つれづれに:広島から(2022年8月9日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:広島から
ある日、広島から電話があった。「私が前にいた大学で今度人事があるので、あなたを推薦しようと思いますが、どうですか?」ということだった。大学の職探しを始めてから5年目、電話をくれた人とは院の初日に初めて会った。(→「院生初日」、6月12日)修了式の日に会ったのが最後で(→「修了と退職」、7月9日)、本当に久しぶりだった。思いもしなかった死角からの電話だった。英語科の説明会では「高校では一杯一杯の生活で疲れ果て、常に寝不足気味だったので、ゆっくり休みに来ました、休めれば充分です」と正直に言ったが、「専攻は決めてもらわないとゼミも決められないので困る」と言われた。修士論文はライトで書き、大体の構想も決まっていたので、出来ればアメリカ文学に少しでも関連があればと英語学の助教授に頼みに行ったが、文学の教授がいるので組織運営上難しいと断られた。(→「ゼミ」、7月7日)その人である。英語学は苦手なので授業も取り損ねたが、大学(↑)の研究室には時々遊びに行っていた。いつも大歓迎だった。気さくな人柄で、話もし易かった。今から思うと好みも聞かずに、明石名物の丁稚羊羹などの和菓子を手土産に持って行くことが多かった。まだ若かったので、30代、40代が主体の歳を食った「学生」に少し軽めに見られていると感じたが、話してみても軽めに見られる理由はわからなかった。時々わらじを履いて廊下を歩いているのを見かけたので、そんな辺りが理由だったかも知れない。私も変わり者とよく言われていたので、何となくわかる気もしたが。裸足でわらじを履くのが水虫によかったのかも、知れない。
突然の話でよくわからなかったが「よろしくお願いします」とすぐに返事をした。ただ、「女子短大」、「二つ目の大学」、大阪工大(↑、→「工大教授会」、8月7日))と三つも人事がつぶれていたし、頼みの綱の先輩の人事もうまくいかなかった直後でもあったので、心のどこかでは、どっちみちまただめだろうという気持ちの方が強かった気がする。「宮崎は遠いですが、大丈夫ですか?」と念を押されたが、遠い近いの問題のようにも思えなかった。それからその人は「このあと教授から電話がありますが、話を合わせて下さい」と付け加えた。最初何のことか飲み込めなかったが、人事の話をしたとき教授から「玉田くんより相応しい人を推薦しますから、その人事、こっちに下さい」と言われたが「私は玉田くんを推薦したいのでと断りました」と説明してくれた。「玉田くんより相応しい人」が当時高専の教員だった教授の息子さんだったのか、息の合っていたもう一人のゼミ生だったのか。
しばらくして教授から電話があった。「このたび宮崎で人事の話がありましてね。私は玉田くんを推薦したいと思いますが、玉田くんはどうですか?」といつものように丁寧な口調で聞かれた。英国紳士風に、のようである。そして、履歴書を送った。
「8月にはラ・グーマ(↑)の話を聞きにカナダやし、12月には「MLA」(8月3日)でサンフランシスコ(↓)やし、それまでに発表の原稿もせなあかんし」と毎日ばたばたして人事のこともすっかり忘れていた。大阪工大での嘱託講師が2年目で、工大も含めて週に16コマに増えていた。火曜日は午前中に2コマして移動、工大で夜が3コマでフル回転だった。研究会の会員から京都の女子大の非常勤を言われていたが、それ以上は責任が持てないし、通うのも時間がかかるので断っていた。専任の話を考えてくれていたのかも知れない。文学部だった。カナダから戻り、イギリス人のジョンにエイブラハムズさんのインタビューの聞き取りを頼んで英文を完成させてから、「ゴンドワナ」に訪問記を書いた。(→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」、1987)結構な時間がかかった。9月の中頃に、また広島から電話があった。「残念でしたね。教授会で過半数を取れずに採用されませんでした。また機会もありますから、気を落とさないように、ね」と言われた。4度目だった。
次は、宮崎に、か。