つれづれに:UCLA(2022年7月30日)

2022年7月29日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:UCLA

 「MLA(Modern Language Association of America)」で発表する準備を始めた頃、「ミシシッピ」(7月22日)からラ・グーマの本が届いた。住所を調べて著者のエイブラハムズさん(↑)に手紙を書いたら、ある日「北アメリカに来たら電話して下さい("Come to the North America and call me."という手紙が届いた。北アメリカに行って、電話するしかない。早速、旅行会社で飛行機の予約をした。

 大阪工大(↑)も4年目に入り、「LL教室」(7月12日)で授業に付き合ってくれる学生とも親しくなり、非常勤でいっしょだったケニアのムアンギさんとも仲良くなった。もちろん先輩から紹介されたのだが、先輩自身もムアンギさんと同郷のグギさんとも親しかった。グギさんの『一粒の麦』を翻訳していたし、雑誌や紀要などにもいろいろとグギさんのことについて書いていたようだ。一般教育の事務室で夏に補助員3名を含むESSのメンバーがUCLAでジョイントディスカッションをするという予定を聞いて、私とムアンギさんもちょっとUCLAに寄ってみよか、という話になった。私はエイブラハムズさんに会いに行くので、ロサンジェルス廻りでカナダに行けばよかった。ムアンギさんも何か用事があるようだった。「ライトシンポジウム」(7月22日)から帰って2年足らずでMLA発表の準備を始めていたので、英語を使う人にしゃべってくれるように頼んでいたが、ムアンギさんには「ここは日本やから日本語で」と断られた。同じ非常勤のイギリス人のジョンは「いいですよ」と日本語で答えて、気軽に応じてくれた。

 UCLAはカリフォルニア大学ロサンゼルス校( ↑、University of California, Los Angeles)、日本でも有名な総合州立大学である。学生数も多く、5つの学部と7つの大学院、4万人を超える学生と規模が大きい。図書館(↓)も充実しているようである。

 アメリカも4度目である。今回は①ラ・グーマの伝記家に話を聞くために、先ずは北アメリカに行って電話する、が目標である。②その前にムアンギさんとUCLAにいる大阪工大のESSのメンバーに会いに行く、③出来れば伯谷さんのところにもお邪魔して、④その間に電話で訪問日を決定、大体そんな心づもりだった。
 3回ともサンフランシスコ経由だったので、ロサンジェルスは初めてだった。空港を降りたとたん、ムアンギさんが英語でしゃべり出した。「ここはアメリカやから英語で」ということらしい、はいそうですか。日本語も特有の訛りが抜けないが、英語にも訛りがあるようで、私のジャパニーズイングリッシュといい勝負である。UCLAのキャンパスは広かった。ESSの人たちに挨拶したあと、一人で図書館に行ってみた。実は探している新聞があった。ラ・グーマが「ニュー・エイジ」という白人資本の反体制週刊紙の記者をしている時にコラム欄「街の奥で」("Up My Alley")を5年間ほど担当して、相当な数の記事を書いていた。行く前に調べたら、ニューヨーク公共図書館にマイクロフィルムがあるのでそれで拡大コピーをさせてもらうつもりだった。白人政府の一番のパートナーのアメリカが反体制の新聞を置いておくか、まさか?と思いながら、カウンターで聞いてみたのである。係員が説明を聞いてくれて、中に入って行った。たしか、ありますよ、と言っていた気がするが。暫くすると、大きな新聞の束をカートに載せて係員が戻って来た。何と5年分の新聞の現物である。アパルトヘイト体制が強化されて、反体制の新聞が廃刊になっては、名前を変えてまた新しい新聞を出していたらしいが、ラ・グーマがコラムを書いていた記事がカリフォルニアの図書館に送られて、三十年ほどのちにその時の新聞の実物を見ている、と思うと少し心が高ぶってきた。長い時間かかってコラム欄をコピーして、船便で送り、のちに、印刷して英語の授業で配って紹介した。

 ムアンギさんとはロスで別れた。私はオハイオ州の伯谷さんに電話して、お邪魔することにした。オハイオ州のケントなので、エイブラハムズさんの住むカナダのトロント近郊とは近い。そこから電話させてもらうことにした。伯谷さんご夫妻と子供さん(↓)二人が出迎えてくれた。どちらも男の子で、上の高校生はコンピューター関係、下の中学生は音楽の道に進むと言う。どちらも好青年だった。家では日本語、外では英語なので、完璧なバイリンガルだった。上の人に「大変だった?」と尋ねたら「そんなに苦労せずに、自然とどちらも使えるようになりましたよ」と言っていた。

 さて肝心の電話である。手紙で知らせてもらっていた番号にかけてみたが応答がなかった。考えたらあの時期、出張とか長期休暇とかの可能性は高かった筈である。手紙では人文学部(Humanities)の学部長(Deans)をしていると書いてあったから、当然考えるべきだった。結局、三日ほど電話をかけても同じ状態だったので、ニューヨーク(↓)に移動することにした。伯谷さんご家族には本当にお世話になった。ニューヨークで電話が繋がったのは、一週間のちだった。
 次は、エイブラハムズさん、か。