つれづれに

つれづれに:関門橋

2023年11月9日宮崎日日新聞から

 「関門橋、本州結び半世紀」の昨年1月の新聞の切り抜きをみて、初めて関門橋があるのを知った。1973年11月14日に開通された立派な橋(↑)である。明石海峡大橋などの長大つり橋の先駆的な存在だったらしい。学生の頃に「関門海峡を渡ってみるか?」とふと思い着いて、友人を誘って出かけたが、渡ったのは海底を通る「関門国道トンネル」だったのである。海底トンネルは58年に開通したらしい。1970年の安保再改定の年に入学して、行ったのが2年目か3年目だから、関門橋が開通される前だったわけである。工事が行われていたはずだが、見た記憶はない。行ったのがもう少しずれていたら、関門橋のつり橋から関門海峡を自転車の上から眺めながら、九州に渡っていたのは間違いない。

 いつも自転車に乗っていたが、特にサイクリストというわけでもないので、スポーツサイクリング車とは関わりがなかった。1時間に20キロ、1日に200キロ、関門海峡まで600キロか800キロか知らんけど、何日かで着くやろ、そんな程度の計算をして出かけた。今なら人を誘わず一人で行くが、一人で自転車というのは初めてだったし、長距離も初めてだったので、ま、誘ってみるかと、いっしょにバスケットをしていた同級生を誘った。

 岡山城の後楽園に自転車を置き、岡山城に登った。10年ほど前に、高校で担任をした人が岡山から息子さんを連れて、ある日突然訪ねて来てくれたので、お返しに神戸に行ったついでに足を延ばしたのである。自転車を停めた場所を思い出しながら写真を撮った。

 倉敷にも寄った。一角だけ古風な街並みがあって、たしか美術館に入った気もする。そのとき読んでいた作家の書いた『心のふるさとを行く』の中に入っていたのも、立ち寄った理由である。尾道が坂の多い街だとは知らなかった。広島では川の側のホテル横でテントを張ったが、蚊はいなかった。川に海水が流れ込んでいたのかも知れない。防府はその年に入部して来た女子部員の家に立ち寄ったあと、佐波川でテントを張った。川はあかん、蚊だらけや、テントを張る間にようさん噛まれた、大変だった。

種田山頭火のふるさと、という番組だったか?

 国道を通っていたら、そのまま海底トンネルに入って行った。脇の細い自転車道を通って、一気に渡った。九州だった、ようである。この時点で、目的は達成された。帰りの記憶が全くないので、小倉からでも神戸行のフェリーに乗った確率が高い。

海底トンネルの中

 神戸市第1学区の2番手の高校から志して入学していたので、いくところがなくて通い出した似非(えせ)夜間学生とは代物(しろもの)が違う。真面目な優等生である。生きても30までかと斜交(はすか)いに構えながら、中学生のバスケットのコーチをやり始めたら授業に行けなくなって留年、などということもなく、4年でしっかりと卒業して大手の電気メーカーに就職している。就職後しばらくして英米学科法経商コースで学んだことや英語を実際の就職で生かしていたわけだ。

 海底トンネルはあかん。自転車の荷物は重たいし、出るまで車の音はゴォーーーーーーーーーッと半端やないし、自転車には最悪である。それに、今ほど自動車の排ガスにうるさくなかったはずだから、空気の汚れ方も酷かったと思う。関門海峡に行ってみるかと思って行ったのに、トンネルの記憶が強かったせいか、→「関門海峡」を見た記憶がない。帰りの記憶もない。たぶん、小倉から神戸行きのフェリーに乗った確率が高い気がする。

海底トンネル入り口

つれづれに

つれづれに:混沌(こんとん)

 →「『悪夢』」(↑)の続編である。タイトルは『失われた友を求めて』、悪夢から目覚めたあとの世界である。混沌(こんとん)という言葉が相応(ふさわ)しい。コバチュと補助員をマテンダの診療所に残したままキサンガニに戻ったカーターは、ボランティア活動を終えて帰国した。そして、再びシカゴの救急での忙しい日々が始まった。救急での現実も、マテンダとは違う意味だが、いつも死と隣り合わせである。気を抜けない緊張の日々が続く。ある日、職員の一人(↓)が受話器を取ったら、国際電話のようだった。電波が弱くて、音声がはっきりしない。しかし、緊急を要する案件のようだった。相手は、なかなか電話を切ろうとしない。マテンダでコバチュが死んだという知らせだった。

 ERが日本でも人気があったのは、小児科役のジョージ・クルーニーや、カーター役のノア・ワイリーのようなハンサムな俳優の影響もあるが、しゃれた設定というのもあるだろう。カーターは祖父がカーター財団を持つ大金持ちで、元奴隷を所有していた大農園主の末裔(まつえい)、臨床実習先のシカゴのERでの指導医が元奴隷の末裔で医師のベントン、なかなか気の効いた如何にも公民権闘争を経たアメリカという設定である。同僚たち(↓)は実習生のカーターを見て、みんなで楽しそうに冷やかす。

Dr. ベントン「おー、嘘だろ、見てみろよ!」

Dr. グリーン「オーダーの高級白衣だ」

Dr. スーザン「かわいい」

Dr. ロス「決まってる」

Dr. グリーン「腕はどうかな?」

Dr. ベントン「俺の学生だ」

 カーターはこの態度のでかいベントンに、散散に振り回される。ただ、ベントンは野心家で口は相当悪いが、腕は確かである。指導医に振り回されながらも、ベントンの先輩でもあるグリーンの陰ながらのサポートもあって救急の厳しい状況のなかで、カーターは色々と学んで行く。

 コバチュの訃報(ふほう)を知ったカーターは、金持ちのコネを使ってクロアチアの大使館に情報の確認をして、手当たり次第に顕微鏡や縫合セットや薬や注射針を大きなバッグに放り込んで、パリ経由のその日の便で再びコンゴに戻った。友の遺体を引き取るためだった。キンシャサではアメリカ大使館から紹介された国連や赤十字関係を尋ね歩いたが、成果はなかった。遺体の場所を発見するのは困難を極めた。大使館で、飛行機で隣り合わせになったアメリカ大使館の人を思い出して、訪ねて行く。国連や赤十字の事務所を回った経緯を聞いたあと、その人がカーターに言う。

「では、ドクター・カーター、これはお勧めしてるわけではありませんが、私の長年の経験では‥‥」

 カーターは現金2万ドルを持って、赤十字で働くキサンガニでのボランティア看護師の知り合いを訪ねた。その女性(↓)は赤十字で働いていたが、難しいと言われた。しかし、キブ州の負傷者のために派遣される医師に聞いてみると言ってくれた。

 キサンガニに戻り、そこからの遺体探しは困難を極めた。避難所を回り手懸(が)かりを探していたある日、マテンダの診療所でワクチンを打った少年の父親に遭遇する。そして、死体のある場所に辿(たど)り着く。小屋の中に積まれた死体は腐臭を放っていたが、体格の似た人を見つけた。俯(うつぶ)せになっていた死体を引っくり返すと、コバチュとは別人だった。

 付き添っていた兵士に写真を見せて、食い下がって居場所を聞くと「神父は別の場所に生きている」と、小屋まで連れて行ってくれた。小屋の入り口の側に、足を切断して手術した娘と母親も生きていた。そして、奥にコバチュが向こう向きに横たわっていた。カーターが頸(くび)の脈を取ると、まだ生きていたのである。

 逃げ惑ってマテンダの診療所に戻ったときに反政府軍が来て、コバチュたちも捕らえられた。他で捕らえられた人たちが集められ、女性はレイプされた。男性は一人一人銃殺された。

 最後にコバチュが残ったが、無意識に昔クロアチアで通っていた教会を思い出し、「神父」のように説教を始めたのである。凶暴な兵士も、神父だけは別らしい。コバチュの周りに伏せて、お祈りの姿勢を見せた。

 カーターは失われた友を求めてさ迷ったが、生きた友を見つけて、アメリカに送り返した。そこでは、この世のものとも思われぬ混沌とした世界が繰り広げられていたのである。

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つれづれに:デヴィドスン

 やはり、デヴィドスンである。欧米相手におまえら、恥を知れと啖呵(たんか)を切ったのはニエレレだが、言い分は至極まっとうである。それ以上に正論を展開してみせたのがデヴィドスンで、やけに楽観的で、前向きである。「ザイールの艱難(かんなん)、アフリカ的解決に誘(いざな)う」のタイトルをつけている。賄賂(わいろ)が横行し、経済は破綻(はたん)、政府軍と反政府軍の戦闘が常態化し、道路はがたがた、欧米の禿鷹(はげたか)すら投資を諦め、不幸をもたらした張本人アメリカが声高に米国式民主主義を叫ぶなかで、その混乱した状態が今日のアフリカ問題の解決に繋(つな)がる糸口になると説いている。

デビッドソンはベルギーの植民地勢力がコンゴの人たちを追い出し、豊かな富だけでなく、自尊心を奪い、自己責任なども侵害したことを重要視している。つまり、意思決定の力がヨーロッパ人の手に渡ってしまったことが大惨事をもたらす最大の原因だと捉(とら)えたわけである。1960年の独立は、この意思決定の力を取り戻すいい機会だったが、政府の支配構造が外国の利益を優先するアフリカ人職員の手に渡っただけ、つまり、独立はまやかしだったというわけである。過去10年か10数年の間、アフリカの広い地域で、このまやかしの独立に対する本当の反対運動が沸き起こっているが、中央政府と官僚から権力移行して地方自治をめざすこの運動こそが本当の民主主義を求める運動だと力説し、ザイールの事例がよい見本だと結論づけている。

「カビラはアフリカ人の自尊心にとってという点ではよい知らせで、本当に とてもいい知らせです。奇抜な観方かも知れませんが、その観方は二つの強い見込みに基づいています。一つは、外部の主要な勢力ももはや、また別の騒乱と荒廃を経たのちにこの地域で得られるものがもはや何もないということです。冷戦の残酷な狂乱は過ぎ去り、すべての処置も終わりました。もう一つの見込みは、ザイールと呼ばれるこの国はもはや安全な搾取源として存在していないということです。つまり、ザイールの多くの人々は、ついに自分たちの利益を自分自身で管理することが出来るかもしれないという可能性が見えてきたのです。一世紀前、それよりも数十年前にこの地で始まった無益な歳月は、終わりに近づいているのかもしれないのです」

 デビッドソンの見解は楽天的である。地方重視の、効率的な民主主義に向けた運動が、すでにエリトリアで見られるように印象的な結果を示し始めているとも言っている。独立過程を散々邪魔しておいて、独立後の混乱に乗じて「アフリカ人には自治の能力がない」と恥ずかしげもなくほざいた欧米の輩(やから)には、「カビラの政府がザイールで仕事が出来るかどうかの証拠をもっと見つけるのは可能です」と前置きして、文章を終えている。

「実際上、ザイールの問題は見かけより厄介でないとわかるかも知れません。そうであるとしたら、それはモブツ独裁制のひどい堕落と全くの不適格さ故に、長い間見捨てられた人々が出来る限り自分たちのことは自分たちでやれる体制が許されてきたからでしょう。結局、もし、カビラが逃げ延びていた間じゅう、地方の人々が自分たちのことを自分たちでやっていなければ、一体誰が、広大なキブ州の切り盛りをやってきたと言うのでしょうか」

そして、ベルリンの壁の崩壊や欧米の都合でマンデラが逮捕時と同じ法律で無条件に釈放されたとは言え、アフリカ人の大統領が誕生した南アフリカとの連携の夢まで披露している。

「カビラが成功すれば、より大きな社会変化とより広範囲の経済協力に希望を見いだせるかもしれません。というのも、九つの国と境を接するザイールは、モブツ支配の下で巨大な経済的の空洞をつくり出していたからです。コンゴが機能的に働けば、サハラ以南のアフリカの大部分のビジネスのための中心となるインフランストラクチュア(基幹施設)が供給される可能性があります。また、国を横断する鉄道と道路が出来れば、キンシャサとケープタウン、マプートとルアンダ、ナイロビとブラザヴィルといった東西、南北の経済の中心地間を結ぶ決定的な交易網になり得ます。もし、ダイヤモンドから銅まであるコンゴの鉱物資源を再びうまく採掘できれば、国が豊かになる可能性もあります。ニエレレが指摘するように『もしカビラの下で、カビラの言うコンゴ民主共和国での理想が、地理的な面だけでなく、あらゆる面で統合が可能であり、潜在的な富を現実の富に変えることが出来るのであれば、タボ・ムベキ(南アフリカ大統領代行、↓)が『アフリカ・ルネッサンス』を提唱する南アフリカとともに、新生コンゴは指導的役割を果たす国になり得ると思います』」

 デヴィドスンに触れると、マルコム・リトゥルが常々言っていた「金髪で青い目をしたのがみな悪魔だと思っているのか?」という言葉をいつも思い出す。イギリス英語なので、私には少し読みづらい面もあるが、いつも心に響いて来る。やっぱり、デヴィドスンである。大好きなソルボンヌのファーブルさんがニューヨークの古本屋からデヴィドスンの古本を送ってくれたことがあるが、パリに来たら紹介するよというメッセージだった気がする。ハラレに行って以来、パリの学会で発表するよりも、もっと身近なところですることがあるやろと自分に言い聞かせ、日々を見つめることを優先したが、もう一度同じような局面があっても、同じ選択をする気がする。

ソルボンヌ前で、1992

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