つれづれに:夜間課程(2022年3月28日)

2022年4月2日つれづれに

 

つれづれに:夜間課程

 

授業のあった講義棟、木造2階建て、背景は六甲山系(大学HPから)

通い始めたのは神戸外大の夜間課程、正式な名称は神戸市外国語大学Ⅱ部英米学科である。もちろんまさか行くことになるとは思っていなかったので大学についてはほとんど予備知識はなかったが、入学後、昼間課程に英米学科、スペイン学科、中国語学科、ロシア学科があり、夜間課程は英米学科だけだと知った。夜間課程は4クラスあった。定員がどれだけあったのかは知らないが、クラスには20人か30人くらいいたような気がする。確かめたわけではないので真偽はわからないが、あとでどうも成績順にクラス分けをしていたような感じがした。成績順だったのなら、Bクラスだったので、まだ下がいたということになる。

その入学年度の授業料は12000円、入学時に授業料と合わせて4万円余りを払ったような気がする。昼間課程は18000円、入学年度が早い人で半期3000円の領収書を受け取るのを事務室の窓口で見かけたことがある。月に1000円だから、学生は随分と優遇されていたようである。学生食堂を利用したこともあるが、うどんは100円以下、カレーライスが100円余り、定食が200円足らずだったような気がする。交通費も今から思えば超格安で、国鉄(JR)の三宮から一時間ほどの駅までの月額定期が580円、三宮から阪急六甲までは1000円前後、その時は、たった3駅やのに私鉄て高いんやなと思ったが、今から思えば嘘みたいな値段である。結果的に家から通えば、月額2500円ほどの経費で大学に通えたわけである。入学の一年ほど前から母親のやっていたのを見兼ねて始めた牛乳配達の月額が5000円ほど、それで十分に足りたことになる。

阪急に乗り換えていた三宮駅

授業は毎日6時前から9時前までの100分2コマ、128単位を取れば4年で卒業出来る設定だったと思う。昼間は144単位。夜間課程もゼミがあり3年次に取ったのだが、4年次にはなかったので、学生便覧を確認したら、元々夜間課程のゼミは3年次だけ、昼間課程の卒業認定単位は144、と載っていた。入学後5年目の春先だったと思う。

教養科目で体育が週に一度あり、中学校の時にやっていたバスケットボールを選択した。高校のときによく比較された神戸市の進学校を出た一つ上のクラスメイトがいっしょだった。高校でもバスケットボールをやっていたようで、えらく馬が合って、毎回楽しんでプレイ出来た。そのこともあって、帰り道で時々話すようになったが、神戸の経済を二度落ちて、昼間は神戸の検察庁で事務官や、きのうやくざを取り調べたから駅で突き落とされんように注意せんと、と言っていた。ずいぶんと大人に見えた。

大学に一番近かった阪急六甲駅

それで何となくわかったのだが、クラスの半分は正規の職を持っていたようで、五時に仕事が終わってから6時前の授業の開始時間に間に合わせるためにいつもみな急ぎ足だった。あとの半分は、定職を持たない似非(えせ)夜間学生で、私と同じのように運動クラブに入り、昼の学生といっしょにプレイしていた学生も何人かいた。昼間に何回か会って、立ち話をしたことがある。おそらく当時は経済的に夜間課程の必要性が高かったと思う。留年して同じクラスになった人は、高校も4年の定時制で、島根から来た好青年だった。住友金属に勤めて、数百万ほど貯めていると言っていた。後に高校の教員の時に出会い、同じ夜間課程に行った生徒の話では、クラスメイトの9割が定職を持っていないということだった。神戸市の東の端にあったキャンパスは今は西の学園都市に移転したと聞くが、経済事情がすっかり変わった今、夜間課程の状況はどんなものなんだろう。宮崎に来てから非常勤で行った昼間課程の公立大学で、わたしせんせの行った夜間に落ちましたと言う学生がいたが、何となく受験生には入れるか入れないかの偏差値が最優先事項で、経済的に困っているので選択していた学生が多かったかつての夜間課程と昼間課程の区別がないような感じがした。最近の経済事情から考えれば、今の時代に夜間課程がどうしても必要なのかと聞かれれば、答え難い気もする。

キャンパス全景(大学HPから)

次回は、運動クラブか。