沃な泥を下流に運んで行った。そこでは、やがて農耕生活が始まった。

ファラオが支配したエジプトは、古代世界でも最も早く、また最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。ファラオたちはデルタ地帯の下エジプト、それより上流の上エジプト、その二つの領域に君臨していた。

今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中にはこうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族もまじっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。

嘗ては大西洋からナイル川流域までサハラ全域には様々なアフリカ人が住んでいたと思われる。1956年にフランスの調査隊が発見したタッシリナジェール山脈の砂の中に埋もれていた岩絵には、緑のサハラの生活が生き生きと描かれている。一番古い時代のモチーフは猟をする姿で、最古の絵は七千年から八千年前に描かれたと推測されている。時代を経るにつれて絵にも変化が表われ、鞍や手綱を付けた馬は輸送手段の発達を物語っているし、犂(すき)をつけた牛からは農耕生活が営まれていたことがわかる。精巧な馬車の絵は後期のもので、人々の衣装は古代エジプト人のスカートと驚くほどよく似ている。

タッシリナジェールの岩絵

サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人ともまじわっていったわけである。

古代エジプト人は大抵、自分たちの皮膚の色を赤みがかったピンクで表している。エジプト人の中には西アジアの血も流れているが、実際は、それ以上にアフリカ黒人とまじり合っていて、貴婦人の中にはエジプトの南のヌビア人がたくさんいた。ヘマカの墓から出た絵には一見して黒人とわかる貴婦人が白人の侍女を従えている様子が美しく描かれている。上エジプト王セン・ウセルト3世のように、王家に黒い肌の子供が生まれることも珍しくなかった。

古代エジプトには、エジプトとヌビアの境目にあるナイル川に浮かぶエレファンテイン島は非常に神聖な場所と考えられ、ヨーロッパ人が好んでたくさん訪れた。その中の一人歴史家のヘロドトスもその島まで足を延ばしている。ギリシャ人は違う世界の人種を異なってはいるが同等と見なす伝統の中で育っていた。エジプトに詳しいヘロドトスのようなギリシャ人は、エジプトの起源は南から来た黒人と考えていた。

ヌビア人と古代クシュ王国

アスワンダムやアスワンハイダムの建設によって水没してしまったヌビアの遺跡も多いのだが、移転された遺跡からヌビアにはナイル流域最古の王国の一つがあり、それが後のエジプトの王国の先駆けになっていたことがわかる。遺跡の一つ三千年ほど前に造られたアブ・シンベル神殿の正面を飾るラムセツ2世の巨大な像の前に立ちながら、デヴィッドスンは都から遠く離れたヌビアにこのような大規模な大神殿を建てたのは愛妻ネフェルタリ王妃がヌビア人だったからではないかと推測している。

エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、ファラオとしてエジプト全土を掌握した。第25王朝である。

南から来たファラオの中でも一番有名なのはタハルカ王で、ヴィッドスンはカイロ博物館の中にある巨大な立像を見上げながら「紀元前七世紀当時、エジプト人はこの王を世界の支配者と見なしていました。聖書にもエチオピア王テルハカとして出ています。エチオピアとは黒人という意味で、タハルカ王はヌビアのクシュ王国と全エジプトの王として君臨していたのです。」と話している。

タハルカ王の立像

ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。メロエの都は古代エジプトの国境から南へ千数百キロ、アフリカのずーっと内陸にあった。ヴィッドスンはワゴン車でメロエ(スーダン)を訪れながら「ここに来る度に私は驚異の念に打たれずにはいられません。荒涼たる砂漠の真ん中に失なわれたアフリカを物語る遺跡が忽然と現われるのです。アフリカ最古の黒人帝国の形見、地平線に浮かぶその姿は時の波に洗われ、砂の海を漂う難破船のように見えます。この林立するピラミッドは700年にわたってこの地を治め、葬られたクシュの王や王妃の墓です。長い間歳月や墓荒らしによって荒れるにまかせて来ましたが、現在、修復、再建が進められています。」とその感慨を述べている。

ベルベル人とペルシャ人

ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人である。そして、サハラの砂漠化が進んだ後にラクダで砂漠を越えて様々な王国が栄えていた西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間の砂漠の民トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていたという壮大な話で、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく発展していった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。

トワレグ人の分布地図

東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。

トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。

サハラ砂漠のトワレグ人

次回は「大陸に生きる」人たちである。

胡瓜はもう枯れてしまった。2期作をもくろんだが、あまり大きくならず、不成功に終わってしまった。鞘オクラも同様である。来年はもう2か月ほど早く種を蒔いて、もう一度やってみるつもりである。うまく行くやろか。

(宮崎大学教員)