<次回>
1月8日は、2回目の課題提出、5章(僕の解説・発音練習→予め決めたグループでそれぞれグループ毎のやり方で口頭チェック→実習直前の3月にEMPでやった僕のやり方のoral check。折角の機会、楽しんでやれるとええね。ま、すべての授業、あなたら次第で、僕のやれることなんかほとんどないけどね。
<次々回>
1月15日は
1995年のエボラ騒動のCNNでListening Comprehension Practice(Q&A in English)をやったあと、コンゴとエボラ出血熱、何人かに発表してもらってから、映像を観てもらうつもりです。
1月22日は休講(すでに済み。ゲストさんの試験)
最終日は、出来たらそれぞれのコメントを聞いて、時間があれば、コンゴの続きで映像を観てもらえたらと思ってるけど、時間あるやろか。
12月18日12回目の授業でした。年内最後、次回は年明けに。
最初に前回に続いて①南アフリカの続き。
金鉱山、金鉱周辺の売春婦の映像も見てもらいました。アパルトヘイト体制とアフリカ人の抵抗運動に関して箇条書きにしておきます。
第二次世界大戦で大きくヨーロッパの国力が低下→それまで抑圧されていた人たちが独立・自由を求めて闘争→南アフリカでも、旧世代に飽き足らない若者がANC青年同盟(1943)を結成してデモやストライキなどで激しく闘争を展開→当時の与党イギリス系の統一党は事態の収拾が出来ず→1948年に総選挙→アフリカナーの野党国民党はアパルトヘイト(人種隔離)をスローガンに掲げ、人種によって賃金の格差をつけ、本来社会の最底辺のプアホワイト=アフリカーナーの大半の農民を優遇することを約束→白人人口の60%のうちの大半のプアホワイトが国民党に投票→オランダ系アフリカーナーが議席の過半数を獲得→アパルトヘイト政権の誕生→体制を強化(人口登録法で人種の明確化、集団地域法で居住区を限定、共産主義弾圧法で反体制勢力を弾圧)→アパルトヘイト政権に対抗してANCの闘争は激化→1955年にクリップタウン郊外で全人種による国民会議、自由憲章を採択→指導者156名を逮捕して裁判にかけ、全員の死刑をはかる→結果的には無罪
メールマガジンにまとめた分をリンクしときます。たぶん理解し易くなると思います。↓
→「南アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 65」(2014年1月10日)
そのあと1992年に行った②ハラレの話。その前に生まれた所や高校、大学、高校の教員の時の話(坊主頭や髭を剃った忌まわしい写真も。高校卒業したとき、ぜーんぶ写真を焼いたんで、それまでの写真は手元にないけど。)
②ハラレについては、
ハラレに行く前に寄ったロンドンでお会いしたラ・グーマの奥さんのブランシさん(写真↓)の話。1985年にキューバでご主人を亡くされたあとロンドンに一人住まい。その家に招待されました。1990年にマンデラが釈放されてたけど、まだロンドンに亡命中。このあとすぐに生まれ育ったケープタウンに戻られました。でもマンデラの政権が出来る前のどさくさ、1966年の亡命以来久しぶりに帰国した時は、空港で一晩待機。ANCもひどいですよねと手紙で書いたら、今はいろいろ大変な時期、大目に見て下さいね、と逆に窘(たしら)められました。
スイス人の八十過ぎの一人暮らしの女性から借りた家の家賃は10万円、500坪。↓家の中にジャカランダの大木が植えてありました。
すぐに仲よくなったガーデンボーイとして雇われていたゲイリー。給料は一月170ジンバブエドル(4200円ほど)それと番犬のデイン。白人には吠えないで、黒人には激しく吠えてました。僕らはデインに白人と分類されたようで、誰も吠えられなかったねえ。
冬休み(北半球では夏休み)を利用して父親の元に来ていっしょに過ごしていた家族。普段は敷地内に家族を泊めることは出来なかったみたいやけど、僕らが借りてたので、南西の小さな部屋、コンクリートの床に毛布を敷いて寝たたみたいです(南半球では北側が陽当たりがいいので南西にある部屋は陽当たりがよくない)長女と長男とゲイリーの子供3人は一日中遊んでました。どっちも言葉もわからないのに、笑い声が絶えず、楽しそうやったねえ。蹴ってるバスケットボールが199ジンバブエドル、ゲーリーの一月の給料より高く、複雑な気分になりました。
ゲーリーの奥さんフローレンスにモデルを頼んで僕の奥さんが描いた水彩画。初めての経験で、フローレンスはやや緊張気味でした。
ゲイリーの家族写真。写真は貴重品で、現像して持って行くと、どこでもひとしきり写真談義。それもそのはず、現像費が毎回ゲイリーの給料ほど。写真は贅沢品の一つ。大学で誰かが飲んでた大瓶のコーラが10円。日本円やドルが強いんやとしみじみ思いました。
ゲイリーにインタビューを頼んで、生い立ちなどを聞いた時に撮った写真です。↓
ジンバブエ大学、アレックス、子供たちが行った小学校の話、一握りの貴族と大多数のの貧乏人の現実と、加害者としての自分についてなどについての話は出来なかったけど、みんなで訪問したゲイリーの子供たちの小学校、帰りに寄ったパリでのファーブルさんの話は出来ました。関連のリンクを最後に貼っておきます。↓
長男と仲良しになってチキンを食べるアレックス
ソルボンヌを背景にファーブルさんと
ハラレの話は帰国してから半年後に本を書いたけど出版は出来ず(1冊300万もかかるんで)、あとでメールマガジンに連載したらと言われて、分けて載せました。僕のブログに載せた一冊分のリンクです↓
→「ジンバブエ滞在記一覧」(「モンド通信」No. 35、2011年7月10日~No. 59、 2013年7月10日)
その中から↓
<2>→「ジンバブエ滞在記②ハラレ第1日目」(「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)
<3>→「ジンバブエ滞在記③突然の訪問者・小学校・自転車」(「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)
<4>→「ジンバブエ滞在記④ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」(「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)
<5>→「ジンバブエ滞在記⑤バケツ一杯の湯」(「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)
<12>→「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」(「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)