つれづれに

つれづれに:ニエレレ

 今回は、元タンザニアの大統領ジュリアス・ニエレレ(Julius Nyerere, 1922-1999)である。カビラがキンシャサに入ったあと、アメリカはいつものように米国流の民主主義を主張して、2年以内の総選挙を迫ったが、強く反対意見をアメリカの新聞に書いたのがニエレレだった。マテンダの診療所を攻撃されて、カーターとコバチュと補助員は足を手術したばかりの少女に点滴をつけたまま、逃げ惑った。夜が明けて、コバチュにクロアチアで紛争について聞くと、「カーター、君はアメリカ人だ。民主主義が世界を救うと思っている」と食ってかかった。「代わりは何だ?軍事独裁か?」と反論するカーターに「君たちはミサイルを撃ちこんで空母へ引き揚げて、テレビに興じていればいい‥‥でも餓死する子供たちはいるか?レイプされる女性はいない‥‥テレビや新聞で正義の戦争だと言っていたと思うが、私には家族がいなくなった。あの戦争の何が正義だったんだ?家族を亡くて‥‥」と哀しそうに説いた。コバチュのいうあの米国式民主主義である。(→「いのち」)ニエレレの言い分は、途中で引退を余儀なくされたが、欧米になびくことなく緩やかな社会主義を実践した強者(つわもの)だけのことはある。至極(しごく)まっとうである。

 「この早期選挙の要求は間違っています。民主主義への推移を望むザイールの人々はカビラに無理強いをすべきではありません。国は荒廃し続けており、零から国を再建しなければなりません。つまり、カビラは完全にやり直さなければならないのです。これには、隣国ウガンダのムセンヴェ二大統領が、イディ・アミンが残した壊滅状態から回復するために長い年月を要したように、かなりの時間がかかるでしょう。数年の間政権にいたのちに、選挙をする予定のムセンヴェ二も、カビラにとって悪い手本ではないかもしれません。ムセンヴェニは、ウガンダのために一番に優先すべきは複数政党制の民主主義ではなく、国を修復することであると言いました。もしカビラが同じようなことを言うなら、少なくとも私自身はカビラを支援したいと思います。もしアメリカが望むように早急な選挙が行われたなら、財力のある党や、モブツを支持する組織が勝つでしょう。だから、私たちは早期選挙などと言う愚挙は考えない方がいいのです。現在、この辺りでは誰もが、人権と説明責任に関心があります。しかしながら、周到な準備もしないで選挙をして、ことが達成すると単純に信じている者などはいません。」

そのあと、戦後アメリカ主導で再構築した多国籍企業による資本投資と貿易の体制をし始めた。矛先を欧米に向けて、極めて痛烈である。

「率直に言えば、アメリカとヨーロッパ諸国は少しは恥というものを知るべきでしょう。過去35年間も虎皮の帽子を被った暴君を甘やかし、支え続けた奴らに、数ヶ月以内に選挙をしろとカビラに要求する道義上の資格などありません。奴らがいなければ、モブツはとっくにいなくなっていたでしょうから。モブツは実質的には1994年までに、政治的には終わっていましたが、特にフツ人がルワンダの政権から追われた後、あるヨーロッパ勢力がタンガニーカ湖周辺の利益を保護する目的で、再びモブツを復活させたのです」

 これだけ、歯に衣を着せずに言えるアフリカ人も少ないだろう。そして、すべき内容を提案している。

「もし私たちが援助したいなら、選挙について考える前に、暫定政府と新憲法を含む国の基本的な政治構造を設立していく中でカビラを援助するべきです。まず第一に、カビラは彼独自の政治基盤を形成しなければなりません。事態はどうなっているのか。権力構造の真空状態に吸い込まれてしまっているので、カビラは組織としての権力の引き継ぎをうまく行なっていません。ですから、早急な選挙は出来ないのです。自分たちの取り巻きに金はありませんが、金のあるグループもありません。既存の多数の政党も含め、そのすべてはモブツが組織し、資金を出したのです」

小島けい

 言わしてもらうけど、あんたらちょっとは恥を知らんかい、大体こんな事態にした張本人はあんたらやろ、どの口さげて言うてんねん?もうええ加減にしたりぃ、とアメリカの大手の新聞に喧嘩を売れるのも、緩やかな社会主義ウジャマーの理想を掲げてやれることをやった経験の裏打ちがあったからだろう。まっとうな人間にも容赦ない人たちだった。「アフリカシリーズ」で、第2次大戦後に再構築した多国籍企業による貿易と資本投資の絡繰(からく)りの一端をデヴィドスンは解説している。

「大戦後、ヨーロッパは経済ブームとなり、盛んにアフリカから農産物を輸入します。そこで奨励されたのが換金作物の栽培です。これは農民にも現金収入を持たらしました。しかし、ここには大きな落とし穴があったのです‥‥原料輸出に依存する。これはアフリカを先進国の原料供給地にしてしまった植民地時代の名残りです。そしてその価格はアフリカ経済を左右します。ここタンザニアの主な輸出品はロープの原料となるサイザル麻です」

デヴィドスンの解説を受けて、当事者の大統領として実際に経済を左右されて計画が頓挫(とんざ)した経験を持つニエレレがその経緯を語る。

「第1次5ヶ年開発計画を準備していた当時、サイザルの価格は価格切り下げ以前はトン当たり148ポンドの高値でした。これは続くまいと考え、トン95ポンドに想定して計画を立てました。ところが70ポンド以下に下がってしまいました。いやぁ、勝てませんよ」

 デヴィドスンが解説を続ける。

「原料ではなく、ロープに加工して輸出すればもっと利益が上がるはずです。ところがこれが出来ない仕組みになっています。EEC(ヨーロッパ経済共同体)はロープ類に12パーセントという高い関税をかけ、加工品の進出を阻(はば)んでいます」

 そして、ニエレレが応じる。

「私たちに何が出来ます?私たち原料生産者はいったい何が出来ます?サイザルを食べます?我々はサイザルを作って売るしかない。もし、世界市場の価格がさがったら、私たちに何が出来ます?弱肉教職の世界で苦しむのは、いつも弱者です」

 終始ニエレレの言葉遣いは丁寧で笑みさえ浮かべるときもあったが、目は怒気を含んで凄(すご)みがあった。

ニエレレはアメリカの大手新聞に正論を述べたが、問題なのはこれほど正鵠(せいこく)を得た発言をしても、大きく掲載されたこのニエレレの記事をどれだけの人がよんだのか?どれくらい理解できたのか?である。

つれづれに

つれづれに:モブツの悪業(あくぎょう)

 1997年5月にモブツがモロッコへ逃げ、カビラがキンシャサに入ったとたんに、メディアにモブツの悪業に関する記事が次々と載り始めた。エボラの2回目の騒動があった1995年の少し前から切り取って残しておい英字新聞のファイルはだいぶ分厚くなっていた。ファイルの中での最高傑作は、モブツが依頼していた「年度予算の何割かで反体制分子抑えます」という会社から承諾の返事が届いたという記事である。残念ながら私はその記事を再任終了時に処分してしまったので、その記事の詳細は確認できないが、ウェブで調べてみたら、それに近い会社があった。南アフリカの元兵士が作ったらしい。反動的な差別主義者の白人たちで、核装備寸前まで行っていた南アフリカ国軍のノウハウを持ち出したらしい。CIAやFBI、海軍の捜査関連のドラマに南アフリカ元軍人というのを見かけるようになった。アフリカ人政権誕生のあおりで溢れた元軍人がスパイやプロの殺し屋として雇られるようだ。その時読んだ記事には、マンデラが大統領になってANC(アフリカ民族会議)の闘争部門ウムコント・ウェ・シズエが南アフリカの国軍に入ったので、高官も含め国軍から溢れた元軍人が、最先端のノウハウを駆使して金で反体制勢力を押さえる会社を、プレトリアとロンドンに設立したというものだった。記事からは、間に合いませんでしたねえ、という揶揄(からか)いのニュアンスが読み取れたのを覚えている。記事はたぶんロイター発の短い記事だった。

 次は、1984年にボランティアとしてザイールの田舎で過ごしたアメリカ人がワシントンポストに書いた記事である。その青年の書いた著書(↓)を購入して読んでみたが、本のなかはボランティアに関する内容が中心で、モブツ独裁の実態を書いた個所はなかった。モブツ独裁が終わって、その時に見た現地の官僚や軍人が実際にどんな悪行を働いていたかをどうしても知らせたくて投稿した告発文のようである。

著書
「2年間、私はザイール中部カサイ地区でボランティアをしました。この地球上の他のどの地域よりも痛ましい、土の小屋と裸足と貧困のまっただ中で‥‥20世紀の後半に、人々が銃に脅(おど)されて奴隷のように、綿摘(つ)みを強要され、今は失脚したモブツの金庫を一杯にするのを、私はこの目で見ました。

ザイールでの私の仕事はたんぱく質の欠如で病気になった子供たちを助けることでした。‥‥村の養魚池を作って、田舎の地域に栄養補給をすることでしたが、田舎の地域は貧しくてアスピリンの一錠が家計を圧迫する惨状でした。しかし、私の仕事はまったく象徴的なものでした。貧困はあまりにも深く、広範で深刻すぎました。そしてアメリカの援助はあまりにも小さすぎました。私はそれぞれ何軒かの家族の手助けをしました。

神(あるいは神の不在)は細部に潜んでいます。腐りかけの歯を何とかしてもらうために私の家に来た村の人々の泣きじゃくる顔のような細部にです。アフリカの基準から言っても、ザイールの医療は驚くほど酷く、ほとんど存在しません。アメリカや他の西側諸国によって寄贈された薬は、モブツ軍によって慣例的に強奪され、法外な価格で闇市場に転売されました。目的の場所に援助物資が届いた時でさえ、保証はありませんでした。私は、以前不釣り合いなフランスとアメリカの軍服を着た兵士が、ユニセフが配給した粉ミルクを溶いてこしらえた飲み物を下痢(げり)で苦しむ少女の手から取り上げて、自分で飲んでしまう光景を目の当たりにしました。

私のいた小さな村で人々が病気になった時、私は持っていたアスピリン、マラリア用の錠剤、包帯などどんな僅(わず)かなものでも与えました。また、村人たちが歯痛のため私の所へ来た時には、求められたガソリンをその人たちに与えました。私は、オートバイのキャブレターから半インチのガソリンを注ぎました、そして70歳の女性と15歳の男の子がガソリンを唇にたらし、そのガソリンを口に含んで、シュシュと音を立てるのを見ました。ザイールの容赦のない基準では、これが歯の治療だったのです。地元の人々によると、このように使う僅かなガソリンは感染を防ぎ、痛みを和らげる手助けをするということでした。私はその考えに拒絶反応を見せました。しかし、人々は私の所へ来続けました。口を腫(は)らして、泣きながら、頼むから何とかしてくれと言って、数十マイルも歩いてくる人もいました。だから私は歯医者になりました。何もないよりはいいと思ったのです。

私が住んでいたザイール中部では、政府が求める強制労働の要求を満たせるように、村人は健康でいることが特に重要でした。家族の十分な食料を得るために耕すの為に既に充分苦労していたすべての成人男性は、綿をおよそ半エーカー植え、その綿を政府に売るように要求されました。綿を植えない人、または植えられない人々には厳しい罰金や、凶暴なライフル銃の銃身で規則を守らせるために派遣された兵士から鞭(むち)打ちの刑を受ける危険がありました。それはベルギーによる植民地時代からそっくり受け継がれた体制だったのです。モブツは独占的に綿の価格を不自然なまでに低い基準に規制し、買い取る際にいつものように目盛りをわざと不正に操作し、村人を再び騙しました。私の村で、綿販売は私の前庭で行われていましたので、ことの子細をすべて知っています。私は無数の鞭打ちを含め、すべてを戸口から見たのです」

 モブツはホテルの料理人の息子として生まれて、コンゴ川流域最北の貧しい少数民族の村で育っている。ミッションスクールを出た後、兵士やジャーナリストをやり、しばらくベルギーでも働いた。独立が近づくと、独立派に近づき、1960年6月にルムンバの閣僚の一人になった。数ヶ月後に軍隊のクーデターの最前線にいて、後に最高司令官になった。ルムンバを親ソ連派だと読み間違えたCIAはモブツに100万ドルを渡してモブツ軍を買収した。ルムンバは退位させられた6ヵ月後に兵士に殺されている。1964年に国連部隊が去った後、反体制派は暫定政府を設立して国の3分の2を支配した。政敵を追放し、投獄して処刑した。その後、アメリカが1965年のクーデターを支援したあと、モブツはほぼ32年間に渡って独裁政権を維持した。

 国民の98%から慣例的に選ばれ、批判する者は買収されるか、国外に追放されるか、投獄された。投獄と拷問と殺人を武器に支配を強行したのである。故郷の村に数百万ドルを費やしたが、港、道路、鉄道、汽船、学校、病院、鉱山などの維持にはほとんど費用をかけなかった。今日、道路はどこもひどいので、簡単な旅にも日数がかかる状態である。
すべての悪業が可能だったのは欧米の支援があったからである。改革派の暴動からモブツ政権を救ったこともある。腐敗や人権侵害の報告書を入手しながらも、軍事・経済援助を続けました。モブツは冷戦を最大限に利用し、冷戦の終わりには、個人資産と国債が共に60億ドルに達していた。

 カーターが紛争の地キサンガニで→「悪夢」をみたが、紛争地ではないカサイ地区でも、その住民は悪夢を見続けていたわけである。

次回は、元タンザニアの大統領ニエレレである。カビラがキンシャサに入ったあと、アメリカは自分たちの民主主義を主張して、2年以内に総選挙を実施して大統領を選ぶように迫ったが、何人かの人が強く意を唱えた。その一人がニエレレだった。

小島けい画

つれづれに

つれづれに:カビラ

 今回はローラン・カビラ(Laurent Kabila, 1939-2001)についてである。実はコンゴが独立してルムンバ(↓)が組閣したとき、カビラも閣僚の一人だった。アメリカがしゃしゃり出て来て、ベルギーと共謀してモブツやカサブブを担(かつ)ぎ出すのを見て自分も殺されると察知して逃亡したのである。キンシャサは広大な国の西の端にあるので、遠く離れた南東部キブ州のルムンバシまで逃げ延びたのである。銅の権益確保のためにカサブブを担いで分離工作を図ったカタンガ州、現在のシャバ州辺りから帯状に延びているコパーベルトの東側の方である。すぐ南はザンビアで、コパーベルトが延びて銅とコパルトの恩恵に与かっている。その隣のジンバブエと併せて、南アフリカケープタウンに入植して植民地相になったセシル・ローズの縦の大英帝国建設の野望で犠牲になった国である。ローデシアと自分の名前をつけている。ようやるわ、なに好き勝手してんねん、ほんまええ加減にせんかいといつも腹が立つ。犠牲になって苦しむショナ人と仲良くなったので、余計にその思いは強い。

 そして、2回目のエボラ出血熱でザイールが再び世界的に脚光を浴びた1995年の2年後に、忽然(こつぜん)と姿を現わしてキンシャサに攻め入り、モブツを追放したのである。雌伏(しふく)30年余りの鮮やかな行動だった。外圧によって腐敗や人権侵害が閉め出されてモブツ独裁の支配力が弱まった1996年に反乱が東部地域で発生し、カビラに導かれたルワンダ人の支持する反乱軍とコンゴ・ザイール解放民主勢力連合は、士気のあがらないザイール軍を敗走さて、東部の境界周辺の主要な町を占領した。米大統領クリントンがモブツに平和裡に政権移譲を行うように伝えたので、反体制軍は首都に行進し、2日後に、カビラはコンゴ民主共和国の大統領として宣誓したのである。また、アメリカである。モブツに引導を渡したわけである。国土が荒れれば、原材料の確保に支障が出るのは見えているので、というところか?

 カビラは、過酷なモブツ支配の時代に辛うじて生き延び、キブ州とリフト渓谷沿いの境界線地区と湖畔地区の深い森の中逃げ込んだ。カビラを探した人もいたが、情報は聞かれなかった。カビラは1960年代から絶えず小規模な反乱に参加して、モブツ追放を切望していた。そして、1996年の反乱で、指導者として推され、前面に出ることになったのである。カビラがザイールのルバ人で、ルワンダのフツとツチの紛争で、中立の立場にいると見られたからだろう。その人たちに押されて、広大な国を平和な流れに導く舵(かじ)取りとして現われたわけである。カビラは「人々が自分を求め、短期間である場合に限り、大統領になる」と言ったと報じられた。

 2年後の1997年5月に、モブツはキンシャサを追われ、モロッコへ逃亡した。カビラとカビラを支持する反体制勢力は7ヶ月にわたる内戦の勝利を宣言した。その勝利は、腐敗や経済不況に辟易(へきえき)していたザイール人に歓迎され、国際的にも受け入れられた。カビラはザイールをコンゴ民主主義共和国と改名し、国の首長として指揮をとり始めたのである。1999年4月には選挙を実施し、排除したモブツの負の遺産を葬り去ることを約束した。

小島けい画

つれづれに

つれづれに:紛争

 テレビドラマ『ER』の→「『悪夢』」でアメリカの救急医カーターが行ったキサンガニはコンゴの北東部の紛争地帯に近い。ワクチンも届き、道路が通れるようになったので、ワクチン接種のためにマテンダの診療所に出かけた。すでにその診療所にいた同僚のコバチュと2人で200人の接種を終えた。そのあと、政府軍の兵士を助けたあとに、反政府軍が来て、コバチュが赤十字は中立だと訴えても、たくさんのいる前で虫けらのように撃ち殺された。マテンダに行く道には、政府軍と反政府軍のあおりを受けて家を追われた人たちが、重い荷物を持って避難のために歩いていた。

 欧米の一握りの金持ちたちが始めた大西洋の大規模な奴隷貿易で莫大な利益を上げて、その資本で社会の仕組みを変える方に進んだ。それまで手で作っていたものを機械を利用して製造するようになって、大量消費社会にまっしぐらで走り出したのである。格段に生産量が増し、更なる生産のための原材料の確保と、作った製品を売り捌(さば)くための市場として植民地が必要となり、近くのアフリカ大陸が狙(ねら)われた。原材料と鉱物資源が豊かなところはその標的になった。コンゴもその一つである。カーターが見た紛争の遠因はこの頃に遡(さかのぼ)る。紛争を理解するためには、イギリスを中心に欧米諸国がこの500年余りの暴虐を続けてきた経緯を知る必要があるだろう。コンゴの場合、植民地分割で認められたベルギー王の個人の植民地→ベルギー領→独立とコンゴ危機→モブツ独裁→カビラと続く流れの中で紛争を捉(とら)えるべきである。

 なぜコンゴが狙われたのか?まだ植民地の宗主国が決まってない時にベルギーのレオポルド2世が植民地を欲しがったのがきっかけだが、英仏米3国の思惑が一致して個人所有が認められたのが悲劇の始まりである。植民地では最初象牙(ゾウゲ)が狙われた。獲りすぎて象牙が見込めなくなると、ゴムに目をつけた。世界的に自動車のタイヤの需要が高まった時期と一致して、莫大な利益を得た。その後、国際的に批判が高まっても、第1次大戦のどさくさに紛(まぎ)れて咎(とが)められることなく、ベルギー政府の植民地になった。戦後はベルギーに独立の過程を邪魔され、しゃしゃり出て来たアメリカにモブツを担(かつ)がれて独裁政権を作られた。国連大使だったカンザ(↓)は「国際的な植民地になった」と当時の様子を表現している。アメリカ主導で第2次大戦後に再構築された多国籍企業の貿易と資本投資の体制が始動していたのである。そこでは鉱物資源が狙われた。独裁政権を作る前に、新政権が力を持たないように銅が豊富なカタンガ州、現シャバ州の分離独立でモブツとは別人のカサブブを傀儡(カイライ)を仕立ててて押し切った。2003年の経済面の世界経済リポートでアフリカでの携帯の普及を特集していた。「アフリカでも携帯急伸ー人口の6割をカバー」の大見出しで、低所得者者を狙う新サービスや象の追跡にも一役買っている現状を報告していた。2008年の国際面では「魅惑の資源 紛争の種ー価格高騰で争奪戦」の見出しで、途上国の急成長やIT需要で高騰している石油や希少金属(レアメタル)についての現状を報告していた。「希少金属の利益 武器に」でコンゴを、「急接近の中国と摩擦も」でザンビアを取り上げていた。携帯電話やパソコンのコンデンサーなどの部品に使われるタンタルがドラム缶に入れられて、ケニアやタンザニア経由で欧州に運ばれている現状と、恩恵は一握りの手にしか行き渡らないので不満が増幅している現状を報告していた。2022年には1面に「コバルト源流 危険な採血」の大見出しに「スマホ電池原料 コンゴで7割生産」の小見出しの記事が大きく掲載されていた。2面にもシャバ州と南東部のコルウェジ辺りに銅やコバルトが帯状に広がるコパーベルトが紹介されて、コルウェジがコバルトで注目されるようになった。

 1990年代には、アンゴラとシエラレオネで採掘されるダイヤモンドの原石が反政府武装勢力の資金源になって問題になった。結局国連が禁輸措置をして収めたが、モブツ独裁が終わってから鉱物をめぐってコンゴ周辺で紛争が激化したので、鉱物を狙う欧米や日本は協力して規制を始めた。紛争鉱物という名称も生まれた。対象鉱物はスズ(Tin)、タングステン(Tangsten)、タンタル(Tantalum)、金(G)で、対象国はコンゴおよび周辺9ケ国(アンゴラ、ウガンダ、コンゴ共和国、ザンビア、タンザニア、中央アフリカ、ブルンジ、南スーダン、ルワンダ)である。4鉱物は頭文字を取って3TGと呼ばれていて、どの鉱物資源も先進国の産業には欠かせないもので、最近ではスマートフォンや電気自動車に搭載されるリチウム電池に使われている。コバルトの7割を生産するコンゴは、相も変わらず狙われ続ける。

 カーターが体験した政府軍と反政府軍の闘いも、鉱物資源をめぐる紛争の一つである。鉱物資源が豊かで、その鉱物資源が産業化の中で需要が高かったという理由で、同じ民族同士が殺し合っているのだ。かなり高価な武器も持ち込まれる。その武器の出所は、政府軍は関係の深いアメリカが中心で、軍需産業を支えるひとつになっているだろうし、反政府軍の武器は先進国のどこかの国か東側のソ連か中国かキューバか、おそらくその辺りが出所だろう。そこでもその国の重工業を支える役目を果たしている。武器商人が裏社会で暗躍して、暴利を貪っている。もう、500年もそんな事態が形を変えて延々と続いてきたというわけである。豊饒(ほうじょう)な大地と豊かな水とあらゆる鉱物資源にめぐまれた国が、どうして医療施設が機能しないほど荒廃しなければならないのか?まことに不条理な世界である。デヴィドスンは「今は搾り取って来た富をアフリカに返すべき時に来ています。それには先進国の経済的な譲歩が必要です」と言ったが、それが少しでも実行されない限り、不条理は続く。チェルノブイリや福島を経験しても、何も学ぼうとしない。人間が怖い。

次はモブツを追い遣(や)るために周辺国から担がれてキンシャサに入り、実際にモブツを追い出したカビラである。

<2003年シンポジウム>

シオラレオネについて書いた本の著者山本さんとケニア人のムアンギさんと3人で医大の大学祭でシンポジウムをしたことがある。ダイヤモンド紛争で荒廃していた時に滞在し、帰国後に書いた『世界で一番いのちの短い国』がよく売れていたみたいあったので、シンポジウムには100人を超える人が聞きに来た。国際保健医療研究会というサークルのメンバーといっしょに企画した。授業で山本さんの図書の話をしたら、メンバーのひとりが「わたし敏春さん知ってる」とすぐにメールを出していた。その夜に、山本さん本人から「医学生からメールがあったんですが、どうしましょう?」と連絡があった。「そうですね、折角ですから、シンポジウムでもやりますか?」ということになって実現した。研究費で2人を招待する形になった。ムアンギも、授業で仲良くなった服部くんも、山本さんの発言には不服があったようだ。ムアンギさんは自分の話の中でアフリカ人にネガティブな印象を与える山本さんの発言に苦言を言っていたし、服部くんは途中で出て行ってしまった。あとで聞くと、半年滞在して自分がいなくなったあとも継続できるようにシステムを作って来たと言われてましたが、そんあこと半年で出来るわけないやないですか、と言っていた。家でした夕食会には来てくれたので、ほっとしたが、僕は服部くんの言い分に納得した。