続モンド通信35(2021/10/20)
1 私の絵画館:子馬(ジャスミン)とコスモス(小島けい)
2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬⑭:秋にはコスモス・・・・(小島けい)
3 アングロ・サクソン侵略の系譜32:ケニアの歴史2(玉田吉行)
**************
1 私の絵画館:子馬(ジャスミン)とコスモス
以前借りていた家には、50坪ほどの畑がありました。初めての秋、その畑は一面のコスモス畑となりました。
それまで親しんでいた花屋さんのか弱いコスモスではなく、人間の背たけを越え天に向かって咲きほこる、強いコスモスでした。
そこで、来年は畑だけではなく、家の周りすべてをコスモスの花で囲もう!と考えました。30cm間隔に穴を掘り、次々とコスモスの根を植えていきました。大変でしたが、“秋の家”を想像するだけでワクワクする作業でした。
家主さんは、お世話になっている先生でしたので、毎月家賃をもってお宅にお邪魔しました。まわりからは恐れられている方でしたが、毎月の私たちのアホな話を、結構楽しみにして下さっているご様子でした。
コスモスの“植樹”(?)を終えた後、お伺いしてその話をしたところ、ふだんはそれほど大笑いされないご夫妻が、一瞬目を見合わせおかしくてたまらないというように、笑いころげておられます。そうして、ようやく笑いがおさまった後、“コスモスは一年草だから、根を植えてもダメなのですよ”と、奥様が教えて下さいました。
20年前に、私たちは今の家を買い、何年か前にはその先生も旅立たれました。他の人たちには厳しかったようですが、息子さんしかおられない先生には、ちょうど娘のような感じだったのか、私たちには温かいまなざしでした。
コスモスの花を見ると、今よりもっとアホだった私たちと、先生を思い出します。
カレンダー「私の散歩道2021~犬・猫ときどき馬~」10月
=============
2 小島けいのエセイ~犬・猫・ときどき馬~⑭:「秋にはコスモス・・・・」
中島みゆきさんに「アザミ嬢のララバイ」という曲があります。その歌詞のなかに<春は菜の花 秋にはききょう>という一節があり、気だるいメロディとともに、妙に心に残っています。
歌詞には不向きですが、私の場合は<春は桜 秋にはコスモス>となりそうです。
花の絵を中心に描いていた頃、春はめまぐるしいほどの忙しさでした。まさに<花の命は短かくて>。次から次へと、新しい花が咲き出すからです。花を追い、花に追われる日々でした。
そんな春とは違い、秋の花はとても少なく、私のなかでは、ずっと“コスモス”が秋の主役でした。
<花>
No. 1
No. 2
No. 3
No. 4
No. 5
No. 6
No. 7
No.8
No.9
描く絵が、花から動物たちへと移ってからも、コスモスの花と一緒に描いてきました。
<犬とコスモス>
No. 1(もえちゃんとコスモス)
No. 2(ハーシュくんとコスモス)
No. 3(ターバンくんとコスモス)
No. 4(ポチとコスモス)
No. 5(寅次郎くんとコスモス)
<猫とコスモス>
No. 1(子猫とコスモス①)
No. 2(子猫とコスモス②)
No. 3(さやちゃんとコスモス)
No. 4(まりんちゃんぷりんちゃんとコスモス)
<馬とコスモス>
No. 1(ジャスミンとコスモス)
これまでも何枚も描いてきましたが、これからもきっと、たくましく時に可憐なコスモスを、私は描き続けてゆくのだろうと思います。
=============
3 アングロ・サクソン侵略の系譜31:ケニアの歴史(2 )
ペルシャ人、アラビア人とポルトガル人の到来
2021年Zoomシンポジウム「アングロ・サクソン侵略の系譜」―アフリカとエイズ」(11月27日土曜日)/「ケニアの小説から垣間見えるアフリカのエイズ」2
ケニアの歴史の2回目である。
1505年のキルワの虐殺を皮切りに世界を侵略し始めた西洋諸国は、侵略を正当化するために自分たちに都合のいいように歴史を書いてきたので、古代に栄えたエジプト文明もアフリカとの関係は完全に無視されて来た。しかし、実際にはエジプト文明はアフリカ人の影響を色濃く受けていたので、古代エジプトを抜きにはアフリカを到底理解することは出来ない。
エジプトのカイロ博物館
エジプトは、古代世界でも最も高度でユニークな文明を築き上げ、3000年ものあいだ栄えて来た。その影響は、周囲はもちろん遠くオリエントにまで及んでいる。今日のエジプト人やスーダン人の遠い祖先の中には、こうした初期のナイル住人もいる。その後西アジアから来た民族も混じっていったが、一番多く入り込んだのは南や西から来た人々、つまりサハラを追われたアフリカ人だった。
サハラの気候が大きく変わり始めたのは4500年ほど前で、やがてサハラは雨を失ない、動物を失ない、遂には人間を失なっていった。そこで暮らしていた住民は乾燥化が進む土地を捨て、水を求めて次第にサハラを出て行き始めた。南と西に広がる熱帯雨林を目指す人たちもいたし、東のナイル川に向かったグループもいた。その人たちがサハラ流域にも暮らすようになり、エジプト人とも交わっていったわけである。
エジプト人の支配はやがて終わり、ラムセツ2世の時代から約500年後にヌビアの王が北に攻め入り、エジプト全土を掌握した。ヌビアの王は紀元前600年頃までエジプトを支配し、その後再びクシュ王国の都ナパタに戻り、その後、南のメロエに都を移した。ヌビアの地はエジプト文明の形成に大きな影響を与え、後に逆輸入された。
ギリシャやローマ時代にヨーロッパと西アフリカを繋いでいたのはベルベル人で、サハラの砂漠化が進んだ後に西アフリカと外部世界を繋いだのは、ベルベル人の仲間トワレグ人である。ヨーロッパとアフリカ、中東やインドや中国とアフリカが繋がっていて、その交流はサハラの砂漠が進んだのちも大きく広がっていった。西アフリカや東部・南部アフリカにも幾つかの王国が栄え、その王国と外部世界が黄金を通貨にした巨大な交易網で繋がっていたわけである。東部と南部アフリカと外部世界、遠くはインドや中国と繋いだのはペルシャ人で、後にはアフリカ人とペルシャ人の混血のスワヒリの商人がその役目を果たした。
砂漠の民トワレグ人
トワレグ人やスワヒリ人が繋ぎ、エジプトを拠点に広大なアフリカ大陸に張り巡らせた黄金の交易網については、アフリカ大陸に生きるアフリカ人と暮らしの話と、王と都市をめぐる話のあとに、詳しく取り上げる予定である。
アフリカ大陸に暮らす人々の生活は前回一部を紹介した遊牧と、農耕が主体で基本的にはそう変わっていないが、インド洋に面した海岸部では交易によって栄えた街も増え、経済は拡大していた。元々東アフリカの海岸には、おそらく紀元前からはるかインドや中国にまで延びる海上ルートがあった。インド洋の海上ルートを切り拓いたのは古代ギリシャ人やローマ人、それにアラブ人だったようで、特にアラブ人は東アフリカ沿岸のアフリカ人の中に溶け込んで行き、そこから独自のスワヒリ人が生まれている。10世紀に歴史家アル・マスーディーがやってきた頃には、東海岸一帯に豊かなスワヒリ都市がいくつも出来ていた。
スワヒリ都市と帆船ダウ
マスーディーは「アフリカ沖の波はまるで山脈だ。深い谷底めがけて一気になだれ落ちる。砕けて泡を立てることもない。私が旅したシナ海、地中海、カスピ海、紅海、どの海もこれほど危険ではない。この海を渡ったのはダウと呼ばれる、今も使われている帆船です。東アフリカとアラビア半島を往来していた船は、向かい風でも進むことが出来ました。ヨーロッパの船がこの技術を身に着けたのはずっと後のことです。」と言っている。
ダウを操る船乗り
モンバサなどのスワヒリの街は東アフリカの海岸に沿って、お互い余り距離を置かずにあり、一番南の街がソハラで、大変重要な交易の拠点だった。そこに南アフリカの内陸部から黄金が集まっていたからである。タンザニアの沖合にあるキルワも栄えていた街の一つで、デヴィドスンは島に行く船の中で次のように語っている。
「私は今タンザニアの沖合の島キルワに向かっています。この島はスワヒリの交易都市を語るにはどうしても忘れられない所です。キルワもラムと同じで、沿岸に浮かぶ小さな島です。今もここに行くには船を使うしかありません。伝説ではキルワに最初に来た外国人はペルシャの人々だったとされています。かれらも土地の人と結婚し、この島に落ち着きました。その十世紀末から十六世紀初めまで、ここには豊かな都市国家が栄え、内陸から来る金の取引で賑わっていたのです。信じられないような話ですが、600年前にはこの階段を東洋の人々、色んな国の大使や商人、兵隊、船乗りが一歩一歩登って行ったのです。そして一番てっぺんに達したとき、目の前に広がったのは活気と華やかさに溢れたそれはもう夢のような美しい街でした。しかし、それは悲惨な結末を迎えました。」
キルワとデヴィドスン
1498年に初めてインド洋に入ったバスコダ・ガマが目にしたものを報告した7年後の1505年に、ポルトガルが武装した船団を送って、キルワを廃墟にしてしまった。同行したドイツ人ハンス・マイルは目撃したことを「ダルメイダ提督は軍人14人と6隻のカラブル船を率いてここに来た。提督は大砲の用意をするよう全船に命令した。7月24日木曜未明、全員ボートに乗り上陸、そのまま宮殿に直行し、抵抗する者はすべて殺した。同行した神父たちが宮殿に十字架を下ろすとダルメイダ提督は祈りを捧げた。それから全員で、街の一切の商品と食料を略奪し始めた。2日後、提督は街に火をつけた。」と書き残している。
キルワの虐殺はヨーロッパ人の大規模な侵略の始まりだった。
キルワ虐殺の版画
次回は、イギリス人の到来と独立・ケニヤッタ時代である。