つれづれに:LL教室(2022年7月12日)

2022年7月12日つれづれに

HP→「ノアと三太」にも載せてあります。

つれづれに:LL教室

 大学での初めての授業は大阪工大のLL教室でだった。教授だった先輩は33歳で兵庫県教育委員会の指導主事になり、現職教員の研修をする研修所でまだ普及途上にあったLL(Language Lavoratory)装置を使って、現職教員の研修をやっていたと聞く。「ま、ビデオをつけて流してただけやけどな。」と本人は言っていたが、当時最先端のLLを使って「楽して、楽しんでいた」というわけである。研修所でLLを使った授業の研究報告も書いたに違いない。その業績で大阪工大から講師で採用される話が来たとき、時の上司にあたる県の副知事が直談判して「講師で採用か?」と凄んだらしい。その甲斐あって、めでたく助教授で採用されたそうだ。私が世話になった時は既に教授になっていて、LL装置と補助員3名の予算も付けて、実際に自分もその部屋を使って授業をやっていた。大学から口がかかるとは大したものである。おまけに副知事に口添えまでしてもらうとは。黒人研究の会では編集を一手に引き受けていたし、後には同窓会の会長もやっいた。「最新の同窓会誌やで」と冊子が届くこともあった。強者(つわもの)躍如である。

 大学(↑)でも、しっかりと予算を引っ張って来ていたようだ。予算を引っ張ってくるのも、教授の力量だから、私もその恩恵にあずかったということだろう。工学部の学生の課外活動の一つESS(English Studying Assocation)の顧問も引き受け、代々ESSの部長と主要な部員を補助員に使い、その予算も確保していた。私の授業でもその学生3名の誰かがずっとついていてくれた。ESSの部員だけあって、英語にも関心があり、質のいい人たちだった。おまけに工学部の学生、機械にめっぽう強い。授業の補助も頼りになるし、ビデオの編集やダビングも気軽にやってくれた。今ならパソコンの相談にも乗ってくれそうである。壊れるので貸すのを渋る人もいるが、運よくブラック・ミュージックのレコード(LP)をごっそりと借りて来た時も、何なくレコードからカセット・テープにデータ移行をやってくれた。編集やダビングには時間がかかるものだが、授業補助と併行しながら確実にやってくれた。4年目に3年任期の嘱託講師にしてもらったが、宮崎に決まるまでの5年間は本当に世話になった。妻の絵のグループ展に神戸まで来てくれたし、明石の家にも来てくれた。宮崎に来た後も、二人が宮崎まで遊びに来てくれた。いまだに遣り取りが続いている。大事な出会いとなった。

 夕食は大学の近くの店屋に出かけて、四人で楽しく食べた。大阪の饂飩(うどん)や丼物の中でも、かなりおいしい方だったと思う。この時期に集めた映画やドキュメンタリーや音楽のビデオが、その後の授業の基本資料の中心になった。中でも貴重だったのは「ルーツ」(↑)、「アフリカシリーズ」(↓)、「ウィアーザワールド」、「アーカンソー物語」である。大学の時も、高校の教員をしている時も、結婚後もテレビがなかったので世の中の流行には疎く、1977年にテレビで話題になった「ルーツ」も、1983年にNHKで放送された「アフリカシリーズ」も、アフリカ飢餓キャンペーンでマイケル・ジャクソンが作ったウィアーザワールドも知らなかった。先輩の録っていたものをダビングしてもらった孫テープなので画質はよくないが、どれも貴重な財産である。パソコンを使うようになってから、ビデオテープから動画ファイルにデータ移行して、長い間役に立った。希望者にはデュリケーターという何枚も複製できる機械でコピーしてDVD-Rの形で配った。

 当時はビデオショップも多く、ビデオはベータとVHSが半々だった時代である。補助員の一人が「ビデオショップでベータのテープを借りてダビングしときましたよ」と、ある日渡してくれた。「アーカンソー物語」(↓)である。1954年に公立学校での人種差別は違憲であるという判決、実質的な奴隷解放宣言が出た後、実際にビル・クリントンの地元アーカンソー州の州都リトル・ロックの高校で起きた事件を映画化したものである。
次は、「ルーツ」、か。