ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会

2020年2月29日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した11回目の「ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会

手紙には1時頃に皆さんでお越し下さいと書いてありましたので、4人は12時50分に盛装して玄関に現われました。フローレンスのモデル代や少しは私たちが援助出来た分で、それぞれ新しい服が買えたようです。前日私に少し熱があり早起きが出来なかったせいもあって、1時までには準備が整のわず、4人には一度部屋に帰ってもらいました。ハンバーガー、スパゲティ、肉と野菜の炒め物、こふき芋、ゆで卵、パンなどをバイキング形式に並べて、各自がお皿で取れるようにしました。前の日にシェラトンで買っておいたデコレーションケーキやアイスクリーム、それにお菓子や果物も並べました。ゲイリーたちはアルコール類を飲まないので、飲み物にはジュースや紅茶などを用意しました。これくらいのものでもいざ外国で準備をするとなると、なかなか大変でした。

画像

フローレンスといっしょに

お別れ会が始まったのは、1時間遅れの2時からでした。私たちはシャンペンで、あとはアップルジュースで乾杯をしました。なぜか、どちらの母国語でもない英語でチアーズ!と声を掛け合いました。

米が主食の日本人と玉蜀黍(とうもろこし)が主食のショナ人が、ハンバーガーとスパゲティというのも考えてみれば不思議な話ですが、それでも皆それぞれにおいしそうに食べていました。現実に、ゲイリーたちが肉を食べられるのは週に1度くらいだそうですから、ごちそうには違いありません。一生懸命に準備した気持ちは、汲んでもらえるでしょう。普段余りたくさんは食べられないはずなのに、子供たちもゲイリーもフローレンスもがつがつしたところがありません。

長女がテープレコーダーから、いま若者の間で流行っている日本の歌を次々と流します。大体食べ終えた頃、街の大きなスーパーの音楽コーナーで買ったヴィラ音楽のテープをかけてみましたら、ゲイリーとフローレンスが立ち上がって軽快に踊り始めました。軽く拳を握り、90度に曲げた両腕を前後に振り、足を軽く上げるだけの動作が主体で、時折り違うステップを踏んで向きを変える踊り方です。踊り自体は単純なのですが、腰の切れがよく、ぴたりと決まっています。踊りの好きな妻が、すかさずフローレンスの横に並んで、踊り始めました。今まで経験したことのない踊りを覚えて帰ろうと、フローレンスやゲイリーに合わせて踊っています。子供たちも加わりました。特にウォルターが軽快です。私はひとりカメラマンに専念しました。絶えずレンズを意識しながらも、メイビィが自分の踊りに酔い痴れています。曲が日本の歌に変っても、踊り方はあまり変わりませんでした。

フローレンス

何曲か踊ったあと、全員一休みです。ケーキやデザートを食べながら、今度はゲイリーとフローレンスがショナ語の歌を歌ってくれました。日本でも知られているコシシケレリアフリカのショナ語版です。コシシケレリアフリカは「神よアフリカに恵みを」というアフリカの解放を願って作られた賛美歌調の歌です。1897年に南アフリカのイーノック・ソントンガというテンブ人によって作られ、南部アフリカで親しまれています。南アフリカのほか、ザンビア、タンザニア、ジンバブエではそれぞれその国の言葉で国歌として歌われていると日本でも紹介されていました。ジンバブエ大学で歴史学を研究していたソロモン・ムッツワイロ氏が作詞した国歌が2年前に出来たそうで、今はこの曲が国歌ではありませんが、アフリカ人の間では広く歌われていると言われます。ショナ語の曲名は、イシェコンボレリアフリカでした。2人に途中から子供たちも加わって、きれいなハーモニーを聞かせてくれました。大学の授業で学生にも聞いてもらいたいからと録音の用意をして、今度はゲイリーとフローンスの2人に歌ってもらいました。

お返しに私たちもコサ語のコシシケレリアフリカを歌いました。
妻のピアノ伴奏で家でも時々歌っていたからです。1989年に来日した南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんを宮崎に迎えたとき、家でもミリアムさんと一緒にコサ語でその歌を歌ったことがあります。久し振りでしたので最後まで歌えるかどうか多少不安でしたが、なんとか無事に歌い終えました。

ミリアム・トラーディさんとコシシケレリアフリカを

デザートを食べ終えた頃、ゲイリーの甥が訪ねて来て、お別れ会に加わりました。それまでにもゲイリーをよく訪ねてきていましたので、すでに顔見知りです。若者の踊りには勢いがあります。
残っていた料理を動けないほどお腹一杯に詰め込んだあと、後半の部の踊りに加わりました。踊ったあとは、長女からウォークマンを借りて、ひとり音楽の世界に浸っていました。最後に、私の方から少しだけお別れの挨拶をして、妻と子供たちがプレゼントを手渡しました。ゲイリーにはお金とハンカチを、フローレンスにはネッカチーフや裁縫セットなどを、子供たちには辞書と文具やおもちゃなどをそれぞれかわいい布の袋に入れたプレゼントでした。今度はゲイリーが立ち上がって、みんなを代表してと挨拶を始めました。

画像

ゲイリーと

「7月21日以来、親切にしてもらったことに対して、また友だちになれたことに対して感謝しています。この日は一生忘れないでしょう。ヨシもケイコもサヤカもセイも今のままで渝らないでいて下さい。ウォルターとメリティは学校があるので帰りますが、フローレンスとメイビィは皆さんがお帰りになる日までここに残ることにしました。フローレンスは私の食事を作ってくれますが、モデルや洗濯のお手伝いも出来ると思います。」思わぬ事態になってきました。グレイスに辞めてもらうつもりでしたが、滞在期間も短かく時間も大切ですから、出来れば知り合いで洗濯だけでも手伝ってくれる人はいないだろうかと8月の半ば頃にゲイリーに相談を持ちかけていたのです。フローレンスがやってくれるというなら、願ったりかなったりです。よけいな気を使わなくて済みます。モデルの方も、あと1ヵ月も描けるとは思ってもいませんでした。

フローレンス(小島けい画)

ジンバブエを発つ前に、もう一度お別れを言うために、ウォルターとメリティの学校に行こうと言いましたら、タクシーの運転手をしている私の友人なら、500ドルも出せば車を出してくれるよとゲイリーの甥が言っています。金額の方は少々怪しいと思いますが、運転手付きの車か小型バスを確保して、みんなで学校の2人に会いに行くとしましょう。飛び入り客あり、ゲイリーの発言ありで、事態は思わぬ方向に進みましたが、いずれにしても、ゲイリーの家族とはますます付き合いが深まりそうです。2時に始まったお別れ会が終わったのは、5時半を少しまわった頃です。(宮崎大学医学部教員)

ゲイリーたち

執筆年

  2012年5月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」(No.45  2012年5月10日)

ダウンロード・閲覧

  →「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」