書いたもの

2022/2/6現在

分類別は→「書いたもの一覧:年代順、連載一覧、テーマ別」

2022年

「アングロ・サクソン侵略の系譜35:アフリカとエイズ 」続モンド通信38、2022年1月20日)【アフリカ/医療】【公開】

2021年

「アングロ・サクソン侵略の系譜34:ケニアの歴史(4)モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」続モンド通信37、2021年12月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜33:ケニアの歴史(3)イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」続モンド通信36、2021年11月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜32:ケニアの歴史(2 )ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来」続モンド通信35、2021年10月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史1植民地化以前』」続モンド通信34、2021年9月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜30:在外研究」続モンド通信33、2021年8月20日)【ジンバブエ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜29:編註書And a Threefold Cord 」続モンド通信32、2021年7月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜28: :日本語訳『まして束ねし縄なれば』」続モンド通信31、2021年6月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜27: A Walk in the Night」続モンド通信30、2021年5月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜26:アレックス・ラ・グーマと『夜の彷徨』 」続モンド通信29、2021年4月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜25: 体制再構築時の『先進国』の狡猾な戦略:ガーナとコンゴの場合」続モンド通信28、2021年3月20日)【アフリカ/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜24: 2021年Zoomシンポジウム」続モンド通信27、2021年2月20日)【アフリカ/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜23:ケニアの歴史(1)植民地化以前」 続モンド通信26、2021年1月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

2020年

「アングロ・サクソン侵略の系譜22:アフリカ史再考④大陸に生きる(1)牧畜生活:ケニアのポコト人 」続モンド通信25、2020年12月20日)【ケニア/シンポジウム】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜21: アフリカ史再考③:ナイルの谷」続モンド通信24、2020年11月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜20:アフリカ史再考:②『アフリカシリーズ』」続モンド通信23、2020年10月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜19:アフリカ史再考:①アフリカ史再考のすすめ 」続モンド通信22、2020年9月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜18:アフリカ系アメリカの歴史 」続モンド通信21、2020年8月20日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜17: アフリカの歴史」続モンド通信20、2020年7月20日)【アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜16: 科学研究費 1」続モンド通信19、2020年6月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜15: ゴンドワナ (12~19号)」続モンド通信18、2020年5月20日)【アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜14::宮崎医科大学 」続モンド通信17、2020年4月20日)【随想】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜 13:ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日) 【アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜12:MLA(Modern Language Association of America)」続モンド通信15、2020年2月20日) 【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜11:アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」「続モンド通信14」、2020年1月20日)【南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

2019年

「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」「続モンド通信13」、2019年12月20日)【随想】【公開】

「『まして束ねし縄なれば』の文学技法―雨の象徴性と擬声語の効用を軸に―」「続モンド通信12」、2019年11月20日)【ラ・グーマ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜9:『言語表現研究』」「続モンド通信11」、2019年10月20日)【ライト/ラ・グーマ/グギ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1」「続モンド通信10」、2019年9月20日)【アフリカ】【公開】【★出版】

「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」「続モンド通信10」、2019年9月20日)【アフリカ系アメリカ/アフリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜7:修士、博士課程」「続モンド通信9」、2019年8月20日)【随想】【公開】

「ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3」「続モンド通信8」、2019年7月20日)【翻訳/ライト/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑤オハイオ州デイトン」「続モンド通信7」、2019年6月20日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」「続モンド通信6」、2019年5月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」「続モンド通信5」、2019年4月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」「続モンド通信4」、2019年3月13日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜3:『クロスセクション』」「続モンド通信3」、2019年2月20日)【ライト】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開」「続モンド通信2」、2019年1月20日)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

2018年

「『続モンド通信』について」「続モンド通信」2018年12月29日)【案内】【公開】

「アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要」「続モンド通信1」2018年12月29日)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

2018年12月より「続モンド通信」を開始。↑

編集者の不調により「モンド通信」休刊↓

2016年

「ほんやく雑記⑧イリノイ州シカゴ 3」(「モンド通信」未掲載)→「続モンド通信8」、2019年7月20日)に収載。【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑦イリノイ州シカゴ2」「モンド通信 No. 97」、2016年9月11日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑥イリノイ州シカゴ」「モンド通信 No. 96」、2016年8月3日)【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記⑤オハイオ州デイトン」(「モンド通信」未掲載)→2020年「続モンド通信」に収載。【翻訳/アフリカ系アメリカ】【公開】

「ほんやく雑記④『 ケープタウン第6区 』」「モンド通信 No. 94」、2016年6月19日)【翻訳/南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「ほんやく雑記③『 ソウェトをめぐって 』」「モンド通信 No. 93」、2016年4月26日)【翻訳/南アフリカ】【公開】

「ほんやく雑記②「ケープタウン遠景」」「モンド通信 No. 92」、2016年4月3日)【翻訳/南アフリカ/ラ・グーマ】【公開】

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」「モンド通信 No. 91」、2016年3月22日)【翻訳/随想】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(4)アフリカ系アメリカ人の音楽」★番号を訂正「モンド通信 No. 90」、2016年2月9日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

2015年

「アフリカとその末裔たち2(3)③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在」★番号を訂正「モンド通信 No. 89」、2015年12月23日)【ジンバブエ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(3)②今日的諸問題:ザイールの苦難」★番号を訂正「モンド通信 No. 88」、2015年11月28日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(3)①今日的諸問題:エイズ流行病(AIDS epidemic)」★番号を訂正「モンド通信 No. 87」、2015年11月20日)【医療】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(2)②The Honourable MP」★番号を訂正「モンド通信 No. 86」、2015年10月19日)【ジンバブエ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(2)①And a Threefold Cord」★番号を訂正「モンド通信 No. 85」、2015年8月22日)【ラ・グーマ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑩自信と譲歩」★番号を訂正「モンド通信 No. 84」、2015年7月29日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑨開発援助と発達なき成長」★番号を訂正「モンド通信 No. 83」、2015年6月23日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑧経済的依存」★番号を訂正「モンド通信 No. 82」、 2015年5月30日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑦新しい階級の創造」★番号を訂正「モンド通信 No. 81」、2015年4月30日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑥コンゴ危機」★番号を訂正「モンド通信 No. 80」、2015年3月26日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度⑤コンゴ自由国」★番号・題を訂正「モンド通信 No. 79」、2015年2月22日)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度④ガーナ」★題を追加(「モンド通信 No. 77」、2015年1月15日)【アフリカ】【公開】

2014年

「EMP9年、結果として、active learning」(「ESPの研究と実践」第11号57-67頁。)【EMP】【★出版】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度③制度概略1」(「モンド通信」No. 73 、2014年12月1日に未掲載、新規→2019年10月20日「続モンド通信」11に収載)【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度②執筆の経緯」★番号・題を訂正(「モンド通信 No. 72」、2014年11月1日)連載開始。【アフリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2一覧」(2014年11月~2016年2月に「モンド通信」に連載。掲載分の番号、題などを修正)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカとその末裔たち2(1)戦後再構築された制度①概略」(「モンド通信」No. 71、2014年10月1日に未掲載)→2019年9月20日「続モンド通信」10に収載)【アフリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」「モンド通信 No. 71」、2014年7月10日)連載終了。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」「モンド通信 No. 70」、2014年6月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」「モンド通信 No. 69」、2014年5月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」「モンド通信 No. 68」、2014年4月10日)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史一覧」(2014年3月~7月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」、2014年3月10日)連載開始。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「南アフリカ小史一覧」(2014年1月~2月に「モンド通信 」に連載)【南アフリカ】【公開】

「南アフリカ後半」「モンド通信 No. 66」(2014年2月10日)連載終了。【南アフリカ】【公開】

「南アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 65」(2014年1月10日)連載開始。【南アフリカ】【公開】

2013年

「アフリカとその末裔たち1一覧」(2013年12月~2014年7月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ/南アフリカ/アフリカ系アメリカ】【公開】

「アフリカ小史一覧」(2013年11月~12月に「モンド通信 」に連載)【アフリカ】【公開】

「アフリカ小史後半」「モンド通信 No. 64」(2013年12月10日)連載終了。【アフリカ】【公開】

「アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 63」(2013年11月10日)連載開始。【アフリカ】【公開】

「ジンバブエ滞在記25『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」「モンド通信」No. 59」、2013年7月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記24ふたつの壷」「モンド通信」No. 58」、2013年6月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記23チサライ」「モンド通信」No. 57」、2013年5月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記22ジャカランダの季節に」「モンド通信」No. 56」、2013年4月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在21ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」No. 55」、2013年日3月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑳演劇クラス」「モンド通信」No. 54」、2013年2月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑲ロケイション」「モンド通信」No. 53」、2013年1月10日)【ジンバブエ】【公開】

2012年

「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」「モンド通信」No. 52」、2012年12月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」「モンド通信」No. 51」、2012年11月11日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑯75セントの出会い」「モンド通信」No. 50」、2012年10月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」「モンド通信」No. 49」、2012年9月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑭ルカリロ小学校」「モンド通信」No. 48」、2012年8月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」「モンド通信」No. 47」、2012年7月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解27:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告6」「モンド通信 No. 47」、2012年7月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解26:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告5」「モンド通信 No. 46」、2012年6月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」「モンド通信」No. 45」、2012年5月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解25:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告4」「モンド通信 No. 45」、2012年5月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」「モンド通信」No. 44」、2012年4月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解24:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告3」「モンド通信 No. 44」、2012年4月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑨ゲイリーの家族」「モンド通信」No. 43」、2012年3月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解23:「シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告2」「モンド通信 No. 43」、2012年3月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑧グレートジンバブエ」「モンド通信」No. 42」、2012年2月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解22:シンポジウム『アフリカとエイズを語る』報告1」「モンド通信 No. 42」、2012年2月10日)【アフリカ/医療/ケニア/シンポジウム】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑦ホテル」「モンド通信」No. 41」、2012年1月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解21:『ニューアフリカン』:エイズの起源4 米国産の人工生物兵器としてのウィルス」「モンド通信 No. 41」、2012年1月10日)【アフリカ/医療】【公開】

2011年

「『ニューアフリカン』から学ぶアフリカのエイズ問題」(「ESPの研究と実践」第10号25-34ペイジ)【アフリカ/医療】【★出版】

「ジンバブエ滞在記⑥買物」「モンド通信」No. 40」、2011年12月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解20:『ニューアフリカン』:エイズの起源3 アフリカの霊長類がウィルスの起源」「モンド通信 No. 40」、2011年12月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記⑤バケツ一杯の湯」「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解19:『ニューアフリカン』:エイズの起源2 アフリカ人の性のあり方」「モンド通信 No. 39」、2011年11月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記④ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)【ジンバブエ】【公開】

「『ナイスピープル』理解18:『ニューアフリカン』:エイズの起源1 アフリカ人にとっての起源の問題」「モンド通信 No. 38」、2011年10月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「ジンバブエ滞在記③突然の訪問者・小学校・自転車」「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記②ハラレ第1日目」「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記一覧」(2011年7月~ 2013年7月に「モンド通信」に連載)【ジンバブエ】【公開】

「ジンバブエ滞在記①アメリカ1981~1988」「モンド通信」No. 35」、2011年7月10日)連載開始。【アフリカ系アメリカ】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(30) 最終章」「モンド通信 No. 35」、2011年6月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解17:雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 34」、2011年6月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(29) 第30章 タラで過ごした一週間」「モンド通信 No. 34」、2011年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解16:メディアと雑誌『ニューアフリカン』」「モンド通信 No. 33」、2011年5月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(28) 第29章 カナーン証明書」「モンド通信 No. 33」、2011年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解15:エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代4 アパルトヘイト政権の崩壊とその後」「モンド通信 No. 32」、2011年4月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(27)第28章 カナーンホスピス」「モンド通信 No. 32」、2011年3月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解14:エイズと南アフリカ―ムベキの育った時代3 アパルトヘイト政権との戦い」「モンド通信 No. 31」、2011年3月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(26)第27章 男の赤ん坊」「モンド通信 No. 31」、2011年2月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(25)第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気」「モンド通信 No. 30」、2011年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

2010年

「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ)【南アフリカ/医療】【★出版】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(24)第24章 1982年」「モンド通信 No. 29」、2010年12月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(23)第23章 一匹狼の医者」「モンド通信 No. 28」、2010年11月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(22) 第22章 仮論文」「モンド通信 No. 27」、2010年10月10日)【ケ翻訳/ニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(21) 第21章 一九七九年モンバサ」「モンド通信 No. 26」、2010年9月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(20) 第20章 四十年間の投獄」「モンド通信 No. 25」、2010年8月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(19) 第19章 花婿の値段」「モンド通信 No. 24」、2010年7月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(18) 第18章 ナイセリア菌」「モンド通信 No. 23」、2010年6月1日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(17) 第17章 医師用宿舎B10」「モンド通信 No. 22」、2010年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(16) 第16章 豚野郎フィル」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解13:エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ2 育った時代と社会状況2 アパルトヘイト」「モンド通信 No. 21」、2010年4月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(15) 第15章 ユーニス」「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解:12 エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ1 育った時代と社会状況1」 「モンド通信 No. 20」、2010年3月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(14) 第14章 ドクターGGの娘(後半)」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(13)第14章 ドクターGGの娘(前半)」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

2009年

“Human Sorrow―AIDS Stories Depict An African Crisis"(「ESPの研究と実践」第10号12-20頁。)【アフリカ/医療】【★出版】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(12)第13章 行方不明者」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(11)第12章 初めてのX線機器 」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)【南アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(10)第11章 リバーロード診療所」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(9)第10章 ンデル警察署」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解6:アフリカでのエイズの広がり」「モンド通信 No. 14」、2009年9月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(8)第9章 マインバ家」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解5:アフリカを起源に広がったエイズ」「モンド通信 No. 13」、2009年8月10日)【アフリカ/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(7)第8章 ハリマ」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解4:1981年―エイズ患者が出始めた頃2 不安の矛先が向けられた先」「モンド通信 No. 12」、2009年7月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(6)第7章 イアン・ブラウン」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解3:1981年―エイズ患者が出始めた頃1」「モンド通信 No. 11」、2009年6月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(5)第6章 メアリ・ンデュク」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)【医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(4)第5章 ベネディクト神父」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(2009年4月~2012年7月まで「モンド通信 」に連載。)【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』理解1:『ナイスピープル』とケニア」」「モンド通信 No. 9」、2009年4月10日)連載開始。【ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」「モンド通信 No. 8」、2009年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(2) 第2章・第3章」「モンド通信 No. 6」、2009年1月10日)【翻訳/ケニア/医療】【公開】

2008年

『アフリカ文化 [Ⅱ]ーアフリカとエイズと哀しき人間の性(さが)(上)』 (門土社で出版予定で送った原稿です。)【アフリカ/医療】【未出版】

「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(2008年12月~2011年6月まで「モンド通信 」に連載。)【翻訳/ケニア/医療】【公開】
「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(1) 著者の覚え書き・序章・第1章」「モンド通信 No. 5」、2008年12月10日)連載開始。【翻訳/ケニア/医療】

2007年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター4号」【日本語支援】【刊行】

『アフリカ文化論(一)ー南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)総64ページ。【アフリカ/医療】【★出版】

2006年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター3号」【日本語支援】【刊行】

「エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師」(門土社「mon-monde 」6号に収載予定で送った原稿です。)【南アフリカ/医療】【未出版】

「コンゴの悲劇 独立―新植民地支配の始まり」(門土社「mon-monde 」5号に収載予定で送った原稿です。)【アフリカ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 四 ゲイリーの家族」(門土社「mon-monde 」4号に収載予定で送った原稿です。)【ジンバブエ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 三 グレート・ジンバブエ」(門土社「mon-monde 」3号に収載予定で送った原稿です。)【ジンバブエ】【未出版】

「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 二 買い物と自転車」(門土社「mon-monde 」2号に収載予定で送った原稿)【ジンバブエ】【未出版】

「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号61-69頁。【アフリカ/医療】【★出版】

2005年

「宮崎大学医学部留学生ニューズレター2号」【日本語支援】【刊行】

「ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 1 初めてのアフリカ」「mon-monde」創刊号14-24頁。【ジンバブエ】【★出版】

「アフリカ文学とエイズ ケニア人の心の襞を映す『ナイス・ピープル』」「mon-monde」創刊 25-31頁。【ケニア/医療】【★出版】

「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」「ESPの研究と実践」第4号61-69頁。【南アフリカ/医療】【★出版】

「『日本語支援教育専修』と私」「日本語支援教育研究報告書」宮崎大学大学院教育文化学部修士課程学校教育専攻日本語支援教育専修【日本語支援】【刊行】

2004年

「宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報英語版」【日本語支援】【刊行】

「宮崎大学教育文化学部大学院修士課程日本語支援教育専修速報日本語版」【日本語支援】【刊行】

「宮崎医科大学留学生ニューズレター1号」」【日本語支援】【刊行】

「医学生とエイズ:ケニアの小説『ナイス・ピープル』」「ESPの研究と実践」第3号5-17頁。【ケニア/医療】【★出版】

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム草稿)【アフリカ/医療】【刊行】

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム報告)【アフリカ/医療】【刊行】

「 シンポジウム『アフリカと医療』~世界で一番いのちの短い国~」宮崎大学医学部国際医療保健研究会編【アフリカ/医療】【刊行】

「コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』」(「ごんどわな」25号に収載予定で送った原稿です。)【アフリカ】【未出版】

「エイズを主題とするアフリカ文学が描く人間性(さが)」(平成15年度版宮崎大学広報誌)「2003 Research研究活動紹介 宮崎大学」56頁。【アフリカ/医療】【刊行】

2003年

“Ngugi wa Thiong’o, the writer in politics: his language choice and legacy”「言語表現研究」19号12-21頁。【ケニア】【★出版】

2002年

「速達便」宮崎大学医学部すずかけ祭第27回パンフレット43頁。【随想】【刊行】

2001年

「新任教官紹介『宮崎も14年目にな【★出版】

「新任教官等紹介」宮崎医科大学「学園だより」第82号24頁。【案内】【刊行】

「ショナ人とことば」「ごんどわな」24号62-65頁。【ジンバブエ】【★出版】

「コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』」」「ごんどわな」24号2-5頁。【アフリカ】【★出版】

2000年

「ジンバブエ大学② ツォゾさん」「ごんどわな」23号(復刊2号)74-77頁。【ジンバブエ】【★出版】

「ジンバブエ大学① アレックス」「ごんどわな」22号(復刊1号)99-104頁。【ジンバブエ】【★出版】

「アフリカとエイズ」「ごんどわな」22号(復刊1号)2-14頁。【アフリカ/医療】【★出版】

1998年

Africa and Its Descendants 2: Neo-colonial Stage(英文書、Mondo Books)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

1997年

「高千穂小旅行」【随想】【未出版】

1996年

「なぜ英語が出来なかったか」すずかけ祭第20回宮崎医科大学パンフレット?頁。【随想】【刊行】

“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”「言語表現研究」12号73~79頁。【ラ・グーマ】【★出版】

1995年

“Africa and I”【随想】【未出版】

“I Like Michel ”【随想】【未出版】

Africa and Its Descendants(英文書、Mondo Books)【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

1994年

「ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて」「ゴンドワナ」21号6-19頁。【南アフリカ】【★出版】

1993年

「ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて」「ゴンドワナ」20号14-20頁。【南アフリカ】【★出版】

「海外研修記「『アフリカは遠かった』」宮崎医科大学「学園だより」第号10-11頁。【ジンバブエ/随想】【刊行】

「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」宮崎医科大学「学報」第50号18-19頁。【ジンバブエ/随想】【刊行】

1992年

「アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』」(翻訳書、門土社)【翻訳/ラ・グーマ】【★出版】

1991年

「マグディ・カアリル・ソリマン『エジプト 古代歴史ゆかりの地』」「ゴンドワナ」18号2-6頁。【翻訳/アフリカ】【★出版】

「自己意識と侵略の歴史」「ゴンドワナ」19号10-22頁。【アフリカ】【★出版】

And a Threefold Cord by Alex La Gum(註釈書、Mondo Books)【ラ・グーマ】【★出版】

「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」「ゴンドワナ」18号7-12頁。【南アフリカ】【★出版】

1990年

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」17号6-19頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」「ゴンドワナ」15号9-29頁。【南アフリカ】【★出版】

「ミリアムさんを宮崎に迎えて」「ゴンドワナ」15号2-8頁。【南アフリカ】【★出版】

1989年

「A Walk in the Night by Alex La Guma」(註釈書、Mondo Books)【ラ・グーマ】【★出版】

1988年

「アパルトヘイトの歴史と現状」「ゴンドワナ」14号10-33頁。【南アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」「ゴンドワナ」13号14-25頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)「ゴンドワナ」12号6-19頁。【南アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」「黒人研究」58号36頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト」「黒人研究」第58号103-15頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」「ゴンドワナ」11号39-47頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「グギの革命的後段(メタ)言語学1 『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の中の諺」「ゴンドワナ」11号34-38頁。【ケニア】【★出版】

「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」「ゴンドワナ」11号22-28頁。【南アフリカ】【★出版】

「Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用」「中研所報」20巻3号359-375頁。【ラ・グーマ】【★出版】

1987年

「あぢさい、かげに浜木綿咲いた」「英米文学手帖」24号123-124頁。【随想】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」「ゴンドワナ」10号24-29頁。【ラ・グーマ】【★出版】

“TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams ”(August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada)【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」「ゴンドワナ」10号10-23頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」「ゴンドワナ」9号28-34頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」「ゴンドワナ」8号22-26頁。【ラ・グーマ】【★出版】

「アフリカ・アメリカ・日本」「ゴンドワナ」7号24-25頁。【アフリカ】【★出版】

「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」「ゴンドワナ」7号19-24頁 。【ラ・グーマ】【★出版】

「リチャード・ライトとアフリカ」『箱舟、21世紀に向けて』(共著、門土社、1987年)147-170頁。【ライト/アフリカ】【★出版】

1986年

「黒人研究の会会報編集後記あとがき」「黒人研究の会報」第24号(1986年)12頁 。【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

「リチャード・ライトと『カラー・カーテン』(口頭発表報告)」「黒人研究の会会報」24号9頁。【ライト/アフリカ】【★出版】

「ミシシッピ、ナチェズから」「英米文学手帖」24号72-73頁。【ライト】【★出版】

「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」「ゴンドワナ」3号8-9頁。【随想】【★出版】

“Richard Wright and Black PowerMemoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48.【ライト/アフリカ】【★出版】

「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」「黒人研究」第56号50-54頁。【ライト】【★出版】

“Symbolical and Metaphorical Expressions in the Opening Scene in Native SonChuken Shoho, Vol. 19, No. 3: 293-306.【ライト】【★出版】

Native Sonの冒頭部の表現における象徴と隠喩」「言語表現研究」第4号29-45頁。【ライト】【★出版】

1985年

「黒人研究の会会報編集後記」「黒人研究の会報」第22号10頁。【アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

「リチャード・ライトとクワメ・エンクルマ-ブラック・パワーを中心に(口頭発表報告)」「黒人研究の会会報」22号6頁。【ライト/アフリカ/アフリカ系アメリカ】【★出版】

“Richard Wright Symposium”上記の英語訳。【ライト/翻訳】【★出版】

「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」「黒人研究の会会報」第22号4頁。【ライト】【★出版】

「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」「黒人研究」第55号26-32頁【ライト/アフリカ】【★出版】

1984年

「リチャード・ライトと『ひでえ日だ』」「黒人研究」第54号、33-38頁。【ライト】【★出版】

“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”Memoirs of the Osaka Institute of Technology, 1984, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.【ライト】【★出版】

「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」「言語表現研究」第2号1-14頁。【ライト】【★出版】

1983年

「リチャード・ライトと『残酷な休日』」「黒人研究」第53号1-4頁。【ライト】【★出版】

1982年

“Richard Wright and His World”兵庫教育大学修士論文(兵庫教育大学付属図書館所蔵)【ライト】【★出版】

「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点」「黒人研究」第52号1-4頁。【ライト】【★出版】

1981年

「貧しさの ゆゑにぞ寒き 冬の風」兵庫県立東播磨高等学校第7期生文集「どんぐりの実」4頁。【随想】【刊行】

1978年

「露とくとく」 兵庫県立東播磨高校文芸部「黄昏」6号32-34頁。【随想】【刊行】

1976年

「生きゆけるかしら」 兵庫県立東播磨高校文芸部「黄昏」6号 32-34頁。【随想】【刊行】

2010年~の執筆物

概要

圧倒的な財力でマスメディアを支配する先進国は一方的自分たちの主張を押しつけています。特にアフリカに対してはその傾向が強く、経済力を持たないアフリカ諸国は対抗するすべはありません。しかし、わずかながら主張を続けるメディアの一つが雑誌「ニューアフリカン」で、丹念にエイズに関する主張を拾い、包括的に分析しました。

「ニュー・アフリカン」

The aim of this paper is to show the importance of a holistic approach to African AIDS issues, the first step to a discourse on African AIDS, by analyzing appeals in the New African. Major themes are: origin of AIDS, accuracy of statistics and testing, drug toxicities, media coverage, and poverty. This article will focus on the origin of AIDS and the accuracy of statistics and testing.

For the New African, three aspects of the origin question are important: African sexuality, viral origins in African primates, and HIV as a man-made weapon of biological warfare. By the mid-1990s the epidemic was following a different pattern in Africa. In the West it was transmitted primarily through male homosexuals and intravenous drug users, but in Africa primarily through heterosexuals. Further, it was spreading much faster in Africa than in North America. Some tried to explain the difference by assuming African promiscuity. Geshekter, however, confronted this assumption and pointed out two reasons why AIDS was more prevalent in Africa: AIDS was not as prevalent in Africa as it had seemed, and there were other factors besides sexual activity to account for its spread. The former case was due to an inaccuracy of statistics and testing; statistics of the epidemic were collected from diagnoses which had a combination of symptoms (cough, diarrhea, weight loss) common to other diseases. The latter case is based on such factors as the political economy leading to African poverty.

We cannot deny the possibility that HIV is a man-made weapon of biological warfare, for its production is closely related to the profits of the defense and pharmaceutical industries.

The New African points the way to a discourse on AIDS in Africa.

本文

「ニューアフリカン」から学ぶアフリカのエイズ問題

1.マスメディアのアフリカ報道

雑誌「ニューアフリカン」

日頃マスメディアから情報を得ることが多いのですが、利益が最優先される資本主義社会では、資金力を持つ側の意図的な情報を無意識のうちにすり込まれている場合も多く、アフリカやエイズについては、とりわけその傾向が強いと思います。

朝日新聞の書評欄を一例に考えてみたいと思います。『エイズを弄ぶ人々―疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』というエイズ関連の一冊です。著者は米国コネクティカット大学の心理学の教授で、「史上最悪の疑似科学である『HIV/エイズ否認主義』ほど多くの犠牲者を出したものは他にない」、「例えば南アフリカでは、ムベキ大統領が否認主義者の主張を真に受けてエイズ対策を誤り、260万人以上が犠牲者になったという。その政策の助言者の一人が、アメリカのがん遺伝子研究の権威、ピーター・デューズバーグであった事実には驚かされる。」が紹介されています。しかし、著者の書いた内容は正しくありません。ムベキはデューズバーグを大統領諮問会議に招待しましたが、その主張を真に受けてはいませんし、260万人以上が犠牲者になったとしても、否認主義者の主張をムベキが真に受けたからではありません。著者はマスメディアの情報を鵜呑みにしてムベキを非難し、自分自身の偏見には気づいていません。そして、評者はその著書を肯定的に推奨しています。三大紙の朝日新聞が、事実を正しく理解していない人に書評を依頼すべきではありません。私も含めた読者は新聞の情報の対価として代金を支払っているのですし、その書評を見て本を求める人も多いのですから。

そもそも、ムベキがエイズ対策を誤ったと誰が非難出来るのでしょうか。現在の貧困や危機的な状況を生み出したのは、平和に暮らしていたアフリカ人から力づくで土地を奪い、長い間アフリカ人を食いものにして来たオランダ系やイギリス系の入植者です。アフリカ人との全面戦争になれば大量の武器が流れこんですべてが消えてしまうと危惧した入植者は、莫大な利益を分かちあっている米国、英国、日本などの「先進国」と画策して「民主的な」選挙を実施し、何とかアフリカ人に政権を移譲しました。つまり、安価なアフリカ人労働者からの搾取構造を温存するのに辛うじて成功したわけです。しかし、独立したアフリカ諸国が皆そうであったように、主要な産業も財政基盤もほぼ押さえられたままで、形だけのアフリカ人政権に一体何が出来ると言うのでしょうか。

マンデラとムベキはそんな状況の中でも、最大限の努力をしています。マンデラは曲がりなりにも新政権の道筋をつけましたし、ムベキはマンデラの大統領代行としてエイズ問題を一手に引き受けました。当時のエイズの状況が世界貿易機関(WTO)が決める知的財産所有権の例外条項である「国家的な危機や特に緊急な場合」だと判断して、1997年に「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。しかし、米国の副大統領ゴアは南アフリカの状況は「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたらないと主張して圧力をかけ、国際的な非難を浴びました。ゴアは「ムベキとともに、米国―南アフリカ二国間委員会の共同議長としての役割を利用して」、「悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返した」わけです。

当時のゴアの同僚米保健福祉省長官(1993~2001)シャレーラは、「ムベキはエイズを否定すると言うよりむしろこれを陰謀と捉えていたと思います。アフリカ人特有の考え方ですね。当時ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しましたが、形式的な返事が返って来ただけでした。こちらの話に礼儀正しく耳を傾けてからこう言ったんです。『やるべきことは分かっています。どうもありがとう。』」5と言っていますが、法律を撤回しないのなら二国間援助を打ち切るとムベキを恫喝しておきながら、「ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しました。」とはよくも言えたものです。

マンデラを獄中に閉じ込め、ムベキに亡命を強いた白人政府と貿易で莫大な利益を分かち合って南アフリカの多数のアフリカ人を苦しめ続けておきながら、何とも恥知らずな人たちです。圧倒的な財力にまかせてマスメディアを利用して一方的に大きな声を張り上げ続けるわけですから、ムベキが「礼儀正しく耳を傾けて」「やるべきことは分かっています。どうもありがとう。」と「形式的な返事」をしたのも自然な対応です。メディアを制する「先進国」の圧倒的な声の前では、アフリカ人には沈黙を守るしか術がないのですから。

ムベキは2000年のダーバンでの国際エイズ会議で、内外の批判を覚悟のうえで、「私たちの国について色々と語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えます。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているように私には思えてなりません。そして、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達しました。」という従来の主張を敢えて繰り返しました。

西洋のマスメディアは皆、相変わらずムベキを厳しく批判し続けましたが、「ニューアフリカン」は西洋とは異なる分析の記事を多数掲載して、ムベキを擁護しました。双方の主張を冷静な目で見比べれば、いかに「先進国」が一方的で独善的かが容易にわかります。

タボ・ムベキ

エイズは自分の体を外敵から守るために人間が本来持っている免疫の働きをウィルスによって侵される疾病ですが、その免疫機構も健康な体が維持されての話です。前ザンビア大統領カウンダが言ったように、もしアフリカ人が西洋諸国並みの水準で生活出来るなら、「たとえ病気になっても、もっと強くなれる・・・」でしょう。しかし、多くの人は開発や援助の名目で先進国に搾取されながら、食うや食わずの生活を強いられています。南アフリカに住む大半の人たちは、アパルトヘイト政権時代とあまり変わらず、スラムにひしめきながら極めて低い水準の生活を強いられています。南アフリカで「260万人以上が犠牲者になった」のは、ムベキが対策を誤ったからではなく、著者カリッチマンの米国や日本などの「先進国」が、白人政権と共にアフリカ人に犠牲を強いて来た結果に過ぎません。

免疫不全の疾病と戦うのに、免疫力を弱める根本原因の貧困問題を考えずに、抗HIV製剤を声高に叫ぶ欧米や日本のマスメディアの方が余程おかしいでしょう。胃腸の調子がおかしい時に大量の薬を飲むのも、食べるものがない状態で副作用の強い薬を飲むのも苦しいだけなのですから。「いくらすぐれた薬が出来ても、満足に食べられないアフリカ人には抗HIV製剤だけがすべてではない」と言うカウンダの言い分は、至極まっとうです。

ケネス・カウンダ

アフリカ人のことはアフリカ人に聞くのが当然で、「ニューアフリカン」の提起する問題はアフリカ人とアフリカ人の考え方を知る上での一つの大きな手掛かりです。

2.「ニューアフリカン」が問いかけるもの

2. 1「ニューアフリカン」

ロンドン拠点の「ニューアフリカン」は1966年創刊の英語の月刊誌です。「毎月、二十二万人がアフリカ大陸での最新の情報を逃さないように『ニューアフリカン』を購読し」、「官僚やビジネスマン、医師や弁護士などや、アフリカに関心のある人たちには大切な雑誌です。」10編集長は永年英国に住むガーナ出身のパンアフリカニストバッフォー・アンコマーで、1999年に英国人アラン・レイクに代わって編集長になっています。同じ年にムベキが大統領になり、歩調を合わせるように雑誌の傾向を大きく変えました。アフリカ人が執筆したエイズに関する記事が大幅に増え、扱うテーマも、それまでのエイズ検査や統計の問題に加えて、抗HIV製剤と副作用、ムベキとメディア、エイズと貧困など、幅を広げました。その後の約十年間に掲載されたエイズ関連の記事は、①エイズの起源、②エイズ検査、③統計、④薬の毒性(副作用)、⑤メディア、⑥貧困などが中心です。エイズの起源と検査と統計に焦点を絞り「ニューアフリカン」の提起する問題を探りたいと思います。

バッフォ・アンコマー

2. 2エイズの起源

正確にはヒト免疫不全ウィルスの起源、エイズを引き起こすウィルスはどこから来たかと言う問題です。「先進国」はウィルスの起源がアフリカであるとさかんに話題にしますが、アフリカ人の見方は違います。最初にエイズ患者が出たのは米国なのに、アフリカ起源説はおかしい、西洋社会は流行の責任をアフリカに転嫁している、と考えます。

ダウニングは1990年代の半ば頃に東アフリカの病院で働いている時に同僚のアフリカ人からエイズの起源の話をよく聞いたと述懐して次のように書いています。

「エイズの起源は議論の余地がある問題でしたが、エイズが現に存在し、私たち医者の仕事はエイズを防ぐために努力し、そのために最善を尽すだけだと思っていました。しかし、いっしょに働いているアフリカ人たちには、それだけでは不十分で、誰もが「ニューアフリカン」を読んだこともない田舎の人たちでしたが、私が本当にアフリカがエイズの起源だと考えているかどうかを知りたがりました。私には実際わかりませんでしたし、本当に気にもしませんでしたが、エイズについてのアフリカ人の本当の声を聞くある重要な手掛かりを教えてもらっているとはその時は気づいていませんでした。」11

ダウニング著『その人たちはどう見ているのか?』

元海外青年協力隊員も1990年代半ばにタンザニアで同じ話を聞いています。12

「ニューアフリカン」は「アフリカ人の性のあり方」、「アフリカの霊長類がウィルスの起源」、「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」という3点から見て、エイズの起源の問題が重要だと考えて関連する記事を早くから数多く掲載し、欧米や日本などの「先進国」で広く信じられている通説への反論を展開し、大きな問題提起を繰り返して来ました。

欧米では感染者が主に男性同性愛者と麻薬常用者であったのに対して、アフリカでは異性間の性交渉で、しかも欧米よりもはるかに速く感染が拡大していた点で、エイズの流行の仕方が大きく違っていることが90年代の半ば頃までに明らかになっていました。

麻薬常用者(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」、2006年12月20日NHKBS1)

その違いを説明しようとしたのは主に「アフリカ人が性にふしだらであると思い込んでいる人たち」で、ゲシェクターはその思い込みに反論して、「アフリカ人が特に性にふしだらだとする証拠はなく、結果的に考えられるのは、(1)エイズは世界で報じられているほどアフリカでは流行していないか、(2)流行の原因が他にあるかだ」13と指摘しています。

ゲシェクターは主流派の言う「HIV/エイズ否認主義者」の一人で、1994年にエイズ会議を主催して主流派を学問的にやりこめました。ムベキの大統領諮問会議にも招聘され、「ニューアフリカン」でも執筆しています。しかし、政府も製薬会社も体制派もマスコミ(資金源は体制派)もこぞってその会議を黙殺しました。(日本政府の推進する原子力エネルギーの危険性を指摘した人たちが冷遇され、「安全神話」で政策を擁護する「原子力村」が優遇された構図とよく似ています。)

ゲシェクターが「(1)エイズは世界で報じられているほどアフリカでは流行していない」と考えたのは、患者数の元データが極めて不確かだったからです。エイズ検査が実施される以前は、医者が患者の咳や下痢や体重減などの症状を見て診断を出していましたが、咳や下痢や体重減などは肺炎などよくある他の疾病にも見られる一般症状で、かなりの数の違う病気の患者が公表された患者数に紛れ込んでいる確率が高かったわけです。検査が導入された後も、マラリアや妊娠などの影響で擬陽性の結果がかなり多く見受けられ、検査そのものの信ぴょう性が非常に低いものでした。「1994年の『感染症ジャーナル』の症例研究では、『結核やマラリアやハンセン病などの病原菌が広く行き渡っている中央アフリカではHIV検査は有効ではなく70%の擬陽性が報告されている』という結論が出されています。」14つまり、公表されている患者数の元データそのものが極めて怪しいので、実際には世界で報じられているほどエイズは流行していないとゲシェクターは判断したのです。

2000年前後に「30%以上の感染率で、崩壊する国が出るかも知れない」という類の記事がたくさん出ましたが、潜伏期間の長さを考えても、十年以上経った今、エイズで崩壊した国はありませんから、報道そのものの元データが不正確だったと言わざるを得ません。

「(2)流行の原因が他にある」とゲシェクターが考えたのは、アフリカがエイズ危機に瀕しているのは異性間の性交渉や過度の性行動のせいではなく、低開発を強いている政治がらみの経済のせいで、都市部の過密化や短期契約労働制、生活環境や自然環境の悪化、過激な民族紛争などで苦しみ、水や電力の供給に支障が出ればコレラの大発生などの危険性が高まる多くの国の現状を考えれば、貧困がエイズ関連の病気を誘発する最大の原因であると言わざるを得ないからです。それは後にムベキが主張し続けた内容と同じです。15

「アフリカ人の性のあり方」

「エイズと、性的にアフリカ人がふしだらだという神話」の冒頭で、ゲシェクターは、1994年の第10回国際エイズ会議(横浜)での塩川優一の「アフリカ人が性的欲望を抑制しさえすれば、アフリカのエイズの流行は抑えられる」16という発言を「神話」の一つとして引用しています。(塩川優一は東京帝国大学医学部卒、当時順天堂大学教授で厚生省お抱えの学者、横浜エイズ会議の組織委員長であり、厚生省エイズサーベイランス委員会委員長をつとめ、薬害エイズ事件では第1号患者の認定をめぐって批判された人物です。)

「アフリカ人の過度の性行為についての神話」は目新しいものではなく、「異常に大きな陰核のゆえに性的に飽くことを知らない黒人女性と性の饗宴にふける黒人男性の話」は、「アフリカ人は幼稚で野蛮である」などの話とともに、植民地時代の初期にヨーロッパの探検家が持ち帰って広めたものです。アフリカ争奪戦で野蛮の限りを尽す帝国主義者にとっても、自国に利益をもたらし生活を豊かにしてくれる植民地政策を支持する人たちにも、理不尽な植民地支配を正当化するためには数々の神話が必要だったのでしょう。

神話は「猿の血を媚薬として切り傷に擦り込んだザイール人の話」、「潰瘍のある性器の苦情が広まっている話」、「売春婦からHIVをもらい、自分の妻にうつしているアフリカのトラックの運転手の都市伝説」など、範囲が広がり、新たに「割礼や一夫多妻制などのアフリカの伝統的な習慣が流行に拍車をかけている」という神話まで付け加えられました。市場拡大を目論む製薬会社にも、「開発」や「援助」の名目で利益を貪る多国籍企業や政府にも、貿易や投資で生活が潤う先進国の人にも、今も「神話」は不可欠なのでしょう。

ゲシェクターはいくつかの根拠をあげて「神話」に反論しています。

「過度の性行為」については「エイズ地帯のルワンダ、ウガンダ、ザイール、ケニア人々がカメルーン、コンゴ、チャドの人たちより性的に活動的だと証明した人もいないし、精力を計る基準の男性ホルモン(テストステロン)の値は世界中どこでもそう大差はないので、ある大陸や地域の男性が他の所の男性より過度に性行為にふけるということはないという概念を忘れてしまっている。」と科学者の一方的な主張を戒め、「アフリカ人が性にふしだらである」については、1991年のウガンダ北部モヨ地区の性行動の調査を引用して、性行動が西洋人と大して違わないと指摘しています。調査の結果は、女性の初体験は女性が平均17歳、男性が19歳、結婚前の性体験は女性で18%、男性で50%でした。割礼については、女性の間でもっとも広く割礼が行われているソマリア、エチオピア、ジプチ、スーダンでエイズ患者が一番少ない事実を科学者が無視していると指摘し、そもそも公の場で性的な感情を表わすのが女性の「資質」を貶めると考える地域と、ボーイフレンド、ガールフレンドが当たり前の西洋を同じ基準で論じること自体がおかしいと述べ、トラックの運転手についても、性的な行動面から見てアフリカ人の運転手はアメリカやヨーロッパの運転手と大差はなく、東アフリカのトラックの運転手だけを非難するのは片手落ちであると指摘しています。

「アフリカの霊長類がウィルスの起源」、「米国産の人工生物兵器としてのウィルス」

アフリカの霊長類起源説は培養して証明に使用したウィルス自体があやしい、ウィルスの人工説は、生物兵器製造疑惑説に応えた国会証言やB型肝炎の男性同性愛者などへの実態実験と最初のエイズ患者との時期的な符合している、というのが主な根拠です。

アンコマーは早くからエイズが人工的に生み出された病気だと主張して来ましたが、皮膚科医アラン・キャントウェルJrはエイズと癌の研究者として数々の具体的な根拠を示して、HIVが米国産の人工ウィルスで、エイズが生物兵器の実験から生まれたものではないかと結論づけました。起源説を主張するロバート・ギャロやマックス・エセックスは政府や製薬会社やマスコミとの繋がりが強く、学問的に過去に重大な間違いをおかしてきたこと、1978年に男性同性愛者に実施されたB型肝炎の人体実験がエイズの発症に大きく影響した可能性が強いこと、過去に米国政府が人体実験を行なった疑いが濃いことなどがキャントウェルの根拠です。17キャントウェルはすでに紹介した1994年のエイズ会議の立役者の一人で、会議は政府や製薬会社やマスコミに黙殺されました。

アフリカ起源説を言い出したのは、国立癌研究所でエイズウィルスを発見したと主張していたギャロです。国立癌研究所は、生物兵器開発研究の批判をかわすために1971に大統領ロバート・ニクソンが米国陸軍生物兵器研究班の主要な部分を移した施設です。ギャロはパリのモンタニエ研究所からウィルスを盗んだと告訴されて係争中でしたが、評価が下がるどころか、1983年にウィルスの共同発見者の権利と血液検査機器の使用料を分け合うことで合意し、1994年までに使用料だけでも35万ドルの利益を得たと言われています。ギャロのアフリカ起源説を押し進めたのがハーバード大学の獣医師エセックスで、1988年にアフリカのミドリザルで二つ目のエイズウィルスを発見したと発表して評判になりましたが、そのウィルスがマサチューセッツ州のニューイングランド霊長類研究所でエイズに似たウィルスから感染した「汚染」ウィルスだったことが後にわかったうえ、ミドリザル起源説自体も否定されました。ギャロも1975年に新しい人間のエイズウィルスを発見したと発表しましたが、後に自分の研究所の猿のウィルスだったことがわかりました。

元々推論の域を出ないウィルスの起源に意味があるとも思えませんが、1988年には、モンタニエ研究所の所長モンタニエも、当時世界保健機構のエイズ特別プログラムの委員長だったジョナサン・マンも、色々な説による情報が出れば出るほど、ウィルスの起源については謎が深まるばかりであると認めざるを得ませんでした。

政府の遺伝子組み換えによる超強力細菌兵器開発計画疑惑は、医師ドナルド・マッカーサーが国会で証言した1969年に遡ります。マッカーサーは、専門家なら遺伝子操作で、細菌に対して免疫機構が働かなくなる、極めて効果的な殺人因子となる超強力細菌の開発は可能であることを示唆し、「次の五年か十年の間に、既存の病原因子とはある重要な点で異なる新しい感染性の微生物を作る可能性があり、感染症から比較的容易に身を守るために頼っている現存の免疫学的な手法や治療方法では手に負えなくなると思います。」と証言しましたが、その証言は80年代初頭の最初のエイズ患者騒動と時期が符合しています。

過去に米国がB型肝炎の人体実験を男性同性愛者に行なった事実や、癌研究の名の下に生物兵器の研究を継続し、放射能の人体実験を行なった疑いが濃いこと、それらが兵器産業や製薬会社などと密接に繋がっていたという構図を考えれば、「アフリカ人が性にふしだらであると思い込んでいる人たち」が主張し続けるエイズのアフリカ起源説より、エイズが人工的に造り出された病気であるという主張の方がはるかに信憑性があります。

2. 3エイズ検査と統計

不正確な検査や統計に基づいたエイズ報道は信用せずに、アフリカ政府は援助に頼る悪弊を断ち切って適切な対策をとるべきだと「ニューアフリカン」は主張してきました。

2000年前後にマスコミは意図的にアフリカのエイズ危機を書き立てました。例えば、1998年に東京で開催された第2回アフリカ開発会議(TICADII)では、国際連合エイズ合同計画(UNAIDS)のピーター・ピオットが「エイズ/HIVは人的被害、死、生産性の低下など、甚大な犠牲を強いて来ました。現在、エイズ/HIVで苦しむ3100万の成人と子供のうち、2100万人がアフリカで生活しています。エイズ/HIVで苦しむ女性の80%はアフリカにいます。結果的に平均寿命は短くなり、乳幼児の死亡率は上昇し、個人の生産性と経済発展が脅かされています。知らない間に広がるエイズ/HIVの影響は経済や社会活動のすべての領域に及んでいます。」という「東京行動計画」を会議の最後に滑り込ませました。

同じ年に国連は、エイズが多くのアフリカ諸国で劇的に平均寿命を縮め、次の10年から15年の間に想像以上に人口が激減するという予測の世界人口調査結果を発表し、その結果を元にニューヨークタイムズなどが「サハラ砂漠以南のアフリカで最も被害が大きい国ボツワナでは、わずか5年前には61歳であった平均寿命が今や47歳に落ち、2000年から2005年の間には41歳まで下がるでしょう。成人の5人に1人がHIVの陽性であるジンバブエでは、死亡率は国の人口増加を激減させており、1980年から1985年の間の年間3.3%から現在の1.4%に、2001年には1%以下に下がると予測されています。もしウィルスがなければ、現在恐らく2.4%の増加率を示していたでしょう。」という類の記事をさかんに載せました。

それらの記事に使われた数字は、世界保健機構(WHO)が1985年10月に中央アフリカ共和国の首都バングイで採択したバングイ定義に沿って計算されたものです。採択された「アフリカのエイズ」のWHO公認の定義は、「HIVに関わりなく、慢性的な下痢、長引く熱、2ヶ月内の10%の体重減、持続的な咳などの臨床的な症状」で、「西洋のエイズ」の定義とは異なります。しかも栄養失調で免疫機構が弱められた人が最もウィルスの影響を受け易いうえ、性感染症を治療しないまま放置していると免疫機構が損なわれて更に感染症の影響を受けやすくなりますので、マラリアや肺炎、コレラや寄生虫感染症によって免疫機構が弱められてエイズのような症状で死んだアフリカ人は今までにもたくさんいたことになります。つまり、その人たちも含まれるバングイ定義に沿ってコンピューターによってはじき出された数字は、アフリカの実態を反映したものではなかったわけです。

英国のテレビプロデューサー/ジャーナリストのジョーン・シェントンは研究者チームを連れてガーナとコートジボワールに渡って調査を行ない「ガーナで227名の患者に、コートジボワールでは135名の患者に『HIVと関わりのないエイズ』を発見しました。すべての患者はアフリカに昔からある体重減、下痢、慢性的な熱、肺炎、神経的な疾病の症状を呈していました。しかもガーナの227名、コートジボワールの135名がHIVの陰性でした。」と報告しました。18

エイズ検査の結果も極めて不確かで、資金不足のためにアフリカの病院で一般に行われていたELISA法[酵素免疫吸着測定法]による血液検査では83%も擬陽性が出る可能性があると言われていましたし、ロンドンでも研究所によって結果が違い、一ヶ月の間に検査結果が二転三転した例も報告されていました。ダウニングも、妻にELISA法での陰性の結果が出て、ナイロビの病院でウエスタンブロット検査を受けたが判定できないと言われ、結局米国で検査を受けて陰性ではないと判った経験があると綴っています。

ではなぜそんなでたらめなデータがまことしやかに流れたのでしょうか。理由は簡単ですが、原子力エネルギー政策に似て、利害が絡む事態は複雑です。

シェントンが「アフリカでは肺炎やマラリアがエイズと呼ばれるのですか?」と質問した時、ウガンダの厚生大臣ジェイムズ・マクンビは「ウガンダではエイズ関連で常時700以上のNGOが活動していますよ。これが問題でしてね。まあ、いつくかはとてもいい仕事をやっていますが、かなりのNGOは実際に何をしているのか、私の省でもわかりません。評価の仕様がないんです。かなり多くのNGOが突然やって来て急いでデータを集めてさっと帰って行く、次に話を聞くのは雑誌の活字になった時、なんですね。私たちに入力するデータはありませんよ。非常に限定された地域の調査もあり、他の地域が反映されていない調査もあります。」と答えました。19別のウガンダ人バデゥル・セマンダは「人々はエイズで儲けようと一生懸命です。もしデータを公表して大げさに伝えれば、国際社会も同情してくれますし、援助も得られると考えるんです。私たちも援助が必要ですが、人を騙したり、実際とは違う比率で人が死んでいると言って援助を受けてはいけないと思います。」20と語りました。

シェントンが言うように、「エイズ論争は金、金、金をめぐって行われて来ました。ある特定の病気にこれほど莫大な金が投じられてきたのは人類の医学史上初めてです。」21

製薬会社(「エイズの時代)

莫大な利益を追い続ける製薬会社、10年間成果を上げられず継続的な資金を集めたい国連エイズ合同計画やWHO、研究費獲得を狙う研究者や運営費を捻出しようとするNGO、投資先を狙う多国籍企業や援助を目論むアフリカ政府、どこにとっても大幅に水増しされても世界公認の国連やWHOお墨付きの公式データが是非とも必要だったというわけです。

3.包括的な捉え方と意識変革の必要性

英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが「奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取って来た『先進国』は、形こそ違え、今もそれを続けています。アフリカに飢えている人がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取ってきた富、今はそれを返す時に来ているのです。」(1983年NHK「アフリカシリーズ第8回植民地支配の残したもの」)と言ってから30年にもなります。エイズ論争が浮き彫りにしているのは、エイズを口実に、相も変わらずアフリカを食いものにする「先進国」の愚かしい姿です。

バズゥル・デヴィドスン

アンコマーは「一番厄介なのは、世界中の人々がこれらの数字を額面通り受け取り、アフリカ人はほとんど誰もが頭からつま先までHIVウィルスにまみれ、もし今死ななくても、十年かそこらのうちに死ぬのを待っているだけだと信じることです。」22と指摘し、「アフリカ自体が自身と誇りを持つために、今こそ各国政府は自身の無気力、無関心な態度を捨て去り、アフリカ起源説の無実の罪を着せられかけた1980年代初頭にハイチがしたように、これらの数字に正々堂々と反論して闘うべきです。死を待つだけと言われている2600万人の市民とともに生きているのは、最終的にはアフリカの政府なのですから。」23と訴え続けています。

ムベキは聞く耳を持たない人に語りませんでしたが、その沈黙は「上からの押しつけで、沈黙の下には、無数の小さな屈辱と大きくて修復しがたい屈辱から生まれた封じ込められた怒りが籠もっている」24のです。

アフリカのエイズについてはアフリカ人に聞くべきです。アフリカ人とアフリカのエイズの実態を理解するためには、ムベキやアンコマーが提言している問題も含めて、「ニューアフリカン」は一つの大きな手掛かりを与えてくれています。発展途上国の犠牲の上に繁栄する「先進国」の私たちこそが、素直に耳を傾けるべきです。

  1. 2011年4月17日付朝日新の書評欄で取上げられた野中香方子訳セス・C・カリッチマン著『エイズを弄ぶ人々―疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』(化学同人、2011年)
  2. 「『ナイスピープル』理解15:エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代4 アパルトヘイト政権の崩壊とその後」「モンド通信 No. 32」、2011年4月10日)を参照。
  3. 池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」(朝日新聞1999年8月6日)。南アフリカとエイズに関しては、①「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」(「ESPの研究と実践」第4号61-69頁。)、②「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)、③「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)を参照。
  4. Editorial. (July 1, 1999) “Gore’s humanitarianism loses out to strong-arm tactics.” Nature.
  5. ムベキとダーバン会議については「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)を参照。
  6. NHKBS ドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」(2006年12月20日NHKBS1)
  7. “Speech at the Opening Session of the 13th International Aids Conference." (July 9, 2000, http://www.anc.org.za/ancdocs/history/mbeki/2000/tm0709.html)
  8. Downing, Raymond. (2005) As They See It – The Development of the African AIDS Discourse. 22. London: Adonis & Abbey. エイズと免疫については「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)を参照。
  9. Downing. 21-23.
  10. Downing, 33. 2005年の夏からはウェブでも配信されていますが、現在住んでいる宮崎のような地方都市では「タイム」や「ニューズウィーク」のようにはいきません。
  11. Downing. 21-23.
  12. 1990年代中頃に海外青年協力隊員としてタンザニアキゴマの中学校で理科の教師をしていた時に、北海道足寄我妻病院の服部晃好医師が同僚から同じ話聞いています。
  13. Geshekter, Charles. (October, 1994) “Aids and the myth of African sexual promiscuity." New African. 16-17.
  14. Geshekter. 17.
  15. ムベキの主張した内容については「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ)を参照。
  16. Geshekter. 16.
  17. Cantwell, Alan Jr. (October, 1994) “Aids is not African." New African. 10-14.
  18. Ankomah, Baffour. (December, 1999) “Are 26 million Africans dying of Aids?" New African. ?18.

19, 20. Ankomah. 19.

  1. Ankomah. 16.

22, 23. Ankomah. 15.

  1. Farmer, Paul. (2003) Pathologies of power: Health, Human Rights, and the New War on the Poor. 22-28. Berkeley: University of California Press.

本稿は科学研究費の課題「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(基盤研究(C)課題番号:21520379:平成21 年度~平成23 年度)の一環として書いたもので、課題「1950~60 年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」(一般研究(C):昭和64 年度)と課題「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」(基盤研究(C)課題番号:15520230:平成15 年度~平成18 年度)の延長上にあります。

執筆年

2011年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第10号25-34ペイジ

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(作業中)

つれづれに

2019年10月15日

久しぶりの更新です。

10月やと言うのに暑い日が続いています。それでも朝晩や、風には秋の気配が。今週末に台風が過ぎ去ったら、一気に秋になりそうです。

今年の畑は南瓜畑。東京では2,3千円もするのがわかった瓢箪南瓜が好評で、9月の個展に今年も一箱送りました。

 

この前の台風で全体が傾いていますが、すでに盛りは過ぎています。


 

一個が二千数百円で駅市場に出てるよと言われて、うそやろと思いましたが。そのあと神戸の元町の商店街を歩いているときに同じものをみましたが、数百円、宮崎の道端では2,3百円で売られてるのをみて、やっぱり東京だけなんやと合点がいきました。

今年は希釈した酢をまけば大丈夫やないかもと淡い期待を抱いて9月の初めと半ば頃に大根の種を蒔いたものの、やっぱりこの惨状↓

近くでは8月の終わりか9月の初めに切り干し大根用の種がまかれますが、虫にやられてる気配なし、相当薬をまいてるんやろなあ。おまけに化成肥料の白い粒をまいてる光景をよくみかけるので、ぱんぱんに太らせた大根を千切りにして干し店に出されている切り干し大根を買っている姿を見ると、これ買うしかしゃーないんよなあ、と思ってしまいます。

ほかにおくら。↓今までのと違う種類で、日持ちがいいみたいです。前のは取ったらすぐ食べないとすぐ固くなったり傷んだりするので、お百姓さん大変やろな。冬場にタイのおくらが出回るけど、タイから運ぶとなると、ポストハーベスト結構きついんやろな、と思うと食べられへんねえ。そう言うてたら、食べるのもなくなる、ま、より安全なものを食べるしかない→より安全なものを食べるには、お金がかかる、大変な世の中やなあ、ほんま。

夏休みの間に結構書いて、ブログも更新しました。ブログへの移行は、まだしばらくかかりそうですが。

去年の4月に「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」で科学研究費を交付されたのを機に、高校の教師を辞めて大学を探してた時のことをいろいろ書きました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜一覧」(2019年3月13日)「続モンド通信」に連載

一番最近のは→「アングロ・サクソン侵略の系譜8:『黒人研究』」(2019年9月20日)「続モンド通信10」

ラ・グーマについても書きました。→→「『まして束ねし縄なれば』の文学技法―雨の象徴性と擬声語の効用を軸に―」「言語表現研究」(2020年3月)37号(収載予定)

やっと引っ越しできそうな気配でしたが、うまく行かず、今しばらく宮崎にいることになりそうです。後期の授業も始まっています。きのうで一巡、結構プリントの準備もあって、といつも通りです。

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の16回目です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

メディアと雑誌「ニューアフリカン」

今回はメディアと雑誌「ニューアフリカン」について書きたいと思います。

大抵の知識や情報は、本や新聞や雑誌、テレビやインターネットなどから得ています。その情報を最終的には自分が判断するにしても、利益が最優先される資本主義社会では、無意識にすり込まれている場合もあります。しかも、マスメディアがたれ流す情報は一方的ですので、アフリカやエイズについては、とりわけその傾向が強いと思います。

4月17日の朝日新聞の書評欄の本を例に考えてみましょう。
『エイズを弄ぶ人々―疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』という翻訳本(野中香方子訳、化学同人、23100円)です。「史上最悪の疑似科学である『HIV/エイズ否認主義』ほど多くの犠牲者を出したものは他にない」と考える著者セス・C・カリッチマンは、その例としてムベキを以下のように取りあげています。

「例えば南アフリカでは、ムベキ大統領が否認主義者の主張を真に受けてエイズ対策を誤り、260万人以上が犠牲者になったという。その政策の助言者の一人が、アメリカのがん遺伝子研究の権威、ピーター・デューズバーグであった事実には驚かされる。」

著者の肩書きは「米国・コネクティカット大学教授。心理学者」、ごたぶんに洩れず、マスメディアの情報を鵜呑みにして、得意げにムベキを非難していますが、一方的なマスメディアの主張と事実は明らかに違います。ムベキはデューズバーグを会議に招待しましたが、その主張を真に受けてはいませんし、百歩譲って、仮にムベキがエイズ対策を誤り、260万人以上が犠牲者になったのが事実だとしても、否認主義者の主張を真に受けたからではありません。

そもそも、ムベキがエイズ対策を誤ったと誰が非難できるでしょうか。前回の<15>→「『ナイスピープル』を理解するために―(15)エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後」「モンド通信 No. 32」、2011年4月10日)でも書きましたが、全面戦争になればアパルトヘイト政権に群がっている諸国の利益が殺がれるので現存の搾取構造を温存して(多数のアフリカ人の賃金は据え置きにして)政権だけアフリカ人に譲る、そんな取り決めのもとに任された政権で、主だった産業や財政を押さえられてたまま予算も自由に使えずに、一体何が出来ると言うのでしょうか。

タボ・ムベキ

それでもマンデラもムベキも、誠実に出来る限りのことをよくやったと思います。1994年のマンデラ政権でムベキは、白人との駆け引きも含め様々な問題で手一杯のマンデラに代わり、大統領代行としてエイズ問題を一手に引き受けました。その取り組みの一環として、当時の南アフリカのエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」だと判断して、1997年にHIV感染者が新薬の恩恵を受け易いように、薬の安価な供給を保証するために「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。急増するHIV感染者の実態を見れば、根本的な治療薬ではないにしてもHIVを持ったまま生活が出来る抗HIV製剤があれば、誰でも使おうと思うでしょう。しかし世界貿易機関の取り決めで特許料を払うとすれば手も足も出ません。(NHKスペシャル「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地~南ア・ジンバブエ」(2002年2月20日)では、「その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉して10分の1の価格で輸入出来るようにはなりましたが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者があまりにも多すぎて薬代を政府が賄うことが出来なかったからです。感染者すべてに薬を配るとすれば、年間6000億円が必要で、国家予算の3分の1を当てなければなりませんでした。」と報告されています。)

抗HIV製剤

ならば世界貿易機関の貿易関連知的財産権協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に認めているコンパルソリー・ライセンスを制定して薬を供給しよう、とムベキが考えたのはむしろ当然でしょう。

しかし、米国の副大統領ゴアは南アフリカのエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたらないと主張し、「南アフリカ大統領タボ・ムベキとともに、米国―南アフリカ二国間委員会の共同議長としての役割を利用して」、「悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返したのです。」[英国の科学誌「ネイチャー」(1999年7月1日)]「『ナイスピープル』を理解するために―(8)南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日))、『ナイスピープル』を理解するために―(9)エイズ治療薬と南アフリカ(1)」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)、「医学生とエイズ:南アフリカとエイズ治療薬」(「ESPの研究と実践」第4号61-69頁、2005年)で詳しく書きました。

当時ゴアと行動を共にした米保健福祉省長官(1993~2001)のドナ・シャレーラは、「ムベキはエイズを否定すると言うよりむしろこれを陰謀と捉えていたと思います。アフリカ人特有の考え方ですね。当時ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しましたが、形式的な返事が返って来ただけでした。こちらの話に礼儀正しく耳を傾けてからこう言ったんです。『やるべきことは分かっています。どうもありがとう。』」(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と言っていますが、法律を撤回しないと二国間援助を打ち切るぞと脅しておきながら、「ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しました。」とよくもまあぬけぬけと言えたものだと思います。そもそも貿易で莫大な利益をアパルトヘイト政権と分かち合って南アフリカの多数のアフリカ人を苦しめてきたアメリカの中枢にいながら、しかも、その間、マンデラは獄中に閉じ込められ、ムベキは亡命を強いられていたわけですから、何とも恥知らずな人たちよ、と思わないではいられません。

圧倒的な財力にまかせてマスメディアを駆使して一方的に大きな声を張り上げ続けるわけですから、ムベキも「礼儀正しく耳を傾けて」「やるべきことは分かっています。どうもありがとう。」と「形式的な返事」をするしかなかったんだと思います。

圧倒的な声の前にアフリカ人は沈黙を守るしか術がありませんが、『その人たちはどう見ているのか?―アフリカのエイズ問題がどう伝えられ、どう捉えられて来たか―』(2005年出版)の著者であるアメリカ人医師レイモンド・ダウニングさんが指摘するように「この沈黙は上からの押しつけで、沈黙の下には、無数の小さな屈辱と大きくて修復しがたい屈辱から生まれた封じ込められた怒りが籠もっている」のです。

エイズは人間が持っている、外敵から自分の体を守る免疫機構がやられる病気です。前ザンビアの大統領カウンダが言ったように、もしアフリカ人が西洋諸国並みの水準で生活出来るなら、「たとえ病気になっても、もっと強くなれる・・・」(→「『ナイスピープル』を理解するために―(7)アフリカのエイズ問題を捉えるには」「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日))と思います。しかし、南アフリカに住む大半の人たちは、アパルトヘイト政権時代と変わらず、スラムにひしめきながら低い水準で生活することを強いられているのです。そして、その安価な労働者を生む体制をオランダとイギリスの入植者が作り上げ、第二次世界大戦後も、アメリカと西ドイツと日本が加わって、体制維持をはかって来たのです。南アフリカで260万人以上が犠牲者になったのはムベキが対策を誤ったからではなく、著者のセス・C・カリッチマンが住むアメリカや私たちが住む日本が、アフリカ人に犠牲を強いて来た結果に他なりません。

前ザンビア大統領カウンダ

朝日新聞が信頼した書評委員がこの本を選んで推奨しているわけですが、事実を誤認したという認識もないままこの本を薦めていると言わざるを得ません。

今、津波と地震と放射能で日本は大変な事態になっていますが、同じような構図が透けて見えます。マスメディアも国民も変革を期待して自分たちが選んだ現政権を非難しますが、原子力エネルギーを推進して来たのは、自民党とその党と手を組んで利益を得てきた政財界です。国の繁栄のためにと、放射能を出す核燃料の処理も不完全なまま危険を覚悟で経済効率を優先させ、政治家は鉄鋼業界や電機メーカー、都県業界や電気産業などに巨利を生む仕事の世話をし、その人たちは選挙で与党に協力して仕事の受注の便宜をはかってもらう、国民は安価な電力のおかげで快適な生活を享受し、選挙では与党を支持し続ける、そんな構図が長年続いてきました。

しかし、原子力が安価な電力を供給できるのは、安価なウランを南アフリカやナミビアから購入できるからで、その前提は、食うや食わずの賃金で鉱山で働かされる無尽蔵のアフリカ人労働者がいることです。

自民党にいた石原慎太郎は今回の震災は天罰で日本人は我欲を捨てて生活を見直した方がいいという趣旨の発言をしたそうですが、石原慎太郎には言われたくない、と思います。ウランを購入する南アフリカのアパルトヘイト政権と、日本の政財界を繋ぐ南ア議員連盟で、得意げに旗振り役をしていた人ですから。その人を四度も都知事に選ぶ日本人が、何とも恥ずかしいです。

メディアの大半は経済大国がおさえていますから、アフリカ人の声はほとんど聞こえて来ません。何より問題なのは、大半がアフリカ人の声を聞こうともしない、その無関心だと思います。しかし、ウランを例に取っても、もし西洋のメディアが喧伝するようにHIV感染者が激増して死者が増え続ければ、今のようにウランが安価では入手出来なくなり、基本的に現在の体制を見直さざるをえません。本当は、自分たちのためにも、アフリカ人の声に耳を傾けるべきです。

次回は、手始めに、ムベキの発言を非難した欧米のメディアとは違ってムベキを支持した雑誌「ニューアフリカン」を取り上げたいと思います。(宮崎大学医学部教員)

「ニューアフリカン」

執筆年

2011年5月10日

収録・公開

「モンド通信 No. 33」

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『ナイスピープル』を理解するために―(15)エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後