英語 Ma2(4)

連絡事項→次々回1月22日(水)は授業なしです。(すでに合同で15章をやっています。)

1月8日12回目の授業でした。

2回目の課題を集めて(まだの人が大半やったけど、次回に)、5章をやりました。次回の最初に残ったPronunciation of Termsの発音練習をやって5章は終わりです。折角グループ分けをしてくれてたのに、グループでのoral checkと全体での分も時間が取れないみたいです。申し訳ない。

時間を取ったのは、アーバインに行った石山くんと大園さんの話も交えて、将来を考えての基礎体力として試験が終わったらThe Language of Medicineを一通りやっときやと伝えたかったからやと思います。伝わると嬉しいけどね。

二人のアーバインからのメッセージを載せた英語科のホームページ→「Songkla diary・Irvine diary(英語科)」2015年度に大園千穂さん、石山雄大くん(4月6日~5月1日、救急)

June 20, 2015(石﨑友梨)で紹介してくれたサンフランシスコの漁夫の波止場

22章分のdefinitionsと音声のファイルはいつでも準備するんで、遠慮なく。試験が終わったあとの春休みでも大丈夫やで。ひょっとしたら何かがあるかもわからんけど、たぶん、医学科は持たず、そのまま木花の地域資源創成学部の英語(ビジネス英語主体)と学士力発展科目を引き続き担当しながら木花の部屋にいることになりそうやから。

<次回は>

5章のPronunciation of Termsの発音練習→先にカーターがコンゴに行くERの映像→1995年のエボラ騒動のCNNニュースでListening Comprehension Practice(Q&A in English)→コンゴとエボラ出血熱の紹介を少し、で終わりかな。

最終日は、出来たらそれぞれのコメントを聞いて、時間があれば、コンゴの続きで映像を観てもらえたらと思ってるけど、時間あるやろか。

来週、また。

英語 Ma2(4)

<次回>

1月8日は、2回目の課題提出、5章(僕の解説・発音練習→予め決めたグループでそれぞれグループ毎のやり方で口頭チェック→実習直前の3月にEMPでやった僕のやり方のoral check。折角の機会、楽しんでやれるとええね。ま、すべての授業、あなたら次第で、僕のやれることなんかほとんどないけどね。

<次々回>

1月15日は

1995年のエボラ騒動のCNNでListening Comprehension Practice(Q&A in English)をやったあと、コンゴとエボラ出血熱、何人かに発表してもらってから、映像を観てもらうつもりです。

1月22日は休講(すでに済み。ゲストさんの試験)

最終日は、出来たらそれぞれのコメントを聞いて、時間があれば、コンゴの続きで映像を観てもらえたらと思ってるけど、時間あるやろか。

12月18日12回目の授業でした。年内最後、次回は年明けに。

最初に前回に続いて①南アフリカの続き。

金鉱山、金鉱周辺の売春婦の映像も見てもらいました。アパルトヘイト体制とアフリカ人の抵抗運動に関して箇条書きにしておきます。

第二次世界大戦で大きくヨーロッパの国力が低下→それまで抑圧されていた人たちが独立・自由を求めて闘争→南アフリカでも、旧世代に飽き足らない若者がANC青年同盟(1943)を結成してデモやストライキなどで激しく闘争を展開→当時の与党イギリス系の統一党は事態の収拾が出来ず→1948年に総選挙→アフリカナーの野党国民党はアパルトヘイト(人種隔離)をスローガンに掲げ、人種によって賃金の格差をつけ、本来社会の最底辺のプアホワイト=アフリカーナーの大半の農民を優遇することを約束→白人人口の60%のうちの大半のプアホワイトが国民党に投票→オランダ系アフリカーナーが議席の過半数を獲得→アパルトヘイト政権の誕生→体制を強化(人口登録法で人種の明確化、集団地域法で居住区を限定、共産主義弾圧法で反体制勢力を弾圧)→アパルトヘイト政権に対抗してANCの闘争は激化→1955年にクリップタウン郊外で全人種による国民会議、自由憲章を採択→指導者156名を逮捕して裁判にかけ、全員の死刑をはかる→結果的には無罪

メールマガジンにまとめた分をリンクしときます。たぶん理解し易くなると思います。↓

「南アフリカ小史前半」「モンド通信 No. 65」(2014年1月10日)

そのあと1992年に行った②ハラレの話。その前に生まれた所や高校、大学、高校の教員の時の話(坊主頭や髭を剃った忌まわしい写真も。高校卒業したとき、ぜーんぶ写真を焼いたんで、それまでの写真は手元にないけど。)

②ハラレについては、

ハラレに行く前に寄ったロンドンでお会いしたラ・グーマの奥さんのブランシさん(写真↓)の話。1985年にキューバでご主人を亡くされたあとロンドンに一人住まい。その家に招待されました。1990年にマンデラが釈放されてたけど、まだロンドンに亡命中。このあとすぐに生まれ育ったケープタウンに戻られました。でもマンデラの政権が出来る前のどさくさ、1966年の亡命以来久しぶりに帰国した時は、空港で一晩待機。ANCもひどいですよねと手紙で書いたら、今はいろいろ大変な時期、大目に見て下さいね、と逆に窘(たしら)められました。

スイス人の八十過ぎの一人暮らしの女性から借りた家の家賃は10万円、500坪。↓家の中にジャカランダの大木が植えてありました。

すぐに仲よくなったガーデンボーイとして雇われていたゲイリー。給料は一月170ジンバブエドル(4200円ほど)それと番犬のデイン。白人には吠えないで、黒人には激しく吠えてました。僕らはデインに白人と分類されたようで、誰も吠えられなかったねえ。

冬休み(北半球では夏休み)を利用して父親の元に来ていっしょに過ごしていた家族。普段は敷地内に家族を泊めることは出来なかったみたいやけど、僕らが借りてたので、南西の小さな部屋、コンクリートの床に毛布を敷いて寝たたみたいです(南半球では北側が陽当たりがいいので南西にある部屋は陽当たりがよくない)長女と長男とゲイリーの子供3人は一日中遊んでました。どっちも言葉もわからないのに、笑い声が絶えず、楽しそうやったねえ。蹴ってるバスケットボールが199ジンバブエドル、ゲーリーの一月の給料より高く、複雑な気分になりました。

ゲーリーの奥さんフローレンスにモデルを頼んで僕の奥さんが描いた水彩画。初めての経験で、フローレンスはやや緊張気味でした。

ゲイリーの家族写真。写真は貴重品で、現像して持って行くと、どこでもひとしきり写真談義。それもそのはず、現像費が毎回ゲイリーの給料ほど。写真は贅沢品の一つ。大学で誰かが飲んでた大瓶のコーラが10円。日本円やドルが強いんやとしみじみ思いました。

ゲイリーにインタビューを頼んで、生い立ちなどを聞いた時に撮った写真です。↓

ジンバブエ大学、アレックス、子供たちが行った小学校の話、一握りの貴族と大多数のの貧乏人の現実と、加害者としての自分についてなどについての話は出来なかったけど、みんなで訪問したゲイリーの子供たちの小学校、帰りに寄ったパリでのファーブルさんの話は出来ました。関連のリンクを最後に貼っておきます。↓

長男と仲良しになってチキンを食べるアレックス

ソルボンヌを背景にファーブルさんと

ハラレの話は帰国してから半年後に本を書いたけど出版は出来ず(1冊300万もかかるんで)、あとでメールマガジンに連載したらと言われて、分けて載せました。僕のブログに載せた一冊分のリンクです↓

「ジンバブエ滞在記一覧」(「モンド通信」No. 35、2011年7月10日~No. 59、 2013年7月10日)

その中から↓

<2>→「ジンバブエ滞在記②ハラレ第1日目」「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)

<3>→「ジンバブエ滞在記③突然の訪問者・小学校・自転車」「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)

<4>→「ジンバブエ滞在記④ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)

<5>→「ジンバブエ滞在記⑤バケツ一杯の湯」「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)

<12>→「ジンバブエ滞在記⑫ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)

英語 Ma2(4)

冷えて来て、体調を崩してる人が増えて来てるなあ。大事にしぃや。
連絡事項→Chapter 5: Digestive Systemは年明けの1月8日(水)に
12月11日11回目の授業でした。年内は来週で終わり、年明けに3回です。
「遠い夜明け」を観てもらい、テキストの概要を春田くんがやってくれました。
やってくれた辺りのテキストの概要をまとめておくね↓
ヨーロッパ移住者がアフリカ人から土地を奪って課税して安価なアフリカ人労働者の一大搾取機構を打ち立てた
年代順に箇条書きにしてまとめておきます。
*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)
「遠い夜明け」の補足
映画の補足や、書いたものなどの紹介もしておきます。
この映画を作ったのは監督のリチャード・アッテンボロー。「ガンジー」や「コーラスライン」で超有名な監督です。「ガンジー」でも暗殺の場面を最初に持ってきました。冒頭に典型的な場面を持って来るのが好きなようです。今回の場合は、スラムの強制立ち退きの話を南アフリカの典型的な場面として衝撃的に持って来ていました。英文テキストの中にも以下の文を紹介しています。日本語訳も貼っておきます。
******************
The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force ‘surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.
バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。ラジオから英語ニュースが流れてた場面です。
REFERENCE 3 参照3
We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.
Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . .”
米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。
ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。
マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」
**********
人種隔離政策の下で情報操作を強いられている白人にはそういうニュースしか流れず、小さい頃から白人社会で育ったら、それが当たり前、というわけです。
ウッズとビコの出会いのシーンは、いつも美しいなあと思います。あの通りはハラレに行った時に、たぶん近くを通ったような気がします。transcribeしたのを貼っておきます
Cry Freedom_The first meeting
Woods: Steve Biko? Are you Steve Biko?
Biko: l am. l would have met you in the church, but, as you know, l can only be with one person at a time. lf a (third) person comes into the room, even to bring coffee, that (breaks) the (ban)… And the (system) – the police – are just across the road. But, of course, you would (approve) of my (banning).
Woods: No. l think your (ideas) are (dangerous), but, no, l don’t (approve) of (banning).
Biko: A true (liberal).
Woods: lt’s not a title l’m (ashamed) of, though l know you (regard) it with some (contempt).
Biko: l just think that a white (liberal) who (clings) to all the (advantages) of his white world – jobs, housing, education, (Mercedes) – is perhaps not the person best (qualified) to tell blacks how they should (react) to (apartheid).
Woods: l wonder what sort of (liberal) you would make, Mr. Biko, if you were the one who had the job, the house, and the (Mercedes), and the whites lived in (townships).
Biko: lt’s a (charming) idea. lt was good of you to come, Mr. Woods. l wanted to meet you for a long time.
Mercedesはマーサディーズと発音、意味はメルセデス・ベンツ。ドイツ車で金持ちのシンボル。医者ややくざがよう乗ってる車で、医学科の駐車場ではよう見かけるねえ。
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自己意識の話も補足しときます。

今日も映画を観たあと話をしたように、ビコは合法的に殺されましたが、それだけ体制に脅威だったということでしょう。
裁判の中でビコがEven in this environment we must find a way to develop hope for themselves, to develop for this countryと言ってたけど、ほんとすごいよね。前の方Even in this environment we must find a way to develop hope for themselvesは僕でも言えるので、ま、授業でずっと言い続けて来たつもりやけど、あとの方to develop for this countryは、言えないもんね。この国のやってきたことを考えると、恥ずかしすぎて、国に希望を紡ごうと言う気にならんもんなあ。今日も何度も言ったけど、こう言わないといけないのは悔しいね。
自己意識については、ビコとマルコム・リトルに焦点を当てて書いたことがあります。ビコを引用して書いた部分です。
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白人優位・黒人蔑視
奴隷貿易に始まる西洋諸国の侵略によって、支配する側とされる側の経済的な不均衡が生じましたが、同時に、白人優位・黒人蔑視という副産物が生まれました。支配する側が自らの侵略を正当化するために、懸命の努力をしたからです。支配力が強化され、その格差が大きくなるにつれて、白人優位・黒人蔑視の風潮は強まっていきました。したがって黒人社会は、支配権を白人から奪い返す闘いだけでなく、黒人自身の心の中に巣食った白人優位の考え方を払しょくするという二重の闘いを強いられました。アメリカ映画「遠い夜明け」で広く知られるようになったスティーヴ・ビコは、ある裁判で黒人意識運動の概念について質問されたとき、その「二重の闘い」に言い及んで、次のように述べています
基本的に「黒人意識」が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で二つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。二番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から育ったものです。[I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1986), p. 100.神野明他訳の日本語訳『俺は書きたいことを書く』(現代企画室、 一九八八年)が出ています]
南アフリカを本当の意味で変革していくためには、先ず何よりも黒人ひとりひとりが、厳しい現状に諦観を抱くことなく、自らの挫折感とたたかい、自分自身の人間性を取り戻すべきだと、ビコは説きました。自己を同定するために自分たちの歴史や文化に誇りを持ち、次の世代に語り伝えようと呼びかけました。そして、経済的な自立のための計画を立てて、実行に移しました。
ホームページに載せてたのをこのブログでも読めるようにしました。1987年に訪ねたカナダに亡命中のラ・グーマの友人セスル・エイブラハムズさんに宛てて、映画の感想も書きました。訪問記と併せてリンクしておきます。↓
「自己意識と侵略の歴史」「ゴンドワナ」19号10-22頁。
「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」「ゴンドワナ」11号22-28頁。
<次回>は
映像を交えながら南アフリカの話の続きと、1992年に行ったジンバブエの話が出来たらと思っています。生まれた街や学生時代の話もするかも。時間があるかな。
また、来週に。

英語 Ma2(4)

12月4日10回目の授業でした。

何とかアメリカの話を終わりました。

奴隷制と奴隷をめぐって北部産業資本家と南部の荘園主が対立、1860年の大統領選で北部はリンカーンを共和党の大統領候補に立てて成功、南部は合衆国を離脱、結果、リンカーンは南北合一のために南北戦争を開始、奴隷解放を約束をして北部の自由黒人の参戦を得て辛うじて勝利、しかし奴隷解放宣言が実質的ではなかったので、実際の会報は100年後に持ち越し。奴隷は小作人に、荘園主は貧乏白人との間にカラーラインを引いて人種差別を利用、

そんな話を英語でしました。

エイブラハム・リンカーン

南北戦争直後と1987年のKKKの場面、反動の一番きつかった1890年に出た「隔離すれども平等」の最高裁の判決、1954年の公立学校での人種差別は違憲という判決に従って黒人が白人の高校に入学した際の白人側の凄まじい抵抗の場面、それと公民権運動の最大の場面ワシントン大行進の映像を観てもらいました。

キング牧師

抗HIV製剤が絡んだゴアとブッシュの大統領選の話が出来ず、いろいろ歌を紹介する時間が取れなかったのは残念。

来週は「遠い夜明け」を観てもらい、オランダ人とイギリス人の抗争と1910年の南アフリカ連邦の成立の部分のテキストを春田くんにやってもらったあと、ヨーロッパ入植者が作った搾取構造の話をしたあと、時間があれば、ジンバブエに行ったときの話をしたいです。

「遠い夜明け」の試写会で配られたチラシ

再来週は、Chapter 5の消化器系。解説と発音練習のあと、グループにわかれて30分ほどoral check、そのあと全体でoral check、はどうやろ。

年明けは、エボラ出血熱とコンゴ、資料は次回配ります。

2回目の流行時の南アフリカの週間紙Mail & Guardianの特集記事

アメリカの話は出版社のメールマガジンの連載で書きました。↓

「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」「モンド通信 No. 67」(2014年3月10日)

「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」「モンド通信 No. 68」(2014年4月10日)

「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」「モンド通信 No. 69」(2014年5月10日)

「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」「モンド通信 No. 70」(2014年6月10日)

「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」「モンド通信 No. 71」(2014年7月10日)

寒うなって来たから、気ぃつけや。