つれづれに

つれづれに: 大学2:無意識の「常識」2

この原稿を書き始めた一昨日は朝からきれいに晴れていた。気温も4度近くあり、家の中にいる猫たちは陽だまりで気持ちよく眠っていた。大寒のわりにはずいぶんと穏やかな日だと思ったが、昨日は朝の小雨は上がったものの、その後も曇り空で寒かった。窓から見える加江田の山の方も、どんよりとしたままだった。一昨日よりも最低気温が3度も高いようなのに、陽差しがないのでずいぶんと寒い感じがした。猫たちも丸まって重なり合っていた。新聞では夕方に晴れマークが出ていたので晴れてくれると思ったが、一度も晴れなかった。今日はきれいに晴れてくれたお陰で、猫たちも陽だまりにいる。寛いでいる姿を見るのは、嬉しい。1年を春夏秋冬に分け、それぞれの季節を6つに分けたこよみ二十四節気では、冬の最後を締めくくる約半月が大寒だそうで、毎年、だいたい1月20日~2月3日ごろ、今がその大寒の最中である。大寒が終われば立春で、二十四節気の一年が始まる。春がすぐそこまで来ている、ということのようである。

前回は、入学した頃の大学について少し触れたあと「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」と書いたのだが、今回はその深層について書いてみたい。→「大学1:無意識の『常識』1」(1月25日)

坂を登ると長い階段があり、その先が事務局・研究棟(大学のホームページから)

すべてを諦めたつもりだったが、偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」は諦めた「すべて」の中には入ってなかったらしい。「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」深層には、昼間の学生は偏差値が高く、夜間の学生は偏差値が低い、そんな意識が強く働いていたようである。すべてを諦めたつもりでいたし、受験勉強も出来なかったのだから、そんな劣等の意識を持つ必要もなかったのだが、実際には「なんだか見下されているような気がした」と感じてしまったのである。

中学校までは大学についてほとんど考えたことはないから、高校の3年間にその「常識」が染み付いたことになる。そう思えば、何だか思い当たる。入学して間もなく近隣地域の模擬試験があった。試験結果が出ると、百番くらいまでの名前と点数が壁に大きく張り出されていた。張り紙に名前のあった者は優越感を味わい、なかった人は少し劣等感を感じたかも知れない。県下一斉の模擬試験があった時には、張り紙だけでなく、教室では教師が神戸の第3学区の進学校と姫路の進学校と比較して、平均点でいくら負けたとか、頑張って平均点を上げるようにとかを繰り返し言い続けていた。模擬試験は年に何回かあったから、それだけ繰り返し繰り返し張り紙を出され、同じことを言い続けられたら、やっぱり無意識に何かを摺り込まれる。3年になると、成績のいい者から選んだ文系と理系の各1クラス、あとは均等に分けたクラスに分けられた。あるとき、隣に座っていた人が俺らはアホクラスやなと自嘲気味に呟いているのを聞いた。入試結果が届くと、次々に仰々しく張り出されていた。大きな張り紙を見た記憶があるから、卒業までに何回か登校したようである。この類のあからさまで継続的な摺り込みは、意外と大きかったかも知れない。親の期待を受け、受験勉強に励んだものは尚更、その影響も強かったに違いない。

自分と向き合うこういった掘り起こし作業は、意外と時間がかかる。忌まわしい記憶なので、出来るだけかき消したい思いが無意識に働いているし、嫌な記憶は変に増幅されて残っているからだ。五十年以上も前のことだし、細部の記憶も余りない。その中から拾い出そうとしているので、時間もかかるわけである。仲良しで、卒業後も継続して顔を合わせているのが何人かでもいれば、細かい記憶も引き出せるのかもしれないが、特に仲が良かった人もいないし、卒業後に会った同級生も極めて少ない。同窓会とも無縁である。その後、地元を離れ、四十前には遠く離れた宮崎に来てしまったから、僅かな記憶のかけらを紡ぎ合わせるしかない。

次回は、偏差値や大学の序列などに関する無意識の「常識」についての続きをもう少し、無意識の「常識」3か。

高校ホームページから

つれづれに

つれづれに:大学1 :無意識の「常識」1

来てくれる小鳥の数が増えて来た。猫のぴのこを抱いて庭を見ていた妻が「ひよやね。あれはめじろかな。別の種類の鳥も来てるけど、名前がわからんからしじゅうがらにしとこ」と言っている。めじろとひよ以外に、別の種類の鳥が来ているようである。ぴのこは元々食が細く、消化器の一部が細くなっているそうなので、ある程度以上食べると必ず戻す。たくさん水を飲んだ場合も同様である。それで食べたあと5分程抱いてやると、戻さなくなった。前屈みの姿勢で消化管を圧迫しなくて済むからだろう。(→「梅とぴのこ」(「私の絵画館」2010年2月21日)↓

前々回は「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」と書き、前回は「丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」と書いた。そして「しかし、何も言わなかった。何も言えなかった。無意識のうちに抑制因子が働いて、目に見えない枷に雁字搦めになっていたからである。」とも書いた。今回は雁字搦めになっていた枷と無意識のうちに働いていた抑制因子について書こうと思う。

雁字搦めになっていた枷に気づき始めたのが大学に入ってからだから、入学した頃の大学について少し書いておく必要がありそうである。一年間浪人をしても受験勉強が出来ず、また英数国もしないまま国公立大を受けた。ただ、2年目は二期校を神戸市外国語大学Ⅱ部にして、願書を出した。夜間課程だが、英米学科でも文学は出来るわけだし、時間もあるし、と気持ちに区切りをつけ(自分を正当化し?!)、最後の砦のつもりだったかも知れない。

神戸市外国語大学は今は西区の学園都市に移転しているが、通ったキャンパスは神戸市の東端の東灘区にあった。標高931メートルの六甲山の山裾にあって、坂道も多かった。坂の上のキャンパスからは神戸の街の夜景が見えた。山頂からの百万ドルの夜景は有名だが、帰りの坂道で見た夜景もなかなかだった。昼間課程には英米学科、中国学科、ロシア学科、スペイン学科があり、夜間課程にはⅡ部英米学科があった。国公立大学の外国語学部は他に東京外国語大学と大阪外国語大学しかなく、英米学科の偏差値はそれなりに高かったようである。(外国語学部も昼間課程も考えたことがなかったので、当時の偏差値は全く知らない)入学したのはⅡ部英米学科語学文学コースだった。(他に法経商コースがあった)たぶん、偏差値を見て、行けるかもしれないと思ったのかも知れない。

授業料は年間12000円(昼間課程は18000円)で、月額1000円、入学金は28000円だった(ような気がする、40000円だったかも知れない)。事務局で支払う時に半期3000円の領収書を受け取っている学生を見た気がするので、値上げをしてその金額だったようである。毎朝一時間ほどやっていた牛乳配達が5000円、何年か後に頼まれた家庭教師が3000円だった。通学時間が1時間半余りの自宅からは国鉄と阪急を利用したが、国鉄の定期が月額にして980円、阪急が1580円(だったように思う、「3駅の距離やのに、国鉄に比べて阪急はえらい高いやん、私鉄やからやろな」と思った記憶がある)、合わせても2500円程度だったので、学費と交通費は牛乳配達の5000円でまかなえていたということになる。三宮まで1時間程度の距離で定期代の月額が1000円足らずだから、今から考えると、国鉄(JRの前身)の学割も国公立大学の授業料も別世界の話である。1年浪人、2年留年をして最終学年の4年生になったとき、「30くらいで死ぬとして、あと一つ大学に行って終わりやな。大学院やったら学生のままやから、大学院を受けてみる手もあったんや」と考えたのも、その学割の影響が強かった気がする。

入学式は「常識」の範囲では計り切れない突然の出来事だった。→「授業も一巡、本格的に。」(「つれづれに」、2019/4/15)

火炎瓶を脇に置き、ゲバ棒を持ちヘルメットを被った全共闘の学生たちの一人がマイクを片手に喚き散らす拡声器からの声、入学後すぐに始まり機動隊導入前まで毎晩続いた授業代わりのクラス討議、ある日出来ていた机と椅子の学舎バリケード封鎖、機動隊導入によるバリケード強制撤去と学生排除など、中央で国家権力にぺしゃんこに潰されていた学生運動の余波とは言え、あの年でないと経験出来なかったわけだから、ひょっとしたら歴史的出来事の生き証人の一人だったかも知れない、という気もする。個人的には、極めて新鮮で、「思わず遭遇した」貴重な体験だった

バリケード封鎖された木造2階建て校舎(大学のホームページから)

雁字搦めになっていた枷を意識し始めたのは、大学前の坂道を登る時だった。夜間の学生が坂道を登るときと、授業を終えた昼間の学生が坂道を降りて来る時間帯が重なるのだが、坂道を登っているときに、坂道の上からなんだか見下されているような気がしたのである。位置関係からすれば昼間の学生が夜間の学生を実際に下に見ていたのだから、当然と言えば当然なのだが、どうもそれが偏差値と少し重なっていたような気がするのである。入学後バスケットボール部に入って昼間の学生といっしょに練習を始めたので、その意識は薄れていったようにも思うが、「なんだか見下されているような気がした」のは確かである。

次回は大学2:無意識の「常識」1(続き)で、「坂道を登る昼間の学生になんだか見下されているような気がした」の深層、か。

大学の全景(大学のホームページから)

つれづれに

つれづれに: 高等学校3

一週間ほど前からまた小鳥が来るようになった。生き物が来てくれるのは嬉しい。そろそろ山に食べるものが少なくなったということだろう。金木犀の枝に刺す二つ切りの柑橘類がお目当てである。幸い近くには柑橘類の樹が多く、大体は落ちた実を拾えば賄える。足りない場合は、お爺さんが育てている少し離れた所にある蜜柑農園の百円コーナーへ行けば調達出来る。三月の終わり頃に鳥が来なくなるまで柑橘類集めが続きそうである。最初は警戒して写真を撮るのが難しいので、二年前の写真である。→「つれづれに ひよとめじろが来ています」(2020年2月11日)

今回は高等学校3、高校がおもしろくなかったもう一つの理由「大人が生徒を子供扱いした」である。

前回「一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。」と書いたが、今回も同じである。丸坊主にさせられ、制服を着せられ、通学路まで決められ、毎週朝礼で言いたい放題言われて、よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。

まるで子供扱いや。自然に生えてくるのになんで無理やり刈らせるねん、なんで全員丸刈りやねん。安上がり?、衛生的?切っても切らんでもそんなん人の勝手やろ。構わんといてくれ。制服やってそやで。何着てもそんなん人の自由やろ。詰襟なんか首に食い込むし、気ぃ悪いわ。通学路?安全?どこ通ろうと人の勝手や。毎週朝礼でなんでまっすぐ並ばなあかんねん、体育教師が偉そうに、お前らなってない?何ごちゃごちゃ説教たれてんねん。頭が筋肉のあんたには言われとうないわ。そもそも周りを見てみぃ。生徒指導を受けなあかん奴なんかいるか?そら僕みたいに親の当たりの悪いのもいるやろけど、人に迷惑をかけるほどおかしいのはおらへんで。そんな生徒、入って来てへんやろ。入られへんで。大概は親に大事にされたええ子ちゃんやし、毎日黙ってしょーもない授業文句も言わんと受けてるやろ。生徒指導?誰を何処に導いて、指導するっちゅうねん。大体お前らが、人に説教?指導?何考えてんねん。教師?偏差値の高い人は殆んどならんそうやん、せんせせんせ言われて勘違いしてるんちゃうか。誰が誰に何を教えんねん?毎回毎回頭のなかはそんな罵詈雑言が渦巻いていたように思う。本当に「よくもまあ、おとなしく、黙っていたものである。」

しかし、何も言わなかった。何も言えなかった。無意識のうちに抑制因子が働いて、目に見えない枷に雁字搦めになっていたからである。教師が生徒に教えるもの、大人は子供を守るもの、学校では勉強が一番大事、成績がよければいい生徒、周りも自分自身も想像以上にそんな「常識」に縛られていた、と思う。

次回は、意識下の「常識」1、か。

高校ホームページから

つれづれに

つれづれに: 高等学校2

種からのリーフレタスの植え替えが何とか終わり、ブロッコリーと葱の植え替えをしている最中である。去年レタスとブロッコリーの種は採れたが、葱は採り損なってしまった。葱坊主にはなったが、長雨が続いて腐り、崩れてしまったからである。去年の長雨は、予想以上に長く、執拗だった。低い地区には絶えず大雨警報が出ていた。南瓜の成長が止まり、実がすべて子ぶりのままだったほどである。

土を運んで一番陽当たりのいい場所に新たに拵えた畝に植え替えたサニーレタス

「諦観」の意識下の深層を探るために高等学校について書いているが、今回は高校そのものについてである。嫌だった理由の一つが「高校そのものに関心がなかった」ことだと書いたが、中学の半ばから始めた社会活動が生活の中心になっていたからである。一年生から二年の夏休みまでは一つ上のまとめ役の先輩といっしょに、それ以降は私自身がまとめ役として活動に夢中だった。何人かの同学年と一つ年下の人たち何人かとはよく集まったし、少しは社会に関われている気がして毎日が充実していた。それで高校に関心が向かなかったのだが、高校生活自体がおもしろくなかった面も大きい。国語や社会などはもともと嫌いではないが、授業はつまらなかった。理科系の科目は性に合わなかったし、世界史や日本史はほぼ教科書をなぞるだけだった。古典と英語の人は受験一辺倒で、「はい、これ重要単語」という古典の人の鼻に抜ける甲高い声と、「リスポンポンシビリテイのビのところにアクセント」と言いながら黒板を叩くコンコンコンという音の感覚が今も耳に残っている。3年次の現代文の人は受験用の参考書を毎回そのまま読むだけだった。文章の末尾の「。(まる)」まで読んでいた。あまりに退屈なので、生徒の一人が質問をして怒らせたら「お前は俺よりえらいと思っているのか!」と大声を上げていた。「せんせよりえらくないと思ってるんですか?」と言い返されて、しばらく黙りこくっていた。言い返した生徒は京大に行ったと聞くが、普段から偉そうにして鼻持ちならなかったので周りは冷ややかで、ほぼ無反応だった。私の場合は、どっちもどっちやな、勝手にやりやと思うくらいだった。

小中でも同じだったが、高校でもひたすら教師の言っているのを聞くだけだった。自分から進んで何かをするとか、グループで討論するとか、誰かが来て違う角度から話をしてくれるとかもなかったし、映像を見ることも一切なかった。時代的なこともあるし、大学でも基本的にはそう変わらなかったが、大学の場合、内容が濃い科目の場合はおもしろかったし、高学年になると少人数のゼミもあって、自分でテーマを決めて発表する機会もあった。その点、高校の内容は、教科書を読めばわかる程度のものが多く、とにかく退屈極まりなかった。一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。

もちろん、東大に行くとか京大に行くとかの身近な目標が持てるか、成績がよくて優越感を味わえたとかがあれば、授業も楽しくなっていたかも知れない。しかし、答えの分かった決められた内容をやらされるのは、苦痛だった。まずする気が起きなかった。一年生のほぼ同じ時期に二つの模擬試験を受けさせられて、一つは百番くらい、もう一方は四百番くらいだった。片方の国語が72で、もう一方が50くらいだったと思う。上位の百人ほどは実力がある程度あったのかも知れないが、それ以降は似たりよったりだったということだろう。入試用に本腰を入れる人が増える3年になれば、そういったこともなかったのかも知れないが。今でも覚えているのが3年の時の519という数字、高校の成績の最高記録である。

私学を受けるわけにもいかないし、そんな状態で国立大を受験したのだから、後から思えば、結果は見えている。それでも直前模試の数値50%を見ながらの担任との面接では、地方の国立大の合格率は「半々やな」と言われた。担任が東京教育大で、地方の国立大を受ける生徒もあまりいなかったこともあるが、無責任なものである。英語も数学も、他の教科もほぼ何もしないで国立大に行こうとする方が、元々無理な話なのだから。一番偏差値の低そうな、人の行きたがらない山陰の2期校の教育学部の小学校教員養成課程も、落ちた。

高校ホームページから

よくも卒業したものだが、3年の時は何やかや理由をつけて3分の1くらい学校を休んだ。規定を満たせば文句を言われる筋合いもないので、休むのに弁解がましい言い訳を考える必要もなかったと思うが、学校を休む=よくない、という意識が働いていたんだと思う。学校に行くか行かないかは本人の意思次第だし、嫌ならやめればよかったんだが、無意識の「常識」に縛られて、雁字搦めだったように思う。評定値は3.3、一番低かったのではないか。

高校の近くに寺があって、ときたま帰りにその寺に立ち寄った。当時は宝物殿とかに収容されていなかった観音像を見るためである。しばらく格子戸越しにぼんやりと観音像を眺めてから、家に帰った。その頃は、将来高校の教員になって、その寺の住職が同僚になるとは夢にも思わなかったが。その人も旧制中学を出たそうである。後輩とは言われず、わりとかわいがってもらった。生徒指導を担当して生徒に厳しかったが、指導を受けたことはない。

観音像があったと思われるお堂

次回は、高等学校3、高校がおもしろくなかったもう一つの理由「大人が生徒を子供扱いした」、か。