『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(20)
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の20回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
第20章 40年間の投獄
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
第20章 40年間の投獄
アイリーンが母親との問題を私に一気にしゃべったあと、本人の気持ちを鎮めるために連れて行った居酒屋の「犬の溜まり場」でウェケサが私とアイリーンを見つけました。金曜日の午後にキタレに住む旧友ジョン・キマルがアイリーンを病院に訪ねて来ました。二人はギクユカントリークラブというディスコに行くことにしました。店で踊り、焼いた山羊肉を食べ、タスカーエキスポートとアイリーンの好きなピルスナーを飲んではしゃぎました。ジョン・キマルは非常に気前がよく(アイリーンがそう思ったのですが)、ナイロビからギクユまでタクシーで行き、自分が支払いました。
ケニア地図(キタレ、ナイロビの北西)
1時をまわった頃に、2人は部屋を取り、カントリークラブで一晩を過ごしました。そのクラブの受付で、二人は母親と出くわしました。母親との密会中に父親が尻を刺したあの時の男と母親はいっしょでした。母親が娘を安っぽいと責めたので、娘も母親に無節操でふしだらだとやり返して口論になりました。ナオミは娘に父親に似て頭が鈍くて心が狭いと罵りました。もしやれるなら、あなたがあの人(父親)に電話をして妻(母親)が男と楽しくやっていると言いなさいとアイリーンに言いました。告げ口すれば、母親が傷つくより父親がもっと苦しむと分かってきていましたので、アイリーンはどうすれば良いか混乱するばかりでした。
「君のお父さんは愛人がいるの?」
「いえ、いないわ!」と、アイリーンは叫び気味に言いました。
「お父さんには愛人が要ると思うよ。」と、結婚生活の不誠実を解決するには、罪作りでも同じように愛人を複数こしらえるしかないと簡単に信じて、私は言いました。
「ドクタームングチ。捜しましたよ。」
「警部、私がまた問題ですか?」と、自分の仕事が大好きで、恨みを持たずに仕事をこなす誠実な男として好きになり始めていたポール・ウェケサに尋ねました。
「機材についての何をですか?」
「機材のありかを突き止めたいんですがね。」
「診療所内にありますよ。」
「いえ、ないんですよ。」
「では、ワウェル・ギチンガ医師に聞いて下さい。でも、どうして機材が必要なんですか?」
「製造番号を確認したいのと、購入方法について2、3尋ねたいことがありましてね。」
「そうですか。」
私は嫌な予感がしました。どうして機器が密かに保管されているのかとずっと疑問に思っていて、人に見せるためにと手術のためにとで、イーストレイ地区で新たに開業する診療所に機器を移すつもりだと、私の雇い主のギチンガが言っていたのを思い出しました。
今回はウェケサの方が一枚上手でした。証拠となる「KCH. GK」のラベルのついた数本の薬の壜や医療器具や装置といっしょに、ギチンガの母親の農地のバナナ園に埋められていたレントゲン機器を、警察は何とか突き止めました。「公務員による横領」の10の訴因をギチンガ医師がすべて認めたために、裁判はすぐに終わりました。訴因のそれぞれに四年の刑が課されために、計40年間の実刑でした!
ギチンガ医師の友人で敵でもある私たちは、ギチンガ医師がどうやって40年も刑務所で生き永らえるのだろうかと気の毒に思いました。しかしウェサカは、10の罪状の判決は同時に進行するために4年間だけ刑務所にいることになるでしょうと説明してくれました。
ケニア地図
12月に、ギチンガ医師からカミティ刑務所で点検済みの手紙を受けとりました手紙にはリバーロードを私個人の診療所として経営してもらえないかと書いてありました。ギチンガ医師は金は要らないが、自分がいない間も診療所を引き続きやって欲しいと言っていました。同僚の殆んどが町で、キバルアと呼ばれる非常勤として個人で開業医をやっていることは既に知っていましたが、ケニア中央病院内の病棟で医療相談をやっているいいかげんな医者もいました。患者が医療スタッフになにがしかを払わなければ、薬剤や検査室の化学薬品が足りなくなるという話は私の耳にも入っていました。時には患者のベッドの配置にも賄賂が要求されるというのは公然の秘密でした。
イバダンでは、これは何も特別なことではありませんでした。しかしケニアでは、病院当局はすばやくそのような不正の存在を否定しました。しかし、経済学者が主張していたように、商品やサービスの値段は不足によって操作されるというのが、限られた資源の範囲内で発展している経済の現実でした。KCHの医薬品も処方箋も医療相談も、昔からあるこの経済の法則からは逃れられませんでした。
イバダン市街
私は試験が済み次第、なるべく早くギチンガ医師の診療所を再開すると約束しました。私はアイリーンも手伝ってくれるように誘いました。(給料付きで)
「悪魔から引き継いでいるみたいですね。」と、アイリーンは冗談まじりに言いました。
「その人が君に残してくれるなら、君だって引き継ぐだろう?」
「悪魔は嫌ですよ。」
ナイロビ市街