つれづれに

 

2024年2月「つれづれに」一覧

 

「つれづれに:下田」(2024年1月29日)

「ZoomAA第3回目報告」(2024年1月28日)

「つれづれに:快晴」(2024年1月27日)

「つれづれに:西海岸」(2024年1月25日)

「つれづれに:修善寺」(2024年1月24日)

「つれづれに:伊豆」(2024年1月23日)

「つれづれに:漂泊の思ひ」(2024年1月22日)

「ZoomAA2h:シンプソン」(2024年1月21日)

「つれづれに:大寒」(2024年1月20日)

「ZoomAA2g:小屋」(2024年1月19日)

「ZoomAA2f:戦士」(2024年1月18日)

「ZoomAA2e:奴隷船一等航海士」(2024年1月17日)

「ZoomAA2d:奴隷船船長」(2024年1月16日)

「ZoomAA2c:積荷目録」(2024年1月15日)

「つれづれに:畑も冬模様」(2024年1月14日)

「つれづれに:波高し」(2024年1月13日)

「つれづれに:カナダの人」(2024年1月12日)

「つれづれに:年が変わり」(2024年1月11日)

「つれづれに:年の終わりに」(2024年1月10日)

「ZoomAA2b: 水先案内人」(2024年1月9日)

「ZoomAA」(2024年1月7日)

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つれづれに:残忍

「アフリカシリーズ」から

 ベルリン会議で個人の植民地として承認された「コンゴ自由国」でレオポルド2世(↑)は暴虐の限りを尽くした。

ゴムが最大の原因である。密林に天然ゴムがあったこと、自動車のタイヤにゴムが使われたなどの要因がそれに拍車をかけて、悲劇が生まれた。1884~85年のベルリン会議で承認されたあと、王は1888年にベルギー人とアフリカ人傭(よう)兵で軍隊を組織した。多くの予算を拠出(きょしゅつ)したので、中央アフリカでは最強の軍隊となった。しかし当初は植民地経営はあまりうまく行っていない。最初象牙(ぞうげ)を輸出用商品として独占したが、乱獲したために象牙を増産が出来なくなって、象牙に代わるものが必要となった。そこで、ジャングルに自生しているゴムの木に目をつけたのである。軍隊を利用して、力でアフリカ人に採集させ、人頭税として無償で取り立てるシステムを作り上げた。

「アフリカシリーズ」から

 ゴムはアメリカ大陸の原産で、樹皮に傷をつけてバケツなどで受けて集める。ゴムは樹皮から分泌した樹液(ラテックス)が凝固してできる。天然ゴム(生ゴム)はラテックスに硫黄(いおう)を加えて性質を一定にし、さらにカーボン粉などを混ぜて耐久性を強めて用途が広り、実用化された。実用化で自動車のタイヤの需要が高まったわけである。

 アフリカのゴムの木は南米原産と違い蔓(つる)性なのでジャングルの高い木に巻きつき、原液の採取は難しかった。おまけに畑に植えることも出来ず、アフリカ人の労働は過酷を極めた。悪名高い隣国のフランス領コンゴに逃げる人もいた。ジャングルに入るのを嫌がる人には、家族を人質にして無理やり働かせた。決められた量のゴム原液を納められなかったアフリカ人は厳しく処罰され、反抗すれば手首を切断された。

 暴利を横目にイギリスが指をくわえているわけがない。ブラジルから木の種を盗み本国で栽培して、植民地のマレーシアで生産を始めてた。しかし、ゴムが採れるようになるまでに10年以上はかかる。レオポルド2世には急いでゴムを集める必要性があったわけである。

デヴィドスンは「アフリカシリーズ」の中で写真も交えながら当時の様子を解説して、総括している。

かつてベルギーのレオポルド2世が美味しいケーキにたとえたアフリカはこうして貪(むさぼ)り食われていきます。悲惨な時代です。しかし、この時代を抜きにしては現代のアフリカ問題は理解できません。今日のコンゴやザイールの紛争は元をただせば悪名高いレオポルド2世の王国「コンゴ自由国」に端を発しています。ここではゴムの採集に力を注ぎました。しかし、その方法たるや残忍そのものでした。住民に強制的にゴムを集めさせ、指定した量に満たないと手足を切断する。恐ろしいことが行われていたものです。レオポルド2世が個人的に支配した20年もの間に、およそ500万もの人が殺されたとも言います。残虐行為の事実が明るみに出ると、ヨーロッパでも轟轟(ごうごう)たる非難が起きました。しかし、負わされた傷は余りにも大きいものでした。それがコンゴの未来に暗い、血なまぐさい翳(かげ)を落とすことになったのです。

 深い傷跡が次回である。

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2024年2月「つれづれに」一覧

 

「つれづれに:陽当たり」(2024年2月26日)

「つれづれに:ZoomAA4第4回目報告」(2024年2月25日)

「つれづれに:小田原」(2024年2月21日)

「つれづれに:伊豆大島」(2024年2月20日)

「つれづれに:花菖蒲」(2024年2月19日)

「つれづれに:沈丁花2」(2024年2月18日)

「つれづれに:沈丁花」(2024年2月17日)

「つれづれに:1860年」(2024年2月16日)

「つれづれに:ケニア1860年」(2024年2月15日)

「つれづれに:コンゴ1860年」(2024年2月14日)

「つれづれに:立春も過ぎて」(2024年2月13日)

「ZoomAA3a:口承伝達」(2024年2月5日)

「つれづれに:南アフリカ1860年」(2024年2月3日)

「つれづれに:日本1860年」(2024年2月2日)

「つれづれに:アメリカ1860年」(2024年2月1日)

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つれづれに:レオポルド2世

 ベルギーのレオポルド2世(↑)がコンゴの行く末を大きく変えた。アダム・ホックシールドは『レオポルド王の亡霊』の中で、レオポルド2世がずいぶんと寂しい思いをしながら育ったと幼少の頃について書いている。王室という制度が原因なのか両親や取り巻きが原因なのかはわからないが、いつも地球儀を見ていたとも書いている。ホックシールドが何を源(もと)に書いたのは興味のあるところ、王室の記録を見たのか、側近の話を書きとめた記録をみたのか?元々王室の制度は親子の密度が薄い。生まれてからは乳母が母乳を与えて育てるし、いっしょに添い寝もしないだろうし、部屋も別々である。食事をしても、座る距離は近くない。中国や韓国のドラマを見ても、両親に会う頻度はそう多くない。大きな利権が絡(から)むので、王につく人たちの影響力も強い。政敵を排除するために穢い手も使ったようだし、王位に就くために親兄弟を殺すこともあったようだ。権力者側に着く側近にとっては、担いだ王室を守ることは自分や家族や一族の富や権力を守ることでもあるからだ。

 眺めることが多かった当時の地球儀は宗主国によって色づけがされていたようだが、メキシコとコンゴが白いままだったらしい。叔父がメキシコを植民地を画策したが、逆に現地の人に殺されていたらしい。だから、コンゴだった、というわけである。

 そんなことがあり得るのか?というのが正直な感想だが、コンゴは実際にレオポルド2世の個人の植民地「コンゴ自由国」となった。王が自由にしていい国ということだろう。王は必至でロビー外交をしたようだが、当時の植民地争奪戦の状況とアメリカの国内事情がどんぴしゃりと決まって個人の植民地が成立した、というところである。

 奴隷貿易の資本蓄積で産業革命を起こしたヨーロッパ社会の産業化は急速に進んだ。原材料と市場の需要が高まって、各国は一番近いアフリカで植民地争奪戦を始めた。争奪戦は熾烈を極め、世界大戦の懸念が高まった。それで、植民地の取り分を決めるために主催したのは、1884年11月から翌年の2月までドイツ帝国の首都べルリンで会議を開いた。参加したのは欧米諸国とオスマン帝国を含む14ケ国である。すでに植民地化は進んでいたわけだから、取り分の再確認の色彩が強かった。地図上で国境線を引いたので、後の紛争の元にもなったが、手付かずのコンゴをどうするかを決める必要があった。

 ここでしゃしゃり出て来たのがアメリカである。イギリスはこれ以上植民地を増やす余裕はないが、競争相手のフランスには取られたくない。ベルギーは歴史の浅い経済力のない小国、イギリスもフランスもベルギーに譲るならお互いに安全と計算した。アメリカは増え続けるアフリカ人奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返せという声が強くなっていて、その解決策としてコンゴに目をつけた。下院議長がコンゴに牧師2名を送り込んで、本格的に候補地探しをする法案を通して、ベルリン会議でベルギー支持の条件として提出した。イギリスとフランスと米の思惑が一致し、レオポルド2世の接待外交も功を奏して、レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」が承認された、というわけである。レオポルド2世はその植民地で何をしたか?が次回である。