つれづれに

つれづれに: 高等学校1

辛うじて生き残った苗からのリーフレタスのほか、種からの冬野菜も順調に大きくなっている。作業の出来る時間が限られているので、植え替えが間に合わずに春になってしまうかも知れない。寒い中で体を冷やすと致命傷になり兼ねないし、回復力も年々しっかりと衰えているからである。

「諦観」の意識下の深層を探るために、嫌々通った高等学校について書いている。嫌だった理由は二つある。どうも、高校そのものに関心がなかった、大人が生徒を子供扱いした、辺りのようである。

進学したのは、旧制高校から終戦後に今の高校になった進学校である。当時は元旧制女学校の普通科の県立高校がもう一つあった。高校のホームページによれば、昭和23年4月に新制高校として開校した三か月後に、その高校と「職員生徒折半交流し、男女共学を実施」したそうである。今まで知らなかった。

しかし、入学した年の男女比は7対3、もう一つの高校は反対に3対7だったように思う。もう一つの高校に中学から美人タイプの女子生徒が多く行ったような気がしていたから男女比が記憶に残っているのだが、今から思えば、母数が二倍以上なのだから、美人タイプの数が多くても不思議はないわけである。話したこともないが、飛び切りの美人がその高校に行っていたせいかもしれない。私が生まれた頃に「職員生徒折半交流し、男女共学を実施」したそうだが、校内では「男女共学」ではなかった。男子クラス、女子クラスに分けられていて、3年間男ばかりだった。話したことはないが、一年生で同じクラスの二人が東大に行ったらしいから、進学校だったようだが、女子の一つは就職クラス、つまり三分の一は就職、男子も少なからず就職組がいたようである。

戦後の復興で国力がつき始めた1964年に東京オリンピックがあって、その頃から高度経済成長の道をまっしぐらに突っ走り始めたから、進学校でも就職組が存在していたということだろう。オリンピックの年が中学2年生で、オリンピックの混雑を避けるために変則的にと言われて、2年次に修学旅行で東京に連れて行かれた。1クラスが55人で10クラス、1学年550人の大規模校だった。団塊の世代を収容するための措置だったのだろう。中学校も同じように大規模校で、1クラスが55人、10クラス、1学年550人だったように思う。高校の近くにもう一つの大規模校があって、大規模校からは60~80人程度が進学していたようで、進学者が数人程度の中学校もあった。

中学からは三十番代、全体の真ん中辺りの成績で進学したように思う。毎朝家に寄ってくれていっしょに登校していた同級生が落ちて私学に行ったが、同じように落ちていたら方向も変わっていたかも知れない。母子家庭でおとなしい性格のいい人だったが、高校に行くようになってからは会っていない。小学3年生の時に出稼ぎから一時的に戻っていた祖父が急死して、元市営住宅の祖父の家に引っ越していた。生まれてから住んでいたスラムのような密集地帯からは抜け出していたが、同じく4畳半と6畳の2間の家は、5人家族には相変わらず狭かった。中学の頃には下の弟と妹が増えていたので、更に窮屈になっていた。結婚の日に初めて父親と顔を合わせた母親は、それまで継母に虐められていたこともあって結婚でしばらくは解放された気になっていたようだが、引っ越した時には、父親その人と、いびられ続けた「兄嫁」たちを心底毛嫌いするようになっていた。高校に入学した頃には、離婚を言い出した母親と全く自覚のない父親が家にいることはめったになく、親がいなくても子は育つ、そんな状態だった。高校2年の時に二人を呼びつけて、そんなに嫌やったら別れたらええやろ、弟や妹の面倒は僕が見るから、と言ったが、その時は離婚しなかった。言った手前、一時期家族の分の食事も作っていたので、今も料理自体が少し億劫である。しかし、その頃は自分のことだけで精一杯だったというのが本音で、弟や妹のことまで充分に気を遣えなかった気がして、少し悔いが残る。従って、親から勉強するように言われたことはない。塾や家庭教師とも縁がなかったし、参考書なども買わなかったように思う。元々理解力や記憶力が特別よかったわけでもなかったが、教科自体にそう抵抗はなかった。周りに大学に行った人もなく、家には本もなかったが、大学には行くものと自然に考えていたように思う。

最近の中学校(同窓生のface bookから)、当時は木造の2階建てだった

戦争から引き揚げて来て時間が経っていなかったせいか、父親は聞くに堪えない播州弁で騒いで遊ぶ子供相手によく喚き散らしていた。そのせいか怖い思いが先に立って、進学のことも含めて、父親とはほとんど会話をした記憶がない。直接聞いたわけではないが、旧制中学を出たらしい。155センチくらいしかなかったが、運動は万能で記憶力もよかったと聞く。父親と高校を結びつけて考えたことはないが、高校の教師をしたときに、同じ旧制高校出身の年配の英語教師から、後輩のくせに生意気なと怒鳴られたことがあった。その時に旧制中学の人は今の高校の人を後輩と思うんやと思ったが、一方的に後輩やと言われても、という気持ちの方が強く、先輩やいうんやったら手ぇ抜かんとちゃんとせんかぃ、と人からは聞きたくない播州弁で言い返したように思う。

結果的に、父親の通った旧制中学と同じ場所にある高校に「中学からは三十番代、全体の真ん中辺りの成績で進学した」ということのようである。

次回は高等学校2で、関心が持てなかった高校そのもの、あたりか。

高校のホームページから

つれづれに

諦観

絹鞘豌豆

寒い日が続いている。絹鞘豌豆の白い花がずいぶんと増えてきた。9月に苗から植えたリーフレタスが辛うじて生き残っているが、自給自足用には量が足りない。希釈した酢を撒いても蒔いても虫の勢いに勝てなかったので諦めかけた頃、葉に勢いがついてきた。撒いてる酢が虫の勢いに追いついた、そんな感じだった。季節の勢いだろう。春もそう遠くない。

去年72になった。干支が6回も巡ったわけだ。一回り下の元生徒から、還暦です、60の大台に乗りましたと去年メールが届いた。出会いの16と28に比べたら、年齢が近くなった気がする。そんなつもりはなかったが、ずいぶんと生き在らえてしまった。

十代の終わりにすべてを諦め、生きても30くらいかとぼんやり思ったのは確かだが、これだけ生き在らえてしまうと「すべてを諦め」、とはとても言えない。今から思えば、信じていた絶対的な存在がわからなくなった、生まれたところが悪かった、入試に合わなかった、などいろいろな言い訳は可能だが、それまで気づかなかった意識下の深層にある自分の意識に気づき始めただけかも知れない。生まれ育った環境や入試制度は引き金に過ぎなかった。ひょっとしたら「諦め」は、世の中に背を向けた気になり、辛うじて自分を守り、生き延びるための無意識の方策だったのかも知れない。大学が決まった時、写真をすべて焼いた。写真を焼く自分をもう一人の自分が外から眺めているような気分だった。そのあと、生活は一変した。

暁け方、海まで走って行く途中の堤防の土手から見える朝日をまぶしく感じ、夕方、2階のトタン屋根に登り、西に沈む夕日を見る時間が多くなった。それまで悔やんで自分を責めることが多かったのに、嘘のように後悔をしなくなった。世間に背を向けたつもりだったのか、ほとんど新聞もテレビも見なくなっていたから、同学年が全員留年した東大闘争も知らなかった。中央で終わっていた残り火が地方の大学で燻っていたらしく、大学の入学式の日に、校舎に通じる階段を上がったところに、角棒にヘルメットの学生が並んでいるのを見かけたが、何だろうとしか思わなかった。→「授業も一巡、本格的に。」(2019/4/15)

意識の深層を知るためには、「諦め」の引き金になった手掛かりを探すしかないようである。次回は、嫌々通った高校について思い出して書いてみたい。

生き残ったリーフレタス

授業

Zoomトーイック:2022年1月8日

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」1月

<やった内容>

Part 7 (reading)3問(②191-195, 196-200, ③147-148)

Part 4(listening)の3問(①89-91, 92-94, 95-97)

今日も短かい時間にどう判断するか、語彙や発音の基礎的な部分をしっかり理解して、みたいなこが中心。自分でやってきた内容をチェックして自分のものにする機会になったら嬉しいです。

f, v, lなど日本語にない音(おん)は意識しないと発音できるようにならないやろし、聞き取るのも難しいやろから工夫がいるね。最初の部分にアクセントがあると後ろはあんまり発音しないとか、一つの単語だけで発音されることはあんまりなくて、前置詞や冠詞もも含めて塊として慣れるのが不可欠なんかは意識し続ける必要があるやろなあ。

<次回>予定:2月12日(土)10時~12時

Part 7③の残りと④(少しでも)、とPart 4①の残り(98-100)と②の行ける所まで、どちらも1時間ずつ、でどうやろ?

<コメント>僕の近況はブログ→「ノアと三太」の「つれづれに」に書いて、ホームページ→「ノアと三太」にも貼ってます。

* 一昨日は東京で10センチ積もったという報道を巡って雪国の人の反論も交えて掲示板ではいろいろやり合ってたみたいやけど、宮崎でも寒いから、気ぃつけなあかんな。コロナの第6波も言われてるし。対面授業も始まったみたいやから、余計に。ミルくんの辺りは毎日雪らしいです。

* キムくんのほかに、中原さんと得能さんが700を越えたみたいで、他の人も先ず650を這早う越えてや。

<参加出来なかった人:中原愛、KIM Meereu、得能万里奈、山田大雅>

小島けい「私の散歩道2022~犬・猫・ときどき馬」

つれづれに

つれづれに: 歩くコース4木崎浜4

木崎浜も、やはりいい。湘南から来た人が開口一番に「水がきれい」と言ったのも頷ける、「温かい」もこの時期には実感できる。関東から来たなら、尚更だろう。この辺りでも二月の初めが一番寒いようだが、それでも雪はほとんど降らないし、二月の終わりになればだいぶ寒さも和らぐ。兵庫では二月の終わりに卒業式があったが、体育館は底冷えした。もっとも担任した人たちの卒業式に出ないわけにもいかなかったが、他の年は年休を取って卒業式は勘弁してもらった。式は苦手である。宮崎ではこの三十数年間で、数えるほどしか雪を見なかったし、降っても積もったのは何度か、それもみぞれ混じりの場合が多かった。高校の教員をしている時に、生徒を連れ出して雪合戦をしたことがあるが、別世界である。一年に何度か5~6センチほど積もる日があった。次の年から他の教員二人が生徒を連れ出していたそうだが、その時は気がつかなかった。新設で生徒にはやたら規律が厳しく、スカート丈を厳しくチェックしていたし、服装センスなどお構いなしの家庭科の教師が、生活の乱れは先ずは服装の乱れからと真顔で口癖のように言っていたのに、よくも雪合戦は止められなかったものだ。校長が見逃してくれたようだが、教頭は怒り心頭だったに違いない。ある日、余程腹に据えかねたのか、頭の真上から思いっ切り怒鳴られたことがあった。思うままにならない年下に日頃言えなかった鬱憤が爆発したんだろう。怒鳴られる謂れもないので、壁の方を向いたら更に怒鳴り声が大きくなって、職員室の端から端まで二人で移動した。ほとんどの教員がいた時間帯だった。見る側に居たら、存分に楽しめたかも知れない。その人が校長だったら、翌年に工業高校への異動辞令が出てきっと辞めていた、と思う。

7年間いた新設校

わりと風の強い日に撮った写真(↓)だが、これだけ波が砕けると、波に乗れないらしい。従って、そんな日にはサーファーは見かけない。トップの写真のような波が乗りやすそうだが、サーフィン経験がないので、実際のところはよくわからない。ただ、サーファーが多いときは、そんな波が来てるような気がする。

僕の方は砂浜を歩くだけなのだが、ガードマンが出て、波打ち際で、ここからは入れませんと何度か止められたことがあった。コマーシャルの撮影か、サーフィンの大会かがあったらしい。木崎浜のサーフィン関連のコマーシャルはウェブの動画で何度かみかけた。いつも歩いている場所なのに、どこか遠い国の出来事のようだった。ガードマンに制止された時は少し気分が悪かったが、何も言わずに迂回した。

前回北向きの尾鈴山系を背景にしたシーガイヤが見える写真(↓)を載せたが、同じ場所で西方向にレンズを向けたら、流木が散乱していた。何度か流木が流れ着いたら、県の土木課から委託された業者がブルドーザーで片づけ作業をしているようだ。青島の海水浴場も木崎浜も、サーファーや観光業者のために県の経費が毎年計上されているようだから、また作業が始まってきれいになるだろう。

コロナ騒動で去年は開催されなかったが、毎年サーフィンの大会がある。サーフィンがオリンピック競技に加えられて、騒動前にサーフィンの世界大会が木崎浜に誘致された。人が多そうだったので出かけなかったが、地元のテレビ局も出て、たくさんの人が世界中から集まったようである。狭い道も拡張され、サーフィン用の施設も出来そうだと思ったが、僅かに浜の道路の一部が拡張されただけだった。

右側の1車線が新たに加えられて、2日はその道路にも駐車されていた

工事の際に余った砂利が道脇の砂の中に捨てられたようで、家まわりに敷くためにその砂利を取りに何度か出かけた。サーファー用の洗い場で砂利の砂を落として持ち帰った。砂浜で砂利を集めることになるとは思わなかった。長いこと行ってないので、庭の砂利敷きの作業も止まったままだ。自転車での砂利運びも、なかなかの力仕事である。

次回は木崎浜5、歩くコースの最終回になりそうである。