つれづれに

つれづれに:畝(うね)1号

 →「9月になって」(1日)、→「畑を始め‥‥」(2日)ようとしたが、なかなか作業がはかどらず、このままでは畝第1号の完成がまだ延びそうなので、途中の写真を載せることにした。

作業開始前

 先々週は白浜の鍼灸(しんきゅう)整骨院に行く直前に3度も吐いてしまい、先週はまだぐずぐずしていたので車の送迎をお願いしてしまった。夜中にエアコンを切り、襖(ふすま)を閉めて寝ていたら、翌朝起きる時にくらくらして不安定な感じがした。自転車で行く自信がなかったので、車の迎えをお願いし、甘酒にお粥(かゆ)とヨーグルトと流動食を食べて準備をした。しかし、迎えの時間が近づいた頃、急にむっとして吐いてしまった。久しぶりである。喉(のど)をやられるのは時々あったが、吐くのは記憶にないくらい前のような気がする。そんな話をしたあと、言われた。

「話を聞いてると、熱中症の症状に似てますね」

なかなか思うようにはいかないようである。おまけに、親猫は家出をしたまま、16歳の子猫の片方(↓)がぐったりとしたままである。思い余って、青島の獣医さんにお願いして、家で点滴を始めた。もう先は長くないのかも知れないが、動きたい意思はあるみたいで起き上がって歩いたりはするので、それを生きる意思と思って、点滴することに決めた。体の衰えが急速で、今年の暑さに耐えきれなかったようである。

 充分に→「秋」(8日)になって、→「気温も下がり」(7日)、環境的には充分に畑作業の時間が増やせるのだが。

畑作業はわりと根気が要る。左側の手前の胡瓜(きゅうり)と奥の方の茄子(なす)の枯れた枝を取りのぞき、その場所に肥料を入れて絹莢豌豆(きぬさやえんどう)の種を蒔(ま)いた。土をほぐして種を蒔く周辺を深く掘って肥料を入れる。通路を挟んで右側に大根の畝第1号である。これは深く掘り、畝も高くする必要がある。東南の辺りは以前の借家の黒土をもらって来て入れたので、非常に土壌がいい。大根もよく育つ。畝を高く摘むために通路を深く掘って、その土を積んでいく。通路に草や生ごみや肥料を入れるのは、夏野菜の時のためである。そこを掘り返せば、いい塩梅の土壌が出来ておる。その作業で、草ぼうぼうだった場所が下のようになった。

右手の大根が少し大きくなっている

 通路には、畑に生い茂っている雑草を入れ、その上に家から出た生ごみを放り込み、土をかけて肥料を入れる。

 土が足りないので、今回は近くの雑木林の落ち葉の下の腐葉土を取って来て上に乗せた。

 この作業から始めてたが、まだ暑くてなかなか時間が取れず、作業がはかどらないままである。

少し前からやっと金木犀がにおい始めた、なんともいえないいい香りを漂わせている。南側を中心に、外から見えないように30本も大き目の苗木を植えた。樹が一本一本しっかりしていて、たくさん花をつける。ただ、いい香りを放つ期間が極めて短い。あと1週間もすれば、ほとんどぽろぽろと花が落ちてしい、明るい黄土色の絨毯(じゅうたん)が出来る。まだ他は荒れ放題なので、作業はこれからである。

南瓜の柵、作るのに時間をかけたので解体作業も大変そうである

つれづれに

つれづれに:秋

勢いのある凌霄花(のうぜんかずら)も

 一気に気温も下がり、秋になった。3日前にかろうじてレタスと小葱(ねぎ)とブロッコリーの種を蒔(ま)いた。9月の半ばころに、やっと畝(うね)の一部を拵(こしら)えて、去年採った鞘(さや)から種を取り出して蒔いた大根が、少し大きくなっている。10日ほど畑には出られなかったので、虫にやられてしまっていると思い込んでいたが、希釈した酢をかけたのが効いていたようで、このまま大きくなってくれるかも知れない。

 この前の金曜日は白浜(↑)の鍼灸整骨院に行くことが出来た。ただし、車で送り迎えをしてもらってである。その前の金曜日、朝から頭がくらくらしていてが、揉んでもらってしっかり休めばよくなるだろうと思って、車での送迎をお願いした。しかし、まさに出かける直前に、かろうじて食べていた流動食を3回も吐いてしまった。喉をやられたことはあるが、ここ数年吐いたのは初めてだった。

揉んでもらいながら症状の話をしたら「熱中症の症状に似てますね」と言われた。30度を越えるなかで、夜中はエアコンで冷えないように襖を閉めて寝ていたので、熱中症にかかったようである。75歳になったところだ。これから、老いてゆくばかりだから、覚悟する必要がありそうである。それだけに、自転車をこいで自力で行ける日常は有難い。来週はまた、秋の海の青さ(↓)に感謝しながら、自転車がこげるのを祈ろう。

曽山寺浜みらいはし

 妻は今年の個展の準備に忙しい。それも有難いことである。コロナのために今年は本人不在の東京での個展が3回目になるが、娘やドッグカフェのオーナーさんたちに助けられて何とか続いている。続けられるのは、有難いことである。個展を目安に絵を描き続けているからである。来年のカレンダーの表紙にした絵の原画である。

ウユニ塩湖

その案内(↓)ができた、少し前にブログも再開(→「小島けいの世界☆1 お知らせ」)して案内を載せた。毎回個展が終わったら、また次の年の個展の準備で描き始める、今年も何とか準備が出来て、今日2024年度のカレンダーが届く予定である。今のところまだ届いていない。

PFF→小島けい個展2023

 葛や彼岸花やパンパースも盛りを過ぎて、今も継続的に勢いがあるのは「ハイビスカス」(↓)だけのようである。しばらくしたら、金木犀。いろんな種類の薄(すすき)もあちこちで摘めそうである。

つれづれに

つれづれに:気温も下がり

モエちゃんとコスモス

 10月に入ってようやく気温も下がり、やっと人心地つけるようになった。30度を越える日中に畑には出られずに、まだ畑は荒れ放題である。9月の初めに畑作業を再開してはみたが、その後も暑さが続き、作業は進まなかった。実は9月18日に畝1号の下書きを書いていた。その分を乗せ、畝が出来たら追って続きを書くことにしよう。

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畝1号(9月18日)

畑を始め‥‥ようと、蚊取り線香を6つ用意して、溜まった生ごみを持って外に出て、東の端の胡瓜(きゅうり)と茄子(なす)を片づけて、蔓(つる)を登らせるために立てていた竹を片づけ始めたら、急に暗くなって突然大粒の雨が降り出した。こりゃだめだ、と糞切りがついて作業を切り上げて入って来た。荒れ放題の畑で、絹莢(さや)豌豆(えんどう)の畝(うね)と大根の畝をつくる予定の場所(↓)である。

 今年は9月の初めに畑を再開したが、去年は十月の半ば(→「畑も始めたが」、2022年10月19日)だった。作業もし易い10月の半ばに蒔(ま)いたレタスと葱(ねぎ)2袋ずつがほとんど芽を出し、植え替えたら、野菜スープに使うために冷凍している葉っぱはまだ残っているし、刻んで冷凍して置いた葱もつい先日までもった。今年も来年用までつくっておくとしよう。大根の芽が出た頃に、去年は近くの家の白い猫が畝をトイレ代わりに使っていた。

 一昨年はわりと早い時期に(→「大根の芽も」、2021年9月6日)ブロッコリーの種を蒔いている。この年は、最後の苗まで植え替えて、大きいのがたくさん生った。

 2020年はこの頃の記述はなく、2019年は十月(→「2019年の後期が始まりました。」、2019年10月8日)に入ってからだ。早めに蒔(ま)いた大根の芽が虫に見事にやられている。授業が始まって1週間くらいのことで、後期の準備で畑に出る時間も少なく、希釈した酢も撒(ま)けなったということである。

 2018年の記述はなく、2017年は9月1日(→「9月になりました。……」、2017年9月1日)に「つれづれに」を更新している。

蚊の大群にやられる覚悟で、陽射しの強い畑に出る勇気が持てず、一面のかぼちゃ畑にしたものの、葉っぱばかりが生い茂り、肝心のかぼちゃの収穫は、大きなのが一つ。
 元々荒れ地にでも出来るかぼちゃ、肥料をやったのがいけなかったのか。そろそろレタスや大根の下準備もしないといけなし、と、かぼちゃの葉っぱを切り始めることに。十月になってまた授業が始まると、畑をする余裕も、たぶんなくなりそうなので。

 生い茂る葉の中に、かぼちゃがぶらり    我鬼子

とあるところを見ると、授業にだいぶ時間を取られていたようである。

授業が終わる前から始めて一月半、ようやく8クラス、七百数十人の成績が終わり、しばらくぼーっとしてたら、九月になってしまいました。

教養の大きなクラスの成績にかなりの時間を取られていた時期である。

「久し振りの更新です。」(2016年9月28日)が示すように、あまり「つれづれに」も書けなかった。この頃はまだホームページなので写真はなく、文字が並んでいるばかりだった。

「彼岸花が咲き出しました。」(2015年9月10日)は定年退職の年で、→「サーバーが復旧しました。」(2014年10月6日)、→「猛烈な暑さも和らいで少し秋らしくなって来ました。」(2013年9月18日)→「1日が始まるのだろう、」(2012年10月3日)、→「お彼岸花が」(2010年10月14日)、→「通草に吾亦紅、」(2009年10月25日)、→「肌寒き朝、飯田高原にいる」(2008年10月15日)は、海外実習でタイやアメリカと学生交換をやっていた頃で、外部資金や全学や学部から常に予算が出ていたので、国内の医者や提携校の臨床医に来てもらったケーススタディなどを休みごとにやってもらっていた。来た人の接待は自腹で、時間もお金もかかって大変だった。卒業生に来てもらえたのは有難かった。卒業生で、今回のコロナ騒動でテレビに出て話題になった研究者を何回か誘ったが、大学によほど嫌な思いしかなかったのか、来てもらえなかった。1年生で担当をしたが、その頃は授業時間を割いて面接もやっていた。面接した人全員が「入る前にわかっていたら、ここを受けなかったのに」と言っていたから、一年から相当嫌な思いをした人が多かった時期である。部屋に来た人の愚痴を散々聞いた時期でもある。我儘で手前勝手な教員連中が退職したり異動したりして、あの異常な事態は少し解消されたような気がする。しかし、多感な大切な時期に、運が悪かったとしか言いようがないが、一人一人を見て大事にしないと人の心もこうなるんだと、毎日学生と過ごしていた時期でもある。

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生産者直売所を開いた人が店の向かいで育てている黄色いハイビスカス、今年も咲いている