つれづれに:エジプト文明
アフリカシリーズの8回(各45分)の内訳である。
「第1回 最初の光 ナイルの谷」
「第2回 大陸に生きる」
「第3回 王と都市」
「第4回 黄金の交易路」
「第5回 侵略される大陸」
「第6回植民地化への争い」
「第7回 沸き上がる独立運動」
「最終回 植民地支配の残したもの」
ヨーロッパ人が侵略を始めたのが高々500年余り前だから、悠久の時の流れからすれば極めて短い期間である。ヨーロッパ人がアフリカ大陸に行き始めてからの歴史に半分が割かれているから、今とこれからに重点を置いた映像と言えるだろう。特に、7回と8回の第二次世界大戦後の搾取構造の再構築の映像は、きめ細かくて、鮮烈である。映像技術も発達して来ているので、より克明で、鮮明な画像が撮れたという側面もあるかも知れないが。僅(わず)か8回のシリーズだが、見応(ごた)えのある映像である。
アフリカシリーズの最初は、エジプト文明である。3000年の長きに渡ってナイル川流域に栄えたエジプト王朝も、実はアフリカ内部の影響が強い。1505年、キルワ虐殺からヨーロッパ人の侵略が始まった。侵略者たちはありとあらゆる手段を使って、自分たちの侵略を正当化するのに躍起になった。歴史も自分たちの都合のいいように書いてきた。侵略行為は今も形を変えて続いているので、正当化のために捏(ねつ)造した白人優位・黒人蔑視の意識は、想像以上に世界中に浸透している。古代世界でも比類なきエジプト文明も、古代オリエントの枠組みで考えられ、アフリカとの関係は無視されて来た。ファラオ(王、↓)たちの栄華がアフリカ人の手によって作り出された筈(はず)がない、アフリカ人にあんな高度な文明が築き上げられた筈がない、西洋人はそう信じ込んで来た。しかし、実際にはエジプト文明のアフリカ人の影響は大きい。
その辺りの事情について「アフリカシリース」の中で、首都にあるカイロ博物館の中を歩きながら、バズル・デヴィッドスンは解説する。
「カイロ博物館(↓)の絢爛(けんらん)たる宝物の間を歩いていると、古代エジプト文明は他からの影響はほとんど受けない全く独自の文明だと思えてくるかも知れません。恐らく大半の見学者はガイドの説明を聞くうちに、例えばこの若き王ツタンカーメンの顔が黒いのは長い歳月の間に変色したせいだと思うでしょう。ツタンカーメンが黒い皮膚をしていたと考える人は少ないはずです。しかし、これこそ多くのアフリカ学者が取り組んでいる観点なのです」
5000年前、エジプト文明は大文明の舞台だった。アフリカを知るためには、ファラオと呼ばれた王たちが支配する古代エジプトを抜きには理解出来ない。ナイル川(↓)はアフリカ最大のヴィクトリア湖から地中海に流れ込むまで、北に6700キロの距離を流れている。エチオピア高原から流れ落ちる青ナイルと合流したあとは、どんな支流もない。ナイル川流域に人が住み始めたのは数万年前、ナイル川は涸(か)れることなく毎年定期的に氾濫(はんらん)を繰り返しながら、肥沃な泥を下流に運んで行った。やがて下流では、農耕生活が始まった。
ファラオの支配するエジプトは、古代世界でも最も早く、また最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年も栄え続けた。その影響は、周囲や遠くはオリエントにまで及んでいる。デルタ地帯の下エジプトとそれより上流の上エジプトの2つの領域にファラオが君臨していた。今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中には、こうした初期のナイル住人(↓)もいる。その後、西アジアから来た民族も混じっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来たサハラを追われたアフリカ人だった。
大西洋からナイル川流域までサハラ全域には、様々なアフリカ人が住んでいたようだ。1956年にフランスの調査隊が発見したタッシリナジェール山脈の砂の中に埋もれていた岩絵(↓)には、緑のサハラの生活が生き生きと描かれている。一番古い時代のモチーフは猟をする姿で、最古の絵は7000年から8000年前に描かれたと推測されている。時代を経るにつれて絵にも変化が表われ、鞍や手綱(たづな)を付けた馬は輸送手段の発達を物語っているし、犂(すき)をつけた牛からは農耕生活が営まれていたことがわかる。精巧な馬車の絵は後期のもので、人々の衣装は古代エジプト人のスカートと驚くほどよく似ている。
タッシリナジェールの岩絵
サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人ともまじわっていったわけである。
古代エジプト人は大抵、自分たちの皮膚の色を赤みがかったピンクで表している。エジプト人の中には西アジアの血も流れているが、実際は、それ以上にアフリカ黒人とまじり合っていて、貴婦人の中にはエジプトの南のヌビア人がたくさんいた。ヘマカの墓から出た絵には、一見して黒人とわかる貴婦人が白人の侍女を従えている様子が美しく描かれている。上エジプト王セン・ウセルト3世(↓)のように、王家に黒い肌の子供が生まれることも珍しくなかった。
古代エジプトには、エジプトとヌビアの境目にあるナイル川に浮かぶエレファンテイン島は非常に神聖な場所と考えられ、ヨーロッパ人が好んでたくさん訪れた。その中の一人歴史家のヘロドトスもその島まで足を延ばしている。ギリシャ人は違う世界の人種を、異なってはいるが同等と見なす伝統の中で育っていた。エジプトに詳しいヘロドトス(↓)のようなギリシャ人は、エジプトの起源は南から来た黒人と考えていた。
アスワンダムやアスワンハイダムの建設によって水没してしまったヌビアの遺跡も多いのだが、移転された遺跡からヌビアにはナイル流域最古の王国の一つがあり、それが後のエジプトの王国の先駆けになっていたことがわかる。遺跡の一つ3000年ほど前に造られたアブ・シンベル神殿(↓)の正面を飾るラムセツ2世の巨大な像の前に立ちながら、デヴィッドスンは都から遠く離れたヌビアにこのような大規模な大神殿を建てたのは愛妻ネフェルタリ王妃がヌビア人だったからではないかと推測している。
エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、ファラオとしてエジプト全土を掌握した。第25王朝である。
南から来たファラオの中でも一番有名なのはタハルカ王で、ヴィッドスンはカイロ博物館の中にある巨大な立像を見上げながら「紀元前7世紀当時、エジプト人はこの王を世界の支配者と見なしていました。聖書にもエチオピア王テルハカとして出ています。エチオピアとは黒人という意味で、タハルカ王はヌビアのクシュ王国と全エジプトの王として君臨していたのです」と話している。
タハルカ王の立像
ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。メロエの都は古代エジプトの国境から南へ千数百キロ、アフリカのずーっと内陸にあった。ヴィッドスン(↓)はワゴン車でメロエ(スーダン)を訪れながら「ここに来る度に私は驚異の念に打たれずにはいられません。荒涼たる砂漠の真ん中に失なわれたアフリカを物語る遺跡が忽然と現われるのです。アフリカ最古の黒人帝国の形見、地平線に浮かぶその姿は時の波に洗われ、砂の海を漂う難破船のように見えます。この林立するピラミッドは700年にわたってこの地を治め、葬られたクシュの王や王妃の墓です。長い間歳月や墓荒らしによって荒れるにまかせて来ましたが、現在、修復、再建が進められています」とその感慨を述べている。
前の車前方席に座っているヴィッドスン
ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋(つな)いでいたのはベルベル人である。そして、サハラの砂漠化が進んだ後にラクダで砂漠を越えて様々な王国が栄えていた西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間のトワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていたという壮大な話で、その交流はサハラの砂漠化が進んだのちも大きく発展していった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。
トワレグ人の分布地図
東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリ商人がその役目を果たした。トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に大きな交易網を張り巡らせていたということになる。
次回は農耕民である。
サハラ砂漠のトワレグ人