つれづれに

つれづれに:瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)

 毎年、瓢箪南瓜を作っている。種を買ったのか苗を見つけたかは覚えていないが、それまで余り見かけなかったのと、作ってみると、甘みもあって実も柔らかい、が作り続ける理由かも知れない。お裾分けにも手頃でいい。吉祥寺(きちじょうじ)駅下のデパートで2300円の値札を見て驚いたが、神戸の元町や戻って近くの生産者直売所で確かめたら400~500円程度だった。それがコロナの前だから、作り始めてから7~8年くらいだろうか?

 竹の柵(さく)を拵(こしら)えて蔓(つる)を登らせて這(は)わせるのを思いついてから、少し大がかりになった。竹取の翁(おきな)をして、太い竹を何本も自転車で運ぶことになるからである。柵を造った一年目、台風でぐーっと傾いてしまった。それで、その次の年から器具で掘った穴に太い竹を入れて、横に樹の太い杭を支えに埋め込んだのである。自分ですることを増やしてしまった。今年は柵を8分目くらいまで作ったところで、暑中に入り、とても畑には出られない暑さになってしまった。順調にぐんぐんと大きくなり、3つほどかなりの大きさになった。3つはお裾分けにまわったが、そのあとすぐに台風が来て、柵が少し傾き、勢いのあった葉が叩かれて勢いを殺がれてしまった。

 しかし、そのあと台風が来なかったのは有難かった。葉も勢いを取り戻し、実も大きくなった。10個ほどはまたお裾分け、それでもあと10個ほど大きい実が残っている。胡瓜(きゅうり)の苗が日陰になるので、柵はほぼ片づけた。枝から実を切り取ってしまうと、そう長くはもたないので、枝は地面に残して、地面に接して腐らないように枝の上に実を置いている。それが6個、あとは金木犀(もくせい)の樹の上を這った分で、枝から金木犀の葉の間にぶら下がっている。それも、個展に来てくれた人に送って終わりそうである。

 ひょうたんかぼちゃ、でウェブ検索すると、各地で売られているようである。種や実をネット販売している人が、南瓜について解説をしている。実際の真偽はわからないが、特に害はなさそうなので、その解説を元に大体のところをまとめてみることにした。

ネット販売している和歌山の人によれば、「ひょうたんかぼちゃ」とは品種名ではなく、該当する形の品種をひっくるめた別名(総称)だそうである。普通のスーパーではなかなか目にしないが、幅広く取り扱う青果店や直売所などではたまに見かける。黒皮かぼちゃはけっこう値段が高いが、ひょうたんかぼちゃは割と手頃な値段で買える、とも書いてあった。

 下関の販売者によれば、甘味が強くて美味しい瓢箪南瓜は全国の南瓜生産流通量のうちの5%未満の日本南瓜の1種で、恐らく1%も無いほどの貴重な南瓜。生産地域は西日本が主で、その中でも一部地域でしか栽培されていないそうである。春(5月~6月上旬頃)に植え付けをして、10月中旬頃から11月中旬頃までが収穫時期。自家採種した種子を使っているので、種子農薬の付着はなしとのこと。

沖縄の人によれば、沖縄で古くから栽培されている在来の蔓あり南瓜で、ウドンコ病などの病気や害虫に極めて強い抵抗性があり、作りやすい。ツルの整枝や摘心、そして追肥は必要なく、元肥だけで収穫まで放任栽培が可能。1株から4~6個収穫でき収量も多い。肉質は粘質で甘みがあり肉色は橙黄色。暑さに強く、高温期でも着果する。収穫時期は丸型で開花後約45日、ひょうたん型で40日で収穫。(実際に作っている感じはこれに一番近い)

今住んでいる地域の少し南西の都城の人は「南九州の風土に合うのか、このひょうたんカボチャはシーズンになるとドバッと出てきます。県外出荷しているという話は聞いた事はないので、案外知らない人は知らないかもしれないですね。これが安くておいしいのです!!地元のお年寄りにはとても人気があって毎年この時期を楽しみにしている方もおられます」と書いてあった。

 来年の春にまた、柵を拵えて、瓢箪南瓜を作る日常が来れば嬉しい限りである。

今残っている中では一番大きい、金木犀の葉の間にぶら下がっている

つれづれに

つれづれに:探検家

 中国でも韓国でも日本でも、アフリカの国々でも、人が集まり富が蓄積されるようになると諍(いさか)いを繰り返して来た。そして、殺し合いをする。中国で敗者を見せしめにするために刑罰として与えた骨殺ぎの刑は、極めて残酷である。斬首(ざんしゅ)刑はたくさんの人が見ている前で、首切り人が大きな刀で首を落とす。今の日本で、眼の前で人が殺される光景を見ることはそう多くない。しかし、この500年余りのアングロサクソン系の侵略では、ヨーロッパ人はアフリカ人から土地を奪い課税して絞り取り続けた。たくさんの人が魂を蹂躙(じゅうりん)され、辱(はずかし)めを受けた。そして、殺された。飢餓(きが、↓)に貧困は日常である。民族紛争、地域紛争では武器製造を基幹産業にする国々から武器を送られ、同胞が資源を巡って殺し合いをする。子ども兵が育てられて、殺し合いに参加する。昔の諍(いさか)いの時代が霞(かす)んでしまうほど、過酷な時代になってしまった。開発や援助と言いながら、多国籍企業貿易と資本投資で制度的に搾取し続ける資本主義社会では、先進国と手を結ぶ少数のエリートが搾り取る側に回る。遣(や)る瀬無い思いが募(つの)る。

1980年代前半のエチオピア飢餓キャンペーンで使われた写真

 奴隷貿易で荒稼ぎした莫大な資本が蓄積されて産業革命が可能になり、それまでの社会が根底から覆(くつがえ)されてしまった。生産と消費の規模が格段に増加して、社会自体が拡大し、肥大する一方である。資本主義は、拡大しないと生き残れないシステムなので、このまま突っ走るしかない。制御不能の原子力爆弾で凄惨(せいさん)な光景をみても、原子力発電所(↓)の破壊威力を目(ま)の当たりにしても、核兵器も原子力発電所も諦めきれない。それどころか、危険極まりない老朽化した原子力発電所を法律を変えてでも再稼働し、発展途上国に原子力発電所を輸出しようとしている。核開発も軍需産業でも、関わって働く人たちを養う巨大産業にもなっている。核も、元々は拡大し続ける資本主義社会を維持するために開発された武器である。侵略者は狡猾(こうかつ)で、ありとあらゆる手段を利用して、その侵略を正当化するのに努力も惜しまなかった。侵略した相手に自分たちの言葉をしゃべらせ、自分たちの侵略がより容易(たやす)くするために利用して来た。今や英語は国際語である。白人優位・黒人蔑視の意識は、世界のすみずみにまで浸透している。前回のグレート・ジンバブエも、白人優位・黒人蔑視を具体化したものの一つに過ぎない。探検家もその一つだろう。

九電原発

 「アフリカシリーズ」の冒頭で、バズル・デヴィドスン(Basil Davidson, 1914–2010)はヨーロッパ人に発見された当初に偏見の対象になったジンバブエの遺跡の他に、探検家の例をあげている。デヴィドスンは先ず奴隷貿易について前置きする。

「アフリカ最大の不幸は16世紀初めに始まります。ヨーロッパ人が次々と入ってくるようになったのです。目当ては奴隷でした。西アフリカの海岸にはヨーロッパ7か国が50近くも城砦を築き、そこを奴隷貿易の拠点としました。奴隷貿易はヨーロッパ人のアメリカ大陸進出と深い関係があります。新大陸発見後、彼らはそこに根を下ろし、鉱山や大農園をどんどんと開発しましたが、労働力が足りませんでした。そこで目をつけたのがアフリカ大陸だったのです。何とも恐ろしい話です。何千万という黒人が女子供まで有無を言わせず、力ずくで連れ去られたのです。しかも、です。問題は膨大な人間が奪われただけではないんです。400年にも渡って、アフリカ大陸を支えて来た農民や職人など、大事な働き手が、毎年何万、何十万という単位で売り飛ばされていったのです。それがどれほどアフリカを荒廃させたか、計り知れません。奴隷貿易は19世紀半ばまで続きます。少なく見積もっても1500万の人間が新大陸に運ばれました。途中で死んだ数は、その3倍とも5倍とも言います。奴隷船の船長はできるだけ多く運ぼうとしました。身動きできないほどびっしり詰め込んだ者もいます。アフリカの王や首長の中には、奴隷貿易が自分たちの社会を破壊すると抗議をしたものもいます。しかし、その抗議は利益に目の眩(くら)んだヨーロッパ列強に圧(お)し潰(つぶ)されました。奴隷として大量に売買されるにつれ、黒人は人間以下と見做(な)されていきます。人種差別の根源です。ここガーナのケープ・コーストの城砦(↓)には礼拝堂が建っています。その下は嘗(かつ)て奴隷倉庫でした。1度に1500人もの奴隷が送り込まれ、船積みを待っていたのです。奴隷貿易の最盛期には聖職者もこれに反対はしませんでした」

 そして、この時期から来るようになった新しい人たち、宣教師と探検家について話し始める。

 「ヨーロッパで奴隷貿易反対の声が強くなったのは18世紀末からです。この頃になると、アフリカには全く新しい人々がやって来るようになります。マンゴ・パーク、リチャード・バートンといった探検家です。かれらは未踏の奥地をめざしました。19世紀はまさにアフリカ探検の世紀となります。しかし、ヘンリー・スタンリーのようにアフリカ侵略をめざしあ人は別として、まさか自分たちが切り拓いた道が、間もなく別の目的で使われ、50年もしないうちにアフリカ大陸を変えてしまうとは夢にも思わなかったでしょう。

まあ、何とも残念な話ですが、こうした探検家はほんの僅(わず)かの例外を除いて、みんな黄金だの、象牙だの、地理上の謎を解き明かすことしか頭にありませんでした。アフリカ人の生活や文化には関心を持たなかったのです。ただ、デビッド・リビングストン(David Livingston, 1813-1873)などは例外と言えるかも知れません。リビングストンは伝導者からアフリカ人の生活や環境に関心を寄せる探検家に変わっていきました。

1852年、伝導ルートを求めて奥地に入り、ザンベジ川を発見すると、そこから大西洋に到達、次いでザンベジ川を下り、インド洋まで出ようとします。1855年、旅の途中で、彼は世界有数の滝を発見、当時のイギリス女王の名を取ってビクトリアの滝と名付けます。滝の下流では、激しい流れや鰐(わに)や河馬(かば)など、アフリカならではの障害にぶつかり、舟を岸に上げて川を迂回(うかい)しています。

現在、ビクトリアの滝の脇には滝を見下ろすようにしてリビングストンの銅像が建っています。「デビッド・リビングストン博士、1855年、この滝を発見」しかし、です。この滝は元々現地の言葉で「音を立てる煙」と呼ばれていました。リビングストンも土地の人に教えられて、ここまで見物に来たようです。現に、リビングストンは心の広い人でしたから、自分を案内してくれたこの親切なアフリカ人のことをちゃんと日記に書いています。でも、あの銅像を建てた人には、現地の黒人がリビングストンを案内したなど、無視して当然でした。それが白人の一般の考えだったのです。

ビクトリアの滝発見の報せは、彼が属していたロンドンの伝導教会にも届きます。しかし教会の人は、それを苦々しい思いで聞いたようです。彼らにはその発見は、伝導の務めを怠っているとしか見えませんでした。大事なのはアフリカ人をキリスト教徒にすることだったのです。リビングストンはこういう心の狭さに嫌気がさし、伝導教会を辞めます。自分の使命は未開の土地を切り拓くことにある、そうすれば文明の2つの先駆者、キリスト教と商業があとに続く。そう考えたのです。その通りでした。間もなく、色んな国から大ぜいの人々が次々とやって来るようになりました。異教の地に神の福音を伝えるためでした」

 産業社会になったヨーロッパ社会は更なる生産のための安い原材料と製品を売り捌くための市場を求めてアフリカやアジアの植民地化を始めた。侵略の前の下見をしたのが探検家と宣教師である。ヨーロッパの金持ちたちは冒険心にはやる探検家を雇ってアフリカを探らせた。宣教師も金持ち層に協力した。デヴィドスンがあげるヨーロッパの探検家を批判するのは、本人の意識とは別に、結果的にヨーロッパ諸国の金持ちが目論(もくろ)む商業主義・資本主義をに加担して、多くの人が大変な目に遭(あ)ったからである。ただ、本人が自覚しているかどうかにかかわらず、結果が問題だ。その行為がもたらす結果がたくさんの人に被害を与えるなら別問題である。

伝導教会の伝導所

 探検も冒険も本人の自由で、何の問題もない。結婚してからずっと後に、妻から大学のとき友だちと穴もぐりしてたよ、狭所恐怖症なのによう行くよね、服もびしょぬれで、中が崩れて死にそうになるし、若いからもったんやろね、と聞かされたことがある。大学で入っていた洞窟探検同好会とは別行動で友人の出身地の高知の地図にない洞窟に2人で行ったときの話らしい。スポンサーもないし、人に迷惑もかけていなし、問題なしだろう。しかし、スポンサーがついたらどうか?探検家として教科書にも載(の)っている間宮林蔵(↓、1775-1844)は江戸幕府の役人だった。今でいう国家公務員だから、国がスポンサー?という気もするが、職務を果たし、作った地図が後世の役に立ったから教科書にも載り、探検家と言われるんだろう。蝦夷(えぞ)地・樺太探検に役に立ったということだろう。しかし、厳密に言えば、江戸幕府の薩摩藩が琉球王国を滅ぼしたのは、明らかに領土拡大を狙(ねら)った侵略行為である。蝦夷地開発も同じだ。元々、ツングースの侵略で追われた縄文人の末裔(まつえい)が逃げのびた地が沖縄と北海道である。1万年以上、日本列島に平和に暮らしていた縄文人の末裔(まつえい)である。

そういう意味で言えば、蝦夷地も琉球王国も元の持主アイヌの人や琉球の人に返還すべきである。1980年代に黒人研究の会で、間宮林蔵のお孫さんと知り合いになった。アメリカに行った時には泊めてもらい、奥さんや奥さんの妹さんやお母さんに大変世話になった。マミヤさんは→「ニューヨーク」市(↓)から北に電車で1時間ほどの閑静な街の小さな大学の教授で、日本語は話せなかった。身近なところに教科書に載る人物のお孫さんがいたんや、と感心した。

国がスポンサーの話では、私にも関わりがある。私の専任が決まったのは、原子力村の1員だった人の推薦があったからである。見ず知らずの私を取るために教授会で奮闘したと聞く。国にすり寄る研究者が研究費が欲しくて原子力村に群がっていた。原子力の安全神話を強化するためだった。しかし、チェルノブイリ(↓)の歴史に学ばず、フクシマが現実の問題となった。御用学者は、それでも安全だと言い張って再稼働に協力している。歴史から学ぶという概念が欠落しているのだろう。痛し痒(かゆ)しである。

最近では、兵器製造に関わる基礎研究での助成金は大学の人には身近な問題である。国立大では、特に地方大学(↓)では運営交付金が毎年減らされ続けて研究費不足は常態化している。それに付け込んで、国が理系の研究者に向けて助成金募集をかけたのである。大学では教育、研究、社会貢献が問われる。最近は外部の批判を気にして評価も厳しくなり、研究者には甘い誘いである。工学部にも知り合いがいるので、人ごとでもない。組合員の同僚も、募集に強く反対していたし、学内の掲示板に貼られた研究資金募集の広告も見た。観方次第だが、結構身近に問題はころがっている、そんな感じがしている。

次回は、宣教師である。

つれづれに

つれづれに:陽の光

柿を干すとき、陽が充分に照ると艶も増す

 晴れた日が続き、少しづつ普段の生活が出来るようになって、日常と陽の光の有難さが身にしみる。一昨日の白浜行きも日常の一つで、庭を潰した畑での作業もその一つである。

中古で今の家を買ったとき、南側の庭はこじんまりとして手入れが行き届いていた。真ん中に小高い円形の花壇があり、名前はわからないが垂れ下がった何本もの枝に小さな可憐な薄紫の花が無数に咲いていた。きれいな整った庭には申し訳ないと思ったが、10年ほど住んだ借家についていた畑の黒土を運び込んで南東の端に積みあげた。小さな畑を作ったのである。円形花壇の樹は、東側の小さな花壇に植えかえた。陽当たりはよくない場所だが健在で、毎年薄紫の花が咲く。

元々中古の家は息子の友だちになってくれればと家に来てもらった子犬のラブラドールが気兼ねなしに住める、が第1条件だった。兵庫から宮崎に来てからずっと学校とは合わずに大変な思いをしていたが、何とか入った高校は更にきつかったようで、学校から戻ったときの目つきが日に日に悪くなっていくのがわかった。少しでも慰めになればと、ラブに登場してもらうことにしたのである。

 息子も家では自由に過ごせるので、ラブともすぐ仲良しになって毎日楽しそうに遊んでいた。そして、何とか卒業までもった。受験勉強はしないけど、友だちとクラブで行ってもええかと言って入った高校を、出席日数ぎりぎりで無事卒業した。大学は東京を選んだので、新しい家には住んでいない。ラブといっしょにいられたのも僅(わず)かな期間だったが、息子には有難い存在だった。

 入居する前に、庭でラブが走り回れる場所(ドッグラン)を当然優先して確保した。つまり、畑の部分を除く20坪ほどの4分の3を、ドッグランにしたのである。家の中でのトイレを嫌がったので、ドッグランで走り回ったあと、用を済ませていた。トイレ用に、白浜の行き帰りに砂浜から砂を持ち帰って、かなり入れた。犬が早死にしてしまったあと、庭はそのままにしていたが、しばらくしてから近くの雑木林などから土を運んで、ドッグランの部分も畑にした。

 妻の願いを入れて南側は全面に、東側と西側は一部に金木犀(もくせい)を植えた。量販店で30本注文したら、結構しっかりとした樹が届いた。植える作業もなかなかだったが、周りから見えるのが嫌な妻の望みは叶(かな)ったわけである。金木犀はぐんぐんと大きくなり、3~4メートル近くになった。そうすると、南側の地面は金木犀の陰になって、畑をしても野菜は育ち難い。それで、チェーソーを買って来て、背の高さくらいに切った。大仕事だった。すべて、成り行きである。勢いでやったとは言え、今の年齢では、とても望めない作業量である。

 

今回、雨の日が続いて干し柿がうまく行かず、陽の有難さを思い知ったが、胡瓜(きゅうり)の苗でも同じ思いをしている。夏野菜の胡瓜は春先に植えると一番勢いを感じるが、今年は秋口に勢いのある苗を生産者市で見かけたので、10本買って3ケ所に植えた。1番陽当たりのいい南向きの部屋のすぐ脇(↓)に4本(2本は写真の手前にあり、写っていない)

 瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく)の東側(↓)と北側(↓)に3本ずつである。雨続きがなかったら、よく育って今頃は食べきれないほどの実がなっていただろう。しかし、実際には何個か小さな実がなっている程度、柵の北側の2本は枯れてしまっている。柵に伝っていた南瓜の茎と葉が、晴れの少なかった僅かな陽を遮(さえぎ)ったわけである。干し柿に続き、胡瓜でも陽の光の重みに気づかされた。それでも、これからはしばらく晴れの日が続きそうなので、実をつけている何個かも大きくなり、霜が降りる前まで生産者市で胡瓜は買わずに済みそうである。

下の写真が柵の北側、右の2本が枯れてしまった

 オクラもそろそろ終わりかけ、それでも毎日2、3個はなってくれているので、毎日食べられている。残してある大きな2つの実は、来年の種のために枯れるまで置いておくつもりである。1つの実に何十と種が詰まっているので、2つで十分に事足りる。茎が伸びて、ずいぶんと高くなった。今までで一番高いかも知れない。手間暇を惜しまなかったら、ここまで持つわけである。たぶん、毎年同じ場所は嫌うので、来年は東側に植えることになるだろう。

つれづれに

▲ 「つれづれに」:「瓢箪南瓜」11月23日更新、本文はお知らせの続き

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<ウユニ塩湖>(ボリビア)4号

11月:<犬(コーギー)とあけび>(3号)

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▲ これまでのカレンダーを更新しました(2024/1/7)→「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬~一覧(2004年~2024年)」Calendar List(2004~2007は私製です

▲ 書いたもの→「2021年11月Zoomシンポジウム最終報告」続モンド通信40、2022年3月20日)

「『ナイスピープル』と『最後の疫病』 」(2月20日)、→「アフリカとエイズ」(1月20日)、→「ケニアの歴史4:モイ時代・キバキ時代 ・現連立政権時代」(12月20日)、→「ケニアの歴史3:イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代 」(11月20日)

▲ →「アングロ・サクソン侵略の系譜一覧」(2018年12月~)

▲ 続モンド通信38(1月20日)→「続モンド通信一覧」(2018年12月~)、「モンド通信一覧」(2008年12月~2016年9月)

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