つれづれに:エイブラハムズさん2(2022年8月1日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:エイブラハムズさん2
丸々3日間も泊めてもらった。しかし、手紙で「行ってもいいですか?」と書いて押しかけたほとんど知らない人をよく泊めてくれたものだ。しかも日本人である。南アフリカの白人には世界中の非難をものともせずに貿易を続けてくれた名誉白人でも、アフリカ人にとってはまるで違う。選挙権も認めず人権を無視して弾圧を続ける白人政府に抗議しただけなのに、無差別に発砲されたシャープビルの虐殺(↓)を機に、国連も経済制裁を強化して外からの圧力を強めた。
50年代に入りアフリカに吹いた変革の嵐(The Wind of Change)に乗って南アフリカでも国民会議を開き、自由の憲章を採択して解放に向けて動き出していた矢先で、そう遠くない時期にアパルトヘイト政権が崩壊して多数派アフリカ人の時代が来ると誰もが信じて闘っていた。そこに水を差したのが日本と西ドイツで、親書を出して経済制裁を何とか凌ごう躍起になっている白人政府と、第二次世界大戦で途切れていた長期の通商条約を恥ずかしげもなく結んで白人政府に加担した。八幡製鉄、今の新日鉄は5年の長期契約を結んだ。
アフリカ人にとっては手痛い裏切りだった。それを機にアフリカ人側はそれまでの非暴力を捨てて武力闘争を開始、アメリカやイギリスや日本の支援を受けて白人政府は警察力と軍事力に更に予算をつぎ込んで締め付けを徹底して、指導者をほぼ全員逮捕した。国を救うはずのロバート・ソブクウェ(↑、小島けい画)やマネルソン・マンデラ(↓)を拘禁し続けた。そんな裏切りの国から、来たのにである。
本当は博士論文を書いたように学者が一番いいが、解放した時に祖国のために役に立てるように管理職に就いているという。このあと、東海岸のノバ・スコシアの小さな大学の副学長を引き受け、マンデラが釈放されて1994年に大統領になった時は、公募でマンデラのテレビ面接を受けて、6万人の学生がいるウェスタンケープ大学(↓)の学長になったと、記事と手紙をくれた。この時話してくれていた長年の夢が叶ったわけである。
しかし、シンポジウムで伯谷さんに誘われてMLAでの発表を決め、戻ってラ・グーマでの発表を決めて準備を始めたものの、南アフリカの歴史も政治情勢も、インタービューを受けるには基礎知識がなさ過ぎた。だから、余計によく付き合ってくれたと感謝する。丁寧に、丁寧に子供を諭すように話をしてくれた。本当はもっとアフリカ民族会議(ANC)に寄付をするつもりだったが、カナダドルで1000ドルしか渡せなかった。母親の借金や定職がない中で4回もアメリカに来たりしていたので、それが精一杯だった。
ラ・グーマ(↑、小島けい画)も亡命していたので、書いたものの保管も大変だったと思う。エイブラハムズさんは最初学者としてラ・グーマの話を聞いて親しくなったようだが、最後は書いたものの管理も頼まれていたようだった。ラ・グーマがキューバで急死したあとも、夫人のブランシさんを助けて励ましていたようだ。ラ・グーマとエイブラハムズさんの関係を聞いて、種田山頭火と大山澄太さん(↓)の二人を思い出していた。行乞していた山頭火が旅先から飯塚で炭鉱医だった木村緑平さんに書き溜めた日記をどっさり送り、それを広島の大山澄太さん(↓)が整理して、死後資料をまとめて世に送り出している。二人は山頭火と雑誌「層雲」の俳句仲間だっただけである。
歴史的な資料が今読めるのはそういった人を思いやれる周りに恵まれていたからだと思う。エイブラハムズさんのAlex La Gumaを読んでいるとき、行間に同じにおいがした。最後の夜に「ヨシ、来年ラ・グーマの記念大会で発表するか?2年前に予定してたけど、アレックスの急死で、ブランシさんはそれどころじゃなくて。だいぶ落ち着いたみたいで、来年の夏にその記念大会の予定、もちろんブランシさんがゲストで北米に亡命している南アフリカの同胞とソ連からも来てもらうつもり。ヨシは日本の状況も話してくれたら」と言われた。MLAに続いて、英語での発表とうことらしい。キューバから来られる夫人のブランシさんに会えるわけだ。急展開である。3日間いっしょに過ごしながら、エイブラハムズさんはラ・グーマのかけがいのない友人でもあり、良き理解者でもあったんだ、としみじみと実感した。
次は、ハワイ、か。
行ったときのことは「ゴンドワナ」(↓)に詳しく書いた。(「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」、1987)
8月になりました。「私の散歩道~犬・猫・ときどき馬2022~」8月(↓)