つれづれに

つれづれに:『アフリカのための闘い』

 「アフリカシリーズ」は英語の授業で想像以上に使い勝手があったが、『アフリカのための闘い』は授業以外に、書く時にも殊のほか役に立った。出版社の人から英文書を書くように言われるとは想像もしていなかったが、この本がなければ、英文書はすんなりとは書けなかったと思う。「アフリカシリーズ」は1983年に、『アフリカのための闘い』はその2年前に、たまたま見つけた。修士論文の資料を探しに初めてアメリカに行ったとき、ニューヨーク市→「ハーレム」の本屋で見つけた。修士論文に選んだ作家の作品のフォトコピーを取るためにニューヨーク公共図書館→「ハーレム分館」(↓)を訪ねた帰りに、立ち寄った本屋の本棚で見つけた。ハーレムのメインストリートにあるリベレーションブックストアという名のアフリカ系アメリカとアフリカの本を扱う店だった。そう大きくはなかったが、私には宝庫に見えた。公民権運動の時に通りで演説をしていたマルコム・リトゥルの歴史講演の小冊子も見つけた。カセットテープの時代だった。まだアフリカ系の音楽には疎かったが、ポールロブソンやマヘリア・ジャクソンとルイ・アームストロングなどのテープを何本か買った。

 アフリカに関してはアフリカ系の作家がパリに移り住んだあと、独立前のガーナを訪問して書いた本を読んだり、→「黒人研究の会」の月例会でアフリカの話を聞くらいだったが、『アフリカのための闘い』もいっしょに買った。まさか、後々思わぬ形で手放せない本になるとは、その時は思いもしなかった。

例会があった神戸市外国語大学事務局・研究棟(大学ホームページより)

 タイトルはThe Struggle for Africa、発行された年は奇しくも「アフリカシリーズ」と同じ1983年である。元々スウェーデンの市民グループが1970年代の南部アフリカ、特にアンゴラとモザンビークの独立闘争を支援していた人たちの中から生まれた本らしい。第二次世界大戦後の新しい形態の搾取機構の再構築についてほんとうに詳しく書かれている。その人たちはその形態を新植民地主義、neo-colonialismと呼んでいる。

neo-colonialismの見出しの項目だけでも書いておきたい。

* 帝国主義の新しい方策としての新植民地主義

* 経済依存

* 開発援助は利益流出のためのお粗末な副題である

* 世界銀行経由の米国支配

* ザイールの場合

* 発展なき成長

* アフリカ人エリート

* 新植民地主義で誰が得をするのか?

* 地元エリートはもっとケーキを欲しがっている

* 原材料カルテル

* 新国際経済修秩序の必要性

* 革命的ナショナリズムに向けて?

 終戦後すぐに生まれた世代なので、アメリカやその人たちの話す言葉に元々抵抗があり、高校では英語を担当しながら、業務上必要な読み書き以外はしなかった。1981年にアメリカに行った時も、言葉がつかえないので不自由をしたが、話したいとは思わなかった。しかし、1985年のミシシッピ大学でのシンポジウムに参加したときに会ったすきなフランス人(↓)に思いを伝えられなくて悔しい思いをした。大学の職を得てからは、英語の授業でアフリカ系やアフリカの歴史を題材に使い、英語を使わせてもらって、話す練習をした。7年後にジンバブエの帰りにパリに寄り、そのフランス人に家族でよくしてもらった。そのときは、英語で思いを伝えられたと思う。

ソルボンヌ大を案内してもらったときに

 歴史にさほど関心がある方ではなかったが、英語で歴史をやったおかげで、出版社の人から英文書(↓)を書くように言われた時も、案外すんなりと書けた。同僚のカナダ人が頼める間柄だったのも運がよかった。おまけに、ボランティアで朗読をしている人だったので、テキストの朗読をナチュラルなスピードで淀みなく仕上げてくれた。

 次回は、「アフリカシリーズ」の前にもう一つ、「ルーツ」(↓)である。

原作者のアレックス・ヘイリー

つれづれに

つれづれに:立冬

 冬立ちぬ、である。旧暦では今日から今年の立冬の期間が始まる。22日の小雪(しょうせつ、木々の葉が落ち、遠くの山々には初雪が降り始める頃)までの2週間ほどである。30℃以上の日が長く続き、雨も多かった。陽が出ないので、最初の49個の柿は、剥(む)いて干してはみたが、乾かず重みで落ちたものが多かった。そのあとも虚しい努力を続けたが、残った柿も黴(かび)が生えて、結局土に戻した。→「台風10号」(8月28日)が来て、少し瓢箪南瓜(ひょうたんかぼちゃ)の柵(さく)とオクラが傾きかけたが、概(おおむ)ね被害がなくて済んだ。それ以降、台風が来なかったのは幸いである。何日か陽が出ているので、 気を取り直してまた柿を干した。今度は何とかいきそうである。80個ほど、作業がなかなかきつい。腰をやられてまだ元に戻っていないので、尚更である。まだ樹には実が半分ほど残っているが、土曜日からまあた3日間は雨の予報。その後、まだ生き残っていたら、また気を取り直して最後の作業をするとしよう。

 きのうは、街まで自転車で出かけた。市役所が目的地である。1時間はかかる。普段はそうでもないが、今の状態では少しきつかった。確定申告を9月末に出した分が、市税や国民保険料に反映されているかを心配した娘に確認するように言われたからである。普通は確定申告を2月~3月に出すが、今年は9月に出した。過去5年間は遡(さかのぼ)って提出できると初めて知った。確定申告で還付される可能性が高い、らしい。電話で済むと思って問い合わせてみたら、本人確認が出来ないと教えられないと言われた。娘には世話になりっ放しなので、無理して出かけたというわけである。第3庁舎の市民税課に辿(たど)り着いて、事情を説明した。本人確認をしないで答えるので、本人確認はしないんですか?そう言われてきたんですけど、と言ったら、書類があるからいいです、それに番号などを聞いて電話でも出来ましたけど、と。そんなーあ。いつもなら、ここで切れるところ、妻からは周りはみな宮大の卒業生やから、喧嘩せんといてね、と言われたのを思い出して、ぐっと堪(こら)えた。

 金木犀の花が咲き始めたと思ったら、もう樹の下には落ちた細かい花がぎっしり、お隣から苦情が出ている。去年はそうでなかったみたいだから、樹が大きくなってはみ出した部分に、今年はぎっしりと花が咲いたようである。干し柿が一段落したら、剪(せ)定作業をするか。他の樹も枝がずいぶんと伸びてる。下からは羊歯(しだ)や紫蘭(しらん)がはみ出している。雑草も結構多い。気になる人は草木の闖(ちん)入者も我慢ならないものらしい。そちらの庭には行かないようにと常々草にも樹にも充分に言い聞かせてはいるのだが、どこ吹く風である。

 行きも帰りも、車の行き交う道は避けて田圃(たんぼ)道を通る。通の両脇や田圃の畦(あぜ)のあちこちに、いろんな種類の芒(すすき)が揺れている。まだ穂が出ていない芒を切って持って帰っても、3日もすればほうけてしまう。水が枯れてもそのままにしておくと、枯れすすきの出来上がりである。

一気に秋が深まった。冬がそこまで来ている。

立冬に 座って柿を剥く 芒が揺れる     我鬼子

小島けい画

つれづれに

つれづれに:エジプト文明

アフリカシリーズの8回(各45分)の内訳である。

「第1回 最初の光 ナイルの谷」

「第2回 大陸に生きる」

「第3回 王と都市」

「第4回 黄金の交易路」

「第5回 侵略される大陸」

「第6回植民地化への争い」

「第7回 沸き上がる独立運動」

「最終回 植民地支配の残したもの」

ヨーロッパ人が侵略を始めたのが高々500年余り前だから、悠久の時の流れからすれば極めて短い期間である。ヨーロッパ人がアフリカ大陸に行き始めてからの歴史に半分が割かれているから、今とこれからに重点を置いた映像と言えるだろう。特に、7回と8回の第二次世界大戦後の搾取構造の再構築の映像は、きめ細かくて、鮮烈である。映像技術も発達して来ているので、より克明で、鮮明な画像が撮れたという側面もあるかも知れないが。僅(わず)か8回のシリーズだが、見応(ごた)えのある映像である。

 アフリカシリーズの最初は、エジプト文明である。3000年の長きに渡ってナイル川流域に栄えたエジプト王朝も、実はアフリカ内部の影響が強い。1505年、キルワ虐殺からヨーロッパ人の侵略が始まった。侵略者たちはありとあらゆる手段を使って、自分たちの侵略を正当化するのに躍起になった。歴史も自分たちの都合のいいように書いてきた。侵略行為は今も形を変えて続いているので、正当化のために捏(ねつ)造した白人優位・黒人蔑視の意識は、想像以上に世界中に浸透している。古代世界でも比類なきエジプト文明も、古代オリエントの枠組みで考えられ、アフリカとの関係は無視されて来た。ファラオ(王、↓)たちの栄華がアフリカ人の手によって作り出された筈(はず)がない、アフリカ人にあんな高度な文明が築き上げられた筈がない、西洋人はそう信じ込んで来た。しかし、実際にはエジプト文明のアフリカ人の影響は大きい。

 その辺りの事情について「アフリカシリース」の中で、首都にあるカイロ博物館の中を歩きながら、バズル・デヴィッドスンは解説する。

「カイロ博物館(↓)の絢爛(けんらん)たる宝物の間を歩いていると、古代エジプト文明は他からの影響はほとんど受けない全く独自の文明だと思えてくるかも知れません。恐らく大半の見学者はガイドの説明を聞くうちに、例えばこの若き王ツタンカーメンの顔が黒いのは長い歳月の間に変色したせいだと思うでしょう。ツタンカーメンが黒い皮膚をしていたと考える人は少ないはずです。しかし、これこそ多くのアフリカ学者が取り組んでいる観点なのです」

 5000年前、エジプト文明は大文明の舞台だった。アフリカを知るためには、ファラオと呼ばれた王たちが支配する古代エジプトを抜きには理解出来ない。ナイル川(↓)はアフリカ最大のヴィクトリア湖から地中海に流れ込むまで、北に6700キロの距離を流れている。エチオピア高原から流れ落ちる青ナイルと合流したあとは、どんな支流もない。ナイル川流域に人が住み始めたのは数万年前、ナイル川は涸(か)れることなく毎年定期的に氾濫(はんらん)を繰り返しながら、肥沃な泥を下流に運んで行った。やがて下流では、農耕生活が始まった。

 ファラオの支配するエジプトは、古代世界でも最も早く、また最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年も栄え続けた。その影響は、周囲や遠くはオリエントにまで及んでいる。デルタ地帯の下エジプトとそれより上流の上エジプトの2つの領域にファラオが君臨していた。今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中には、こうした初期のナイル住人(↓)もいる。その後、西アジアから来た民族も混じっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来たサハラを追われたアフリカ人だった。

 大西洋からナイル川流域までサハラ全域には、様々なアフリカ人が住んでいたようだ。1956年にフランスの調査隊が発見したタッシリナジェール山脈の砂の中に埋もれていた岩絵(↓)には、緑のサハラの生活が生き生きと描かれている。一番古い時代のモチーフは猟をする姿で、最古の絵は7000年から8000年前に描かれたと推測されている。時代を経るにつれて絵にも変化が表われ、鞍や手綱(たづな)を付けた馬は輸送手段の発達を物語っているし、犂(すき)をつけた牛からは農耕生活が営まれていたことがわかる。精巧な馬車の絵は後期のもので、人々の衣装は古代エジプト人のスカートと驚くほどよく似ている。

タッシリナジェールの岩絵

 サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人ともまじわっていったわけである。

 古代エジプト人は大抵、自分たちの皮膚の色を赤みがかったピンクで表している。エジプト人の中には西アジアの血も流れているが、実際は、それ以上にアフリカ黒人とまじり合っていて、貴婦人の中にはエジプトの南のヌビア人がたくさんいた。ヘマカの墓から出た絵には、一見して黒人とわかる貴婦人が白人の侍女を従えている様子が美しく描かれている。上エジプト王セン・ウセルト3世(↓)のように、王家に黒い肌の子供が生まれることも珍しくなかった。

 古代エジプトには、エジプトとヌビアの境目にあるナイル川に浮かぶエレファンテイン島は非常に神聖な場所と考えられ、ヨーロッパ人が好んでたくさん訪れた。その中の一人歴史家のヘロドトスもその島まで足を延ばしている。ギリシャ人は違う世界の人種を、異なってはいるが同等と見なす伝統の中で育っていた。エジプトに詳しいヘロドトス(↓)のようなギリシャ人は、エジプトの起源は南から来た黒人と考えていた。

 アスワンダムやアスワンハイダムの建設によって水没してしまったヌビアの遺跡も多いのだが、移転された遺跡からヌビアにはナイル流域最古の王国の一つがあり、それが後のエジプトの王国の先駆けになっていたことがわかる。遺跡の一つ3000年ほど前に造られたアブ・シンベル神殿(↓)の正面を飾るラムセツ2世の巨大な像の前に立ちながら、デヴィッドスンは都から遠く離れたヌビアにこのような大規模な大神殿を建てたのは愛妻ネフェルタリ王妃がヌビア人だったからではないかと推測している。

 エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、ファラオとしてエジプト全土を掌握した。第25王朝である。

南から来たファラオの中でも一番有名なのはタハルカ王で、ヴィッドスンはカイロ博物館の中にある巨大な立像を見上げながら「紀元前7世紀当時、エジプト人はこの王を世界の支配者と見なしていました。聖書にもエチオピア王テルハカとして出ています。エチオピアとは黒人という意味で、タハルカ王はヌビアのクシュ王国と全エジプトの王として君臨していたのです」と話している。

タハルカ王の立像

 ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。メロエの都は古代エジプトの国境から南へ千数百キロ、アフリカのずーっと内陸にあった。ヴィッドスン(↓)はワゴン車でメロエ(スーダン)を訪れながら「ここに来る度に私は驚異の念に打たれずにはいられません。荒涼たる砂漠の真ん中に失なわれたアフリカを物語る遺跡が忽然と現われるのです。アフリカ最古の黒人帝国の形見、地平線に浮かぶその姿は時の波に洗われ、砂の海を漂う難破船のように見えます。この林立するピラミッドは700年にわたってこの地を治め、葬られたクシュの王や王妃の墓です。長い間歳月や墓荒らしによって荒れるにまかせて来ましたが、現在、修復、再建が進められています」とその感慨を述べている。

前の車前方席に座っているヴィッドスン

 ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋(つな)いでいたのはベルベル人である。そして、サハラの砂漠化が進んだ後にラクダで砂漠を越えて様々な王国が栄えていた西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間のトワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていたという壮大な話で、その交流はサハラの砂漠化が進んだのちも大きく発展していった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。

トワレグ人の分布地図

 東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリ商人がその役目を果たした。トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に大きな交易網を張り巡らせていたということになる。

次回は農耕民である。

サハラ砂漠のトワレグ人

つれづれに

つれづれに:アフリカシリーズ

 「アフリカシリーズ」に出会えてよかったと思う。小説のために大学を探していたときに見つけた。通例、大学の職には修士号が要るので、修士論文を書いた。それが出発点だった。大学で、研究業績、教育実績、社会貢献が求められるとは考えていなかった。大学の採用条件は学歴、教歴、研究業績である。博士号が望ましいが、門前払いでどこにも入れてもらえなかったので、教歴と研究業績を増やすしかなかった。高校を辞めての職探しだったので30歳を過ぎていたが、先輩のおかげで修士修了時に非常勤の機会をもらった。大学での教歴の始まりだった。その1年目に「アフリカシリーズ」と出会ったのである。業績のために参加した「黒人研究の会」の月例会(↓)でアフリカの話を聞けたこともよかった。

例会があった神戸市外国語大学事務局・研究棟(大学ホームページより)

 修士論文でアフリカ系アメリカ人の作家の理解を深めるために歴史を辿(たど)っていたので、ルーツとしてのアフリカは自然の成り行きでもあった。それに、授業で出来る限り映像や音声を使う工夫をしていたので、「アフリカシリーズ」はありがたかった。大阪工大(↓)の先輩が開発して予算をつけて整備していたLL教室も、気兼ねせずにたっぷりと映像や音声が使えるので、とても有難かった。学生の助手の手助けも、機械操作などに疎い私には何よりだった。個人的には大学の購読は好きだったが、それまでのリーディング中心の授業にはしたくなかったこともあって、映像や音声をたくさん使った。特に、最初の工学部学生は受験英語で英語に抵抗がある人も多かったので、尚更好都合だった。単に言葉だけよりも、映像や音声は効果的な場合が多かった。

 「アフリカシリーズ」に出会えて一番よかったと思うのは、この500年余りの歴史を見渡せたことだろう。しかも、侵略した側のイギリス人がアフリカから絞ってきた富、今はそれを返す時に来ています、それには先進国側の経済的な譲歩が必要です、と語るのを聞けたのだから、感動ものだった。マルコム・リトゥル(↓)が「金髪で青い眼をした白人がみな悪魔だと思っているのか?」と常々親しい友人に語っていたのを証明するかのようだった。

小島けい挿画

 「アフリカシリーズ」には大きな山が3つある。①ヨーロッパ人が来る以前、②奴隷貿易後の産業化、植民地化、植民地時代、③第2次世界大戦後以降、である。どこでこんな映像を手に入れたんやろ、と感心する映像が多い。自分の足で歩き、アフリカの人たちと話をしてきた賜物だろう。それと、侵略者側は記録として見るに堪(た)えぬ写真や映像でも残すらしいので、後の世代の人にとっては貴重な証拠と言えそうである。サハラ砂漠を横断するトワレグ人と焚火(たきび)の横で語らうデヴィドスン、ザイールの深い森の中で大きな川に蔓で編んだ橋を架ける作業をするピグミーの人たち(↓)、揺れる船の上でダウと呼ばれる帆船のロープを操るスワヒリの船乗りたちなど、とりわけ印象に残っている。

次回は、アフリカについて書く前に、『アフリカのための闘い』に触れておきたい。