ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した5回目の「ジンバブエ滞在記 ⑤バケツ一杯の湯」です。
1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。
本文
ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯
ゲイリーの一日の仕事は、デインの世話から始まります。陽が昇る少し前に起きて、玄関のデインの寝床の古びた毛布と、ドッグフードの入った容器を車庫の横に片づけます。庭の手入れは、先ず門の外の枯葉の掃き掃除から始めます。7時過ぎには、牛乳配達の人が牛乳を満載したカートを押してやって来ます。ゲイリーとは顔馴染みのようで、重そうなカートを毎回門の中に預かっています。配達している間に、ごっそりと盗まれてしまう危険性が高いからでしょう。配達される瓶牛乳も懐かしく思えて、日曜日を除く毎朝、ゲイリーに買ってもらうことにしました。1本30円ほどでした。牧畜の盛んな国だけあって、味もなかなかのものでした。
ゲイリー(小島けい画)
それから、玄関先の植木や草花に水をやります。ホースの届かないところは如露を使います。新聞では今世紀最大の旱魃と報じられていましたが、この辺りは水不足には縁がないようで、ゲイリーもたっぷりと水を撒き、隣の家先の芝生では、散水器がくるりくるりと回り続けていました。
10時くらいに、食事の支度に取りかかります。朝と昼を兼ねた食事のようで、食事が済むと、自分の部屋と野菜園の間に鉄製の庭椅子を置いて、本や新聞を見ながらのんびりと休みます。そのうち、顔に新聞を乗せて昼寝を始めます。
目が覚めたら、またのんびりと水撒きにかかります。東寄りの芝生に散水器をかけておいて、垣根には別なホースで、花には如露で水をやり、菜園にはホースで朝と夕方に水をかけます。菜園にはレタスや青野菜と玉葱などが植えられていました。
ゲイリーの菜園
あとは、まだ明るいうちに夕食を済ませ、日が暮れるころにデインの毛布とえさを用意して、ゲイリーの一日の仕事は終わります。
自分の買物がある時や、何か街に用事のある時以外、ゲイリーは敷地内のどこかに居ます。敷地内にいて家の番をするのが一番の仕事のようでした。
「得体の知れぬ日本人をそれとなく見張って、定期的にスイスまで報告の手紙を書くように、何かあれば妹に連絡するように。」、おそらくそんな風に言われていた見張り役のゲイリーと私たちがすっかり仲良しになってしまったので、おばあさんの筋書きどおりには事は運ばなかったようです。おばあさんの妹さんは、そのあと間もなくして姿を現わしました。その後も一週間おきに顔を出し、門の所でゲイリーに何かを手渡していました。
実は毎週、給料とデインのえさ代を持って来ているんです、とゲイリーが教えてくれました。ゲイリーの給料は月に170ドル約4200円、月末に支払われ、これでも今のハラレでは、仕事があるだけ、住む部屋があるだけましなんですとゲイリーは言います。
デイン
私たちが払った航空運賃は1人52万円、ゲイリーの給料の約10年分です。これでは自分の国が住み難いからと言っても、外国に逃れる術はありません。ラ・グーマなど、亡命を果たせた人たちは、極く少数の選ばれた人たちだったわけです。
それではデインのえさ代は?と聞くと、1日に5ドル、週単位に持って来るそうでした。「偵察」もあるし、えさ代を全額渡せば持ち逃げされないとも限らない、か。週に35ドル、30日だと150ドルになります。一人の大人が24時間拘束されている月額とほぼ同じです。
「リディキュラス!」とゲイリーが呟いていました。車のクラクションが鳴れば飛んで行きますし、銀行へ行けと言われれば黙って出かけもしますが、いつも心の中で「リディキュラス!(嘲笑ってしまうほど)馬鹿げている!」とゲイリーは呟いていたのでしょう。
デインと
ゲイリーは、大体いつも同じ身なりでした。服は所々破れ、靴は履き古されていました。洗濯のために他の服を着ている時もありましたが、やはり同じような質の服でした。それでもゲイリーの方から、何かを求めてきたりはせず、その姿勢は終始変わりませんでした。私たちがゲイリーの「雇い主」ではなかったから当たり前なのかもしれませんが、想像に難くないゲイリーの経済状況を考え、気苦労の絶えないグレイスとの関係と比較すれば、その生き方は尚更希有なものに思えました。ただ一度だけ、台所にバケツを持って現われて、お湯を一杯もらえませんかと言ったことがあります。後にも先にもゲイリーから頼まれたのはそれだけです。一番寒い、明け方は数度しかなかった気温の低い日だったと思います。
ゲイリー、自転車で
ゲイリーの寝泊りしている部屋を見せてもらいました。コンクリートの狭い二つの部屋は陽当たりの悪い南西の方角にあり、寒々としていました。ベッドもなく、奥の部屋でコンクリートの床の上に直かに質の悪そうな毛布を敷いて寝るようでした。それぞれの部屋に裸電球が天井からぶら下がっていましたが、コンセントはありませんでした。電気を「無駄には」使わせないという方針なのでしょう。従って、電熱器などの電気製品はありません。小型のコンロが一台置いてあるだけでした。燃料は灯油で、自前なのだそうです。ラ・グーマの小説に出てくるプライマス・ストーヴと同じタイプの暖房用兼炊事用の携帯用コンロです。
集めたマルベリーと携帯用コンロ
入り口の所に、水道栓がひとつあります。その蛇口を使って、畑の水撒きや炊事や洗濯をしますが、排水の設備はありません。いつも汚水がたまったままでした。ゲイリーは毎日、お風呂代わりに水で体を洗っているようでしが、水の冷たさに耐えかねて、その日、台所にバケツを持って現われたというわけです。
ゲイリーは、それでも卑屈な態度は見せませんでした。私自身も卑屈になるのは嫌なので、ゲイリーの態度は好ましく思えました。親子の巡り合わせも偶然に過ぎません。家族や友人同士でも、それぞれ好みも資質も違うのだし、やれる方がやればいい、
お金もある方が出せばいい、今までそんな風に暮らして来ましたから、ゲイリーに媚びる態度がない限り、出来る範囲で付き合いをしていこうと考えました。
その日の夕方から、誰かがゲイリーの部屋にバケツ一杯のお湯を届けるのが家族の日課になりました。(宮崎大学医学部教員)
ゲイリーと
執筆年
2011年11月10日
収録・公開
→「ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯」(No.39)