ZoomAA2g:小屋(2024年1月19日)

2024年1月20日つれづれに

つれづれに:小屋

 前回の→「戦士」で書いたヨーロッパ人の蔑みの対象の一つになった小屋(↑)の続きである。ヨーロッパ人はアフリカ人の小屋を見て「みすぼらしい」や「粗末だ」の類の未開の象徴にしたかったのだろうが、西欧風の家(house)とアフリカ人にとっての小屋とは、元々概念自体が違う。

 1990年代の初めにジンバブエ(↑)に行って仲良くなったジンバブエ大学の学生→「アレックス」からその概念の違いの説明を受けたことがある。西欧風の家houseとは違って、大きな敷地内、家屋敷というべき居住区の中に両親の小屋、子供たちの小屋、居間用の小屋という風に分かれて小屋がある。アレックスはそれぞれの小屋をcompartmentという言葉を使っていた。ジンバブエは7割がショナ人であとがンデベレ人、小屋のことをショナ語でインバ(imba、↓)と呼んでいた。1980年に独立したとき、それまで使っていたローデシアという国名をジンバブエに変えているが、ジンバブエ(Zinmbabwe)は大きな(Zi)石の(bwe)家(imba)という意味らしい。

小島けい画

 20世紀の後半にヨハネスブルグに次ぐ第2の金鉱脈を探しに南アフリカのケープ州から私設軍隊を従えて今の首都ハラレに来て、そのまま居座った人物Cecil Rhodesが国に自分の名前をつけてローデシア(Rhodesia)にしたそうである。(→「ジンバブエの歴史1 百年史概要と白人の侵略」)居座った場所は今はCecil’s Squareという公園になっていて、写真を撮る名所になっている。

石の建造物大遺跡→「 グレートジンバブエ」

 ジンバブエでは首都ハラレの借家に家族で住んだ。家主に雇われていた→「ゲイリー」と仲良くなり、子供たちが通う小学校にみんなで行った。ゲイリーのところも「imba」だった。ゲイリー夫妻のimbaに入れてもらったが、思った以上に室内は広く、しっかりとした造りで、床が磨き上げられて清潔だった。家屋敷にたくさんのimbaがあり、大家族で暮らしていた。→「ルカリロ小学校」(↓)では大歓迎を受けたが、私たちは初めての外国人だった。首都から車で1時間ほどの距離だったが、その村を訪ねた外国人はいなかったということである。侵略者が広大なアフリカ大陸のごく僅かな場所しか行っていないのである。行ってもアフリカ人の生活ぶりを見ようとはしない。行かないで、見ないでアフリカやアフリカ人がわかる筈がない。実際に行ってみて、欧米が勝手に捏造(ねつぞう)した偏見が多いのを実感した。小屋が蔑(さげす)みの対象の一つになった絡繰(からく)りである。

 ルーツの主人公クンタ・キンテは15歳の日に自分の小屋をもらった。小屋にお祝いに来た祖母から、世話になった母親に何かプレゼントしなよと言われて、ドラム用の木を切りに出かけて、奴隷狩りに捕まってしまったのである。テレビドラマの祖母役は、歌手で詩人のマヤ・アンジェロウ(↓)である。→「黒人研究の会」で女性作家を研究していた会員から、月例会で発表を聞いたことがある。自伝の日本語訳もある。