つれづれに:歩く(2024年11月24日)

つれづれに

つれづれに:歩く

高台の公園の東側の登り口から見える加江田の山

 今日もきれいに晴れている。普段の生活が何とか出来るようになって、日常と陽の光の有難さを感じている。週に1度のマッサージに白浜に自転車で出かけ、庭を潰(つぶ)した畑で作業をし、家の近くを1時間ほど歩ければ、大体元通りである。

高台公園の大きな広場、桜の季節には家族連れでにぎわう

 その合間に、今は小説の元材料をブログの「つれづれに」に書き溜めている。そろそろ、5作目を書き上げて、どこかの出版社に送るつもりだ。構想はだいぶ前に思いついたものを、書きながら今回は400字×400枚くらいの形にする、どうも、それが自分のスタイルらしい。1980年代にミシシッピのシンポジウムに参加したとき、2年後の→「サンフランシスコ」の学会に誘われた。先輩に相談して薦められた南アフリカの作家アレックス・→「ラ・グーマ」(1924-1985)の物語を読んだ。

サンフランシスコのチャイナタウン

 ラ・グーマは亡命中にインタビューを受け、作品が仕上がると、タイプライターの前に座り、頭の中のものタイプ打ちし、少し修正を加えるだけ、と答えていた。頭の構造が違うんや、ひとそれぞれ、生まれる場所も自分の才能も、自分では選べへんもんなあ、しゃーない。

小島けい挿画

 自転車はだいぶ前から乗るようになって、やっと白浜も自転車で行くことが出来たが、5日前から、歩き始めている。まだ1日小1時間とはいかないが、このまま行けそうである。5日前は、夜中に郵便ポストに投函するついでに、高台の公園の階段を上った。147段で、コンクリート製である。下から33×3=99段、24×2=48段で、上の方が1段の幅が広い。同じ調子で登ると、上の段と歩調が合わないのに気づく。少し息切れがしたが、大丈夫だった。公園内の草の上を歩いたら、夜露で濡れていた。

 次の日も階段を上り、草の上を歩いた。20分ほどである。ちょうど作業員が何人かで、草刈りの作業をしているところだった。東側の小さな広場の草は刈られたあと、まだ片づけてられていなかった。一度、夕方作業を中断して刈られた草がそのままになっているときに草を集めて持ち帰り、畑で使ったことがある。

 小さな広場からは、木々の間から東側の日向灘に浮かぶ青島が見える。手前に芒(すすき)が揺れていた。

 3日前は、階段横の高台公園の土手を登った。久しぶりだった。きれいに下草が刈り取られて歩き易かった。

 公園を抜けて、木花神社まで行った。展望所から見える加江田の山と田圃(たんぼ)の組み合わせは、いつ見てもいい。写真には出ていないが、右側は山また山また山、左側は木崎浜である。

 階段を下りて、上って来た。98段で、石で出来ている。さすがに、古い神社である。廃仏毀釈運動が起きるまでは、隣に寺があったそうで、石塔が残っている。そう言えば、母方の祖父は大理石職人で、岐阜に出稼ぎに行っていると母親が言っていたなあ、と思い出した。名古屋駅の大理石を自慢していたと聞かされていたので、前回名古屋に行ったとき、名古屋駅でそれらしい場所を探したがわからなかった。祖父には会ったことはない。年末に出稼ぎから戻ってきたとき、火鉢を抱えて倒れたらしい。脳卒中でそのまま死んで、葬式に連れて行かれた。ちょび髭をたくわえた遺影を見たとき、なかなかいい顔してるやん、と思った記憶がかすかにある。葬式が済んだあと、祖父が住んでいた家に引っ越しをした。母親が相続したということだろう。6畳と4畳半2間は変わらなかったが、スラムのような場所から、川を隔てた元市営住宅に移った。小さな庭があり、南側は川の土手まで見晴らしのいい畑だった。陽当たりもよく、明るかった。小学校の3年生だったと思う。

当時とあまり変わっていない引っ越しの時に渡った橋

 神社の階段は高台の公園の階段よりは少ないが、傾斜は急である。真ん中に手すりがある。秋祭りのときは、青年団の人が近くの竹を切って、その手すりに幟を何本も立てる。無人だが、仮社務所が少し離れた下の部落にあり、宮司も世話人もいるようである。帰りに、どくだみを摘んで帰ったりしたので、小1時間かかった。昨日も同じように、小1時間ほどかけて歩いた。だいぶ、戻ってきている。今日はこれから、先週に続いて、白浜に自転車で出かけ予定である。行きは久しぶりに、途中から海岸道路に入り、みらい橋の定位置で写真を撮るつもりである。天気予報では晴れなので、きれいな写真が撮れるだろう。晴れた日が続いて、有難い限りである。