つれづれに

 

2023年11月

 

「つれづれに:烏瓜」(2023年11月24日)

「つれづれに:南風茶屋」(2023年11月18日)

「つれづれに:立冬」(2023年11月11日)

「つれづれに:連休」(2023年11月4日)

「つれづれに:郁子」(2023年11月2日)

つれづれに

 

2023年12月

 

「ZoomAA一覧」(2023年12月31日)

「つれづれに:水仙」(2023年12月24日)

「つれづれに:冬景色」(2023年12月23日)

「つれづれに:ジプシー」(2023年12月19日)

「つれづれに:下り行け、モーゼ」(2023年12月18日)

「つれづれに:深い河」(2023年12月17日)

「つれづれに:誰が奴隷を捕まえたのか?」(2023年12月16日)

「つれづれに:英語で」(2023年12月15日)

「つれづれに:穏やかな日」(2023年12月11日)

「つれづれに:郁子と通草」(2023年12月2日)

つれづれに

つれづれに:『悪夢』

 『ER緊急救命室』(ER, Emergency Room)に出て来るコンゴの話である。アメリカNBCで放送されたテレビドラマシリーズで、DVDを買い込んで映像や音声でずいぶんと世話になった。1994年から2009年までの間に311のエピソードが放送されている。NBC(National Broadcasting Company)はCBS・ABC・FOXとともにアメリカの4大放送ネットワークである。

主人公のカーター

 タイに留学した6年生の意見を容れて、英語が使える手助けを英語科に依頼すると医学科の教授会が決め、研究室で学部長から要請された。そして、英語科で英語による海外研修に向けての準備講座を始めた。ポリクリと呼ばれている6年生の病院での臨床実習の4週間を海外でも選択出来るようにカリキュラムを変更していた。変更後の最初の年に、4人がタイの大学病院で臨床実習を受けてきたが、思うように英語が使えなかったので、後輩のために大学で何かやって欲しいと言ったそうである。その時にも、ERの映像と音声をよく利用した。途中からカリフォルニアの大学病院の救急でも研修が出来るようになったので、まさにうってつけの生きた素材だったわけである。講座に招待した小児科医もあれ早いわよねと言っていたから、折り紙つきである。

クロアチア出身のカーターの同僚コバチュ

 その生きた素材の中に、コンゴの話が出て来るとは思ってもみなかった。主人公の救急医カーターがボランティアでコンゴに行く話である。→「つれづれに:コンゴの独立」で「一般教養と医学を繋(つな)ぎたいと英語の授業で→「エボラ出血熱」から始めたら、映像を手掛かりに思わぬ視界が開けた。歴史を遡(さかのぼ)ると、2回目と1回目のエボラ騒動も、独立時と→「コンゴ動乱」の延長上にあった。アメリカに担がれたモブツの独裁で、賄(わいろ)賂はザイール社会に浸透し、公務員の給料が支払われず、賄賂が生活手段の一部になっていた。経済も破綻(はたん)し、あらゆるものに皺(しわ)寄せが行っていた。中でも、医療施設は最悪だった。1985年にアフリカでもエイズが流行り始め、2回目の騒動の時は深刻な事態に陥っていた。そこへエボラウィルスの追い打ちである。ラッサ(Lassa)、ハンタウィルス(Hanta virus)などと同じく、バイオセーフティ指針(Biosafety Level、BSL→「音声『アウトブレイク』」)の一番危険なレベル4のエボラウィルスの感染者にマスクや手袋もなしに治療に当たれば院内感染者も増える。基本的な器具や必需品が決定的に不足していたのである。(→「ロイター発」)」と書いたが、2003年に放映されたシーズン9の第22話『悪夢ーキサンガニ』で、それまでやってきたコンゴの話を実際に近い形の映像で見られるのは、有難かった。

 主人公が首都キンシャサの空港(↑)から診療所に向かう迎えの車の後部席に見慣れぬものが積み重ねてあるのに気がついて、出迎えに来てくれた診療所の職員に尋ねる場面である。カーターの視線に気づいた職員がカーターに話しかける。

「たくさんの義足(↓)でしょ?」

「地雷?」

「長い鉈(なた)ですよ」

 長い鉈はmachete(↓)と呼ばれる中南米で砂糖黍(きび)の伐採(ばっさい)などに用いられる山刀(鉈に似た刃物)である。アフリカでも使われているらしい。ルワンダでの大虐殺でも使われたようだ。

 大量虐殺のあったルワンダは東部地域に分類される国だが、広大なコンゴの東側で接している国である。西部とは少し違うだろうが、文化や習慣も互いに影響を大きく受けている。キンシャサのラジオ局のルンバを共有していたわけである。(→「コンゴあれこれ」)『レオポルド王の亡霊』の著者アダム・ホックシールドは手足を切断する行為がレオポルド2世に深く関わっていると書いている。「レオポルド王の亡霊」が今もあちらこちらに潜んでいると書きたかったのだろう。アメリカの人気医療ドラマでレオポルド2世の翳(かげ)を垣間(かいま)見るとは夢にも思わなかった。

つれづれに

つれづれに:深い傷跡

 レオポルド2世はコンゴに深い傷跡を残した。ベルリン会議にしゃしゃり出てきたのはアメリカである。小国のベルギーなら譲ると思い始めていたイギリスとフランスにアメリカはお墨付きを与えて、コンゴ自由国は誕生した。増え続ける黒人を「アフリカに送り返せ」と叫ぶ南部の差別主義者に押されて、下院議長まで出て事態を収めた。そのアメリカはアフリカ人を送り返す候補地として、プレスビテリアン教会から黒人と白人の牧師を2名、コンゴに派遣した。派遣されたアフリカ系アメリカ人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記した。

この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍(とうもろこし)、豌豆(えんどう)、煙草(たばこ)、馬鈴薯(ばれいしょ)を作り、罠(わな)を仕掛けて象牙(ぞうげ)や豹皮(ひょうがわ)を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。

しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。

どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅(わず)かな額ではとても人々は暮らしていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。」

 天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇った。20年ほどの間にアジアなどで木が育つまでが勝負と考えた王は、容赦なく天然ゴムを集めさた。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させた。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れた。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となった。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だった。

 王は外国人の入国を厳しく制限したので、ジャングルの闇の中で繰り広げられていた苛酷な搾取は世界には知られなかったが、イギリス人の船乗りモレルが、自分が実際に見聞したアフリカ人の悲劇の実態を描いた『赤いゴム』を1906年にイギリスで発表した。国際的な非難は世界に広がり、ベルギー政府も介入せざるを得なくなり、1908年にコンゴ自由国を廃止して、ベルギー領コンゴに転換した。

 王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言わる。アフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込んだ。王は一度もアフリカに行くこともなく、1909年に死んだ。レオポルド2世はコンゴにとてつもなく深い傷跡を残した。

『レオポルド王の亡霊』